ブッククラブニュース
令和5年
9月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせについて⑤2歳前半-2

 2歳の半ばになるまでに多くの子は親との意思疎通がかなりできるようになります。よくイヤイヤ期などと言いますが、自分の意志ができてくるということは、他を否定することが最初に始まるわけで、この時期は押さえつけたり、たしなめたりしてはまずいと思います。叱ったりたしなめたりしていくのは社会性が出てくる3歳後半から4歳でしょう。まだ自我もすこししか育っていません。ここはかわいい盛りですから、言いうがままに(笑)、容認しておくのがベストです。
 前に述べたように個人差はありますが、言葉の意味が分かったうえで大量の言葉を覚えていきますから、この一年間はおどろくほどの変化が毎日毎日起きます。親がびっくりするほどで、昨日わからなかったことが今日はわかる、できなかったことができる・・・・この期間の観察をしていると「子どもってすごいなぁ!」と思わざるをえません。この時期の子は見ていて楽しいので飽きません。多くのお母さんがこの時期が一番かわいいと言うのがわかります。もちろん個人差が大きい時期で、おしゃべりな子もいれば、無口な子もいますが、 それは個性。 頭の中は同じように発達しているはずです。

性差が出てくる

 また、だんだん性差が感じられるようになります。配本はこの時期辺りから男の子、女の子それぞれの本がじょじょに加わります。生まれ月によって入る本は時期ごとに微妙に違いますが、どんどん反応が大きくなると思いますので、読み聞かせも楽しくなるはずです。まだ読み聞かせは声色を変えたり、パフォーマンスを加えてもかまいません。
 寝ながら読むもよし、抱っこして読むのもよし、ですが、この時期は対面で読むことはやめて、お互いの体がくっついている姿勢で読み聞かせるのがいいでしょう。
 この時期の親との接触が多ければ多いほど、大きくなってからの親との関係がしっかりしたものになると思います。

2歳から男女の違いで配本は変わる

 「性差」と言うと最近はジェンダーフリーの方々から「男女に区別はない!」「 男色、女色で区別をしてはいけない!」 「女言葉、男言葉の別をなくさないと平等感覚の表現とはならない」・・・など、いろいろ思う方がいることはわかります。でも、現代ではまだまだ男女はべつべつのものです。差は解消しなければならないと思いますが、違いは尊重しなければいけないと思います。すべて「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、無理やり同じにすることは逆に大きな問題をはらむこととなるでしょう。
 この時期の読み聞かせは、その後の読み聞かせ〜読書への重要な基礎です。変化が激しいので、配本をうまく適合させるのが難しいですが、個別に男女の違い、生まれ月などに合わせて組んでいるので、いまのところ順調に推移しています。
 30年前は余計な媒体が入ってこない(アニメ、キャラクターグッズなど)時代だったので、99%の子に効果的に作用していましたが、最近になるにつけ2歳でアニメビデオどっぷりという子も出てきて悪戦苦闘するケースもあります。
 この2歳代の読み聞かせは、物語絵本へ入っていく基礎なので、毎日一定の時間を親子で楽しむ習慣をつける期間にしてください。ここを抑えれば3歳以降の読み聞かせは問題が起きないことでしょう。ぜひ、がんばって時間を取ってください。

Dr.Sawadaの🍓通信

胎児から新生児へ(4) 産声

 胎児の肺は、肺水という液体で満たされています。肺水には、生まれた後、肺の細胞が空気の圧力に押しつぶされないように働く肺サ−ファクタントという物質が混じっています。これは電気的に反発しあう性質で肺胞が潰れるのを防ぐ機能があります。でもすぐに大量の空気が入るのは困ります。産声とは声門の隙間から無理やりに入り込んでくる空気を押し出すときの声です。あの強い大きな産声なしでは入り込んでくる空気に対抗できません。
 こうして、赤ちゃんはしだいに空気の中で酸素を取り込み、炭酸ガスを排出するようになりますが、私たちが何気なく呼吸している動作が、赤ちゃんはまだまだすぐに安全には始められないことを知っておきましょう。 以下は、私の大学小児科の先輩、馬場一雄先生の本の引用です。

「赤ちゃんの産声はハ調のラ」

 馬場先生が、「産声はハ調のラであるというが本当か」という質問を受けたとき、ハ調のラの振動数を調べたのですが、文献がなく、たまたま手元の理科年表に音楽で使われるすべての音の名前と振動数が表示されていたのを見ました。
 そこで、赤ちゃんの産声の振動数を調べてみると、日本人の赤ちゃんは、400ないし500ヘルツであることがわかったのです。
 その中央値、440ヘルツを平均とみなして理科年表と対比してみると、ピアノの鍵盤のほぼ中央であるハ音から始まる1オクターブの中の「ラ」、楽器の調律の基準になる音というところまで、たどり着きました。
 これはNHKの時報にも使われています。ポツ・ポツ・ポツが440Hz、ポ−ンが880?です。この時報の音は、現在も使われています。放送終了時に聴いて確かめてみました。まさに産声の振動数!なのです。
 ちなみにハ調のラ音は蚊も好きのようで、「♪・・・ラー」と歌っていると蚊が寄ってくるそうです。(ニュース一部閲覧)

のらねこブッチーが訪ねた家

 夏休みは時間があるので長編を配本しています。なにか読んで楽しいものはありましたか? その中でもルドルフのシリーズは人気のあるもので、この40年間配本してきました。
 「ルドルフとイッパイアッテナ」は初版が1987年、なんと36年前の本、今回の「ノラネコブッチー」は2020年ですから三作目まで33年経っています。いかに長く読まれてきたかということですね。たしかに何度読んでもおもしろいものはシリーズとしては価値があります。
 この三作目では、まっすぐに進む道でないと迷うブッチーが東京から特急あずさに乗って真っすぐ甲府へ、甲府駅から目指す目的地・武田神社=武田信玄・躑躅が崎居館も駅から真っすぐの場所。そして館前の家にやってきます。その訪ねた家がこの写真のお宅です。門が洒落た和風のお家で、庭に一匹猫がいましたが、ブッチーではなかったです(笑)。以前は、甘味処で茶屋風の御商売をしていました。時折、あんみつを食べに行ったお店でしたが、残念ながら閉業してしまいました。関心のある方は見に来てください。近くに信玄アイスの店はありますから、そこでソフトクリームを買って食べながら見学もおもしろいです。

学習論 ② 合理主義という考え

 前回、功利主義で動いている現代人(世の中も学校も企業も家庭も)のことに触れましたが、これに点を二つ振ると合理主義になります。「こうりしゅぎ」→「ごうりしゅぎ」・・・・二つの点とは、コスパとタイパです。同じようなものですが、SNS全盛の時代ではインフルエンサーになる人のほとんどが合理主義の立場を取っています。
 合理主義と言うとなんとなく感じが良いように思われる方も多いでしょう。
 一見、論理的でスジが通っているように感じますし、物事をスパッと切る感触がいい感じをもたらします。現代の若い人にはとくに受けそうな考え方ですからインフルエンサーは、そういう合理主義を口にするのです。
 こういう人々は、額に汗して働いてお金持ちになった結果、そこから学んだことを言っているわけではありません。ほとんどが博打的に楽に手軽にお金を儲けるタイプです。当然のことながら文化的な視点からの意見、分断された人と人のつなげようというような提案はありません。コスパ、タイパが悪いからです。
 もちろん「学歴」が高い人たちですから多くの日本人は信用したり、納得する傾向があります。「一日は24時間、時間を無駄にしないようにしよう」「より安く手に入れて、より高く売ろう」・・・こういう考えが合理主義者のインフルエンスによって満ち溢れています。

時間泥棒たち

 さて、ここまで言うと懸命な会員の方はミハエル・エンデの「モモ」に登場する時間泥棒が、この合理主義者たちだということに気が付くでしょう。「時間を節約する(タイパ)ことで、豊かになれる」と主張する灰色男の話です。まだまだのんびりしていた1973のドイツの田舎町でエンデは半世紀後の世界にたくさん登場する時間泥棒の出現を言い当てていたのです。時間を貯蓄すれば(生活を忙しくすれば)豊かになれるというものです。つまり、バブルをつくるということですね。実際、いまは合理主義(コンピュータを中心に動く)で経済が動いているため、バブル状態です。節約した時間で、人は無駄な消費の生活を強いられるわけですが、インフレ状態でありながら高いものを買い、消費する・・・余裕がないので他人には何もしないから、人のつながりが切れていき、人々は孤独な「小金持ち」に成り下がるのです。

人のつながりとは、ゆるやかな時間で生まれる

 文章をコスパ、タイパで考えると「来た、見た、食った(笑)」で終わりです。メールを読むのにも「熟読なし。ただ目を通し・既読」では対話にも会話にもなりません。
 〇〇エモンが、いみじくも「挨拶から始まるメールを打つ奴は無視する。仕事ができない人間に決まっている!」といい、「用件だけを書け!」と言っています。鬼の平蔵さんは「要は仕事があれば収入があるわけで、それさえ確保できれば世の中は回る」と公言します。からゆきさんは「私は人に期待しません。期待して裏切られたら落ち込むほうが怖い」と言いました。
 でも、ふつう人は人と会ったらお茶でも飲みながら無駄な時間を過ごすものです。タイパなど考えません。時間泥棒が手配したAIロボットなら、次から次に命令されたプログラム通りに動き回るでしょうけどね。相手には期待から入らないと、まず付き合う最初から嫌になってしまいます。ふつう多くの人は自分がなにかもらったら相手に何か返します。困っている人がいたら助けます。コスパなど考えません。

無駄とヒマがなければ

 で、合理主義者の方々は、効率ばかり考えていて、それで「儲かった、得したという成果」しか見ないのだと思います。これでは親しい友人はもとより、交友、知り合いとのつきあいなどのつながりはまったくタイパ・コスパ無視で、無駄なものになりさがるでしょう。
 いまや管理社会で、人はゆるやかな時間、無駄な人付き合いや会話が必要な時代になっているのに、まだお金のために時間を圧縮する生活が続いています。これでは人は疲れ、ストレスが高まるだけです。人間がそんなに効率だけで動けるわけがありません。自殺や精神病が増えるのはコスパ、タイパの影響以外のなにものでもありません。
 現代はあまりにも合理的な仕事社会でありすぎます。その反動で人は人とお茶したり食事したり、遊びに行ったりするわけです。でもタイパ、コスパが過度になると息抜きのために精神の圧迫から逃れて「熱狂」で自分を解放したくなってきます。

熱狂の危険性

 「熱狂」・・・・これもまた危険な兆候です。いま、多くの人が熱狂したくてウズウズしています。熱狂は一人ではできないので、集団でおこなわれます。このため、熱狂を仕掛けて儲ける人々はスポーツイベント、芸能コンサートなどを企画して熱狂で儲けようとします。
 個人で行う熱狂は飲み会とか宴会ですが、大集団では芸能とスポーツでしょう。熱狂していると多くの人と連帯感を感じるので、お金を払ってでも熱狂に向かいます。でも、熱狂は一時的な「つながり感」しか生みません。スタジアムやコンサート会場から帰るともう孤独な生活。一時的に「自分をごまかす」だけのことです。なにごとも適度が一番なんですが、合理主義の社会ではなかなか、人のつながりをうまく学ぶことができないのです。人とのつながりを学ぶのが学習と教育の目的の一部なら、合理主義は人を孤独にするだけです。上の写真の方々は、みなさんかなり孤独で、お金しか頼るものがないのではないでしょうか。(新聞一部閲覧)

発達に応じた選書(4) どんな成長にもっていくか・・・・

 前回は成長を見て行くうえで基準にするものついて述べましたが、では、基準に沿って何を目指すのかというのが次の課題になります。
 現代の子育てや教育が見失ってしまったものは、その先の到達点なのだと思います。
 現代の教育では、成績が良い人に=高い社会的地位に=裕福な生活人に・・・というのが目標のようになっていて、その先がありません。
 前回、「すぐれた文明は高度な宗教と哲学を持つようになった」と言いましたが、現代にはそういう方向を目指す動きはありません。何でも自由、個人の思いが一番となれば優先されるのは個人も文明も「愛」や「慈悲」や「相互扶助」などを目指すより個人の夢の実現・豊かさの獲得だけになります。そうなれば、最後はぶつかり合いしかありません。
 文明が高度な宗教を持たないと、人間がうまく暮らしていく技術である「倫理」を生み出すことができません。何かしようと生み出す哲学や思想が極端な行動をしないようにコントロールするのが「倫理」です。これはキリスト教でも仏教でも儒教でもイスラム教でも高等宗教はみんな持っています。人の過度な行動を抑制して、長く続くようにあるのが倫理なんです。「殺すなかれ」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」・・・などは宗教が生み出した倫理基準です。長く続いた文明は常にこの倫理で自分を矯正してきたのですが、やはり何でも末期になると倫理を無視する人々が出てくるものです。

教育の目標は?

 一個人で考えても、この倫理は必要でしょう。現代は薄れましたが、例えば、いまから150年以上前は教育の到達目標は「人格」でした。いくら頭が良く、成績も良く、地位が高くて、裕福でも人格が低いと否定されたのです。
 無謀なことはしない、失敗したら責任を取る、相手のことを考える、人とのつながりを大切にする・・・・こういうことが成績や地位の上に「人格」として掲げられていた教育でした。
 いまはどうでしょう。成績や地位が高い人がとんでもない非人間的なことをやって勝ち誇り、他人どころか人間社会全体を危機に陥れることまでしています。欲を?いて、その極まったところで投げ出して、逃げ出して、責任も取らず、ほとぼりが冷めたらまた平気な顔で出てくる。儲けるためならゴミをどこにでも廃棄、自分が上にいたいために下をイジメる。あらゆる罪は水に流して平気でいる・・・・。こういう人たちが実業界でも教育界でも出てきています。
 子育て、教育の目標は失われてしまったわけです。時代遅れかもしれませんが、ゆめやの配本体系は最終的には「まっとうな人」「善い人」を最終目標にするめに配本を組んでいます。年齢に応じて、そういう要素が盛られた本で、そこで先人の知恵を身に着けて、なんとか成長後には高い人格を持ってほしいからです。

人間とは環境に左右される動物

 人は良いものに触れれば良くなります。悪いものに囲まれれば悪くなります。あたりまえといえば、あたりまえのことですが・・・・。
 すでに3歳くらいの子どもでも家庭で親がぞんざいな言葉を使い、叱ることもたしなめることもしない家庭では、言葉も態度も雑な子どもになります。成長すればさらに、そうなるでしょう。人間は環境に影響される動物と言うことです。
 私がブッククラブを始めた年に任天堂のファミコンができて、「ああ、これで日本人の子どもは大変化するな」と思ったのです。そこから急速にゲームやアニメなどのサブカルが猛威を振るい始めました。初めは対抗措置でしたが、いまや日本人どころか人類全体が、そういうVRの影響を受けておかしくなっているように思います。欲でつくられた世界の豊かさはすぐに消えてなくなるものです。鈍感になっていく神経を刺激し続けるのがTVや映画、ま、音楽にもそういう部分はあります。これでもかこれでもかという刺激だけ。TVや映画で子どものころから殺人シーンを5000回も観て大人になる日本人やアメリカ人・・・そのいい例ですね。この辺をもう一度考えたいものですが・・・無理かな。(新聞一部閲覧)



(2023年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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