ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2021/秋 comment
ブロッター1  ひさしぶりにスイスイ読める本に出合った。この、読んでいてひっかからない文体と展開が私としては逆に新鮮な感じである。では、軽いテーマかというとそんなことはない。なにしろハンセン氏病の問題がからんできているのだからテーマは重い。しかし、それとはかけ離れた流れるような展開。読んだ後は、逆に考えさせられるものが残った。
 東京郊外で、現代的な生活感で出店のどら焼き屋をやっているやとわれ店長の男が突然出会う日本社会が抱えていた闇。しかし、その闇は、ひたすら穏やかで、どことなく達観していて、静かでやさしい。さらに、餡づくりにかけた細やかさと丁寧さは、「人には、そして世の中には、こう接するものだよ」と言わんばかりのおだやかな生き方を教える。
 「現実なんか適当にこなせばいい」と思っている人々にやわらかな衝撃をズンと与えてくれるものにわれわれは息を呑むことになる。諦観でも虚無でもない、なにかを乗り越え吹っ切れた心が見せる優しさは、人を大きく変える力があるということを見せてくれるのだ。金儲けだけに奔走している現代人の心の隙間を埋めるものは、この闇を通り抜けた「徳江という手の不自由な老婆」の心のようなものかもしれない。
ブロッター2  世の中に、茨木のり子さんのようなストイックに生きる人が少しでも多くなればいい。そうすれば、もうすこしましな未来も見えてくると思うが、いまやそれは幻想というか夢想というか期待はまったくできない、言葉と裏腹な行為で日々を過ごすテイタラクな人ばかりが多くなってしまったように思う。楽で便利に流れれば、人はみな無責任になり、言ったことは行わず、訳のわからない言葉ばかり紡いで生きていく。思いつきで行ったことを尻切れトンボにし、時流に乗れば勝ちという時代に、茨木さんが押し出す言葉は、強靭な意志と行動であって、「自由だ」「芸術だ」「文学だ」などという甘ったれた主張はない。
 現代詩によくある暗号のような言葉はまったく使わず、まさに意志を言葉に変えたものだけをぶつけてくる。人が「言葉なんてそんなものさ」とうそぶけない言葉。言葉が行為と結びつかねば、それはただの言葉遊びで散文でも韻文でもない。政治でも教育でもわれわれが辟易するのは、「言ったことが守られない」「実行されない」ことである。学識経験者や作家など知的エリート、あるいは詩人たちにさえ、われわれ読者を愚民とバカにするまえに、「言ったことはやった方がいいぞ!」とまで言っている詩集だった。
ブロッター3  あの「スマホ脳」の作者が、その傾向と対策で出したものだが、対策部分はスマホ脳になった人たちには実行できそうもないことばかりである。まあ、以前から依存になったものが依存から脱出するのはむずかしい。岩波の「10代と考える『スマホ』」(竹内和雄・ジュニアスタートブックス)も対策があったが、読んで、これが依存者に実行できるわけがないと思った。
 昔、子どもとテレビ、あるいはテレビゲームの対策法がいろいろ出されたが、「時間を決めて!」「親が管理」・・・そんな甘いことでテレビ依存が、あるいはゲーム依存が治ったら、この世は極楽というものである。「最強脳」も言わんとすることはいちいちごもっともだが、人間というものが「対策を実行できる動物かそうでないか」がわかっていないような気がする。
 しょうもないものをつくりだして、そのしようもないものにハマっていき、結果、破綻するのが人間である。なんでも作り出す時は、夢と希望で明るい未来を煽り、やがてどうにもならなくなって否定も破壊もできなくなる。観てごらんなさい。テレビの視聴時間がどうのこうのと言っていた人たちは、いまのテレビの番組劣化と悪影響をどう見ているのだろう。やがて、若年性物忘れどころではない「社会を壊していく狂気」まで生み出す脳が出現する。もう出ているかな。
   

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