ブッククラブニュース
令和6年
3月号(発達年齢ブッククラブ)

2024年3,4月の予定

定休日は日曜、月曜です。
 3月の定休以外の休業は 20日の祝祭日です。
 4月の定休以外の休業は 29日の祝祭日です。
 時間外受け取りは事前にお電話ください。
 外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時30分
 受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。たまに買いものに出かけているときもありますが・・・。
 まずは遠慮なく。なにしろゆめやは企業(会社ではありません)零細商店ですので「昭和」の感覚でお出かけください。

ゾロ目がつきまとう

 今年の3月3日で、ゆめやは開業(昭和55年)44年目です。ブッククラブも開始して40年以上。開業時は全国に児童書専門店やブッククラブの大きなものがいろいろありましたが、まだ「本を読むことがすたれていなかったので」良い時代でした。私は、子どもの本への強い思いで始めたのではなく、それまで本をつくる側の仕事をしていたので売ってみる側に回っただけでした。たまたま長女が生まれる時期で、営業に失敗しても、「在庫本は我が子の読み聞かせに使えばいい」というような安易な考えでした。
 当時でも書店は斜陽産業で。多くの人に「やめたほうがいいよ!」と言われましたし、銀行は開業資金を貸してくれませんでした。でも無理やり開業は昭和55年の3月3日。カット写真は開業時「昭和55年のゆめや」です。甲府の中心街かすがモールの南にありました。いまの商工会議所の西側です。まだ昭和ですから、町並みは「三丁目の夕日」のおもかげがりました。
 その年、長女が生まれたのですが、誕生日が昭和55年7月7日・・・ゾロ目でした。私も誕生はゾロ目年です。妻はかろうじて似たような数字の誕生日12月21日(笑)。なんかゾロ目には縁がありますが、・・・。さいころ賭博にもナンバーズにも競馬にも買ったことがありません。まあ、できもしない営業状態ですから。それから40年・・・・ゆめやが、ここまでやってこられたのはお世辞でも外交辞令でもなく何と言っても、すべてブッククラブの会員のおかげでした。
 甲府に現在残っている書店は、ゆめやを除くと、学校図書館・公立図書館へ納入権を持つ業者さんで、老舗は教科書販売という大きな利権があります。 だから本が売れなくても、「金のなる木」が2本あります。でも、ゆめやは最初から顧客販売のみ。宣伝広告もしませんから純粋に本を求めてくる方々が顧客で、これはいまもそうです。

なかには見ている人も

 先日、このことに興味を持った生活クラブ生協の機関誌の記者の方が、来月の機関誌(2024年4月号)にゆめやを特集してくださいました。HPでも公開しますが、生活クラブ生協参加者の方はまず機関誌をお読みくださいね。※この段落の下部「キラッ ✨と生きる」
 でも、本が売れない時代に、顧客だけで書店を維持するのは大変。Z世代の若者は親になっても子どもに読み聞かせなどしないから、もっと購買力が落ちるでしょう。先行きはきびしいものがあります。歴代の文科大臣が外国の宗教団体に操られているようで、国民がまともな文化を得られないのも原因ではないかと邪推しています(笑)。今後10年が心配ですね。現在の行き方が破綻することは目に見えていますから・・・。破綻しないとわからないのもこの国の民の特徴です。バブルが破綻しても、甘い汁の味を知った人々(60歳代の人たち)がまたアベノミクスでバブルにはまり、バブル・ジュニアの40歳代がこれに乗っかっているのが現在のこの国です。夢よもう一度は、成功するかどうか?

キラッ ✨と生きる
下のアイコンをクリックすると紹介された機関誌が閲覧できます。

昭和の商売でもやれる

 でも、ゆめやの開店以後にはバブル崩壊(1994)があり、リーマンショック(2008年9月)があり、世の中はサブカル全盛でした。本の売れ行き不振には最初から慣れてます。その中を渡ってきたのですから、これからも関心のある人だけとおつきあいすればいいわけで、バブル世代・Z世代などどうでもいいのです。Amazonや楽天などいくらでも消費者を拡大したい企業はどんなことをしても商圏を拡大し、顧客を他より獲得したいのでしょうが、こっちは小さいお店、ある程度のお客さんがいればやって行かれる昭和の商売です。
 でも、ここまで、やってこられたのは、むやみに規模を拡大せず、お客様とのつながりを大事にしてきたからだと思っています。大きくしたブッククラブはコロナを境にみんな潰れていきました。顧客との関係が薄いので新しい巨大販売システムにすぐ客を取られてしまうのです。
 ある大きなブッククラブを経営してきた方が、「3万冊のを置いて幅広くお客に示してきたが、最近は本を見に来た客が本をスマホで撮影してネット販売業者に注文する。これでは勝てない。」というようなことを言っていました。その後、すぐに廃業してしまいました。残念ですよね。緊密に長く顧客と付き合わねばすぐにこういうことになります。

昭和の客商売は顔見知りが客

 子どもの成長は速いですが、それでもゆめやとは十年はおつきあいの方が多い。十年のおつきあいを繰り返すと、お子さんのお子さんが、またドアを叩いてくださいます。まったくありがたいことで、交流と本の力は大きいと実感します。
 ゆめやは最初からおじさんとおばさんだけで始め、44年後のいま、おじいさんとおばあさんが続けています。これからも頭だけはアップデートして、おかしいことはおかしいと言い、世の中の波に乗らず、時代遅れと言われようと言われまいと子どもたちに必要な本を提供していきたいと思っています。もちろん、お客様との会話は減らさずに・・・・
ゆめやの仕組みは44年間、まったく変えずにきました。「商品先渡し、料金後払い」・・・おたよりの交流・・・無駄なことだ! 手間がかかり過ぎる・・・と言われ続けています。でも、この商業倫理は守りたいです。この逆は人と人のつながりさえ消費してしまうことになりますので・・・。
 時代が変わってそぐわない点もあるかと思いますが、そこは変化への対応を支えていただきおつきあいください。この人間関係の無視、かかわりを省いて効率を求める行き方と現代の商業パターンや学校教育は無関係でしょうか?
 コロナ後は大変化・大混乱が起こるでしょう。もうすでに国から隣近所まで狂気のような事件事故が起こっています。そのためにも、ゆめやは、この国から読み聞かせと読書が消える日までは、もう少し踏ん張り続けたいと思います。
 55年というゾロ目は無理でしょうが、まあ、生きているうちは「無駄だ!」「無意味だ!」と言われながらも戦う! がんばります。(ニュース一部閲覧)

言葉の意味への思い込み

 「読書力は絶対落ちないという信念で本を与えていく」「不登校にはしないという覚悟で子育てしていく」・・・こういう掛け声をかけられるとなんとなく、「そうだ!、大切だね!」とその気になるのがヒトというものである。信念とか覚悟という言葉は意味上良い感覚があるから読む人・聞く人はなんとなく「そうだな!」と思わされてしまう。言葉の意味をそのまま信じ込むからだ。
 ところが、文章を変えると言葉や文から考える人も出てくる。
 「事故はありえないという信念で原発を推進していく」「爆発は絶対起こさないという覚悟で原発を運転していく」・・・となると、その「信念や覚悟」が、主張している人たちのただの思いの表現にすぎないこと、科学性も論理性もないことに気が付く人も多いのではないだろうか。事故・爆発を戦争に代えても同じだ。これをうまく使うのが政治家や官僚、企業家で、最近は世慣れた youtuberとかコメンテーターでも使う。もちろん失敗しても事故が起きても、当然、責任は誰も取らない。(新聞一部閲覧)

言葉にはいくつも意味がある

 ヒトは自分の思いで聴いたり読んだりしたものを意見や考えとして受け入れる動物である。言葉は一般的に使われるふつうの言葉だが、とりあえず、自分の基準で意味を読み取るというわけだ。底の浅い考えの人や詐欺師は、その辺を意図的に自分の考えをいかにも妥当で立派なことのように話したり、書いたりする。政治家ばかりではなく、最近はネットや SNS でこういう言葉を使う者が多い。
 ところが覚悟とか信念という人間臭い言葉は、叫ぶ側の個人の思いなので疑問を挟む余地はあるが、批判や否定をしづらいことがたくさんある。使われる言葉が、自由とか個性、夢とか理想、平和とか安全というよう言葉だと、普通の人間はなかなか反論しづらい。

本も誇大宣伝で売られる

 しかし、自由と言ってもモラルも無視して、したい放題するのは自由ではなく身勝手であって、世の中には不要なものだ。
 個性と言っても、目立ちたいだけのファッションや行動は狂気の表現でもあり、ウザイだけのものでもある。豊かになりたい夢も、それが騙しに使われたら問題だ。政治も企業CMもプロパガンダ(情報戦、心理戦、宣伝戦、世論戦)、騙して人くを乗せる、そして売りつけるの連続だ。
 自国が生き延びるために邪魔な国は打ち倒そうという理想や夢になれば邪悪な欲そのものではないか・・・。ところが、こうした言葉を使われると、「そうだよ。自由は絶対必要だ!」「個性がなくちゃね!」「夢を実現しないと!」と、言うヒトも出てくる。
 学校でよく使われる「夢」「希望」もその意味ではウサンクサイものがあるのだが・・・。実現したらゴチャゴチャになるヒトや世界の姿など考えないで、耳障りの良さだけにつられて納得してしまうことも多いのではないだろうか。商品が嘘の宣伝で売られるというのは問題だが、じつは宣伝価値の少ない本も誇大宣伝で売られているケースが多い。この業界は言葉を操る人が多いので、妙に評価を過大にすることがあるからだ。
 このような言葉を使う言葉の錬金術師のような人が多 くなるのがマスコミ・出版界を代表にした情報化社会だ。言葉の洪水の中で、言葉に鈍感になっているヒトが多くなっているので、なんらかの利益を得るために、宗教家のようなきれいな言葉を使って扇動する。すると、人は乗せられて「そうだ、そうだ!」「そうかもしれない。」「きっとそうなる!」と思わされて流れに乗る。買わされてしまう。

欲の時代 ②便乗型資本主義とバカな消費者

 ネットの発毛剤や美肌剤などの CM は低レベルの人を乗せるうまい言葉の魔術である。特徴は、効果がなくても責任は取らないこと。つまり騙された方が悪いのだ。だから「最近の商業宣伝とはうまい言葉で人を騙すものだ」と考えればいいだろう。言葉で人の欲を刺激して買わせるのはどこかの壷やお札を買わせる宗教団体と同じだと思うのだが、どうだろう。
 まず必要なのは、宣伝文や発言の裏を知ることだ。
 これらに共通しているのは、不安やまずい状態にある人々の気持に取り入って弱みにつけこみ、いかにも効果があるように宣伝して売りつける方法である。これは宗教団体が信者の不安に取り入り、不安の解消と称して、高価なものを売りつける手法に似ている。
 これは、不安便乗型商法とも言われるが、じつは国際的な武器産業企業は、まったく同じパターンで戦争に便乗して武器を売り込むという非道な資本主義を実施している。前述の不安便乗型企業は毛が生えなくても美肌にならなくても、それは個人の不具合であって、代金はいただくというものである。たいていが前金で支払うから、まずお金は戻っては来ない。

究極の便乗

 2年前2022年2月一方的にウクライナに侵攻したロシアが造りだした戦争状況は、資本家側には「これ、幸い」と映ったと思う。戦争便乗して物を売る戦争便乗型資本主義を動かすことが出来るからだ。こうなれば、「平和のために」と武器を供与(売りつけ)するが何万人死のうと、売った国家が敗けようと勝とうとまったく気にしない。ウクライナにミサイル一発いくらで売り、裏ではロシアに戦闘機一機いくらで売る。儲かればいいのだから勝敗はどちらでもいい。悲惨な状態がどちらにどのくらい起こっても関係ないのだ。モラルなどまったくないわけで悪いことが流行ったものである。欧米の政府や軍需産業は「これ幸い」とばかりに戦争当事国に武器を売って大儲けをしているというわけだ。
 欲の行きつく先はこういうものだろう。人の欲の限りなさに驚くばかりである。政治学者が適当な理屈をこねまわしているが、おそらく21世紀の平和の中で、このような侵攻が起こるとはほとんどのひとが思っていないが、王さまがいつまでも王座に座っていると、そこにはイエスマンしかいなくなり、やりたい放題が起こる。BIG MOTOR事件などその典型でバカ息子帝王がしたい放題となれば、イエスマンは立ち木でも枯らすことは平気でやる。こういう企業はふえているだろう。あるいは傘下下請けいじめを行って、上納金を吸い上げたり、工賃を叩いたり・・・ここでもモラルがない。もしかすると地震とか旱魃などの自然災害にも便乗して儲ける資本主義もでているかもしれない。

Mustが消えた社会

 こういう時代はなんでもありである。当然、その傾向を一般社会も受けて、人は虚無的になり、目立つために何でも言うし、やる。それは生き残るための欲望の結果だからしかたがない。言いたい放題、したい放題、あとのことなどどうでもよいという虚無的な社会になっていくわけだ。
 身近なことで考えてみよう。テレビの中の一般人、芸能人の会話は何を言っているのかわからないことが多い。ネットがX(ツイッター)やFB(フェイスブック)の意見を取り上げるが、どれもこれも目立ちたい一心で書かれたもので、論理性もなければ道義的な感覚もない。ネタも下世話な井戸端会議のようなものなのに、SNSやテレビではいかにも重大なこと、あるいはもののように流れる。見たり聞いたりしている側としては、コントかお笑いを聞いているようなものである。言葉は口から離れたとたんに意味も強制力も失い、その後は何も体をなさないのだから、受け取るほうは虚無的に感じるよりない。
 結婚を決めた話題が、一か月後に離婚話になっていたり、議会で決まったことが、一か月後にはもう守られないという状態。約束事、言葉の強制力などないにひとしい、寄席か漫才の世界の言葉のようなものが毎日、目や耳に飛び込んでくる。〜しなければならない、〜してはいけない・・・・という概念はまるで存在しないかのようだ。これは、モラルが消えた結果の究極の状態だろう。そのうち会話、討議などが意味をなさなくなるときがやってくるはずだ。言ったらやる、やってから言うという基本がなくなったわけだから。
 その証拠にいま、犯罪の多くがそういう虚無的なものになっているのがわからないだろうか。セクハラにしてもパワハラにしてもほとんど思いつき、成り行きの結果起こすものとなり、背景に同情に値するものがない。
 人間と人間のつながりは、お互いを信用するところから始まり、その信用が状態・行為の結果として続くことで成り立つのだが、言い放し、おもしろければそれでいい、騙し、いい加減では、すぐに関係は破綻する。こんな状態で子どもが成長していったら、言葉はなんの意味もなさなくなり、向こうからやってくるのは不幸ばかりとなるだろう。



(2024年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ