ブッククラブニュース
令和4年
5月号新聞一部閲覧 追加分

配本の意味と読み聞かせ①

生後10ケ月

 ブッククラブの配本は生後10ケ月から始まる。これは思いつきでも偶然でもなく理由がある。それは配本を標準的なヒトの発達に合わせているからだ。
 何度も言ってきたことだが、人間は誕生するまで生物の進化の歴史40億年を繰り返す。受精までは単細胞。そこから多細胞になり、脊椎やエラがある原始生物から、どんどん進化をして尻尾がなくなり、全身に毛が生えても3日で消え、やがてヒトの子となって10ケ月後には誕生する。まったく、この過程を見るとびっくりする。進化のプロセスがすべて繰り返されているからである。これは不思議というか奇跡というか、なぜこのような変化が生まれてくるまで親は見ることができないのか!とさえ思ってしまう。まったく自然の世界は完璧な不思議に満ちていると思える。
 さて、10ケ月経ち、赤ちゃんは生まれても、まだ人間らしくはなく4足歩行もできない。主要な感覚は触覚で、聴覚も働くが認識までいかない状態が続く。高等動物の子どもはひ弱で、生まれてすぐ立ったり、親が不要で一人で生きていくという能力は有さない。まだまだ庇護が必要なのは、脳の細部での複雑化、つまり思考や反応に耐えうる構造になるまで親の保護がひつようになるということらしい。つまり赤ちゃんは哺乳類から霊長類への過程にいるのである。ところが、「ここから文化を獲得する人類という認識」が幼児教育では働かず、早期教育に走ったり、おかしな方向に行く教え込みがなされたりして自然ではない。ここで人間としてまっとうな方向に進まねばならないのにおかしなことをやられたのでは困る。
 生後10ケ月になるとようやく2足歩行をし始める。ここで、やっと人類らしくなるが、まだ頭は直立猿人ていどだ。しかし、このとき初めて平面に描かれた図を認識する力が出てくる。

ここが絵本の与えどき

 耳から音はわかるので声を聴かせることから始める。
 早くから読み聞かせをしたがる人もいるが、そのまえにやっておく大切なことを忘れてもらいたくない。まずはおだやかな声で語りかけること、これは誕生の時点からからやってもらいたことだ。お父さんの太い低音より、お母さんの柔らかな声の方がいい。さまざまな言葉で語りかけることはとても大切なことだ。
 サイレント・ベイビーなんて言葉が流行ったが、どう考えても人工音や騒音ばかりであれば言葉を発しなくなる可能性もあるだろう。最初から言葉は親と子のキャッチボールから始まるのである。言葉がわからないときは「音感」でである。大声で怒鳴れば不快に感じ、やさしい声色なら安心する。いろいろなパターンが必要だと思う。
 次に生後数か月で、いろいろな物に触らせる、安心できるものとそうでないものがわかるということは生後8,9ケ月までは大切な「訓練」だ。丸く柔らかいものなら快いし、尖ってゴツゴツしたものは不快に感じる。 この区別ができないと危険なことにつながることもある。まずは順番があるので焦って「教育」しないこと。汚いからといって物に触らせないと、読み聞かせを始めても本はまだまだ「物」で、積み上げたり、投げたり、ページをめくったり、下手をするとこういう行為が1歳半ごろまで続いてしまう。

最初の絵本は、

 上に掲げた実物に近い絵の絵本、それも物を認識するパターンの絵本がいいだろう。それなら写真絵本のほうが実物に近いという人もいるが、写真は冷たい感じがするし、なにより背景が映り込んでいるから目がいろいろに行く。
 目がいろいろに行くのは現実の生活であって、本に気を向けたいなら、地が真っ白で「物」そのものが浮き上がって見える絵本のほうが適しているに決まっている。
 左・写真は会員の方が送ってくれたものだが、実物と絵本の図柄が引き比べられる環境を与えるのは読み聞かせとして最適だ。
 動物絵本なら動物園につれていくのもいいし、野菜なら八百屋さんに抱っこして行って見せるのもいい。
 これらの絵本を俗に「認識絵本」と言うが、この体験のあるなしで、かなりその後のものの見方が違ってくる、と思う。ゆめやの経験としては、この認識絵本からはじめた子と1歳の後半あたりから始めた子では、個人差もあるがかなり本への関心が違うような気がする。とにかく生後10ケ月から始まる2歳までの期間・・・脳細胞の増殖はものすごいものがある。この変化を見られない親はかわいそうというほかはない。この時期、親が関わっても現物との付き合わせ、同じような行為を繰り返して遊ぶことは、子どもの成長にとって重要な体験である。
 生後10か月から始まる絵本の世界の入り口が認識絵本。ここから2歳まで、お子さんの頭はおどろくほど猛烈な速度で進んでいきますよ。(つづく)

私の好きだった絵本①

「おとうさん」 長島正和 絵本館

 このコーナーのタイトルが、なぜ「〜だった」という過去形かというと絶版になってしまった本だからです。配本に組み入れていたものが絶版になるというのはとても残念な気がします。なんだか選書のレベルを否定されたような感じになりますから。
 絵本の中には50年前には名作と思われていたものでも現在では内容もテーマも絵柄も古びてしまうものもあります。それらが依然として出ているのに、一方では内容が優れているにもかかわらず、なにかの拍子で(おそらく売れないから)絶版になってしまうものが多い国になっています。
 この絵本「おとうさん」は店の引き出しの奥に1冊だけ眠っていますが、また再版してほしい1冊でもあります。十数年前までには多くの男子の配本に入っていました。
 物語は単純です。「ぼくのおとうさんのおとうさんのおとうさんのおとうさん〜・・・(つまり祖先まで遡ります)は、森で狩りをしていました。」で始まります。そして「ぼくのおとうさんは会社につとめ」・・・「ぼくは・・・」となり、そのつぎは「ぼくがおとうさんになったら」「ぼくがおとうさんのおとうさんになったら」と・・・見事に人類の歴史が過去から未来まで描かれます。そして、最後は遠い未来には「ぼくの子孫」が宇宙船に乗ってどこかの惑星の森で「狩り」をしているのです。十数ページの単純な文章で、これだけ壮大なテーマを書き残したもので、傑作といっていいのではないかと今でも思っています。
 食い物で子どもを釣るだけの絵本も多い世の中です。もちろん、小さな子どもには大切なテーマでしょう。
 しかし、それだけで終始していたらお笑い芸人が寄り集まるグルメ番組と同じで、大人になっても「そんなことしか関心がないの?!」と思う文化になってしまいます。
 子どもはやがて大人になる・・・そのときに食い物やくだらない遊びしか考えられなかったら不幸ですからね。やはり、じょじょにテーマは高度にしたいし、考えられる材料を子どもには与えたいものです。日本人がすぐ悲劇や厄災を忘れて、同じことを繰り返すのは、このへんに原因があるのかもしれませんね。

読めないのに読めたことを自慢

 いつも四月に漢字の本を新入生に贈ります。ささやかなプレゼントですから、お礼のおたよりをいただくと、恐縮してしまいます。これは、あくまで漢字が読めて、できれば書けるようになればという願いを込めています。日本語は漢字によって奥が深い言語になっていますから、やはり読めないと理解がひじょうに弱くなります。難解な漢字も多いですが、やはりある程度は読めて書けた方がいいと思います。
 私が住んでいるのは武田信玄の館がある地区で、この地区は「躑躅が崎」という名なので「躑躅が崎館」と呼ばれています。「躑躅」は読めない、書けないの代表漢字ですが、館の隣にある小学校の高学年生は書けなくてもほとんど読めるはずなのです。慣れれば読める。で、私は庭に満天星躑躅を植えたことがあります。そのとき「どうだ!ツツジを植えたぞ!」と言うと、娘は躑躅は読めましたが満天星は読めませんでした。これはしかたがない(笑)。
 私などは読めないのに読めると思われたこともあります。小学校1年のとき、給食の時間に先生が新聞を読んでました。その紙面に「朝鮮動乱」とあり、それを見て、私は「ちょうせんどうらん」と声を出したら先生がびっくりして「あなた読めるの?」と言いました。こんな難しい言葉を1年生が読めるわけはないと思ったのでしょう。得意でしたが、たしかに読めるはずはないのです。父が毎日、新聞を読んで、かんたんな説明をしてくれていたので新聞の見出しの字は慣れていました。「朝鮮動乱」は目で覚えていたわけです。

漢字を覚えるのは環境で

 祖母の買い物についていくと店の看板を指さして「なーんだ!」とよく言われました。「菓子店」「洋服店」「金物店」・・・ウインドゥを見ればだいたい見当がつきます。当時のお店はほとんどが漢字の店名の看板を挙げていました。日常で漢字読み練習をやっていたというわけで小1が読めるわけではないのですが、読めたのです(笑)。
 最近、大人でも漢字が読めない人が増えてきたと言います。「旧中山道はR17も含まれ・・」という原稿を「いちにちじゅうやまみちはアール17もふくまれ」と読んだタレントがいたと言います。お笑い番組ではありません。まあ、枚方を「まいかた」、云々を「でんでん」と読む政治家もいます。読めなくても仕方ないですが、読めた方が物事はよくわかっていくでしょう。がんばってください、一年生の皆さん!!

自分で考える力??

①情報機器はブラックボックス

 「最強脳」という本は、「スチーヴ・ジョブズは子どもにスマホを触らせなかった」というキャッチコピーで有名な「スマホ脳」のA・ハンセンが、デジタル社会への傾向と対策で出したものだが、読んだ人がいるかもしれない。
 ただ、この手の本の常道を行く論調で、「悪影響の対策としてスマホ脳になった人たちには実行できそうもないこと」ばかりが書いてある。まあ、昔から「依存になったものが依存から脱出するのはむずかしい」。
 岩波の「10代と考える『スマホ』」(竹内和雄・ジュニアスタートブックス)も対策マニュアルがあったが、読んでみて、これを依存者に実行できるわけがないと思った。
 昔から、子どもとテレビ、あるいはテレビゲームの対策法がいろいろ出されたが、「時間を決めて!」「親が管理」・・・そんな甘いことでテレビ依存が、あるいはゲーム依存が治ったら、この世は極楽というものである。「最強脳」も言わんとすることはいちいちごもっともだが、人間というものが「対策を実行できる動物かそうでないか」がしょうもないものをつくりだして、そのしようもないものにハマっていき、結果、破綻するのが人間ではないか。
 作り出す時は、「夢と希望」で明るい未来を煽り、やがてどうにもならなくなって否定も破壊もできなくなる。原発やリニアなどその代表だが、現代人は楽と便利にだまされて負の結果を考えないように生きている。考えると怖くなるからだ。

本とともに過ごしてきて

 甲府市 Tさん 息子さん(高1) 娘さん(中1)

 ゆめやさんとの出会いは、NHKの番組を拝見して、電話番号もメールアドレスも載っていないHPから住所頼りに訪ねた14年前のことでした。温かなお店の雰囲気と、風刺画と毒舌溢れる「夢新聞」とのギャップにドキドキしながらの入会でしたが…配本を受け取りながらご夫婦とお話するのが毎月の楽しみになりました。
 ゆめやさんの辛口の文章には耳の痛い事ばかりですが、世の中に流されずに、常に考え続けて欲しいと願う愛情と、読み聞かせの時間を大切に考える親子への信頼を感じます。流されがちな自分を戒め、自分の考えをしっかり持って子どもと話し合える親でありたいと頑張る力になりました。ありがとうございました。
 残念ながら、長男はあまり読書をしない子に育ち、娘はそれなりに読むけれど、読書家というほどでもなく・・・・。子育て思うようにはいきませんね。それでも、毎晩寝る前に絵本を読み聞かせた時間はかけがえのないものだったな、と思います。
 私より背が高くなった娘を連れて行くと、木のおもちゃで遊ぶ子を見て「小さいころ、ゆめやさんに来るの楽しかったなぁ。私も子どもが生まれたら、ここに連れてきたい」と言っています。お体に気をつけて、いつまでも親子の心の拠りどころとして、この素敵なお店を開けていていただきたいと願っています。

《ゆめやより》
 そうだったんですか!! そんなにドキドキいらっしゃったという感じは記憶にありません。あの番組はローカルでもBSでも何度も流され、最後はNHK Worldでも流れて外国の会員や友人から「見たよ!」と言われました。「これで悪いことができなくなったぁ」と思いましたよ(笑)。毒舌と風刺とおっしゃいますが(笑)、これもただ言うだけならたやすいものでお笑い芸人と同じ。でも言った限り守らねばならないのでなかなか大変なのです(笑)。
 言葉で商売してますから、言ったことは実行したり、守ったりしなければならないつらさがあります。狭い町ですから監視の目も、ありますからね(笑)。14年前ならスマホ、ケータイの時期・・・これを批判したので、いまだ私ケータイ、スマホ持てません。そんな物がなくて生きてきたので別に困りませんが、着信も年中気にしなくていいので忙しくもならないのでヨシとしてます。こんな市場原理で動いている時代にいつまで店を続けられるかはわかりませんが、できるかぎり踏ん張ってやっていこうと思っています。でもお嬢さんのお子さんへの配本はどう考えても無理ですよ(笑)。不老長寿の薬を差し入れてください。それができなかったら配本を大切に取っておいてください。

就学児配本について

 新年度の始まりは初めから多難。忙しい春でした。変更プログラムも個別にハンパなく多く、かなり時間的に消耗して多くの会員の方にご迷惑をおかけしました。すみません。
 まあ世の中全体の変化の影響が出てきている最初の時期なのかもしれません。紙からデジタルへが急速に進んでいますから、読書でもさまざまな問題が起きます。
 ブッククラブでは予告なしの「絶版」「再版中」という現象に振り回されています。就学児は一年間の予定を立てて配本していきますから、1冊や2冊ならともかく5冊も6冊もとなると配本構造が崩れてしまいます。クズ本ならともかく長い間、親しまれてきた本が絶版になるのは世の中の崩れが反映されているようで悲しくなります。新刊本でも採用したとたんに絶版というものも増えてきました。いかに子どもの本が売れなくなっているかを表すものですね。
 就学児の配本体系にはいつも頭を悩ませられます。中学年で読書挫折がおおくなっているので、なんとか配本で関心をもってもらうために、くだけた本を入れたり、読みやすい、読みにくいを交互に配本したり・・・頭を悩ませます。さらに高学年では、学校や周辺で流行るライトノベルや受け狙い小説などに流れる子も多いので、基本的なものを読んでもらうためのしかけも考えなくてはなりません。冊数が決まっている中で、改めて組み合わせをするのは大変ですが、ともすれば流れに乗りやすい風潮の中でなんとか独自の読み方ができるようにすることは大事なことです。
 子どもの好みは基礎的なものをクリアしてから大切にすべきで、最初から認めれば水は低きに流れていくのは当たり前ですからね。ここは踏ん張るよりありません。
 個別対応はゆめやの配本原則ですので、なにかあればご連絡ください。できるかぎりの対応はしようと思っています。

長い長い会員の話③

 エマちゃんのお母さん・望月美聰さんは毎月受け取りの会員なので、来店するとよく話をします。エマちゃんのおばあちゃん・望月郁美さんはブッククラブの三十数年前の古い会員、その息子さんのおよめさんがエマちゃんのお母さんというわけです。
 で、「おばあちゃんは誰の紹介でブッククラブに入ったんでしょうね。」と尋ねると、「柳町の石原さんの紹介」。石原さんはブッククラブが始まった40年前の最初の会員8人の一人です。このころの記録は失われていますが、8人とも店(上の写真)の近くだったのでよく覚えています。
 下の写真。この写真の店舗を知っている方は中年以上の方でしょうね。最初の8人は、ノート管理で用が足りました。ノートは残っていますが色褪せたCampasNoteで、なつかしい絵本や児童書が並んでいます。数年前までは99%の会員の紹介者をさかのぼっていくと、みんな最初の8人にたどり着きます。Windows95から会員記録は名前で残っていますが、詳細は残っていません。もう住所録は役に立ちませんね、この長い時間の経過では。
 エマちゃんのおばあちゃん・望月郁美さんも受け取り会員だったので、たくさんの話をしました。またお会いして、40年前の話を・・・・なんて言ったら、「長い長いロウジンの話」になりそうです。

42年前・・・・

 かつて、ゆめやがあった甲府の中心部、いまはみんな町から脱出して駐車場街に変貌してしまいました。バブルのときに一大飲食店街になったのに、たった十年で衰退です。町に品がなくなれば衰えていくのはあたりまえですけどね。40年前は映画「三丁目の夕日」のように活気がある町でした。
 思えば長い時間が経ったようです。十年一日が四十年一日のように感じます。考えてみれば会員の流れもジジババ・パパママ・マゴマゴの三世代が過ぎているのですからね。
 でもまあ、行く川の流れは絶えずしていつも元の水にあらず・・・こっちが変わらないでいくと時代遅れにはなります、ですね。でもまあ、変化がないのは安心ももたらします。日本のこの40年の変化は大きすぎます。やがて、行き過ぎはどこかで大きな迷い道に入りそうです。



(2022年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ