ブッククラブニュース
令和4年
5月号(発達年齢ブッククラブ)

2022年6月の予定

休業日は日曜・月曜、祝祭日、臨時休業はありません。
 ※9月30日までは夏時間の午前10時30分〜午後6時30分
 受け取りの方で午後6時30分以降に来てしまった方は電話かピンポンで呼び出してください。店を開けます・・・・。
 【コロナ対応について】
 4〜5月は変異株が急速に広がり山梨も3桁台の感染者が出ました。ただ軽症・無発症が多く、弱毒化は進んでいるようです。ワクチンの成果ではなくウイルス自体が終息に向かっているのだと思います。人を殺しつくしたら自分も生きられないので、弱くなって多くの人にかかり、自分を残そうとしているのではないでしょうか。スペイン風邪もそうで、いまだにその名残がインフルエンザとして残っていますからね。ただ、観光・行楽にこらえ性のない日本人が増えていますから、GW以後は感染者が増えるでしょう。軽症の蔓延でよかったです。ただ風邪と同じでひかないのに越したことはありません。とりあえずご来店の際は、今まで通りの対応をしていきます。
 対応はこれまで通りです。とりあえずご来店の際は、今まで通りの対応をしていきます。
 ①お子様のマスクは強制しません。
 ②さすがに2年続くとマスクでお顔が判別できないので、お名前をどうぞ。
 ③事前にご連絡いただけば、2〜3ケ月分は用意できます。
 ④恐れ入りますが、混雑したらぜひ新しいお客様に席をお譲りください。
 ⑤土曜日は当分、飲み物サービスは中止いたします。
 ⑥次の来客があったら、恐縮ですが入れ替わってください。
 発送切り替えも可
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 ご理解のうえご協力ください。ゆめや店主 5月10日

紙の本はなくなる?

 コロナで、急速にデジタル化が進みました。ますます、人が対面や実物で生活する機会が減りそうです。本もそうなるかな。
 昨年、日本全国の書店数8700ちょっと。十年前の半分になりました。すごい勢いで書店は激減です。二十年前は全国で2万軒以上ありましたからね。数年前から毎日一軒平均で減っていく。ただでさえ危機の児童書専門店など、まさに風前の灯です。なにしろ赤ん坊をYoutubeであやし、2歳児にデジタル読み聞かせをする親の世代になってますからね。いずれ家庭内も世の中も一波乱起こるでしょう。知らねぇぞぉ〜おいらは(笑)。
 甲府の例を出しますと、20年前は30数店舗あった書店が17店舗になっています。この中にはスーパーに出店しているチェーン店もあればBOOK OFFのような古書店もあるので、書店として営業しているのは、13店舗ちょっと。
 生き残っている書店で、ゆめや以外は教科書販売、地域の学校や公立図書館への納品などで生き延びているわけで、客を確保する営業だけで生き残っているところは甲府では1,2店舗だと思います。ほとんどが既得権という行政橋渡しのおこぼれで生きていますから、あまり文句も言えないのでしょう。
 それでも本屋の数が減っていくのは、テレビを始め情報媒体が低きに流れ、手軽で便利・・・軽佻浮薄だけを楽しむようになったからかもしれません。コロナ禍はさらに書店の淘汰に拍車をかけています。飲食店に手厚く、書店には手が及ばない・・・・これも、国民が求めているものが、だんだん政治が原始的で粗野になっていくのがわかります。

少子化の時代

 映像媒体全盛の時代・・・子どもたちが、どのような物に囲まれるか・・・大手の児童書出版社が、紙の本が売れないので、困って書籍をネット配信する時代です。これでは町の書店はやっていかれなくなります。いきおい、売るためには低劣なものでもいいから棚に置く。まだそれならいいですが、ネット販売でわけもわからず、評価コメントだよりで注文してしまう人も増えました。私どもゆめやは会員の皆様のお蔭で何とか42年を乗り切ることができましたが、「この次の十年はむずかしいなぁ」と思っています。まともな本の絶版が相次いでいますから、配本の質や幅を維持できるかどうか、が、究極の問題です。本に触れることができた世代は幸せということです。
 ゆめやはネット通販とは違って、売るのにけっこうの経費と手間をかけています。お客さまとの交流も細かくしてますが、世の中の流れに応じてなんとなく世の中が変質している傾向も感じます。いずれ本を買って読みきかせをする家庭も減っていくでしょう。いまだって、会員は昔と違って、余裕のある裕福な方々ばかりになっていますからね。デジタル世代が親になれば、もうこれは歯止めがきかないでしょう。
 これからは多くの若い親は平気でyoutubeの読み聞かせで育てます。それならまだいいほうで、読み聞かせ自体をまったくしない親も出てきます。忙しいを理由に読み聞かせどころか遊んでやることもしない親も増加するでしょう。とにかく子どもの頭がおかしくなる時代は確実に来ます。

異様な事件

 国民の80%は文学作品を教科書の抜粋でしか読んでいないという統計も出ていますから、当然、考えもなしに子どもにゲームをさせ、過激映像も見せるでしょうね。とにかく、学習雑誌が小学生にファッションやお化粧の方法まで特集するわけで、これでは刺激を受けて甲府の放火殺人(LINEをブロックされ少女の両親を惨殺・放火)少年が四月に実名で報道されていました。ここまで行かなくてもゲーム、アニメ、バーチャルリアリティ映像で精神をやられる子は、すでに出ており、これからもどんどん出ますよね。大人も、ますます無責任化してきています。
 最近、小学校でなんらかの発達障害、精神障害の児童が激増している話を聞いたことがありませんか。ゆめやの近くの学校でも全学年で12クラス300人ちょっとの学校で3クラスの特別支援学級があるというのです。十数人はしるということになります。先天性もあるでしょうが、幼児期の環境が原因ということはないでしょうか。
 先日、ある親から3歳になった子が「本に興味を示さないのでどういうものでしょうか?」という話が出ました。本だけ与えて読み聞かせをしてきたのかどうか知りませんが、家事なので忙しいので1歳から時間稼ぎでYoutubeを見せていたというのです。Youtubeを見ているときはおとなしいが、本にはまったく興味を示さないというので「こりゃ、だめだ!」と読み聞かせを薦めませんでした。親がそういうことしかできなければ、これはもう対策はないのです。
 ゆめやは、時代遅れは承知で、サブカルチャー批判、リアルな体験の推奨を呼び掛けてきましたし、これからもめげずに言い続けようと思います。そして、これからも、やれる限りはふんばって、子どもたちにすぐれた本を薦めてみたいと思います。中には「紙の本を読むおかしな子(笑)」も出てくるでしょう。紙は神に通じ、デジタルはデビルに通じる(笑)を信じて、これまで通り、精一杯やっていこうと思います。いつか、「あの時代は異常だった!」「なんで、みんなあんなものにはまったんだろう?」という時が来ます。
 なにはともあれ今年度もご支援とご協力をお願い申し上げます。(ニュース一部閲覧)

ミチとキチ

 若いころ不思議な体験をしたことが何度かある。一度も来たことがない場所で「ここは前に来て知っている」という感じにとらわれること。
 一度は北アルプスの山波が美しい信州の神城という村の田んぼ道のわきを通ったとき。
 二度目は奈良の西の京の通りを歩いて角をまがったとき。
 ここでも「来たことがある!」と感じた。もちろん長野も奈良もその時が初めての訪問である。いずれも二十歳過ごろの若い時で、奈良で角を曲がったときには、その向こうにある風景まで分かっていた、という何ともゾゾっとした体験になった。みなさんには、こういう体験はないだろうか。
 これを人に話すと「それは前世に、そこに住んでいたか、通ったことがあって、記憶がよみがえったのだろう。」などとスピリチュアルな世界に持って行かれそうになる。前世の記憶・・・前世が証明できないから、いつの時代でもまかり通る考え方である。
 若いころは、「そういうこともあるか!」と思っていたが、それから50年後に同じことをまた体験した。山形の米沢から大峠を越えて喜多方の町に入ったとき、通りの風景を見て「あ、ここ来たことがある! この先の橋の横にお堂があるはず。」とまで感じた。実際は、お堂ではなくお寺の門だったが、喜多方も、また生まれてこのかた一度も来たことがないところだった。

失われた時を求めて

 こういう心理現象が高年齢の旅でも起こるとすると、単純に感受性の強い青春時代だけに起こるものではなさそうだ。
 少し、条件が違うが、ある種の匂いを嗅いだときに、過去に見た風景がふと現われることがある。私のばあいは、藁(わら)の匂いで、これを嗅ぐと4,5歳の頃の母の実家の「朝」の「垣根がある庭」にある「物置小屋」が頭に浮かぶ。これは何度も同じことが起こる。みなさんはそういう体験がありませんか?
 プルーストの「失われた時を求めて」の中にオレンジの匂いを嗅いだ人が昔の情景を思い出すシーンがあったが、記憶が戻るのは視覚だけではなく嗅覚でも起こるのかもしれない。
 こんなことを考えていたら、「来たことがある」体験は、じつは昔読んだ本のあるページで想像した風景だったかもしれないと思った。信州の田んぼ道は、行ったことがないところだった。奈良でも同じ・・・ここは、それまで似たようなところにも行っていなかった風景である。しかし、どこかで見たことがある感じ。
 と、いうことは、似通った場所に行ったときにフラッシュ・バックで頭に浮かぶのではないか。
 読んだときに想像した風景はやがて忘れてしまうが、共通したものを体験すると、ふと浮かび上がるということである。まったく関連がないはずの記憶がどこかでピタリと合わさって「ここは来たことがある」という既知(キチ)感が出るということなのかもしれない。もちろん初めて訪れた場所なので未知(ミチ)なのは当たり前である。ミチとキチ。これがバラバラではあるが連鎖しているのかもしれない。

体験の小ささ・想像の大きさ

 人の記憶は、時間系列で積み重なるものではなくランダムにつながっているのだろう。その意味では、未知は既知のものであるし、既知は未知のものである。早い話、読んで想像した体験が、似通った行動をすることで感覚がよみがえるということだ。
 なるほど記憶を手繰ってみると、高校生の頃、北杜夫の「どくとるまんぼう青春記」や芥川龍之介の「河童」を読んでいた。ここは信州の森や北アルプスを想像する場面が頻繁に出てくる。
 奈良の西ノ京も関連する本は亀井勝一郎や和辻哲郎の本は言うまでもなく、土門拳の写真集まで見ていた。角を曲がって、その先に何か見える連想はそこからだったかもしれない。
 こう考えると、実体験した記憶は意外にあいまいで忘れることも多いのだと思う。しかし、想像した未体験の記憶も何かを見たとき、嗅いだ時に瞬間的に心象現象として現れ、アイディアのきっかけになったり、ノスタルジックな感傷の要素になるではなかろうか。文字から生み出される人間の想像力は、とんでもないところで大きな力を生み出すのかもしれない。(新聞一部閲覧)

四角四面は豆腐屋の娘 色は白いが水臭い

 よく寅さんが使う言葉である。豆腐はきちんと四角、その豆腐屋で働く娘は朝早くから起きて日焼けしない。水洗いなどで水扱い専門の仕事だから水臭い・・・という意味。「融通がきかない」ということである。
 四角四面・・・物事をアバウト、ファジーにできない神経症を皮肉る表現だ。ところが、これがコンピューターの発達によってどんどん進んでしまった。郵便局の窓口で局員が手紙の重さを計り、0.5gでもオーバーすると切手を余計に貼れと言う。宅急便のパックの厚さが5cmを0.5cm越えたら、もう受け付けない。前はそんなことはなかったのに。昔からお役所仕事はこうだったから、それがコンピューターの浸透で一般企業でもお役所的管理で、儲け!儲け!に向かっている。利用者のわれわれはなんとなく息苦しさを感じる。
 しかし、企業内で、こんな細かいことを上からガタガタ言われて、指示されたプログラム通りに働いていたら、従業員たちはわれわれ客より息苦しくなるだろう。上司、管理職はモラルハザードのバブル体験・50歳代、60歳代。パワハラやセクハラが加われば社員は鬱病や自殺に向かいかねない。
 人間は、四角四面には物事ができない動物だ。しかし、きちんとこなさないと成績にかかわり、評価が下がる。だが、機械のように働いていたら頭も体も壊れてくる。肉体面なら息抜きをすれば回復するかもしれないが、精神面では一度狂うとなかなか正常化できない。

丸くおさめましょう

 しかも世間一般では、世の中の流れがデジタル化で速くなっているから、相手のことなど考えている余裕がない。この社会は脱落した人、壊れた人など打ち捨てて進んでいく。優しさはない。
 あまりにも多くのことが次々に起きて、良いことも悪いことも、忘れられるのが早い時代だからだ。コンピューターというのは「時計を内蔵して人を追い立てる」機械だ。よほどノンビリと付き合わないとメンタルをやられる。完璧など目指してはいけないと思う。いくら懸命に努力して働いても良いことはすぐに忘れられて、失敗は指摘される。上の方は、いい加減なことを言ったりやったりしても、悪事を働いても、悪いことはすぐに忘れてもらえて、お咎めナシ。こうなれば、下も良いことをしようという気が失せ、「悪いことをした方が得だ!」ということになって世の中はどんどん悪くなる。豆腐など四角でも丸くても味がよければそれでいいのに、四角四面は生きづらいものになるよ。



(2022年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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