ブッククラブニュース
令和6年
2月号新聞一部閲覧 追加分

二月は日数が少ない

 昔の小学校教育は、ほとんどが日常で必要な知識や技術を教えるもので、あまり高度なことは教えなかった。小2のときの授業で、先生が「一日は何時間か知ってる?」という質問が出た。たいていの子がわかる問題だ。「24時間!」と口々に答える。
 そのころ私は、実業の日本社という出版社の「なぜだろう?なぜかしら?」という本をシリーズで読んでいて、「一年は365.2422日」と覚えていた。だから、小数はわからなくても、1日が24時間よりちょっと長いということを感じることはできる。
 これを先生に言うと「そうよね。その余った時間を4回足すと1日になるから、4年に一度、2月に日を一日足すの。それがうるう年。」と教えてくれた。この先生は、「24時間って覚えなさい!」と1対1の答えを押し付ける先生ではなかったわけだ。正解はひとつではないということを教えてくれた最初の人である。名は小泉先生と言い、若くきれいな人で、私の初恋の人(笑)だったと思う。

正解は一つだけ?

 ところが高校の日本史の先生は正解がひとつにこだわる人で、「テストで別の答えを出せば×!なのだから、まず答えを覚えよ!」というものだった。後で考えれば、歴史こそ多様に考えないと実体が見えてこないのに、その答えがひとつでは困ったものである。この先生とは一年間、雑談ひとつしなかったが、なんだかとてもすごい大学を出ているという話だった。こういう人とは話しにくいし、こちらの知識が少なければバカにされるだけという感じがあるので、つきあいたいとは思わない。
 それから何十年も経った昨年の11月3日に、あるテストで問題を出された。「今日は何の日ですか?」もちろん「文化の日です。」と答える。すると相手は「どいういわれのある日ですか?」というので、「明治天皇の誕生日でしょ。」というと「正解です!」という。
 でも小学生でも高校生でもない私は、逆にこう質問した。「明治天皇のお父さんが何天皇か知ってますか?」、「知りません。」というので、「孝明天皇と言いますが、暗殺説もあるのです。死んだのが明治維新の前の年ですからね。明治天皇はそのとき、14歳くらい。本物かどうかわからないので、誕生日が正確かどうかは、ね。」

常識のない私は

 ただ、こういうのは他の人と同じ認識を持たない私の「愚かさ」と言われれば確かにそうだ。
 そのテストの前に、こういう質問をされた。「バナナとみかんの共通点は何ですか?」・・・私は「共通点」という言葉に引っかかったので即答できなかった。すると「くだものです。」という。そこで「共通点と言うなら、皮をむいて食べるとか、皮が暖色系とかじゃないのですか! 『くだもの』は、属している分野の名称でしょう!」というと「そういわれれば そうですね・」となった。
 後日、いろいろな人に、「バナナとみかんの共通点は何ですか?」と訊ねると、多くの人が「くだもの」と答えたので、これはある言葉に対して多くの人と同じ認識を持たない私の問題点なのかもしれないと思った。
 最近の流行語や話、ニュース記事でわからない言葉が多いのは、それをそれと受け取らない私の頭に問題があるのだと思う。まず元の意味で考えるからわからないのかもしれない。
 たしかに答えがひとつというのは便利だし、わかりやすい。いろいろ考えなくてもすむ。4年に一度29日がある二月・・・でも四年ごとに必ずあるわけではない「暦の原理」もあり、世の中は複雑で多様なのである。

本の底力 ①家に本がたくさんある子どもの頭

 かなり前から蔵書数が多い家庭の子どもほど学力が高いというのは、さまざまな調査研究によって示されている。
 たとえば、文科省実施の全国学力・学習状況調査の結果と、その対象となった小6および中3年の子どもたちの保護者に対する調査報告書を見ると、蔵書数が多い家の子どもが学力が高い事実がはっきり出ている。本を売りたくて、我田引水で言っているわけではない。またここでいう学力が「成績の良さ」か「頭の良さ」かは別に考えなくてはならないだろう。個人的にはほんを読んで身につく力は、成績を高めるものより、頭の良さを高めるほうに力を持つと感じているが、成績アップへの影響も大きくあるだろう。

蔵書数に比例しすぎるスゴさ

 で、まず、小6のデータを見ると、蔵書数が0〜10冊の家庭の子どもよりも11〜25の家庭の子どもの方が学力は高く、さらに26〜100の家庭の子どもの方がずっと学力が高い。101〜200の家庭の子どもの学力はさらに高く、201〜500の家庭の子どもはそれ以上、501冊以上の家庭の子どもの学力が最も高くなっていた。蔵書数だからこれには幼児期の絵本も含まれるが。ここまで段階別に比例するとおもしろい。
 当然、裕福な家庭ほど蔵書数が多いだろうし、蔵書数は親の社会経済的位置と関係しているのではないかと思うのは自然なことだ。これは、当然、借りて来て読んだ本は含まず、あくまで蔵書である。本を重要視しない親は、金額や所有場所の問題で買い控えるだろうし、だいたい関心がない親は本を買わない。
 実際、データを見ると、そうした関係は明らかだ。社会経済的地位の高い親の家庭ほど、つまり学歴や収入が高い親の家庭ほど、蔵書数は多くなる。一部、収入が低くても本を買う層もいないことはない。ただ蔵書数が学力と比例するのがおもしろい。
 だが、こうなると、家庭の蔵書数の多さが子どもの学力を高めているのではなく、「親の学歴や収入の高さが蔵書数の多さや子どもの学力の高さをもたらしているだけなのではないか」と思う人がいるかもしれない。

ムダと思われる知識や考え方が本にはある

 しかし、データの詳細をさらに見て行くと、どうもそういうわけではないことがわかる。社会経済的背景を考慮しても、家庭の蔵書数と子どもの学力は関係しているのだ。つまり、学歴や収入の低い層でも、高い層でも、それぞれの層の中では、蔵書数が多い家庭の子どもほど学力が高いという傾向がみられたからである。蔵書数が多い家庭の子どもほど学力が高いという事実は、全国学力・学習状況調査報告書以外のさまざまな調査研究によっても示されているからだ。考えてみればわかることだが、本は世間が必要なレベルの知識だけで書かれているわけではない。成績を上げるためだけの知識や解法が書かれているのであれば、成績とは関係があるだろうが、頭の良さまでは結びつかないだろう。

考えてみれば当然かも?

 国語、算数、英語・・・どんな科目の教科書も日本語によって問題が書かれていて、どの先生の解説も日本語でだから、学力を高めるには日本語の語彙力や読解力を高める必要があるのはあたりまえだ。話や説明が言語的に通じなければ、解釈も理解もできないだろう。
 読書と語彙力の関係については、多くの研究が行われているが、就学前の幼児、小学生、中学生や高校生を対象とした調査研究、大学生や大学院生を対象とした調査研究、どれをみても読書量が多いほど語彙力が高いといった現実がある。
 読書すれば多くの言葉に触れることになるので、読書によって多くの言葉に触れている子と、読書をあまりせず日常の会話以外の言葉に触れる機会の少ない子では、獲得している言葉の数が違うのも当然である。バイリンガル、トリリンガルだと理解がすぐにできない可能性も高く、ここでは本人の資質で理解の差ができてしまう。本を読まないZ世代の言語力に問題が指摘されているが、デジタル言語、流行語ではいくらたくさん知っていても学力、理解力とは結びつかないことは、考えなくてもわかることだ。(つづく)

考えることにつながる作文

 最近、新聞の投書を含めて小学生の作文を読む機会が多いが、文が上手、下手というより小学生で「ものを考える力」が強まっていると感じる。下に挙げた会員のお子さんの感想文を読んでなおさらそう思った。
 これは昨年、知人から映画「劇場版・荒野に希望の火を点す」を上映するチケットの販売を請け負ったのだが、それを会員が買い求めて五年生のお子さんに見せたのかもしれない。そしてたまたま課題図書だった「中村哲物語」を読んで、、この文を書いたのだろう。
 それをちょっとご覧にいれよう。
 ここには、考えたことがいくつも書かれているが、もちろん小5の子どもが思いついたらすぐに実行できるものはない。しかし、考えて実行したい!と思う気持ちがにじみ出ているのはすばらしいことだ。多く、サッカーや野球のスタープレーヤーをテレビで見て、「ぼくも、私もスターになりたい!」と思うていどが最近の子どもの作文だからね。
****************************

「実行力」

 小5 H・Kくん
 どの場所、どの時代でも一番大切なのは命です。ぼくが、心に残ったのは、哲先生が自ら日本から井戸を掘る専門家を呼んで、深い井戸を掘ったり、用水路を作るために土木工学と言う専門知識を学んだことです。ぼくは、自分が思ったことを実行に移すのが得意ではありません。なぜならちょっとめんどうくさくなってしまうからです。だから思ったことをすぐに実行に移す哲先生はすごいと思いました。
 ハンセン氏病のなかに「足底潰瘍」というものがあります。患者さんは痛みを感じないため足の裏の傷からバイ菌が入り、足を切断することもあります。
 そんな「足底潰瘍」をなくすために哲先生は「治療より予防を考えなくてはならないと言いました。そこで病院の中にサンダル工房を作ったのです。これもまた哲先生の実行力がすごいと思いました。
 ぼくは予防の大切さも考えました。コロナ対策では、うがいや手洗い、マスクや消毒が身近な予防です。だからコロナは少なくなってきました。でもマスクを外して予防をしなくなるとインフルエンザがはやってきました。日本では予防対策があたりまえですが、必要物資がないアフガニスタンでは予防すらできません。日本では身近なものがアフガニスタンでは身近にないからです。
 「水」もそうです。蛇口をひねるだけで水が出るのでそんなに「水」を気にしていませんでした。でも、この本(中村哲物語)を読んでから「水が大切だ」と思うようになりました。そうすると「節約」も心掛けるようになりました。意識していなかったことを知ることで人は「大きく変わる」ことができるんだと思いました。
 ぼくは最近、骨折をしました。処置をしてもらってたくさん食べて治りました。だけど、アフガニスタンではどうでしょう。カルシウムも取れない、処置してくれる病院もありません。内戦も起こっています。アフガニスタンでは人が生まれるのも死ぬのも、すぐ目の前にあり、「生活の一部」です。日本では生きるのも亡くなるも病院です。ぼくたちは「死が身近にない」から「生きる」ということへの喜びや感謝を感じにくいのではないでしょうか。
 世界では住む場所によって受けられる医療がちがいます。この本を読んで、自分の当たり前がアフガニスタンでは当たり前でないことがわかりました。だから、ぼくは「当たり前のことも当たり前じゃない人もいると思いながら生活したいです。
 そして、ぼくはアフガニスタンに行って用水路をつくった哲先生みたいに、自分で考えて実行に移せる人になりたいです。
***********************************

 考える力さえ失われつつある時代に、こういう実行をしていくことはさらにむずかしい。
 だが、考えれば、それを実行したくなるのも人間である。戦争したいと考えれば戦争を実行する、人を動かすにはお金だと考えれば裏金でも違法な収入でもなんでも実行するのが人間である。
 そういう人には、この「希望の一滴」という本を読ませたいが、だいたい、そういう人は「本を読まない」。本を読んで、考える。それを実行につなげる。世の中を住みやすくしていくには、たいせつなことだ。
 だが、楽しんで終わりのそのときだけの娯楽本もあるが、ここではそれは論じない。また悪いことが書かれていて、それが悪いか良いかを考えずに、そのまま実行したくなるような本もある。これも無視。学校図書館だって、粗悪で悪影響のありそうな本も並んでいるからね。
 ニュースや新聞の事件を見ていれば、数十年前に比べて、限度を超えた悪質な事件、巨悪がひろがってきた。その原因はいろいろあるが、多くは粗悪な娯楽や質の悪い流行物に影響されるからだろう。子どもには良いものを読んでもらって考えてもらい、やがてなんらかの実行に結び付けてもらいたい思うのである。

一時代が終わる・・・

 この一、二年で、なんとなく「一時代が終わるときが来ている」と感じている。変な例だが、それを強く感じたのは、八代亜紀さんの訃報に接した時だ。ファンだったわけではないし、歌が好きだったわけではない。
 ただ、若いころから、彼女の歌や姿は聞いたり見ていた。その時間は長い。だから耳や目に沁み込んでいたと思われる。その人の訃報が流れると、「ああ、いなくなったのか!」という思いに強くとらわれる。
 ひとつの時代が消える・・・つまり「一時代が終わる」感にとらわれた。それ以前に同じような存在の人が亡くなった。ま、いわば昭和の代表が次々に消えていくというわけで、一時代が終わった感じが否めない。
 昭和が終わるのはいい。平成もいずれ終わる・・・そういう流れではなく、社会や世の中の仕組みが壊れ、どういうふうになるのか、時代が終わるのはどういう現象が発端なのか・・・なるほど昭和では大きな産業だった書籍関連はもう地に堕ちて終わりつつある。同じように商店街も終わり始めた。原因は社会学的に、経済学的にいろいろ論じることはできる。しかし、長く続く時代だってあったわけで、いったい時代が終わる原因はなんだろうと、かねてから考えている。

① 欲の時代

 昭和を支配した自民党でさえ、いま終わろうとしている。この原動力はなんだろう。これについて次回から考えてみたい。なにしろ次の時代を生きるのは、ゆめやが相手にしている子どもたち、知っておけば不幸は避けられるかもしれない。テレビをつければお笑いと食い物、あとは芸能とスポーツが前面に出てきている。行事、イベント、…消費を引き出す仕掛けがいっぱいだ。テレビは快いものと熱狂を引き出そうという装置だが、これはネットもふくめて現代の主流だ。
 かんたんにいえば、「欲」が前面に出て来た時代だと思う。あれがしたい、これが食いたい、それを引き出す、煽る・・・誰がそんな仕掛けをしているのだろう。・・・仕掛けは煽るマスコミとネット・・・しかし、その限界が見えてきているような気がする。もちろん好景気を演出するのはバブル再来期待派で、年齢的には60歳代が主力だろう。若い時にいい思いをしたことがわすれられないからだ。となれば、後のことなどどうでもいいとばかりに株式を吊り上げ、景気を高揚させる・・・どんどん国債で買って、市場を高揚させる、見かけの景気が良くなるから、どんどん買え、食え、いいものを着ろ!高い車を買え!となる。好景気はとりあえず高められる。そのための宣伝工作がテレビとネットだ。これはうまく功を奏した。
 限界を示したきっかけのひとつはコロナだ。2020年、コロナが蔓延・・・市場が狭まった。これの最大の問題は、罹患よりも国が国民にああしろ、こうしろと介入できる口実ができたことだろう。効くか効かぬかわからぬワクチンでも「打て!」と言われれば打ち、マスク、アルコール消毒・・・・国の指示を文句も言わずに受け入れた・・・・。その代表が東京オリンピックだろう。どう考えてもやったら感染爆発だから、多くが「やめよう」「開催反対!」「中止」だったのに、耳を貸さずに強行した。反対を押し切って無観客ならいいだろうと開催した。なぜか、開かねば「儲からないからだ」。放映権の問題もあり、国民の意見は無視してでもと強行したわけだ。感染者は急増、ここでもかなりの人数が死亡した。欲が根源にあると大変である。問題があっても強行する。これは日本だけではない。このあとどんどん世界も続いていく。(つづく)



(2024年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ