ブッククラブニュース
令和4年
6月号(発達年齢ブッククラブ)

2022年7月の予定

7月の休業日は日曜・月曜、祝祭日、臨時休業はありません。
 ※9月30日までは夏時間の午前10時30分〜午後6時30分
 受け取りの方で午後6時30分以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。店を開けます・・・・。
 【コロナ対応について】
 6月はひじょうに感染者が少なくなり、ただの風邪、それもたいしたことのない風邪状態なので、マスクもつけずにいらっしゃってもかまいません。軽症・無発症が多く、弱毒化は進んでいるようです。ワクチンの成果ではなくウイルス自体が終息に向かっているのだと思います。ウイルスも人を殺しつくしたら自分も生きられないので、5波、6波あたりから収束に向かうのが普通です。お子様のマスクは強制しません。定期的に換気はしますが、蒸し暑くなってきていますのでクーラーもかけます。
 対応はこれまで通りです。とりあえずご来店の際は、今まで通りの対応をしていきます。
 ①さすがに3年続くとマスクで最近入会の方はお顔の判別が無理なので、お名前をどうぞ。
 ②事前にご連絡いただけば、2〜3ケ月分は用意できます。
 ③恐れ入りますが、混雑したらぜひ新しいお客様に席をお譲りください。
 ④土曜日は混みますので、飲み物サービスは状況を見てといたします
 ⑤次の客が来たら、恐縮ですが入れ替わってください。
発送切り替えも可
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 ご理解のうえご協力ください。ゆめや店主 6月10日

ヒアリからの手紙

 この一年で急速にデジタル化が進んで、例年なら束になって届く毎日の郵便がこの一年で激減しています。メールやLINE全盛ですからね。
 楽で便利は、やがて人と人を分断して孤独を増加させていきますが、人は楽で便利に弱い生き物です。まあ、孤立、多数の中野孤独な個になって悲しい時代が来ても、楽で便利を楽しめたのですから、それが原因と結果の関係、しかたないことですね。
 そうは言っても、ブッククラブにはまだまだ手紙やハガキなど手書きの連絡をしてくれる方々がいて、読むたびに、すごいなぁと思います。もちろん、できるかぎり返事は書きますが、この春は忙しくて、まだ返事を書いてない方も数人います。すいません。そういうなかで、こんな手紙も来ます。返事は出しませんが、なるほどなぁと感心したりします。ご紹介しますね。

拝啓 長谷川敏夫さま

 はじめまして。南米出身のヒアリと申します。 あ、そうです、アリです。ふだんは公園や芝生で、人やペットを刺したりして過ごしているので、お会いしているかもしれませんね。ほら、このまえ公園でピクニックしてませんでした? ボクらが刺すと、アナフィラキシーショックを起こしちゃう人もいるんですよ。いやー、申し訳ない。でも、ついつい...。
 今日は、人間のみなさんにお礼を言いたくて、お便りしちゃいました。
 ボクらは、物流コンテナに間違って乗っちゃって、たまたま日本に着いたんですけどね、実はかなり住みやすくて、仲間を増やして定住しちゃおうかなって思ってるんです。
 日本のみなさんが、食べもの、着るもの、燃料の石炭や石油、なんでも輸入するようになったでしょう?だからこれまで、この国にいなかった僕たちみたいな生きものも、日本に住めるようになったんですよ。それに、温暖化でだいぶ暖かくなってきてるから、住みやすいこと、このうえなし。
 セアカコケグモ先輩なんて、もうすぐ47都道府県全制覇なんて言ってたし、ネッタイシマカくん(デング熱を伝染しちゃう蚊です)なんかは、最近は日本の冬も暖かいので過ごしやすいって喜んでますよ。
 食料も服もどんどん海外から輸入して、じゃんじゃん消費して、石油や石炭もあるだけ燃やしてくれるから、もっと僕らも住みやすい環境になるんじゃないかなと思います。
 脱炭素で原発を再稼働するでしょうから、冷暖房、オール電化で電気どんどん使ってもらえば温かい排気が出ますから、これはもう、してやったり。ますます住みやすくなります。これからもどうぞよろしくお願いします。   敬具

どういう時代になるのか・・・・。

 グローバル化というのはすごいもので、こうしてよけいなものも入ってきます。ニシキヘビとかイグアナが逃げた事件がありましたね。問題になっているアメリカザリガニも入ってきた中では一番先輩格でもう150年近く前に来て、いまや「日本の生物」です。挙げていったら枚挙のいとまがないほどの数でしょう。そのなかにはCovid19もいますし、そのうちサル痘もやってくるかもしれません。
 良いものだけが入ってくるわけではなく、当然、悪いものも入ってくる。島国・小国では防ぎきれないとんでもないものも入ってきたら困りますね。
 何でもそうですが、楽で便利なものを求めていると、はじめのうちはとても豊かで幸せな感じがするのですが、やがて、そのしわ寄せがやってきます。思わぬかたちで・・・・。なにより早くやってくるのは「忙しさ」と「あわただしさ」ですが、この中に入ると何が何だかわからないまま押し流され状態になります。次にやってくるのは事件・事故ですね。楽して儲けたくなるので知床の沈没事故や給付金詐欺のような後先考えない事件事故が起きます。巻き込まれたくないですよね。楽で便利を求めて、だんだん欲しいものが増えてくると当然、人から物を奪うことにもなります。国単位では、よその国に入り込んで奪おうとまでします。
 SDGsは「抑制」だけど、我慢は見えてきません。(ニュース一部閲覧)

糸魚川―静岡線の東と西

 六月になると、ゆめやの近くの川にはホタルが出る。たくさん舞うわけではないが、暗い川面に点々と光るホタルを見るのはなんとなく楽しい。蒸し暑く、雨が降りそうな真っ暗な晩がいちばん舞う、という。
 まだ暦が太陰暦だったころなら、六月の一日が一番飛んだのだろう。太陰暦では毎月一日は「新月」・・・真っ暗闇だ。出るのはホタルばかりでなく、昔なら、この暗闇を利用して、「どろぼうがっこう」の熊坂先生や雲霧仁左衛門が活躍した夜である。泥棒や辻斬り、闇討ちなどは六月一日が最適な日である。
 頭のいい明智光秀は、この日が闇夜であることを知っていて織田信長を倒した。
 「ときは今 天が下知る 五月かな」で有名な五月最後の日の夜のことだ。
 クーデター「本能寺の変」は真っ暗闇の中で起こった。きっと京都の川にはホタルが光っていたことだろう。ちなみに「天が下知る」とは「この国を支配する」という意味の言葉遊び。でも、せっかちに西から舞い戻った秀吉の軍に追われ、支配もろくにできずに「三日天下」で終わってしまった・・・。

2秒と4秒

 ところで、みなさんは関西と関東(糸魚川・静岡線の東西)でホタルの明滅時間が違うというのをご存じだろうか。
 西のホタルは2秒ごとに明滅し、東のホタルは4秒ごとに光る。西の方がせっかちに光るらしい。東はのんびり。
 生存競争が激しいとせっかちになるのは人間ばかりでなくホタルも同じなのかと思ったりする。なるほど古代から西国は様々な事件が起こり、人の流れが激しい。せっかちになるのは生き残りたい願望が強いからだろう。
 それが東北に近づくにつれて、だんだんゆるやかになる。境目の糸魚川―静岡線近辺ではどうか。
 日本列島の真ん中の山梨や長野・静岡のホタルは何秒かというと、なんと、その中間をとって3秒だという。同じホタルなのになんだかふしぎですねぇ。そして関東以北から瞬きは4秒になっていく。
 電気も関西と関東では50Hzと60Hzの違いがある。これも糸魚川―静岡線の東西の違い。輸入した発電機がドイツとアメリカから別々というが、偶然とはいえ、人の考え方や性格がもともとちがっていた結果なのかもしれない。

食感と甘辛

 また、三重県の銘菓といわれる煎餅を食べたが歯もろく甘い。東国の代表は草加煎餅だが、これは硬くてしょっぱい。東北に行くとさらに硬くて塩辛い煎餅も・・・。東と西ではかなり味も食感もちがうようだ。山梨はその中間だが、ザラメをまぶした固いものや歯もろい煎餅もある。東国なのに甘い煎餅があるのも東と西の中間だからだろうか。
 いまはグローバル化で西の人も納豆を食べるらしいが、昔は、まったく食べなかったらしい。我が家は毎朝、子どもが売りに来た納豆を買って朝ゴハンだったが、浜松の友人は食べたことがないと言っていた。この食べる、食べないの境目はやはり、静岡市あたりなのだろうか。そういえば味噌も東西で色がかなり違いますね。
 ・・・・・他にもたくさん西と東の大違いがあるんだろうなぁ。・・・
 ゆめやのブッククラブは、宣伝もしないし、知り合いもあまりいないので、この四十年を通して、西の方では会員がひじょうに少なかった。大都市・大阪も四十年間で数えるほどである。四国・九州などはひじょうに少ない。
 糸魚川―静岡線・・・・どうも、この境目には何か分けるものがあるようです。

違いを認める

 小説「日本沈没」は、太平洋プレートの圧とフィリピンプレートの圧で列島が押し曲げられ、糸魚川―静岡線の亀裂から沈んでいくという恐ろしい話だった。読んだときはSFだった。でも2011年3月11日から、SFでは片づけられないものを感じている。かつてあったことは、また起こる。これは歴史の基本原則。日本の東と西は、そのままであってほしい。
 西のホタルはせっかちに2秒間隔で光ってほしいし、東のホタルはのんびり4秒で光ってほしい。混ざり合うのはいいこともあるが、個性もなくなるからね。糸魚川静岡線近辺にいると、その差異がなんとなくわかります。東北にいくとのんびりするのは、まんなかよりゆるやかだから。西に行くとあわただしいのは、まんなかより時間が早く進んでいるから、かも。
 こういう違いを認めずに、日本中を同じにしようという試みは特性や個性を押しつぶすことになるわけで、どこもかしこも同じだったら旅行の楽しみもなくなります。旅行は、自分のところと違う風景や風俗をみにいくものなのですから。
 ゆめやは一応、列島の中心部。中を取って、いつも55Hz(笑)の電圧で3秒ごとに発信、甘辛煎餅を食べながら、赤味噌でも白味噌でもない味噌汁をすすることにしています。たまに60Hzや50Hzのトースターでパンを焼き、甘い煎餅や辛い煎餅を食べ、「え、これ!味噌汁?」というような「おみをつけ」を飲んでみたいですね。(新聞・一部閲覧)

役に立たない学力は

 最近の世の中の動きを見ていると、口幅ったい言い方だが「知性がないもの」が横行している感じがする。それが悪行を引き起こし、誤った方向に人を連れて行っている感じ。学問などという言葉は死語で、「学んで問う」ことなどまったくなくなり、勉強とは受験のための暗記と化している。
 受験勉強を通じて身につけたコンテンツの学力というのが、ほとんど役には立たないことに誰も気が付かないのは、まだ企業社会が学歴で動いている部分があり、また役に立たないことを意識できないほど仕事量が多すぎる(忙しすぎる)からである。
 数学の難しい問題が解けるようになろうが、物理の問題が解けるようになろうが、歴史の年号についてオタク的に詳しくなろうが、ほぼそれは生活能力にはならないし、現実問題として役に立たない。洗濯や料理、あるいはドアの開閉などで物理原則を使って考える人はいないし、「鎌倉殿の13人」を見ながら、いちいち年号を述べ立て、何年後かを計算する鬱陶しい人間は嫌がられるだろう。
 いわば学習事項など細切れの情報にすぎず、それだけでは何の役にも立たないわけで、勉強した内容をどのように生かすことができるかどうかの能力や経験則や知識をどう応用するかの能力のほうが大事なのは、今も昔も変わらないことである。何も大きなことをせよというのではない。生活の中でも周囲の人々との間でも、よりよい状態を作るための工夫が、そういう勉強でできているかどうかである。

つめこみ

 いい大学に入るために詰込みが激しい塾に入って死ぬほど宿題をこなし、塾の講師から言われた通りの勉強をやってきた学生が医学部であれ、経済学部であれ、大学に入ると、今度は大学で「いい成績」を取るために教授の言うことを丸覚えすることしかできなくなる。早い話自分が何をやりたいかではなく、ただ給料を得る就職のためにだけ・・・である。
 それで、現代日本の社会は生きていけるから、役所に入ったら、忖度官僚になって……あるいは、教師になったらマニュアルの鬼になってカリキュラム一筋みたいな先生を演じることになってしまう。
 要は、新しいことを思いつけるか、アイディアが浮かぶかどうかなのだが、企業社会、あるいはお役所システムでは上の方が新しい考えや思い付きを押さえつけ、「踏襲」が一番となるので、けっきょく知識量などカビが生えたまま忘れるに任せるだけになってしまいわけだ。
 頭がよくなるためには、当然、勉強しないといけないのですが、その勉強とは、インプットだけというのが日本の教育の最悪なところでアウトプットすることで試したり失敗してみたり成功してみたりがない。記憶だったり知識だったりの量が多いことを「よし」とするわけだ。これは嫌な人間をつくってしまうし、嫌な組織をつくる。
 持っている知識は多少少なくなるかもしれないけれど、むしろ加工して変えたりする応用力を磨いて、知識を生かして新しいことを思いつき、発信することのほうが、ずっと「頭がいい」と思うのだが、組織と言う護送船団で動くとそれができなくなる。
 いまだにこの国では、過去に書かれたことをたくさん知っている人が賢くて、新しいことを言ったりやったりする人が「変人」に見られてしまう傾向がある。学校内部でも、企業内部でもいっぱい覚えないといけない、いっぱい知識や教養を持ってないといけない。それが絶対不変の真理だと信じ込んでいる人たちが幅を利かせている。これはテレビドラマを見ていてもそういう風潮があり、いっぱい知っている人が尊重されていることが多い。

クイズの王者は「頭がいい」のか?

 たとえて言うなら、「クイズ番組での勝者である物知りとかクイズ番組が好きな人たち」だが、旧帝大出のタレントは、知識が豊富だから、クイズ番組では常に勝者になる。それで世間は、「さすが頭がいい!」と認めていく。「さすが東大、京大だ」。でも、それをやり続けると、おもしろくなくなるので、素人のオタク・タレントが勝つように仕向ける出題もする。こういうところが知識偏重主義が異常なところだが、「それだけよく知っているなら、その知識を使って何か社会貢献になるようなことをしろよ」と思うのは私だけだろうか。
 それだけ知識があるんだったら、知識を駆使してもっと面白いことをやれよ、と言いたいわけで〜す。インプットばかりで、知識を応用する能力が根本的に欠けているなあ、と感じるのは、彼らが基本で哲学も思想も学んでいないからではないかと思う。なにか考えることができる人間は知識を使って何かをする。与えられた仕事ではなく、仕事をつくる力だ。
 ところが東大王など、自分の求められているものが何かということを分析して、きっちりその役割を演じ切っているところが醜悪な感じがするではないか。まるで、世相を読んでネタを作って受ける芸人のようである。それを売りにして一稼ぎし、あわよくばメディア界でステータスがほしい、などというさもしい芸人根性のようなものが見え隠れするところもあるよね。視聴者も視聴者で、自分も学歴尊重社会で生きてきたので、できた人間、あるいは勝者を称賛してしまう。クイズ番組は「ショー番組」でしかないということが少しもわからず、仕組まれた設問に答えることをすごいと思って賞賛する。これも長年のテレビの弊害だろう。面白番組にすぎないことを多くの人は理解するべきだが現実にはできない。
 「クイズ番組で強いから頭がいい」と評価が出る・・・日本人はバカなのかと思うが、クイズ問題で的中するというのは、仕掛けや騙しがなくても、単に「物知り」だということにすぎない。頭のよさのというのは、少なくともクイズ番組で勝てることではないことくらいはわかってほしいものだ。

考える力か?情報の記憶か?

 勉強法を身につけるのか、知識情報を身につけるのかという問題になるわけだが、これはなんともいえない問題だと思う。
 システム情報を身につける方法が、短期的にはすごく成果が出ることはわかる。ただ世の中が、この短期的な成果にあまりにも評価を大きくすると問題だ。いわゆる「風邪の治療にはワクチンだ!」療法ではないだろう……風邪は寝て、栄養を取れば治る。治すのが目的なら、どうして誰もそこに目を向けないの?っていう疑問を持たざるを得ない場面を目にすることが多々ある、いやありすぎる。
 そんなくだらない小さな情報知識をたくさん持つことが重要と言う「優秀社員」を人材探しする時代は終わっていくと思う。高度経済成長の時代には、社員・会社も護送船団方式で動くことができたが、優秀のランク付けは「見える成績」だった。
 社会システムが複雑多様で、進むべき方向も定まらないときに過去の余力だけで生きていくことは悲しい……。世の中でこれと同じことがあらゆる局面で同じに起こっているのは皆さんもわかっているのではないか。
 若者が裕福な生活ができているのは親の余力の恩恵にすぎない。これと同じ状態が社会でも起こっている。能力がなくてもなんとか親の経済力を当てにして生きている状態。自分で生きる工夫はどうした!!と言えるのだが、誰も耳を貸さない。親の力が消えれば世の中から消えていく若者もかなり出ているのである。
 過去の栄光にしがみついていてもしかたがないのは、学校でも企業でも同じだ。戦後の高度経済成長時代は放っておいても経済成長はあった。日本人の勤勉さもあったが、アメリカの真似をしていたらそれでよかったのである。年功序列、終身雇用で、その中での人材には“歯車になるもの”を求めていたことはわかるだろう。
 学校でできる人間が世の中で役に立たない例は枚挙のいとまがない。最近は、そういう連中が「悪いこと」をし始めている。(増ページ一部閲覧)



(2022年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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