ブロッター

ブログとツイッターを混ぜて、さらに異論、反論、オブジェクションで固めたものです。で、ブロッターというわけです。毎日書く暇も能力もないので、不定期のコメントです。

2011/秋 comment
ブロッター1  このSFの名作は、時代が変わっても深い意味を持つことを比喩で教えてくれる。華氏451度は言うまでもなく紙が燃え上がる温度で、つまりは本を燃やす、焚書坑儒を意味する。焚書坑儒は、これまた言うまでもなく始皇帝の所業、それがナチスにおいても行なわれ、ソビエトでも共産中国でも行なわれた。この、時の権力が都合の悪い本を始末する行為は、二千年に渡る歴史の中で繰り返された。異端審問も華氏451度だろう。時の権力と言ったが、現代は民主主義・・・権力はないはずだが、スペインの哲学者・オルテガ・イ・ガセットは「大衆の反逆」の中で、現代の権力は大衆自身が持つと言っている。なるほど、この本の中でもブラッドベリはイ・ガセット研究者のシモンズ博士を登場させ、現代における焚書坑儒が大衆自身の手で行なわれる可能性を示唆する。すごい本だね。どうも、これは。
 なるほどi-padやスマホで本をダウンロードするというのは、どんどん重要な本が絶版になることを意味してもいる。これが新しい焚書坑儒なのかと思うと、人類と言うのは懲りずに歴史を繰り返す存在だと思う。
ブロッター2  今年も十月九日に甲府第一高等学校では、強行遠足が行なわれた。甲府から小諸まで、およそ百キロ。佐久往還を韮崎、清里、野辺山、中込、佐久・・・と歩いて小諸まで行く。私も半世紀前にこの難行苦行の百キロに三回も挑戦した・・・いや、させられた。真夜中の出発、白々と明ける清里高原の朝はとんでもなく寒く、足の筋肉は焦性ブドウ酸と乳酸で固まりきって行く。ひたすら急ぐゴールまでの道・・・野辺山から先が下りになることだけが救いだった。
 もちろん、あの当時は、この小説のように同級の女生徒に想いをかけたり、クラスメートの間でさまざまな思惑が生まれたりすることはなかった。だいいち女生徒は朝になって途中からの出発で、その彼女らに追い抜かれたりでもしたらそりゃあもう男の恥・・・恋だ、愛だ、などと、うじゃじゃけたことを考えている暇はなかった。その鬱憤晴らしだったのかもしれないが、韮崎の町で店の看板や置いてあるタイヤなどを次の町まで動かしたのが、新聞記者にバレて翌日報道され、「首謀者は誰だ?」ということになった。すると、化学部の上級生が自分はしていないのに名乗り出て、われわれの罪を被ってくれた。成績の良いその人を学校は罰しなかった・・・そんな昔の記憶が読んでいると突然吹き出てくる。人間の脳は時系列では整理されないものらしい。
ブロッター3  この本を見ている(読むのではない)と、江戸時代というのは、われわれが教科書で教わったように「暗く封建的で、圧迫を受けて暮らしていた」というイメージがなく明るい。百姓は「食うや食わずで水を呑み」、町民は「斬り捨て御免」に怯えて生活していたとはとても思えない。それはそうだろう。教科書は現代の教科書でも明治政府の方針で作られた教科書を基本にしている。明治政府が倒した幕府を賛美するようなことは書けないから、自ずから江戸時代はチャンチャンバラバラが日常的に行なわれ、農民は年貢に喘ぎ、町民は武士を怖れていたことが強調される。
 しかし、考えても見よ。そんな圧政下で280年も続いた国など世界史上に存在しないわけで、やはり「Pax Tokugawa」は文字通り平和で暮らしやすい世の中だったはずなのだ。今、日本文化を代表するものは歌舞伎、相撲、浮世絵、天麩羅、寿司・・・みんな江戸時代にできたものだ。明治以降に目新しい文化などひとつもない。対外戦争もなく平和だった300年の後に、たった40年で二度の大きな戦争。農民は子どもを売らなければ生きていかれない塗炭の苦しみに陥っていたのは明治の方だったのではないか。
 われわれは教科書にだまくらかされていたというわけだ。時の政府は自分を守るために平気で他を貶める。だまされないように多角的に読書をしようね。
   

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