ブッククラブニュース
令和5年
8月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせについて④2歳前半-1

 大脳の旧皮質の完成期といわれる2歳前半では、1歳代の総まとめ的な現象が起こります。まず、誕生時(旧皮質が発達を始めるころ)にあった母子一体化の意識が、1歳後半までに外の物事を認識し始めることで世界と自分の分離が始まり(これが終了してすぐに自我が生じるのは2歳中ごろ)ます。バラバラに認識されていた事物は、2歳ごろまでに集合概念としてまとまってくるので、このことを念頭に置いた選書も必要となります。
 たとえば、イヌ、ネコ、キリンは「動物」というまとまりに、イチゴ、ミカン、バナナは「果物」という分類に、すべてがバラバラから一つのまとまりとしてわかってくる時期です。
 だから2歳ではこの発達を促すために分類本(分野別に描かれたもの)の絵本を入れます。
 この時期の子どもは、上記のように母子分離が完全でないために、何か見知らぬもの、慣れていないものがあるとすぐに親の背後に隠れたり、快い状態を求めたりする傾向が強い(これも3歳くらいまで続く)ので、安心感を与えることがまず優先されます。これが不足する子は情緒不安定が続いたり、思春期が不安定になると言われています。
 また常時緊張が持続する状態にあると自己肯定感や自己愛などを生み出すことに影響を及ぼすことが多いようなので、この年齢では、なるべく「安心が確認できる場の準備」や「落ち着いた時間」「肯定感を生みだす気持ちを促す選書」が重要でしょうね。これも2歳前半には順次考慮して配本しています。

2歳前半から言語量は増えていく。

 統計の数値は時代によって違うし、統計手法でも変わりますが、たとえ、しゃべらなくても言葉が頭に入っているのはどの子も同じです。また成育環境によっても発達は異なるので、環境や親の係わりの違いなどで平均は把握しにくいのです。一般的には上のような増加が目安となります。いずれにしろ、ものすごい成長です。
 このように2歳児は急速な言語取得が見られるので、前半ではかなり自由に会話できる子も出現します。通常1000語の表現言語を持てば会話はかなり通じますが、2歳でまだ話せないが。頭ではわかっている域に達するのですからこの発達は驚異です。でも、まだ論理的に理解する機能は発達していず、ストーリー性の高いものにはまず反応しなません。しているかに見える子どもでも、母親の読み聞かせの快さや特定の関心対象に目が行っているだけであって展開の激しい物語のスジや高度な論理的帰結に対しての把握は不可能です。単純な繰り返し絵本が物語絵本への導入部になるので、順次配本の中に組み入れています。

発達に応じた選書(3) なにを基準にするか・・・

 本の選書や育児方法では児童心理学とか発達心理学というものが使われますが、国や環境、人種や文化に よって心理(子どもの心理も)や発達のペースも違うので合わせるのがひじょうにむずかしいです。
 選書も育児法も何かに到達するためにやっていくわけですが、現代でもその目的もあいまいで、まだまだ試行錯誤するものも多いわけです。ゆめやの選書は心理学は使っていません。 むずかしく言えば(笑)、ゆめやの選書は歴史形態学という文明や民族の発達・発展のパターンをもとにしています。
 もちろん、うまく発達しなかった文明もあります。長く続くものもあれば、短命で終わる文明もあります。 数学的な能力を信じられないほど持っていながら、チャチなおまじないのような宗教しかなかったので、滅んでしまった文明とか・・・どういうわけか、他と接することがないまま、いつまでも原始社会でいるとか、戦闘能力が高いのに短い間にダメになるとか・・・・こういうものはあまり基準になりませんが、多くの文明の発達の様子は人間の発達パターンに似ているのです。
 で、長く文化を保って、「愛」とか「慈悲」とか「相互扶助」などの高度な考えや宗教を持ち、文字文化で哲学や思想を伝えている、あるいは、つぶしにかかってくる者を撃退する力もある文明を基準に、その発達のパターンをヒトに置き換えてみようとしたのがウチの選書です。
 まあ、人格・思考・体力があるヒトをつくるための一方法というわけですね。
 これについては、神奈川大学の白須康子先生が小樽の児童文化センター(心理学者・河合隼雄先生監修)の選書と私の(山梨子ど も図書館で九回連続講座で示した)選書を比較して分析した紀要があります。読める人は読んでください。 収蔵されている場所は、絵本専門店ゆめや HP→Menu・ブッククラブのご案内→外部からの評価・右の「紀要」をクリック!・・・・

学習論
①功利主義の教育?

 以下は、個人的な考えですが、6月号で書くとお約束した勉強することの意味と考え方を個人的な意見としてシリーズで書かせていただきます。教育論、子育て論は無数にあり、千差万別ですから、同じような考えの人には読んでもらいたいし、そうではない人は読み飛ばしてください。
 いま、子どもたちの親(また子どもの大部分)は、あまり意識はしていないのですが、俗に言う「功利主義」という考え方で教育を見たり、子育てをしたりしています。
 これがどういう主義かというと「相手をダメにしない範囲で自分の幸福を求めて、それぞれが頑張って最大多数の最大幸福を得よう」というものです。もちろん建前ですけど。
 この功利主義という考え方のおおもとは一万円札のおじさんが唱えたもので、早い話、「読み・書き・そろばんができれば幸福になれる」という考えです。ただ、このおじさんは「幸せとは何か」までは言っていませんから「お金だけが幸せをもたらすかどうか」まではわかりません。
 それ以来、この国の教育はこの功利主義を中心にして進んできました。学校では成績主義というパターンになり、序列を競うことで「幸せ」が求められるという思考方式ができてしまいました。いわゆる「いい学校に入って、成績が良くて、いい就職ができればサクセス!」っていう考えですね。この百年ちょっと、おそらく親も子もその考えが刷り込まれた状態で過ごしてきたと思います。江戸時代の身分制への反動と文明開化に乗り遅れまいとした日本人、特に下層にいた商工業者、農民には受けました。子どもに勉強させてお役人にすれば生活が保証されるのですからね。
 いまでも農村部では子どもを学校の先生や国、県、市、郡の役人にすれば子育て成功!という価値観が生き残っています。それがだめなら警察官、消防署員、郵便局員、あるいは農協職員でもいいのです。序列がある組織に入れば「出世」できるという考え方です。過重労働から解放される唯一の抜け道が「功利主義」的生き方だったのです。

百年前の昔と百年後の今

 明治時代は労働が大変で朝から晩まで、御飯もまともに食べられずにコキ使われる状態(殖産興業)が続き、その苦痛から逃げ出すことが「幸福への道」でした。
 だから出世して楽になるために「読み書きそろばん」だったのです。階級が下でも成績がよければコキ使われなくてもすむという思いが強くなって、みんな勉強をしたわけです。前述のように農民でも勉強さえすればエライ役人にでもスグレた先生にでもなんにでもなれるという夢は魅力的な「学問のススメ」でした。
 でも、いまの世の中は飢えも過酷な労働も表面上はありません(笑)。自分が好きなことを職業にして、好きなものに囲まれ、好きな人と交わっているのが「幸福」と思われるようになっています。「自分が好んだもので満ち足りればいい」というのが、現代の「功利主義」です。そうなると「学問ヤメ!」という現象も起きてきます。おもしろおかしく生きればいいわけですから勉強などするのは大変なのでヤメる子も出ます。好きなことをやれればいいじゃん!という結果になります。

好きなことをやる、好きなことだけ勉強する

 ただ。「これが好き!」と言って、それを仕事でできる人がどのくらいいるでしょう。音楽が好きでいろいろなことを学んでも、サッカーや野球が好きで努力しても仕事として一生できる人は千分の一、万分の一いるか、いないか。プロになれる人は「ひとにぎり」でしょうね。
 そのなかでスターになるのは努力も運も素質も人格も全部揃っていなければなりません。だからスーパースターなんですが、確率が低い。でも、学校も世間も夢と希望で煽っています。
 好きなことを仕事にするのが「幸福」なんでしょうが、ほとんどの人が、それとは違う仕事につくのですから、夢や希望から見れば多くは「挫折の人生」になってしまいます。
 ほとんどの仕事は他人が望むことをするものであって、自分の好きなことをやって稼ぐのではありません。やっているうちに好きにならざるをえないのが仕事というものです。
 年収が億というYoutuber、CMの騙し商品で何十億・・・・他人を引っ掛けて儲ける職業は長続きするものではありません。一攫千金の目的でやる「好きなこと」は、つねに詐欺化していきますから、いつまでも続くものではないのです。

強いて勉める

 「勉強」という熟語は「強いて勉める」です。好きではないものも強いて学ぶ、学ばされる。それによって教養の幅も、世の中を見る目も広がってくると思うのです。好きなことばかり学ぶのはあまりまっとうな勉強とは言えないでしょうね。これは読書も同じです。
 嫌なもの手ごわいものも学ばねばなりません。効率よく勉強したものなど、すぐにどこかに消えてしまいます。皆さんは中学受験、高校受験、大学受験とステップbyステップでたくさんの勉強をしてきたと思っているでしょうが、大人になって、どのくらいその知識を使っているでしょう。多くの人は職場の技術、働くのに必要な知識を企業で得てそれで生きているのではないでしょうか。好きなことだけをやっているわけにはいかないのです。
 しかし、嫌でも時間をとって悪戦苦闘しているうちに好きになることもあるし、なれなくてもその分野とつきあううちにより広い世界を見ることもできるようになる人もいます。抽象的な言い方ですが、そういう努力をすれば嫌な人や仕事もこなせるようになるし、意見の異なる人も付き合えるようになります。頭を広げれば、このつながりは財産です。教養の程度で人とのつきあいの質も決まるからです。(8月号新聞一部閲覧)

Dr.Sawadaの🍓通信

胎児から新生児へ(3) 酸素の旅

 人類にかぎりませんが地球上の生物は、酸素がなければ生きていけません。空気は、酸素20%、窒素80%、ヒトは空気を肺に吸い込み、酸素が赤血球のヘモグロビンにくっついて、全身の動脈網を循環します。
 体内で熱を作る必要があると、そこに赤血球から酸素が移されます。宅急便のシステムと似てますね。荷物である赤血球は、この宅急便のネットワークに乗って運ばれ、必要なところに配達されます。
 酸素は肺を通って体内に取り込まれるのですが、肺呼吸せずに酸素を取り込むところが1ケ所だけあります。それが胎児です。
 胎児は、肺で呼吸しません。胎児に届けられる酸素濃度は大気中の酸素濃度20%から減って、正味7%のみ。その代わり、濃度の低い酸素を受け取って利用する働きをする特別な「胎児赤血球」を持っています。新生児として肺で空気中の酸素を吸い込む肺呼吸を始めると、胎児赤血球はすぐに破壊され、壊れた胎児赤血球のヘモグロビンは、新生児の血液に入ります。これが「新生児黄疸(おうだん)」です。
 新生児の肺呼吸では、酸素を取り込む肺胞が空気に潰されないように肺サーファクタントという物質が働きます。これがちゃんと働いてくれないと肺胞が拡がらず、潰れてしまいます(35週以前の早期産では肺サーファクタント量が少なすぎることがあります)。
 生まれた赤ちゃんは、胎盤と胎児を繋ぐ臍帯が不必要になって、肺に血液が流れます。心臓の卵円孔や動脈管がふさがり、肺の血液の流れが間違いなく完成するかどうか、ちゃんとオッパイを飲み、消化、栄養吸収ができるようになるか、循環器、消化管の試運転はうまく成功するかなど、お誕生にはたくさんの関門があります。(ニュース一部閲覧・つづく)

変化する生き方
①来た! 見た! 食った!・・・

 先日、知り合いが福井の恐竜博物館に行ってきたというので「それはいい体験しましたね」と言うとスマホの中のたくさんの写真を見せてくれた。かなりの数の写真だ。いろいろな風景もあるから車での旅行の合間に撮影したものだろう。夏の山、森、川がとても美しい。最近のスマホの写真の鮮明度はすごい。でも、これだけの枚数の写真を撮っていたら、風景も展示物もちゃんと見られないのではないかと思った。聞いていくと、案の定、説明がとぼしい。「ここ、どこだっけ?」「このカフェは福井だったか愛知だったか」である。「どうやって行ったの?」と言うと、車のナビまかせなので、どこを通って行ったかまるでわからないようだった。「安房峠を越えたの?」「北陸道で行ったの?」「帰りはどの道?」・・・といろいろ聞いたが、よくわからないようでけっきょく、シーザー並みの「来た!見た!食った!」で終わるという簡潔な旅行である。最近の若い人は全部計画はスマホで立て、食べるところも見るところも泊るところもデジタル管理のようだ。とにかく行動を記録するために写真を撮る。できれば動画も取る。だが紀行文は残さない。どこに行って、何という店かも曖昧になるが、写真さえあれば、「ここ、ここ!ここで食べたよね。」「ここで子どもと遊んだよね。」「ここは凄かったよね。」・・・・などということができるから、まずは写真を撮っておくということだろう。
 とにかくSNSを見ていると、まさに行った先の写真が無数にアップされている。見たよ、来たよ、食べたよ、泊ったよ、である。行動的と言えば行動的、行き当たりばったりと言えば行き当たりばったり。まあ、それでもおもしろい記憶は残るのだろう。

ある実験

 さて、心理学者のリンダ・ヘンケルが行ったおもしろい実験がある。
 博物館のツアーに学生を参加させ、たんに見学だけしていくか、写真を撮るかの二つの方法でいくつかの展示品を覚えておくよう指示を与えたというわけだ。
 翌日、指定した展示品に関する記憶を調べると、写真を撮影していた学生の方が、見学だけしていた学生に比べて、対象物に関する認識が正確さを欠いていたという。撮影する分、「認識度」または「参加度」の低下が起きたというのである。
 ヘンケルは、この現象を「写真撮影減殺効果」と名付けた。
 どういうことかというと、「物事を覚えておくために技術の力に頼り、その出来事をカメラなどデジタル機器で記録するので、結局のところ自分自身で積極的に参加しようとする必要がなくなってしまい、経験したことをしっかり覚えておこうとしてもなかなかできなくなる現象が起こる。」というわけだ。つまり「残された写真があるという認識が観察と記憶にマイナスの効果を与えている」というわけである。ヘンケルは「こうした結果は『心の眼』と『カメラの眼』が同じではないことを示している」と見たわけである。
 写真は何かを記憶する助けにはなるが、それはじっくり時間をかけて鑑賞したり、見直した場合のみで、写真を過剰に撮影すると鑑賞がおろそかになる可能性が高まるということである。

多すぎるとカオスに向かう

 ヘンケルは、「思い出のためにデジタル写真を撮っても量が多すぎ、それを整理しなければ、多くの人は写真を見直したり、思い出す気もなくなる」ということが調査結果から見て取れたという。
 べつに写真に限らず、収集物が増えれば一個人の頭では整理がつかなくなるのは蒐集の常である。写真を撮ってはいけないいけないということではなく、記憶にとどめるには、写真を撮りためることよりも、撮った写真を眼にする機会を持つ必要があるのだ。
 「人々は何かというとすぐにカメラを取り出しては、ほとんど何も考えずにシャッターを切っている。目の前で起きていることを捉え損ねるほどだ」と言う。これはその通りだと思う。フェイスブックやツイッターといったソーシャルネットワークで瞬時に写真を共有することに慣れている今の人々にとって重要な指摘だと思うのだが、当然、99%現代人は「来た、見た、食った」状態になるだろう。
 もはや、ここまで来た文明が、まっとうな方向に行くわけがない。どこかで大混乱が起きて、収拾がつかなくなるだろう。そういう中で、現代の子どもたちは育ち、なにがなんだかわからないまま、カオスの中で流されていくというわけだ。
 おそらく何を言っても、何をしても、この変化は止められない。脳は周囲の現実をまとめることができなくなり、押し流されるだけとなる。まとまっていくのは数十年かかるだろう。そのとき、まともに生き残るために何をすべきか、それを考えるのが現代の子育てになっているというわけだ。(新聞・一部閲覧)



(2023年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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