ブッククラブニュース
令和5年
6月号(発達年齢ブッククラブ)

2023年6月と7月の予定

定休日は日曜、月曜、祝祭日です。
6月は定休日以外休業日はありません。
7月の休業日は海の日ですが月曜なので休業日です。
 (いずれもいつもどおりの営業です)
 時間外受け取りは事前にお電話ください。
 外出していないかぎりOKです。また前日のご連絡なら在店します。
通常日の営業時間は午前10時30分〜午後6時30分
 受け取りの方で午後6時半以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。たいてい在店していますので店を開けます。ご遠慮なく。

終わりの始まり?

 今年の3月末から6月の初旬までの3か月間は、これまでにない忙しい春になりました。 日中は接客などがあるのですが、以前に比べてウイークディは来客数は減っているので、そうは忙しくありません。ただ年度替えのときは、卒業や入学の会員が顔見世に寄ったりしますから、毎年、この時期は忙しい感じがします。でもそれも四月初めまで。
 ところが、今年は例年ならGWで終わる配本プログラムの調整が五月末までかかりました、このため高学年以上の方の変更にかなりの遅れが出てしまい、ほんとうに申し訳ありません。
 原因はなにか!?  「中学年で配本のグレードを下げてほしい」という変更の要望がかなりの数あったからです。ごく一部、小2でもありましたが、多くが3年、4年でした。メールで相談しながらなので、プログラムは一日では作れません。ほぼ2ケ月間、毎日数時間の作業をして寝るのは午前3時〜4時で、こんな春は初めてでした。いわば忙殺状態・・・・。

変更の原因

 会員にはまだ低学年の方も幼児の方もおられます。読めない子にならないように今後の参考のためにも記します。
 「一人読みがうまくできない」「字が小さいものは読まない」「厚い本に手が出ない」「好みが偏ってきて特定のものでないと読まなくなっている」「クラスで流行っているものは読むが配本はなかなか進まない」「長文が読めない!」中学年で激増の非読現象がこれなのです。
 まだ、この子らは、少しは読めるほうなので状況をお聞きして、グレードを低くしたりします。ところが、数名でしたが「youtubeにハマってしまって配本はまったく積読状態」「パラパラ開いて終わり」という相談がありました。聞いていると、もはや配本レベルの本は手にできないで、読むのはマンガくらいなもの、ゲーム三昧、タブレットでのyoutube視聴三昧という会員もいて、「これはもう配本を打ち切ったほうがいいです。」と伝えてしまいました。
 コロナ禍で加速した本筋から離れた趣味、学校でのデジタル化による影響が強いと感じました。高学年ではわずかになりますが、「ライトノベルにハマって配本を読み切れない」「友だちとのショッピングなど町遊びが多くなり好みが変わった」などが理由でしたが、この傾向を学校や教育機関はどう見ているのでしょう。

親が忙しすぎ?

 背景には、親世代の労働形態があります。保育園の事務長さんが来て話してくれます。「保育が変わった! 朝7時半に連れて来て、夜7時過ぎまで0〜3歳児を預かるんですよ。家に帰れば入浴・食事・就寝しかないでしょう。どういう子になるのか!」「卒園した子を預かる学童までやっているんです。子どもも親と接点が減ってどうなることか。みんなゲームやYoutubeで時間を潰してますよ。」・・・これでは、なにをしてもだめでしょう。読み聞かせもまともにできませんね。字を教えて自分で読むようにさせても対象の本はどんどんレベル低下するでしょう。この結果、クラスで流行るのは劣悪な漫画やゲーム、ライトノベル・・・これが友人間の共通の話題です。
 かつて、2,30年前では親の読み聞かせがあたりまえだったのが、いまやほとんどない。そういう子が、一人読みの時期に来て読めなくなるのは当然といえば当然かもしれません。
 働くのに忙しすぎて、読み聞かせをする時間がなければ、子どもが本に向かうことはありえません。これが、親が子どもに向き合わなかった結果になるのでしょう。ここまで来ると家庭システムの改善や方向変換はむずかしいこととなります。
 読書力の2極分化と言いましたが、2,30年前に比べて家庭間格差が大きくなってきたということでもあります。家庭環境と親の価値観の違いで、わずか10歳足らずで、大差の付く結果がでてしまうというのも怖いものがあります。かつてはなかった社会現象が原因になっている「読書離れ」、誰がこんな時代にしたのでしょう。低学年の皆さん! 読めなくならないように心してください。あなたがたが、この次の時代を生きるのですからね!(6月号ニュース一部閲覧)

壊れてくるとき・・・

 思うに、こういう社会の仕組みになったのは、上の方の賢い人が、かなり前から「人口減や国力の不足に対応するために女性を労働力にしようと考えていた」のではないでしょうか。
 その方法のひとつとして早くからテレビCMなどの広告媒体を通して豊かさを見せつけます。「いい生活をしたかったら働け!」ですね。そして、ローンとかクレジットという方法で先に豊かさ手に入れさせる。すると、さらに稼がなくてはならなくなる。旦那の給料だけでは足りない。消費対象を多くすればするほど、女性が家庭を捨てて出て行かねばならないパターンになっていきます。はじめはパート、でもまだ労働力は足りない。フルタイム以上がほしい。これをうまくやるにはどうするか。ジェンダーフリー教育で煽って「働くのは女性の権利」とか「安心して0歳から子どもを預けられる」という仕組みを宣伝しますね。女性を夫の下に置いて従属させたい家制度推進の勢力にとってはおもしろくないことなのでしょうが、国力減衰となると背に腹は代えられません。だから女性が外で働いて、子どもは社会が育てるという体制をつくるわけです。こういうことを推進する役目を無意識に学校や企業が担ってきたのではないでしょうか。男女雇用機会均等法でとりあえずは、口を濁して・・・・。
 私は旧態依然の明治の家制度に女性をしばりつけ、子は母が見るべきだと言っているのではありません。子は親が育てるのがあたりまえで、世の中を「女性が忙しく働く殖産興業の時代に逆戻りさせて家庭を壊してはいけない」と言っているのです。なぜジェンダーフリーを唱える人は産前産後休暇を3年なり5年取る要求を突きつけないのでしょう。女性にも働く権利はあるとは思いますが、それが親子関係を崩すならそんな権利は「行使しないほうがいい」と思うのです。

江戸時代のほうが・・・

 外部に子育てをまかせる・・・これでは子どもは荒れてきます。荒れないまでも孤独になったり、愛情不足による異常をおこしたりします。江戸時代は女性が働かなかったわけではありません。さまざまな形で今以上に働いていました。家庭も持っていました。父親も子どもと係わっていました。日本ではこの150年、江戸時代のことを旧弊で封建的で武士がいばりくさっていたという刷り込みが教科書や本、時代劇があふれています。ところが、幕末に日本に来た外国人の日本人観、あるいは日本の庶民の見方は真逆なのです。日本人が世界に類例のない礼儀正しさ・真面目さ、人情の厚さ、そして働き者と異口同音で言っているのですよ。ハリスが描いた江戸庶民の子ども観などまったく愛情あふれた家庭なのです。子どもの面倒を見る父、家事と仕事にいそしむ母。
 それを壊してしまったのは明治政府だったんじゃないでしょうか。労働力確保=国力維持の時代に、女性はわずかな賃金で過酷な労働下におかれ、子どもは学校で兵士と銃後の妻にさせられたとしか思えません。外部に子育てや労働が任されると悪い世の中になる例がこれです。
 現代では、それを引き継いだ形が、読み聞かせもママではなく保育士さん・・・食事は外食というように何もかもが外部委託・・・委託となればまたお金が必要になるので、さらに働かねばならない・・・・それでも足りなくなるので子ども予算を組んで、さらに働かせようとする。こういう悪循環の仕組みを考えていた人がいると思うのです。専業主婦に向かって周囲が「いいわね、お金がある人は・・・」というふうに持って行けば、子育てだけをしている人も囲い込んで労働に追い込めるわけですから。
 外働き外部依存で子育てがうまく行かないならば、あるいは子どもが非行に走れば・・・それはけっきょく自己責任で、外部の責任は解除ですからね。後ろに、何かいるんじゃないかと思えるほどの政治になってますよね。(6月ニュース一部閲覧)

どうでもいい情報ばかり・・・

 コロナが終わりつつある最近、なんだか世の中が元に戻らない感じがします。どんどん忙しくなる、日常が何がなんだかわからなくなっている、妙な不安感、どことなく追われているような・・・そういうのを頭のどこかで感じていませんか? 私だけでしょうか。みなさんの生活は、もとに戻って落ち着いたものになっていますか!?
 さほど心配しなくてもすんだ20年前、30年前の日常が、いまは無いように思えます。
 原因は?と考えると、どうも「どうでもいい情報」が、これでもかと目や耳から入ってくるので、だんだん私たちの頭に余裕がなくなってきているのかもしれません。ネット情報が飛び交う。そのほとんどは広告で、広告を読ませるために刺激的な記事がある状態です。「買え!」「買え!」「買え!」。
 パソコンを開くとドッとニュース項目が・・・、それはマイナンバーカードの不具合から名も知らぬ芸能人の離婚、打ち上げられた人工衛星が落ちてくる警報、たかが震度3か4くらいで流される緊急地震速報。それで私は検索窓しかないgoogleをスタート画面にしました。みなさんもスマホを触れば、十年前には流れもしなかった遠い国のスポーツ対戦の結果や半グレ議員の逮捕記事。どうでもいい情報です。

危険を避けるために

 人類は太古の昔から情報を集める習性を身に着けてきたのですが、ここまでくると、得る情報の多くがクダラナイものばかりではないかと思うのです。どうしたら情報集めから遠ざかることができるか。
 以前から、その方法を考えていたのでスマホは最初から持ちませんでした。テレビは観るのをやめました。テレビ報道はどうも真実を追求していない。バラエティと食い物番組だけではおもしろくもない。スマホから教わるものはない。
 それでも人間の習性はくだらぬものに刺激されるわけで、「この芸人の出身地は?」 「配偶者は?」 「何歳?」 「どこの店で食える?」「値段は?」・・・となって際限なくスーイスイと触ることとなります。どうでもいいことなのに・・・・やめられない、とまらない。これも大昔にインプットされた悲しい人間の本能です。フェイクニュースも多い。必ず心や体に大きく悪い影響は出るでしょう。デジタルへののめり込みや情報に攪乱されて異常になる現象は、もう出ています。頭に来れば鉄砲をぶっ放したり、金が欲しければ強盗の闇バイトに走ったり・・・・。
 クロームブックを配って、たいして時間も経たないのに、youtube依存、ゲーム依存の子どもが山ほど出てきているのも「のめり込む本能」でしょう。子ども用の精神病治療施設が必要だなどという声もチラホラ聞こえてきます。
 受信者であり発信者でもあるわれわれ人類は、膨大な情報洪水のなかで何が重要か、どれが正しいかもわからなくなっていますよね。テレワークの名のもとにどうでもいい(悪影響の方が多い)ものが垂れ流され、受信者側はほんとか嘘か、たしかめることもできずに時間だけが過ぎる。人はバーチャルではなく現実を生きねばならないのに・・・・どんどん押し流されて。

識者とか教育者はいつも

 識者は「ネットを悪影響なしに使いこなすことが人類の課題だ」などと偉そうに言いますが、人間がネット依存から離れてきちんと使いこなすことなどできるわけがないのです! そんなことは原子力を知った人類が核爆弾や原発を悪影響なしに使いこなせるかどうかを考えればわかることですが・・・。
 教育者は誤ったもの、異常が生まれるものでも子どもたちにいつも「夢と希望」を説くことで、現実路線に唯唯諾諾です。「このましくないが、乗り越えることによって人は強くなれる」とか「夢を持たねば生きられない」とか・・・。
 忙しいのに情報攻めされる親たち・・・・楽で便利に逃げたくて絵本をスマホのyoutubeで読み流す親にはなりたくないものですが、そういう親も出てきている。いつか子どもに復讐されるでしょう。自業自得でしょうけどね。まったく、日本人はどうでもいいものに傾きすぎます。
 あと少しでまぶしい夏がやってくる。「どうでもいいものを捨てて子どもといっしょに自然を体験してみましょう」、と私が言ってもその旅行計画をみなさんがネットでググったのでは、これはもう(笑)。(6月号新聞一部閲覧)

千里眼を持つ人

 もう古語になっていて若い世代は知らない単語だと思うが、子どものころに読んだ古典冒険小説に「千里眼」という言葉があった。時空の先を見ることができる力を持つ人のこと。一時間後のこともわからない私には魅力的なヒーローだった。「千里眼」というと現代の若者は「千里? 一里が4kmだから4000km先が見える人? そんなわけねえじゃん!」というかもしれないが、千里はほぼ無限の時空間距離「虎は千里を走る」の千里である。つまり見えないくらい先の世界を見ることができる人・・・・これを千里眼という。
 ところが、いろいろ本を読み、映画を観てくると千里眼が架空の存在ではなく実際にいることが分かった。

1968年公開の55年も前の映画・・・

 「2001年宇宙への旅」(S・キューブリック監督)という奇妙なSF映画がある。この映画の冒頭シーンは、BGMに「ツアラツストラかく語りき」(リヒャルト・シュトラウス作曲)が流れ、類人猿たちがモノリスと呼ぶ長方形の板に触る場面がある。このBGMが聞きなれた有名な「ツアラツストラかく語りき」であることも暗示的だ。ツアラツストラは、拝火教であるゾロアスター教の教祖・ゾロアスターのドイツ語読み。彼は予言者なのだ。
 知っている人は知っているが(笑)、これは有名な哲学者フりードリッヒ・ニーチェの同名著書のタイトルでもある。「Also sprach Zarathustra(ツァラツストラはこう話した)」・・・予言者ツアラツストラが「永劫回帰」の原理を直観して、行動を始めるという哲学的物語でもある。
 これは散歩中のニーチェが突然、「永劫回帰」の思想の啓示を受けたことによって書きはじめられた話らしい。その考え方が熟成し『ツァラトゥストラはこう語った』という表現形式を得たのは二年後のことだが、生まれては死に、どんどん世界は循環する・・・あらゆるものが、それは生物も自然も宇宙もどんなものも永劫回帰するというテーマである。生まれたものは生きるために戦い、そして死んではいくが、またそれを繰り返す後継を作り出す。深い内容なのだ。

モノリスはAIなのか?

 その音楽が、この映画の冒頭に流れるのである。予言? ではモノリスとはなにか? それはわからない。しかし、モノリスから啓示?を受けたサルどもは、その後、殺戮と破壊を覚えて、分捕り合いの戦いを始める。
 この映画を半世紀後にあらためて観ておどろくのは、モノリスがまさにスマホそのものの形状をしていることである。
 さらに、この映画では、宇宙飛行士たちが頼りにしている指示を発信するAIコンピュータのHALLが狂い始める。 飛行士たちの思惑とは違う指令や拒否を繰り返し始める。狂ったのか、それとも初めからそういうことがインプットされていたのかわからない。これもまた現代を暗示するすごい発想としか思えない。まさにスタンリー・キューブリックは千里眼なのだ。

火の鳥・未来編

 手塚治虫も「火の鳥」(1968年刊)で、西暦3404年の死にかかった地球を描いた。しかし、それはまるで現代の世界を見ているかのような話である。
 西暦3400年代の地球は、それぞれの都市がメガロポリス化されて都市国家になっているが、地球が連合してひとつの世界になっているわけではない。相変わらずせめぎ合い、しのぎあいが行われている。
 日本とおぼしきメガロポリスは「ヤマト」であり、ロシアとおぼしきメガロポリスはレングードだ。ここでは食糧問題、自然破壊問題が山積みで、ウクライナ戦争に象徴される国家間問題が難民や亡命を生んでいる世界である。いわば地球の終末期と言ってもさしつかえない。つまり科学が進み過ぎた結果、生きにくい社会が出現し、すべての対策をAIに頼ることになってきたわけである。
 この死にかけた地球で我が物顔に指令を出すのは、質問すると政治的な判断をしてくれるAIコンピューター、これはまさにChat GPTではないか。その指令は絶対で、為政者や国民にAIの判断による強引な指示をし始めるのである。
 手塚治虫という天才千里眼が描く未来は、夢と希望に満ちたものではなく、AIにすべてをゆだねた人間社会の悲しみである。

映画「エイリアン」

 リドリー・スコット監督のヒットシリーズ・映画「エイリアン」でもまたAIが登場する。
 これも40年以上前の映画だから初期のパソコンが出始めたころで一般では機械語やフォートランなどの言語で動くもの、まだBasic程度のもので、コンピューター言語は未発達だった時代だ。
 なんどもテレビで放映されているから多くの方は知っていると思うが、あの凶暴な宇宙生物エイリアンが船内に入り込む退治劇である。
 次々に仲間を殺されていく状態でシガニーウイーバー扮する女主人公が怪物対策をマザー・コンピューターに聞く場面がある。左のコンピューター室で質問を投げかけると、返ってきた答えは「捕獲・管理せよ」だ。これは、このコンピューターに宇宙船会社の方針がインプットされていて、「会社の営利のためにエイリアンを捕獲するように指示してくる(だから題名が営利案?笑)のである。結果、ご承知のおそろしい悲劇と女主人公の果敢な戦いが引き起こされるのだ。ここでもAIは、だれかの利害によって動くものとしてとらえられている。40年前の千里眼といえよう。

本の中の千里眼は一歩先を行く

 しかし、千里眼は小説のほうが一歩先を行っている。
 ジョージ・オーウェルの「1984」、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」は、60年、70年以上も前に書かれたものだ。
 「華氏451度」は、ヒトラーの焚書から十年も経たないうちに書かれた近未来SF。焚書の歴史は秦の始皇帝からの着想ではないにしても、ここで描かれる焚書社会は情報が全て「テレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりしか認められない社会」である。そこでは漫画以外の本の所持が禁止されている。これもまさに現代そのものではないか。
 始皇帝の焚書にしてもヒトラーの焚書にしても自分の政治形式に不都合な思想を述べた本を焼き捨てるものであった。文字通り「焚書坑儒」。しかし、現代は、大衆の方から本を敬遠する「焚書」である。このほうがはるかに怖い。
 オーウェルの「1984」は第二次大戦直後に書かれたので、もう80年近く前の小説だが、国民を監視する仕組みや広告・宣伝で民衆を洗脳する社会が描かれている。まさにこれも現代そのものではないか。

星新一も千里眼!!

 西洋ばかりではない。日本だって星新一がマイナンバーや生体認証の出現を半世紀も前に書いている。
 「ひとにぎりの未来」所収の「番号をどうぞ」ではマイナンバーカード、「かぼちゃの馬車」所収の「確認」では生体認証が描かれている。コンピューターがまだ日本社会で一般化しない50年も前に書かれた話なのだから、すごい。
 ここまで、いくつかの例を挙げてきたが、この千里眼たちの描いた未来は、いずれも危険を予言したものである。とくに管理監視社会・コンピューターへの不信が際立っている。
 政治家や先生たちが言うような手厚いサービスが早く受けられる国民総背番号や安全のための監視体制というものは、国民が思うほど夢と希望に満ち溢れたものではない。十里先も見えない無能な私たちは、そういうことを映画や本で知るだけだが、知っておく必要はあるだろう。さあ、知ってからどういう未来をつくればいいのか。いま、われわれが考える時が来ている。(6月号増頁一部閲覧)



(2023年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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