ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2022/秋 comment
ブロッター1  「目から鱗(うろこ)」という使い古された言葉があるが、一読して目から鱗だった。前提の仮説は大和王権に先在する九州王朝。早い話、古事記・日本書紀は、この九州王朝の史書である「日本旧記」からの盗用だというからスゴイ。
 なるほど、その視点で読めば謎が一気に解けるものがいっぱいある。景行天皇が九州遠征をして筑紫から途中経過なしでいきなり帰ってきたり、神功皇后の説話の内容に妙に古めかしいものが登場したり、天孫降臨の時にニニギが言った言葉を分析すると、どう考えても玄界灘を越えて韓国から来た男が糸島に上陸した風景を描いた言葉にしか聞こえなくなる。なるほど、そこは彼の祖母アマテラスが弟スサノオといっしょに生まれた場所にほど近い。
 古田武彦は、事細かに記紀を分析しながら、それが他の神話を盗んで再構築したものだと主張する。たしかに日本神話は明治以降、皇国史観で捻じ曲げられて政治上の道具と化し、戦後は一転して架空の物語とされてしまった。
 しかし、考えてもみよう。トロヤの遺跡はシュリーマンのギリシア神話直視から生まれたもので、あらゆる神話はかつてあった事実を「神話的表現」を持って書き記したものである。記紀も政治的意図はあろうが出典は、なにかの言い伝えを元に書いたわけだから当然歴史的事実の反映はあるだろう。それにしても他王朝の史書の盗用とはね。この国は最初から捏造(笑)?
ブロッター2  平明な文章で、生命のすがたが描かれる科学的随筆。  著者が医学者でも生物学者でもなく、「農学者」である真骨頂がこなれた文章から垣間見える。そこで語れるのことは冷たい科学的技術でも生物学的知識でもない。生物が存続していくための大切な生命維持手段と子孫への生命の受け渡しの多様さである。あらゆる生物が無意識に子どものために生命を使いつくす方法がさまざまに描かれるが、それが過酷でもあり当然の帰結でもあるというのが改めてよくわかる。
 生まれたものは死んでいくというあたりまえの生命活動を描いても、その死にざまは多様である。タコは障害に1度しか交接せず、他の動物と同じように壮絶なメス獲得争いをするが死ぬ間際の一度だけというからすごい。メスも同じで、交接したあとオスが死ぬとメスは産卵をしてから死ぬ。まさに命がけの種の保持である。
 このような、われわれが知らぬ生態が、軽妙なタッチの筆使いで、ハサミムシ、アカイエカ、カゲロウなどの昆虫生態からライオン、ネズミ、イヌ、ニワトリなどの死にざまが淡々と述べられるが、これがまたすべてわれわれの知らぬ事実なので思わず引き込まれて読んでしまう。それにしても生と死は表裏一体。心して生きないとつまらぬ人生を送ってしまいそうだ。
ブロッター3  谷川俊太郎は、たしかに時代を見ている詩人だ。1952年に第一詩集『二十億光年の孤独』を出して以来七十有余年、彼は御年91歳・・・凡人なら記憶力が薄れ、世界の出来事などどうでもよくなる年齢なのに、谷川の眼と頭は明晰だ。わけのわからない詩をつけて歌うシンガーの言葉は心に響かないが、彼が紡ぐ言葉はいつでもこちらに突き刺さる。ここが戦前生まれの強靭な頭脳と父親譲りの明晰な脳細胞の成果なのだろう。
 「ぼくはしんだ、じぶんでしんだ」で始まる、自死した少年の霊が語る世界と周囲の人間・・・いかに世界が温かくなく、人の心が冷たいかが伝わってくる。
 谷川は以前『生きる』も書いた。これは一般では生命賛歌のようにとらえられているが、私はそうは思わない。『二十億光年の孤独』を書いた詩人が手放しでありきたりの賛歌など書くわけがないからだ。
 当然、人間と時代を透徹した目で見据えている。この「ぼく」に描かれた「現代」を人はどう読み取るか。思うに、教育関係者は嫌悪の目で「ぼく」を読むだろう。夢と希望を標榜して教育をしてきたのだから。しかし、その夢と希望が効力を持たないからこそ自死が子どもに起こるのである。そのことを谷川は訴える。さあ、時代は極まってきた。寝ぼけてはいられない。どうする!大人たち。
   

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