ブッククラブニュース
令和4年
11月号新聞一部閲覧 追加分

秋は選書のシーズン

 来年度の就学児の選書体系をつくりはじめるのはいつも11月である。年末年始は忙しいから。しかし通常の仕事の合間だからなかなかはかどらない。
 私の選書の視点はかなり独特というか、独善(笑)というか、一般から見れば児童書の選書の基準が常識的ではない。基本は、子どもの発達にどう合わせていくかだから、合ったものを選び出すのだが、この軽佻浮薄の時代に私のお眼鏡にかなう本は年に数冊しかないように感じている。
 ひとつは、世の流れに阿(おもね)って、いつもの、いわば曲作阿世(笑)がドカドカ出版されていること・・・・版元も売らねばならぬから客に媚びる・・・媚びれば愚作もたくさん出てくる。水は低きに流れる・・・・。

新作の選書はむずかしい

 たとえばの話。山梨県の作家で言えば、その代表は林真理子先生だが、この人の本は読めば読むほど私にとっては嫌味な本だ。底の浅い受け狙いを感じるものばかりで次を読もうという気が萎えてしまう。
 児童書ではないから選ばなくてすむが、こういう本が売れて読まれているのは世も末だと個人的には思う。
 児童書で言えば、辻村深月先生だが、この人は多作だ。辻村先生の本に感動したという人がいたので、「では!」と思って読んでみた。
 さて何を選ぼうかと、まず「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」を読んで唖然。なんだこりゃあ〜!
 現代社会の子どもの悲劇的な状況を描き出して、そこで救済や寄り添いを見せる筋立てが妙に癇に障る。悩み苦しむ子は引き寄せられるだろうな、と思う。主人公はみな現代社会の暗い影の中にいる中高校生、若者、そこに殺人が絡み、心理的な事件が起き・・・「みんな病気だよ!こりゃ!」・・・安っぽいテレビドラマにはうってつけの作品群となることは請け合いだが、趣味が違えば「名作」になるのかもしれない。
 「かがみの孤城」は、まさに展開がこの極致で、作者の「問題の渦中にいる弱者の若者」に寄り添う気持ちが異様に露出してくるので鼻持ちならない。悩みを抱えた若者には、「わかってくれてる文学」という印象もあるかもしれないが・・・・・。そういう感じもあるのか、世間の評価はけっこう「絶賛」である。この時代も落ちたものだといわざるをえない。この手の社会的問題は、「人間のどうしようもなさや悪辣な時代精神の批判を描いてから展開せよ」と言いたくなる。
 この先生の作品は、映画化もされたが、「ソロモンの偽証」を続編まで観に行った私としては「太陽の座る場所」など「なんだかなぁ」を越えて「金、返せ!!」だった(笑)。
 まあ、これは小学生に入れるような作品ではないので、選ぶ対象から外せるが、底の浅い親や司書はからめとられて大絶賛であろう。なにしろ「弱者を救う」というのは大向こうの拍手喝采は確実だからね。

選書の基準にするものは何か?

 さて、小学生向きは、さらになかなか選ぶのが難しい。
 どうせ小さな絵本屋のじいさんが勝手に(笑)選ぶのだから基準に権威も品格もないが、なるべく上記の弱者に媚びて救おうとする姿勢のものは排して、一応、古典的な児童文学の本質を盛ったもの、あるいはその路線に適合しそうな本を選んでいる。だから、頭が古いじいさんが選ぶものはどこまでも古典が選書の基本である。
 たとえば日本では芥川の3部作が児童文学の最初かもしれないが、これは「杜子春」―(金を追い求めた青年が挫折して心理的に辛酸をなめ、心の安寧を自分から求める)、「トロッコ」―(見事なまでの少年心理を読者にドカンと与えるさわやかさ)、「蜘蛛の糸」―(まあ、これを読んだら悪いことはできないよなと思うようになる人間のサガへの皮肉)・・・さすがは天才、たった三作だが、後世に残った児童文学だろう。
 新美南吉は「おじいさんのランプ」では時代の変化で葛藤する人の心と時代に乗らねばならない悲しさを描く。「ごんぎつね」はもはや世界の不条理そのものがテーマだ。
 小川未明は「野ばら」で戦争から来る空虚な厭世観を描き、「赤い蝋燭と人魚」では、低レベルな人間の仕打ちを怒る気持ちが怨念のようなものを帯びて強く迫ってくる。浜田広介は人間の冷たさを越えて、なんとかそこから脱したい気持ちを「泣いた赤鬼」などで描く。これらはいまだに配本体系の一部に選書されているが・・・・。
 しかし、こういう古典の児童文学は古田足日や鳥越信が否定して、明るい絵本と童話の時代を招来した。その結果、人間の本質的なことは薄められ、人々は世の中の悪に目が行かないようになり、能天気なお話ものばかりが横行することとなった。ここはひとつ新作を選書する場合でも、テーマが社会的問題を比喩している本を選んでいかねばならないだろう。そうしなければ、子どもたちの頭はお花畑になってしまうと思う。楽しいことしか考えない頭はやがて目の前に起こる楽しくないものを見据えることができなくなるだろう。必ず、いまの裕福でバーチャルな時代は終わるのだから、いつまでも夢を見て希望だけで生きていくことはできなくなる。
 では、例えばどういう本を選ぶか・・・むずかしいが例を挙げてみよう。

ためいきゼリー・・・と・・・?

 絵本から本格的な児童文学にいきなり行けないので、中間に絵童話(そんなジャンル名があるかどうかは知らないが)を入れている。まあ、小学校1年から3年くらいまでの間である・・・・。一人読みに移行する重要な時期だが、ここに高度な読書を阻む「かいけつゾロリ」「おしり探偵」などの最悪本が人気本として居並ぶから困ったものである。
 今年選書した新年度選書の本は、数冊あるが、「なるほど!これはいいな」と思ったのは「おなかをすかせたドラゴンとためいきゼリー」という長いタイトルの絵童話だった。
 版元の宣伝キャプションには・・・・「夜、ネコの街のはずれにある公園に、大きな看板を背負った黒ネコがあらわれました。看板には『ためいきありませんか? ためいき一つにつき、ハッピーになる、黒ネコ特製水アメ一つ差し上げます』と書いてありました。黒ネコの水アメは、ふしぎな水アメ。なめたネコはみんな、いっしゅん、目をかがやかせます。だけど、あるとき・・・」・・・・ためいきを吸ってハッピーエネルギーをつくりだす、ちょっと変わったドラゴンと友だちの黒ネコが、ネコの街を生まれ変らせていくストーリー!ですが、これはなんだか、おもしろい・・・・!!
 いまや、世界は働きすぎによる悩みや社会的な不安の中で、まさに閉塞状態にあるわけで、絶望まで行かない人は、ため息をつきながら生きているといっても過言ではない状態。私も世間を見ながらため息をつくことが多いのです。そこから脱するにはどうしたらいいか・・・・これを上は哲学者から下は社会奉仕をする人々までどう解決するか思案しているわけです。でも、なかなか答えが出ない。
 かつて、ミハエル・エンデが「モモ」で、脱工業化社会で起こる消費社会の「時間喪失(みんながため息をつく時代)」を描き、やがて「はてしない物語」で勇気(ハッピーエネルギー)と想像力を駆使して新しい世界をつくる方向を示唆したわけですが、なかなか日本ではそうした文学運動にまで高まっていないのです。夢と希望を標榜するだけの児童文学ではなおさら・・・・ね。
 さて、「おかかをすかせた・・・」を読みながら、ふとネコの町にある失望や絶望を作者はどうとらえ、どう見ていくかに関心が高まりました。もちろん、端的な答えなどあるわけもなく、もしあるとするならば悪徳新興宗教の教義でしかないのですが、ここにはなにやら失望・絶望を越えていく方法があるのではないかという予感を読後に感じたのも事実です。
 この作者は、かつて、絶対相いれない者同士(ねこと魚)が、仲良くなれるのではないか問題提起をした、「星ねこさんのおはなし」で広介童話賞を取った人です。いろいろな人が交錯するグローバル社会を見据えた作品だと思いました。このむずかしい問題を読者である子どもが考え、ほんとうの結論は読み手の子ども自身が勇気をふるって「どうしていくか」を考え、実行する。つまり問題解決は、読者の仕事だと暗示しているわけです・・・・こういう本は、やはりこの時代必要です。
 で、来年の配本体系には、この「ためいきゼリー」の本を一押しで入れることにしました。さて、居並ぶ名作の中で、どこまで健闘するか私にも楽しみな一冊でもあります。

気をつけ! 例! 直れ!
③やっぱり無理か!

 依存症の話を旧会員の方にしていると、「これは、もう、いくら言っても無理よね。」と、半分アキラメ顔で言われました。
 「だって、脳や精神や生活に大きな影響があると言っても、大人も学校も国も進めているわけだから、子どもにやめなさい!と言って聞くわけがないものね。」
 「自分の子に影響が出ないように、変な大人にならないよう祈るしかないんですよ。」、
 「大人も依存の問題とか事件になることなんか少しも考えなくなってるし。」・・・
 たしかに、みんなが「戦争だ! 行けぇ!」と言っている時代に、「いや平和が大切、戦争はやめよう!」とは言いにくい。
 世の中の流れに逆らっていいことがないとしたら、子どもにも「早くスマホに慣れなさい!」「うまく使ったほうが勝ちだよ。」と言った方が適切とも思える。
 なるほど、受け入れて合理的に生きていく考え方も昔からある。否定はできない。映画「スリラー」ではないが、みんながゾンビになる時代なら、噛んでもらってこちらもゾンビになったほうがいい、しかし、そんな無意識な幸せというのもなんだかなぁ!である。だれぞ、世の流れに棹をさす人間はいないのかと思う。

依存症への警告は届かない

 ネットを見ていると当たり前のことだが、あまり依存症やゲーム障害、SNSの弊害についての記事はない。そりゃそうだ、ネットは依存にさせてこそ自分たちが儲かるわけだから、なるべくマイナスのことは報道しない。
 一方、新聞では細かく報道されることもあるが、いま若者層や中年層は新聞など読まない。青少年のスマホ依存が累計で100万人。手放すと禁断症状が出る者が十数万人では、影響はかなり深刻なのだが、イケイケドンドンが止まらない。LINE漬け、既読・返信中毒の少年少女はどのくらいいるのだろう。
 そんなことを思っていたら、現会員の方で、「ママ友で、信じられないほどの速さで既読・返信してくる人がいる」と話してくれた人がいた。大人も「病、膏肓(こうもう)に入る(病気がひどくなり、治療しようもない状態)」らしい。
 そうなると麻痺が起こるらしく、頭を刺激するためにスポーツや芸能にひたすら熱狂するだけの毎日となってしまうのではないか。こういう状態を客観的に見る人は少ないようだ。

孤立しているのもわからない日本人

 ドイツの哲学者・マルクス・ガブリエルは「日本は最もデジタル・インフラに批判の少ない国で完全にスマホに支配されている。コミュニケーションの仕方も特異だ・・・」と言っている。「日本人が共同体を重んじるというのはウソで、先進国では日本人がもっとも孤立している」ともいう。
 その原因は、つながっているのが家族・友人・同僚だけで、その外側の人間とのコミュニケーションがひじょうに少ないことを挙げている。FacebookやTwitterでの、顔も合わせたことのない知り合いなど希薄な人間関係で、それも孤立の原因らしい。
 ドイツ人は個を重んじると言われるが、じつは広範囲の人たちとのコミュニケーションは「群れ」で行うらしい。日本人は共同体での「和」を重んじるが、それは建前で対面でのつきあいは避ける傾向にある。このためSNSなどで「つながっている感」を持つ錯覚に陥る人も出る。なるほどわからないでもないが、本当の人間関係ではないわけだ。まともに議論ができる相手をたくさん作らないと意識が孤立するということ。これは危ない。人間関係ができてるつもりで、そうではないから、裏切られた感が出れば究極は秋葉原事件へ直行である。
 どんどんグローバル化が進むと、わかりあえそうもない他者が増えてくるよ。さあ、ここで日本人は変われるかな。子どもたちの世代では変わるかな。やっぱり無理かな、である。

自分で考える力
⑥ 独自性

 あたりまえのことだが、なにか考え出したり、実行したりするうえで大切なのは独自性。物まねや世間で流行っているものに乗るのは、特殊なことでもなければユニークな実行でもない。仕事も流行りすたりがあり、時流に乗れば成功することもある。しかし、その人が考え出した独自なものが魅力を持つわけで、一斉に何かする訓練や学習では、いくら熟練しても画一的なことしかできないのである。
 Z世代というのが注目を集めているが、彼らが考えることの多くが世間一般で行われていること、常識的なプログラムの枠を出ていないものが多い。考え出さずに真似ているだけだからだ。アイディア・・・プログラミングで。なにかする資金・・・すぐにクラウドファンディングである。そのなにかは流行に乗っただけのものだ。たとえばレジャー事業とかカフェ経営とかIT関連塾とか・・・・。昔から「時流に乗るアイディア」というものがあって、一時的には成功するが、緻密な運営力や対応力がないと考えを生かしきれないまま、すぐにポシャってしまうことが多い。だいたい彼らに持続力というものがない。商売は「あきない」というくらいで飽きてしまったら終わり。
 テレビやネットからの単純な思い付きで、昔と違い、お金があるからやれる話で、落語で言えば「親からふんだんに金が入る若旦那の道楽仕事」のようなものである。よく大学生が「町起こしイベント」や「物作り・物売りプロジェクト」などをやる。やるのはけっこうだが、マスコミが持続するか。そのときだけかも考えずに報道するのは問題である。一時的なイベントなど中学生の文化祭でもやっている。
 学生たちは卒業したらコロリと「安心安全な企業」に就職して与えられた仕事をやるだけになることも多いのではないか。「青春時代の思い出づくり」や「その時の思いつき」ではこまるのだが…。
 マスコミの安易な取り上げは、思い付きだけのZ世代を増長させることだけになる無責任さをともなう。
 小節「下町ロケット」では、もともと地道な努力・開発力で、アイディアを得たら最後までフォローして「手間と暇」でロケットを宇宙に飛ばした。考えるのには力と直感が必要で、それを完成するには「まじめな努力と仕事をフォローする力」がないと無理なのである。

時間を取りもどす 
⑤ 長い本が読めなくなった時代

 関誌「こどもとしょかん」の編集者から秋号に「斉藤惇夫さんの『冒険者たち』や『ガンバとカワウソの冒険』がなぜ読まれなくなったか理由を書いてくれ」と言われて寄稿しました。なかなか目に触れない機関誌なので、長い文だが掲げておきます。
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 この作品のことについては、著者ご本人の思いを書いたもの、絵をつけた故・薮内正幸さんの御子息・竜太さんの正幸さんが絵を描いたころの話、児童書店・ナルニア国の川辺陽子さんが、冒頭で名作がすたれないようにロングセラーを期待することを書かれていたのは印象的でした。児童書に関わるものとしては同じ思いですが、いかにせん国を挙げて、学校を挙げて本を読めない方向に向かっているので・・・どうなることか。
 以下、私の「冒険者」への感想です。

「冒険者」が読まれたころ

 「書店から見た『冒険者たち』の50年」というテーマで書くように言われた。これは弱った。書評や読後感想ならともかく、本そのものの推移を書くには世の中の意識の変遷まで触れねばならないから大変なんです。とてもそんな力量はないので、とにかく児童書専門店としてどう扱ってきたかを述べて、あとはみなさんに考えてもらいたいと思います。
 私が店を立ち上げた一九八〇年、『グリックの冒険』はすでに出ていた。発刊後十年。長編を読む力がある子がいた時代だからそういう子には人気があった。続編希望の波が立ったのは当然で、『冒険者たち・ガンバと十五ひきの仲間』『ガンバとカワウソの冒険』が相次いで出たのが、ウチが開業してすぐ。発達・成長に合わせたブッククラブの配本体系を組んでいたので、小学校四年に選書した。当初は大きな反響があったから基本配本に入れていた。「忠太の気持がよくわかる」、「ぼくの町にイタチはいないけれど、こんなことをする動物を見てみたい」というような感想が寄せられたのを覚えている。しかし、バブル期あたりから翳りが出てきた。読めない子が多くなり、基本配本から外して、読める子だけのグレードに棚上げしたのが一九九〇年ごろだった。以後二十数年、「振るわない本」のひとつになっている。
 この原因はいろいろある。ひとつは子どもの周囲で電子媒体の遊びが主流になったことだ。

読まれなくなった原因

 1980年に「ファミコン」が出て、以後ゲームの進化・多様化は恐るべき速さだ。紙媒体でも漫画やアニメが主流になり、短く軽いものが好まれ始めた。その後は、ファッションや芸能・スポーツがテレビやスマホを介して子どもの感じ方や考え方を変えてきた。つまり、自然体験(動・植物と接する機会)が激減したわけだ。
 ご承知のように『グリック〜』『冒険者たち〜』『ガンバ〜』の背景は地形や地理認識から想像しなければならない自然や町の風景が満載である。当然、一九六〇年代育ちの子は幼児期の遊び体験が豊富だから容易に場面を想像できる。冒険心や仲間意識、そして仲間を失う悲しさなど物語のドラマツルギーも十分感じ取れるから、のめり込んだ子も多かった。しかし、1990年以降は刺激的な格闘やハッピーエンド志向が全盛。自然と人間(ここでは動物)のドラマへの感覚は薄れてしまったようだ。子どもたちの環境体験の欠落が、『冒険者たち』を読めなくしたとも言える。また、ページ数の多さに手が出ない子も当然出てくる。
 また映画化すれば、長い本より「手っ取り早い」映像に傾くのは仕方がないことだ。これでは長編児童小説が復活する余地はない。いまや映画を倍速で観る人々が出現しているのだから・・・。

書籍の利益率が低いのに・・・

 次に書店としては、この本の退潮の一原因は版元が岩波書店だからだとも思っている。岩波は書籍の掛け率が高く、原則返本不可が特徴なので書店ではなかなか棚に置きにくい。客注でもない限り取り寄せないだろう。購読者が減れば書店の棚に並ばなくなる。こうなると存在が目に見えなくなるのでさらに売れなくなる悪循環が起こる。これと対照的なものは、『ぼくらの七日間戦争(1985年・角川書店)』だ。これも長いので一時より読まれなくなったとはいえ、読んだ子が他の子に薦めるから何度も継続して読む波が押し寄せ、児童書専門店の棚に置かれる。比較的長い物語で、シリーズも多いが、読む子にとっては手元における本となる。
 ただ、これからの数十年・・・デジタル化は否応なく子どもたち(大人たちも)から想像する楽しさと現実を生きるおもしろさを失わせ、世界をわけのわからないものに変えている。

もう一度大きな変動が必要だ

 この半世紀で絵本から少年少女古典文学まで、前述のような変化が起こっているので、毎年選書にはとても気を使う。30年前には人気があった長編小説がいまはまったく読まれない。
 たしかに名作も古びていくし、新作だからウケるとはいえないものも多い。心に響き、思考力を養えるものをどう組み合わせて読んでいけるようにするか・・・これが「冒険者たち」の時代を知っている児童書に係わる者の喫緊の課題と思えてきた。(新聞・一部閲覧)



(2022年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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