ブッククラブニュース
令和4年
9月号新聞一部閲覧 追加分

配本の意味と読み聞かせ

⑤ 2歳前半

 2歳・・・親から見ても意志が疎通できているのがはっきりわかる年齢である。もちろん言葉が出ない子もいれば、ペラペラと話せる子もいるという個人差はある。ただ、こちらが言うこと(単純な会話内容)はほぼわかっている。このことは1歳後半で顕著になり、関心の対象がどんどん移りながらも観察力や理解力が飛躍的に増しているのが見て取れるからすごい発達だ。
 人類でいえば、無文字文化の時代だが、文字を獲得した時代よりはるかに鋭い目で世界を見ているのだろう。見ているというよりは、世界はほとんど自分と一体で「私(子ども)」と「世界」は一体なのだ。これが、2歳前後になると「自分」は出てくるが、他はほとんど一・二人称の状態で、三人称で世界を見ることはまだできない。

バラバラな言葉をまとめる時期

 しかし、身の回りのものはほとんどわかってくるので、親が言葉遣いで気をつけたいのは物の分類の名。1歳代では、それこそ無差別に物をバラバラに覚えていく。順に物がひとつずつ世界から分離して言葉で認識される。1歳では猫とスイカは物として同じだったが、じょじょに、猫は犬や猿と同じ種類、スイカはカキやモモと同じ種類と言うことがわかってくる。これもすごい発達だ。
 そのまとまりを意識しはじめるのが、だいたい1歳後半。つまり、猫→「けもの・動物」、スイカ→「くだもの・植物」というまとまりでわかっていく段階が2歳前後だ。この分類には、それがわかる本を必ず配本しますので使い込んでくださいね。
 2歳になると単純なストーリーものが楽しめるようになる。それも急にわかるような感じになる。「親は自分の子が天才ではないかと驚く」と、これまで何度か述べたが。ある子どもは3回くらい読み聞かせると、開いたページを暗記して文を言い始めるので、親は仰天。「我が子は天才!」と思うが、それはごくふつうのこと。言葉を獲得していく初期なので、耳から入った言葉をくちにするだけのこと。事物は目(好奇心)から、言葉は耳(言語獲得力)から入る。
 一説には、「この時期の子は自分一人で生きていけないので保護者に捨てられないように、自分の凄さを見せて保育力を高めさせる」ために優秀さを見せるらしい。親は自分の子に才能があると思うと「ちゃんと育てなければ!」という気になりますよね。「この子は天才だ!」と思いこんで、誤った才能育成主義に陥る親もいますが・・・・まずは「愛したくなる」力が発揮され、育てることにつながるというわけなんです。こういう力をどの親も発揮するはずなのですが、二歳児というかわいい盛りに餓死させたり、熱中死させたり、あげくの果てには虐待死させる親もいるわけで、これはもう親というより鬼でしょうね。
この時期は、何度も同じ本を要求してくるので、まずは何度も読み聞かせましょう。これまでの本を2冊くらい読んで、現時点の本を1冊くらいプラスして読み聞かせる。この繰り返しが、やがて3,4歳の高度で長い物語を楽しめる力になります。

時間を取りもどす

④ 「先を見すえる」ことは・・・・

 一方で受験にシフトした私立学校や公立学校が増えているなかで、それとはまったく違った教育内容の学校も注目されはじめている。
 山梨県にも南アルプス市に「きのくに子どもの村小学校」というのができて、独自の教育を行っている。詳しくは調べてもらいたいが、すくなくとも公立学校の授業スケジュールや行事に左右されない、かなり個性的な授業形態だ。
 本校はかなり前に和歌山県で開校し、そのころウチの大阪の会員が通わせていたので、いろいろ情報が寄せられた。あまり宣伝はしていないようだが、建学の精神に共鳴した方々が通わせている学校だ。公教育の学校とはちがう、いわば同業異種の学校である。生活体験を基礎にした自分で学んで考える力を養おうというものらしい。
 たしかに日本の現代の子どもは、こういう遊び体験が乏しい。ほとんどがセッティングされた環境で幼児期や少年期を過ごすから、物をつくったり、そこにあるもので遊びを考えたりする経験が少ない。きっと、それを補うかたちで子どもの成長を考える教育をやっているのだろう。
 成績第一主義で立身出世をしていくか、自分のやりたいことを見つけ出して大人になるか・・・いろいろな意味で多様性は大事だと思う。ある一つだけで突き進むのは危険だからである、子育てで先を見据えるのはむずかしい。親の成育環境で身についてしまった価値観はなかなか強固なもので、そこからコペルニクス転回をするのは困難なことだ。
 また、あまりに自由がいいと何でもありにしていくと、世の中のリズムにうまく乗れず失敗することもある。とかく人は自分が考えたもの、行ったことを正しいと思いがちな動物である。そこをどう自己コントロールして、子どもにベターな生き方を与えるのか・・・・思い込みの強い日本人がグローバル社会で生き抜くには、一回ニュートラルになる必要はある。親の選択は、その子の性格も含めて、先をよく見定めなければならないからむずかしい。

私の好きだった絵本

⑤ おじいさんの旅

 母のための絵本配本ブッククラブというのもやっていたことがあるのですが、その最後の配本がアレン・セイの「おじいさんの旅」でした。絵がすごく丁寧で、なにより、彼の祖父の旅を描くことで母国への郷愁が全編に満ち溢れています。この人は米国在住のイラストレーター。1939年、横浜市生まれの人。帰国子女だった日系アメリカ人の母と韓国人の父の間に生まれ、幼い時に両親が離婚したので父親にひきとられます。戦中・戦後のことですから激動の時代。
 12歳で青山学院へ通うために母方の祖母と東京に住むものの、すぐに祖母と別れて暮らし、あとは米国に渡り、そして日本への里帰り・・・人種、国籍の枠を超えて空想を羽ばたかせている作家です。本名はジェームズ・アレン・コウイチ・モリワキ・セイ。この長い名前が複雑な彼の人生を物語ります。
 そんな経歴のアレン・セイが、1994年に「おじいさんの旅」でコールデコット賞を受賞しました。たしか、そのころに「母のための配本」をしたのですから、かなり昔のことです。
 少年である主人公が汽船で太平洋を渡り、見知らぬ土地を通り抜けて都会まで行き、そこからまた里帰りで日本の生活を懐かしむ話。絵に惹きつけられ、その画面からなんともいえぬ故国への郷愁がにじみ出ていて、読み終わった後に自分の中で湧いたノスタルジーに浸ったことを思い出します。どんな人も人生は、それなりに波乱万丈でしょうが、自伝でこれだけの作品が残せる絵本作家もすごいなぁと思いました。
 影響されて、母のための配本に合わせた自伝冊子「HAHATAME」を書き始めたきっかけ本でもあります。どんな人にもドラマがあり、年老いて振り返ってみるとなつかしい思い出になる。ドラマのときは無我夢中で大変なのですが、終わってみると美しい人生・・・・そういう暮らしをしたいものですね。

自分で考える力??

⑤ これからは日本社会は多様になるはず

 若いころ、学校の勉強を見てやった子がフランスに渡ってオペラ歌手になった。
 フランスの男性と結婚して娘さんが生まれ、その娘さんが16歳になって日本へ留学してきた。お母さんが日本人だから日本語の会話は流暢だが、漢字の学習には苦労していて、「とてもついていけない」という。「どうしたらいいか」と相談に来たので、私の個人的な考えをそれなりに述べた。
 「漢字練習だけではなく文章と一体で覚えないと漢字も日本文も獲得できない」、「漢字はとくに文化や歴史が背景にあって、まずは関心のある分野から日本語で読み、文化・歴史も合わせて勉強して、ついでに漢字を獲得していくのがいいのではないか」というような話をした。
 彼女は16歳だが、日本語で話が通じるどころか、自分の考えもはっきり言い、日本の同世代の高校生のようにまわりの他人を意識して意見を控える感じがないのでひじょうに好感が持てた。
 で、母親そっちのけで、二人だけで話した。物づくりや絵を描くことが好きだと言うから、日本の陶芸や絵画の話になり、彼女が知る北斎や歌川広重の浮世絵を見せると目が輝いた。そうなると「日本の代表的文化は江戸時代のものだよ」「いま日本の町並みはきれいじゃない」というような話に発展していく。聞く力・話す力はおどろくほどで、「日本の若者がこのくらい自論をもっているといいなぁ!」と思った。なぜ、日本の若者は意見を言わず、優等生の答えのような話し方をするのだろうとつくづく思う。
 しかし、彼女は、いま漢字ができないので学校の問題文が読み取れない。「どうしたらいいか?」と言うから「まずは小学校の漢字から文章込みでどんどん勉強して獲得量を大きくしていくことだ」と読みの本と漢字の本をセットで渡して勉強するように薦めた。きっと、がんばってくれるだろう。
 これからの日本は、このような子どもが増えて多様な社会になる。自分が好きなことを仕事にするために、いろいろ学んで、大学や専門学校、あるいは仕事現場そのもので学ぶ時代がくる。日本の子も自分を持たねば!、ね。(新聞一部閲覧)

長い長い会員の話

⑤ 南アルプス編

 古い会員である南アルプス市のS村さんから「ゆめやさんは『鶴瓶に乾杯』を観てますか?」と電話があった。テレビはほとんど見ないので「いいえ」と言うと「あ、じゃあ、いいです。」で電話が切れた。
 S村さんはゆめやが相生町にあったころからお嬢さん方に本を求めに来られた方で、その後も会員の紹介をしていただいている長いおつきあいの方だ。お嬢さんも結婚されて、今はお孫さんへの配本もしているので少なく見積もっても40年はお付き合いのあるお客様だ。
 こうなると遠い親戚よりまさに近くの他人で、ともに爺さん、婆さんで茶飲み話にはことかかず、話し出すと時間を忘れる。
 ・・・・そんなこんなだが、電話では他の話題に映って長々だったが、数日後に同じ南アルプス市のパン屋・ルーブルさんから、やはり誘いの電話があり、「ぜひ観てください。」という。
 ルーブルさんも3人のお子さんに配本してきて、もう一番上のお嬢さんは、成人。ご長男・次男も数年前にブッククラブ卒業だから・・・・こりゃあ足掛け20年近くの長い長いおつきあいである。どんな番組展開になるのだろう、と思いながら放映の日にテレビの前に座った。

時間だけがどんどん過ぎて・・・

 南アルプス市は長い間バイク配達で回っていたところで風景や町並みは熟知している。なつかしいのでテレビを観て見ることにした。番組の冒頭は高台から富士山まで見える美しい棚田の風景。甲府盆地一望の残したい自然である。
 橋爪功さんと鶴瓶が市内を回る。やがてルーブルさん訪問の場面が映ったのだが、御主人や息子さんたちが並んで鶴瓶の質問に答えていた。配達をした時に何度も会った息子さんたちのおじいちゃん・おばあちゃんも並んでいてびっくり。
 ご長男はパン屋さんの後継ぎになっていた。後継者がいなくて寂れていく山梨だから、これは快挙といっていい。
 そんなこんなの話をルーブルさんが鶴瓶と話している最中に、なんとパンを買いに来た客の一人が志村さんだった。鶴瓶につかまって(笑)、いろいろ受け応えていた。これを見せたかったのかぁ。すぐに電話を切ったのは志村さんの奥ゆかしさだったというわけ。

なつかしいなぁ。

 ルーブルさんには、バイク配達の配本で毎月立ち寄り、届けるのは、いつも午後三時頃だったからパンを買って食べていた。店先で話ながら奥様から入れ立てのコーヒーをサービスしてもらった腰を下ろしたイスとテーブルが映っていた。懐かしい。
 人と人が接すると長い間には、そのつながりが網の目のようになっているのをこのシーンを観て感じた。山梨県は人口が80万しかいない。40年前もそのくらいで、減りこそすれ増えることはない。だから「しがらみ」といえば「しがらみ」だが、それなりの人と出会えば長い長いおつきあいになる。
 本を介してつながる人々で、おかしな人がほとんどいないが、こうして振り返ってみると楽で便利なシステムで人と人とのつながりが一回だけの出会いで終わる分断の時代に、まだまだ良いおつきあいでつながる方法は残っていると実感した。

気をつけ! 例! 直れ!

デジタル化たった2年で

 何十年も同じことを書いてきたので最近はサブカルチュアやデジタルの悪影響について書く気がなくなっていました。
 笛吹けど踊らずで、みんな流されていく感じ。でも、学校でデジタル化が導入され、スマホがここまで普及すると誰もが批判力を失って唯唯諾諾状態です。言っておかねば気をつけない、悲惨ながたくさん出るので、を直すためにもちょっとシリーズで書きます。
 またか!と思う人は読まなくてもいいし、まあ、最近、ゆめやのニュース・新聞など多くの方々は「字が多すぎる」と資源ごみ直通です(笑)が、無駄な努力をまたしてみます。
 9月5日発行の全国の多くの新聞に「情報モラル教育前倒し」という記事が載りました。学校にタブレットが入って2年、現実には幼児からスマホを持ち、中高校生ではもう必須アイテムという背景があります。だから、すぐにモラル崩壊が始まり、緊急案件でモラル教育をしなければならなくなったのでしょう。
 前から疫病のあとには治安が悪くなると言ってきましたが、この十数年、「無敵の人」(死刑も怖くない、逮捕されてもいいという人)が増えています。これは怖いです。
 「母親を殺す練習」で刺されたら目も当てられません。煽り運転もそうですし、多発している猥褻(わいせつ)事件もそうで、何のかかわりもないのに突発的に事件に巻き込まれる・・・こうした治安の悪さはあきらかに政治や経済の腐敗がモラルを破壊してしまった結果でしょう。こうしたモラル崩壊はサブカル・デジタルが原因だと感じています。
 もちろん、直接的には欲だけで動いてきた社会(政治家や教育者の腐敗)の結果ですが、こういうことに鈍感になっているこちらも悪いと言えば悪いのでしょう。
 このように根が深い問題ですから情報モラル教育で何とかなるとは思えません。なにしろサブカルもデジタルも「依存」が根っこにありますからね。世の中がそうだからしかたがない!!楽で便利・・・そういう人は多いでしょう。言ってもムダなことわかっているのですが、せめて注意喚起になればと思って。シリーズで始めました。

例1)メンタルへの影響

 ベストセラー『スマホ脳』(新潮社)を読みましたか? スマホ画面は読んでも本は読まない人が圧倒的で、概要を知っただけですませる時代ですが・・・。この本の中で著者の精神科医がスマホ依存が「肉体的な健康にも大きな影響」をもたらし、同時に「集中力や記憶力の低下」を著しくすると書いています。それは仮説でも放言でもなく、気が付かないだけで、すでに世界中で起きている現象です。
 現代人の多くが一日に2600回以上もスマホを触っていて、大人の場合、デジタル画面を見ている時間が一日4〜5時間にのぼる・・・信じられない話です。依存になればもっと多いでしょう。
 そして、いつの間にか「なければ困るもの」になっている(じつはなくても用が足りるのですが、必要なものと思い込まされている)。スマホの操りがうまいといかにも仕事ができる、頭が切れるように見えますしね。ただ、それで依存になっていき、人格上でも生活行動上でも大きな問題を引き起こす可能性が高くなっているというわけです。

例2) ハマるしかけがいっぱい

 スマホの問題点は……依存性がひじょうに高くなるツールだということです。老人でもそうですから、成長期の若い人はSNSやゲームを通じて陥りやすい。それが依存につながります。
 かつてのゲームもその要素がありましたが、ゲーム機とテレビやパソコンのディスプレイをつないでのSNSやゲームでした。プレイ端末もセットで用意しないとできなかったので、遊ぶための条件が限られていました。
 ところがスマホは携帯できるものですから、いつでもどこでも使えます。肌身離さず手元でやれるし、寝床の中でもSNSやゲームをすることが可能です。
 当然、睡眠サイクルに悪い結果は出てきますよね。考えるまでもない。ところが人間は「自分は大丈夫。両立して何でもできる!」と思い込む動物です。頭に問題が起こる前に体に影響が出てくるのもわからずに・・・・。
 ブルーライトは、「暗くなったら眠り、明るくなったら起きて日の光を浴びて、一日二十四時間の体内サイクルをリセットする」といった体内時計の大切な働きを阻害することがわかっています。これはかなりの人がわかっている常識ですが、それでも無視して時計を狂わせてしまいます。依存は恐ろしい。遅くまでスマホを使えば睡眠が乱れ、結果的に日中の集中力の低下や眠気につながるのはあたりまえのこと。最近、単純なミスから起こる事件事故が頻繁にあります。交通事故や火事も多いと思いませんか。

例3)アプリという曲者(くせもの)

 もともとスマホはハマるように作られています。知的好奇心を刺激するアプリがたくさん用意されていて、インストール(無料というのが曲者)するだけでどこでもいつでも使うことができますからね。
 一例が、画像修正アプリで、SNSに自分の写真をアップする際は、アプリを使って肌をきれいにしたり、目を大きくしたり、修正がいくらでも可能です。
 そんな機能があれば使えるものは使いたいと思うのが人間です。本能を刺激して流行ります。結果、マッチング詐欺や犯罪に使われます。女(男)の子や女性(男も、犯罪者たちはとくに)は遊び半分・仕事半分で使うでしょう。かわいい自画像や、「インスタ映え」する写真をアップすれば「いいね」もたくさんもらえますし(これもハマる仕掛け)、匿名アカウントがいくつも作れるSNSであれば、まともな自分と毒吐きの自分の二つの別のアカウントを作って人格を使い分ける仮面願望もかないます。若い人、子どものほうが早く技術はマスターしますから、危ないわけで、大して効力がない「情報モラル教育」という甘ったるいもので、これを防ぎ切れるでしょうか。
 「そういう偉そうなことを言うおまえはどうなんだ!」という人もいるかもしれませんが、私は渋谷のスクランブル交差点を歩いても私の位置情報がカウントされない、デジタル透明人間なんです。(つづく)



(2022年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ