ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2011/冬 comment
ブロッター1  あまりにもいろいろなことが起きた今年も暮れた。しかし、この国は、いろいろなことを必死で忘れようとしている。見ないようにしている。さらには終わったことにしようとしている。その証拠に、「復興」という名の公共事業が大々的に計画され、ついこの間「コンクリートから人へ」と言っていた連中が、またぞろ「人からコンクリートへ」だ。高台へ居住地建設、40mの津波に耐える防波堤・・・そのコンクリートの寿命は50年といわれるが、50年どころか当分、大津波は来ないだろう。そして、コンクリートが劣化したころにまた地震が起き、津波がやってくる。
 この本は、小泉八雲の「稲むらの火」をキミコ・カジカワが再話したもの、迫力のある絵と緊迫感のある文が「逃げることを伝えること」の大切さを訴えかける。すでに物事を伝えられなくなった世代が日本の人口の大部分を占めている。せめて、こんな絵本を読むことで伝えるしかないのか。絵がエド・ヤング、原作、再話とも外国からの動員だ・・・おばかタレントがテレビで騒ぎ、スポーツ観戦ですべてが忘れられ、小娘どものコンサートに若者が殺到する日本は哀しい。
ブロッター2  あまりにもいろいろなことが起きた今年も暮れた。なかでも原発事故は日本史に残る最悪の事故だろう。なのに、政府はヒタ隠しにし、放射能が目に見えないことを良いことにテキトウなモニタリングで誤魔化し、オイオイ、海に汚染水流したのに海の汚れが報道されないぞ、ゼンゼン! そして「除染」「除染」と騒いで、また除染を公共事業の目玉にする。すごいね、どうもやることが・・・東電の隠蔽体質もだが、どうも政府がここまで隠すには何か裏があるような気がしてくる。ひょっとして報告書の黒塗りはpルトニウムを原爆に使うのでは・・・なんてかんぐりたくなる。とにかく報道は真実を教えていない。
 こういう経緯になるのは、安全神話などで原発の利権構造が隠され、われわれが何も知らなかったからだ。知っていれば、批判もできるが、全国に54基あったことすら知らなかった。これは学校が教えなかったことでもある。国に都合の悪いことは学校は教えない。と、なれば、我々は自ら学ぶより「知る手立て」はないのだ。正しく怖れる・・・廃炉に半世紀、燃料処理に十万年・・・そういうことを子どもの内から知っておく必要がある。この本は福島原発の事故をリアルタイムに捉え、子どもが分かるレベルで必要な知識がつまったものだ。子どもに読ませよう。
ブロッター3  あまりにもいろいろなことが起きた今年も暮れた。慶應大学文学部のある教授が「この事態に文学は何もできないで来た」と私に言う。そのとおりだと思う。本来、予測や啓蒙をするべき文学の力が弱い。
 震災や原発事故を「これ幸い!」と自分のスティタスを上げることに使う文学者もいる。これでは支援という名でコンサートやボランティアで自分を売る歌手やスポーツ選手と同じではないか。ツイッターで詩らしきものをつぶやき、メディアの脚光を浴びて自著を売る人、海外で反原発の講演をする人・・・ここでは深刻な問題も作品の素材だけに過ぎない。
 上の「津波」は幼児対象、「14歳からの原発問題」は少年対象・・・では、この冬、大人が静かに考えるための本は・・・?あるか、ないか・・・読んでみたところ、これが引っかかった。最近の芥川賞作家たちの最悪な日本語に辟易としていた私としては、この地味だが引き込まれる展開に好感を覚えた。控え目な生き方をなぞるエピソードは哀しいが、その向うに原爆が見える・・・想像力を使えば原発事故も・・・このエピソードと同じような小さな悲劇が、ひょっとすると福島発でまた起こりそうな予感とともに・・・何か美しいものを感じている私もいた。
   

バックナンバー