ブッククラブニュース
令和6年
1月号(発達年齢ブッククラブ)

2024年1月の予定

定休日は日曜、月曜、祝祭日です。
 1月の定休・臨時休業のスケジュール 年始休業1〜5日、7日8日連休
 時間外受け取りは事前にお電話ください。
 外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時 冬時間
 受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。たまに買い物に出かけているときもありますが・・・。
 まずは遠慮なく。

あけましておめでとうございます。

 今年も年賀状をたくさんいただきました。心よりお礼申し上げます。とても返信ができませんので、ニュース紙上で年賀のご挨拶をさせていただきます。
 みなさまの年賀状は立春まで店頭展示してあります。ぜひご来店くださいましてご覧ください。
 なんとなく「あけましておめでとうございます」と言いにくい新年ですが、本年もよろしくお願い申し上げます。
 皆様から今年もまた早々に年賀状をいただきました(表紙写真)。心よりお礼を申し上げます。ゆめやからは年賀状が出せませんが、このニュースで新年のご挨拶に代えさせていただきます。以前に比べて少なくなったとはいえ、まだまだ何とか生活の伝統が残る感じのある枚数ですが、合理主義の先にはこういう習慣もなくなっていくのでしょうか 。
 ゆめやは約40年分のお客様の年賀状をいくつもの箱に保存しています。最初の年は昭和56年ですが、何と会員は3名、年賀状は3通ですよ。他の箱を開けると懐かしいお名前や住所が出てきます。「ああ、去年、お孫さんに配本が始まったあの方はこの年にお子さんが1歳だったのか!」というような思い出が出てくる玉手箱。開けた私は白髪のお爺さんですが、この時間の経過はすてきです。

干支予想はやめた!終わりの始まり

 いつもなら干支で予想をしますが今年は元日から竜が怒り、干支占いどころの話ではありませんでした。きっと、あまりにも悪くなっている世の中の状態と極楽とんぼしている日本人に竜が怒ったのでしょうが、場所を選んでほしいですよね。いつも弱いところを攻撃してきます。これが次々に起こらないように祈りましょう。
 終わりの始まり・・・もっとも、そんなことも最近は ChatGPT は情報として教えてくれるので、つまらない予想は今年からよそう(笑)と思いました。なるべく独自の個性的な意見や考えで固めたものを表現したいと思う今日このごろです。見て聞いて考えるのは私もですが、皆さんの日常にもつながるものでもあります。

読み聞かせについて
⑧3歳後半 民話など

 3歳半になると、大人がちょっとむずかしいのではないかと思う言葉が入っていてもよく聞き取り、かなり展開がある話や中にはオチのあるものまで分かるようになる。前半で入る「てぶくろ」などは物語ではあるが、2歳のころの「繰返しもの」と同じ流れがあり、違う動物がつぎつぎに手袋に入っていく荒唐無稽な楽しさだが、後半では「関わり」がテーマになるものを入れることができる。関わりの展開がわかる力が出ているというわけだ。
 民話もわかるようになるから入れることがあるが、「ももたろう」「かさじぞう」も関わりの話である。良いことをしてやると必ずお返しとして良いことが起きるとか悪いものを退治して喜ばれるとか、人と人(物)の関りが主題であることが多いのが民話だ。
 この代表は「ももたろう」だが、じつは、この原話を3歳で読ませるのは言葉もだが、展開についてもちょっと困難なものが多い。
 ゆめやでは赤羽末吉・絵のわかりやすい文のものを採用しているが、この話は鬼を許してやり、財宝も持ち帰らず、とらわれている姫を連れて帰るという民主主義的な(笑)ももたろうだ。個人的には講談社の→鬼を斬り殺し、財宝は村に持ち帰り、ジジババ孝行をする「桃太郎」が民話として本物だと思う。善と悪とか行為の意味などを考えるうえで大切な「強引さ」が描かれているからである。民話にはかなり残酷で、きびしい展開をするものが多い。それを小さい子に与えていいものかどうか悩む。  戦前のように悪と決めつけたら何をしてもいいかという問題もあるので、極端に単純化されたものは避けている・・・。ただ小学校になったら幼児期に読んだ民話の原版を再び読んでほしいと思う。
 これは絵本における一時代の終わりなのだ。戦後の表面的なやさしさやデモクラシーで生まれた絵本の時代が終わりつつあるのである。それは、カステラをみんなで焼く楽しさを描いた絵本が飽食の時代に衰退していくのと同じだ。戦後すぐの空腹の時代にカステラは子どもの夢であり欲望の対象だったが、飽食の時代の子はカステラなどに見向きもしない。

ひとつの時代が終わりつつある

 まあ、これは絵本ばかりの世界の話ではない。一時代の終わりの予想というほどのことはなくとも、誰もが感じているように、ここ一年、二年で、これまでの流れが大きく止まり、他の流れになっていく変化が見られます。
 政治の世界でも芸能界でも、これまで流れを作ってきた人々が挫折したり、いなくなったりする数がハンパではありません。一時代を画した人が「えっ!」という感じで消えているのです。そういう時期が来たということでしょう。
 ということは、その受け皿になっていた仕組みやシステムもどんどん壊れるか消えていっているわけで、これは止められない流れです。政治の世界でも歌や音楽の世界でも、もちろんお笑いやドラマの舞台でも・・・・ひとつの時代が終わるのを感じませんか。小さな雪玉がどんどん転がって、そんどん大きくなって、その分野を終わりにする・・・・小さな変化が、それぞれの世界を潰すのはもう見えています。
 ただ、何か新しい動きが見えてこないと、人は「何もない!」という不安に陥ります。この不安がくだらないものに向くと先行きは失敗になるでしょう。ここは我慢なのです。
 とりあえず、見ているだけでいいのではないでしょうか。なにもない、なにもしない方が良いものが生まれることもあるのです。そして、生まれてきた良いものの蓄積の後に良い流れが生まれ、悪いものの後には悪いことが起こるのは、昔から決まっていることです。

子どもの頃の豊かな時間が

 暇な時間が必要な時代かもしれません。子育てでもそうです。子どもが何もしないでいる時間も必要です。大人もヒマな時間が必要ですが、いろいろやらされた子どもが何も考えない若者になってしまう悲劇もチラチラ。時間に追われるから、息抜きにつまらないことをやり、その結果、身の破滅という例もあります。最近は、そんな事件ばかり起きていますよね。悪い人間関係や生活の中からあまり良いものは生まれないのはわかりきっていることです。子どものころ、時間をぼんやり、つぶせなかった人に多いのではないでしょうか。
 風景を見て何かを考える、本を読んで「ああでもない」、「こうでもない」と思う。世間を横目で見ながら、自分ならこうすると考える・・・この時間が、大人になってクリエイティブなことをするにはとても大切だと思うのです。物を追い求め、楽で便利で来た人々に投げかけられた大地震と事故や火事・・・・個人的には「一時代の終わりが始まるのでは?」という感じでとらえています。

シリーズ・「一つの時代が終わる」

①コロナが止めたイケイケドンドン

 では、なぜひとつの時代が終わりつつあるか、最近の世の中の流れから考えてみましょう。
 1990年代バブルが生み出した富裕な生活や物の快さを知ってしまった人々はバブルが崩壊しても快感が記憶にあり、心では着飾ることへの欲、グルメ料理を食べる思い、快楽が得られればなんでもよいという感覚を強くして21世紀に突入した。当然、ここでは投機的な豊かさを演出しようとする経済政策が優先され、そうなれば儲けることばかり考える人間が増えていき(その中でも脱落する階層もいるが)、そうでない人間は労働に終始する貧困層に落ち込んでいく。
 金利を安くすれば、金が縦横に動くことを知った金融政策者は、国や民の負債となって残ろうと残るまいと、どんどん貸し出して見かけの消費が拡大すれば、景気が高まったとして、さらに国債を積んでも金利を安くして金が流れ動けば問題ないと推し進める。

バブルよ、もう一度がアベノミクス

 この世の春を謳歌するには儲けることが前提で、儲ければ「楽で便利な」ことがたやすくできるという、いわばタワマンエコノミーも大手を振り始めた。政治家の世界でも金集めは楽で便利な政策の遂行に必要とばかり、法を犯しても金を集め、モラルを踏み越えた虚偽の売買も可能にしようとした。
 2020年2月、急速にコロナウイルスが蔓延して、この動きを封じ込めたが、欲に狂った人間は、この疫病が「楽で便利に消費する」時代をストップさせるとは思わず、高いワクチンですら買ってなんとか活動を続けようとし始めた。スペイン風邪を考えれば「集団免疫を得ること」で切り抜けたわけだが、まずは儲けるための投資がワクチン買いだったような感じである。
 これがなにより時代を変える意味を持ったのは、強制接種的なシステムを国家が誘導し、どんどん国民生活に口をはさむ突破口をつくったことである。なにより、アベノミクスの集大成のひとつである東京オリンピック2020為政者としては自分の金字塔として何が何でもやらねばならぬもの。国民の大部分が反対したにもかかわらず開催を強行したが、予算はオーバーのうえ無観客という話にならない状態を生み出した。その向こう側ではコロナ死者が山ほどでていたにもかかわらずにである。
 しかし、コロナの猛威には勝てない。百年前のスペイン風邪も再考しないお偉方の歴史認識欠如は、集団免疫へ向かうよりワクチンで制御することだけに終始した。この国は何をするにしても過去の例を鑑みない。
 もうこれで一時代が終わったといえる。いかに歴史を見ないか、参考にしないかという日本人の大欠陥がここで噴出してきたというわけだ。時代が変わることへの対応をせずに、いつまで繁栄の夢を見る・・・親玉が掛け声をかければ、国民も豊かになろう!とそれに乗っかる・・・まだまだこのダメな現象は続く。一時代が終わるまで。

Dr.Sawadaの🍓通信2024

 よく電車や飛行機の中で、ぐずって泣き続ける赤ちゃんがいる。子育てをしたことがある人は1時間泣かれても気にならないが、子育て経験のない大人で嫌な顔をする人もいる。だから親は困って必死になる。中には1歳の子どもをつかまえて「いいかげんにしないと!」となど、脅し文句まがいのことを言う親も出てくる(笑)。気圧変化で不快になって泣き始めた赤ちゃんに、「意味ないでしょ!」と思えるが、新米の親や子育て経験がない大人はイライラがつのるようだ。
 きっと、これは「なぜ泣くのかがわからない」からだろう。赤ちゃんは自分の存在を訴えるために泣くものなので、ここは押さえて、笑うまで待とう!

新生児はなぜよく泣くの?

 赤ちゃんと生活をはじめて、ママを困らせる一番は赤ちゃんが泣くことでしょう。「なぜこんなに泣くの?」の答えは、泣いてママに抱き上げてもらわないと、赤ちゃんの人生が始まらないから。
 悲しいわけでも、なにか不快を感じるからでもなく、単純にママコールです。
 おとなが泣くのは、悲しい、くやしい、喜び、苦痛が背景にありますが、赤ちゃんの泣きの背景には、脳で意識された感情が、まだ存在していません。感情は、誕生してから、いろいろ経験して、それから「自力」で作っていくものです。
 ママに抱き上げられてオッパイを口に含ませてもらったら(あるいは哺乳瓶でもいいので)、赤ちゃんは泣きやみます。赤ちゃんの舌は、ママの乳首を強く刺激しますから、それに応えて、ママの乳房の乳腺細胞が母乳を分泌し、赤ちゃんの口に注ぎ込みます。赤ちゃんは飲み込めばいいだけ、赤ちゃんとママの「共同作業」で赤ちゃんは生きて育っていけるんですね。
 赤ちゃんが泣いたら、「うるさいなあ、また泣いてる。オッパイ足りないんだ、きっと。」などと考えずに、「ママはここにいますよ!」と赤ちゃんを抱き上げて、あとは乳房を含ませるだけ。かんたんでしょ!?
 かんたんなことを複雑にしているのは、赤ちゃんもおとなと同じように大脳が働き、感じる能力があるという思い込みと赤ちゃんを信じない誤解がもとです。次回からおとなの誤解を取り上げます。 To be continued



(2024年1月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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