ブッククラブニュース
令和4年
2月号(発達年齢ブッククラブ)

2022年2月の予定

休業日は日曜・月曜、2月は臨時休業はありません
 営業時間は冬時間、午前10時30分〜午後6時まで。
 受け取りの方で午後6時以降に来てしまった方は電話で呼び出してください。店を開けます・・・・。
 【コロナ対応について】
 オミクロン株が急速に広がりました。軽症・無発症が多く、弱毒化は進んでいるようです。ワクチンの成果だけではなく終息に向かっているのだと思います。予防は大切かと思いますが、過度に怖がる必要はなくなったようです。でも、風邪と同じでひかないのに越したことはありません。とりあえずご来店の際は、今まで通りの対応をしていきます。
 ①お子様のマスクは強制しません。
 ②マスク着用はお顔が判別できないので、お名前をどうぞ。
 ③事前にご連絡いただけば、2〜3ケ月分は用意できます。
 ④恐れ入りますが、混雑したらぜひ新しいお客様に席をお譲りください。
 ⑤当分、飲み物サービスは中止いたします。
 ⑥次の来客があったら、恐縮ですが入れ替わってください。
 ⑦念のため毎回テーブル消毒・換気もしますが気になさらないでください。
 受け取り可能時間(10:30am〜18:00pm 冬時間)です。
発送切り替えも可
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。
 ご理解のうえご協力ください。ゆめや店主 2月1日

一時代が終わる 追悼・松岡享子さん

 先月25日に松岡享子さんがお亡くなりになった。左は松岡さん(大の猫好き)が、ゆめやを訪れてマスコット・キャットのミーちゃんを抱いているときのショット。
 ゆっくりお茶を飲みながら、子どもの本の話をしたが、私がブッククラブのやり方を説明すると「こういう手渡し方もあるのねぇ」というお言葉があり、熱心に配本表の選書をご覧になっていたことを思い出した。児童書は「子どもたちに図書館などの施設が貸すもの」と思っておられた方だから、「子どもの本を配本形式で売る」というのに驚いたのかもしれない。
 「自由に選んで読む」というのが基本姿勢だったと思う。ブッククラブ配本は子どもへの押し付けのように見えたかな(笑)。
 若いころアメリカに留学し、ボルティモア市立図書館で働いたのちに帰国して、「松の実文庫」を開いて子どもたちへ本を手渡す、いわば児童書紹介の草分けのような方だ。アメリカの児童書事情を学んだわけだ。1974年に児童文学者の石井桃子さんらと東京子ども図書館を設立した立役者で、全国の児童図書館の発展に尽力した方だった。日本の児童文学勃興の第二期といえる時代だ。こういう方々が次々にお亡くなりになっていく。
 もちろん、その時代からずっと一世を風靡してきたすぐれた児童文学者、絵本作家も近年、多くの方が他界している。上野紀子さん、わかやまけんさん、かこさとしさん、安野光雅さんなどなど。
 一時代が終わったな、と感じる。第三期の気鋭の作家の人々は健在だが、さすがにいずれも御歳にはなっている。その後に続く人々は、まだ海のものとも山のものとつかない不安定な作品群を数だけは出している。
 個人的には、松岡さんの功績は大きいと感じている。なによりまだまだ子どもの本が充実していない時期にそれを普及する活動を始めた人だ。家庭文庫活動というのは多くが自分の子を読書環境に置こうとして、その後全国でブームが起きたが、自分の子どもが成長すると自然消滅状態になっていった。そういう中で一貫して子ども本の普及活動をつづけたことはかなり大きい影響を世の中に広げたと評価してもいいのではないか。

絵本いろいろ・3度目の大変化

 日本の子どもの本の歴史は、そう古くない。児童書というものができ始めたのが100年ちょっと前で(そのまえもないことはなかったが)、社会的に子どもの本・絵本が出て来たのは戦後である。芥川龍之介の子ども向け三部作(蜘蛛の糸など)、新美南吉(ごんぎつねなど)、小川未明(赤い蝋燭と人魚など)、浜田広介(泣いた赤鬼など)あたりを草創期だとすると、古田足日(おしいれのぼうけんなど)や鳥越信(子どもの本の選び方など)から始まった第二期の子どもの本変革運動は大変化を起こした。絵本は1960年代に翻訳本(石井桃子・松岡享子など)や和製の松谷みよ子(いないいないばあなど)や中川李枝子(ぐりとぐらなど)ら日本の絵本作者が第一次黄金時代をつくった。
 そこから現在に続いてきたが、読み物の児童書は1980年あたりから次第に衰退しはじめて、現在ではラノベに代表されるようなものに変化している。絵本は2000年を越えても人気はあったが、かつての黄金期に登場した名作と呼ばれるものは読まれなくなったり、古びたりしてきている。デジタル化の波もあり、読み聞かせで育てる家庭も多忙の中で減ってきていて、絵本も先行きが暗い感じはしている。絵本も内容そのものより、いかに売れるかにシフトしてきているので、この先どうなるかはわからない。絵本ブームの中でしっかりした名作を生み出してきた作家たちも次々にお亡くなりになり、新鋭・気鋭の若手作家が出てきてはいるものの、かつてのような大ヒット作はなかなか出ない。あまりにも多くの本が出過ぎたために、何を作っていいかわからなくなっているのだろう。時代は大きく変わりつつあり、次はどうなるか?

視野が広かった

 私は、数回、講演を聞いて話もさせていただいたことがあるが、識字率を高めることに注力している姿勢に打たれた。日本で識字率といっても「誰もが字が読める」からあまりピンとこないが、世界には字が読めない子どもや人がたくさんいて、識字率を高めることは世界から争いをなくすことだと力説していた。まったく、そのとおりである。
 もちろん活動家としてばかりでなく、作家でもあり、著書に絵本「なぞなぞのすきな女の子」があるし、訳書には「くまのパディントン」があり、これはブッククラブ配本でも長らく主力選書の中に入っている。とくに「くまのパディントン」は高学年の基本図書に入る入り口の本で、これが読めて好きになれば配本責任者ゆめやは「育てたな!」と思う一安心の本である。また、基本配本で長らく「番ねずみのヤカちゃん」を入れてきたが、いずれもウイットに富んだ深みのある作品である。

読み聞かせ・いろいろ ⑧ 3歳―2

 3歳も後半になると、ストーリーはしっかりしたものになりますが、その流れをつかむ力も飛躍的に増しますので、かなり複雑な筋立てのものや、親がむずかしいと思うような言葉でもじゅうぶんに楽しめるようになります。
 しかし、数や時間に対する観念は、まだ希薄なので、理解力が出たからといって、時計や計算などを教えるにはまだ早いです。丸暗記は2歳からの特技ですが、理屈を知るのはまだ先で、まだまだ感じることで楽しむ年齢。無理は禁物です。記憶力は最高潮(おそらく一番高くなる)に達するので、言葉もいろいろな関係もどんどん覚えていくし、信じられないほど細かい部分への観察力も働きます。親はすごいと錯覚しますが、一時的なものです。軽はずみな親は、フラッシュカードとか○○式学習などで子どもの才能を磨こうとします。記憶の盛り上がりを、もっと伸ばしたいという気持ちもわからないではないのですが、この段階で大人が決めた『約束事』の世界へ入れてしまうのは早過ぎるというものです。

早期教育はやめたほうが

 例えば2歳男児で、自動車や電車、怪獣に強い関心を持つ子が3歳くらいになると、車種や名称をじつによくおぼえます。
 そうすると親も祖父母も「天才だ!」とばかりに図鑑攻めをすることがあります。強い関心があるので子どもは覚えますが、この記憶は6歳にもなればすっかり消し飛んでしまうのがふつうです。こうなると1対1対応(これはこれ、あれはあれ)の覚えるパターンだけが刷り込まれ、想像力を使って物語を読んでいく基礎がなくなってしまいます。これでは困りますので、ゆめやではあまり図鑑的なものは配本には入れません。物語の中に登場する自動車、電車の本くらいで抑えます。この写真のお子さんのように自動車がテーマではなく、物語が主体のほんで乗り物や怪獣を楽しみ、そこから読書につなげるというのが本筋でしょう。ここをうまく切り抜けないと大変なこと(頭がオタク化して、その分野だけにだけ関心が傾き、7,8歳に読書力が出てこない)が起こる可能性があるからです。まあ、物語を読み聞かせながら親も楽しめる内容なので、ぜひ何度か読んだら、その話を日常の中の会話で持ち出してください。3歳後半あたりの本から、楽しめた内容のものは大人になっても記憶していることが多いです。(ニュース一部閲覧)

おーさむ、こさむ 山から小僧が

 1月下旬から零下7度、8度という夜が続き、夜間の仕事の多いゆめやは震えあがりながら仕事をしています。一年で一番、夜中の仕事が多い時期で、寒さには辟易してます。
 今年は諏訪湖が全面氷結しましたから、久しぶりに神渡りが見えるかも。おーさむこさむと言いながら、行ってみようかな。
 温暖化というのは、世界中に広まった嘘(フェイク)で脱炭素と言いながら儲かる原発にシフトしたいがためのアジテーションかも?なんて思ったりします(笑)。アメリカも大寒波に襲われ、日本も低温列島となっていますからね。ウクライナも雪の中だし、ヨーロッパも寒さの中でオミクロン株が猛威を振るってます。で、ヒマに任せて、温暖化説を唱える人たちの論を少し読んでみましたが、どうもヒートアイランド化で気温が上昇しているわけで、最初に彼らが力説したツバルは予測の2000年をはるかに越えて海面下に沈んでいないし、氷河の氷が崩れるお得意の映像も氷河というのはもともと海に押し出されてくるものでさほど異常なことではないと思うのです。そりゃあ人口1000万人の大都市が夏冬エアコンで排気をすれば、周辺都市は暑くなるのは当たり前です。炭素の問題より電気の問題で、火力発電所をなくしても原子力発電所が動けばヒートアイランドにはなる。節約という言葉が聞かれないのが怪しい証拠です。
 南極も真夏でも氷は消えませんし、・・・不安定で値段が変わる石油や石炭より安定した原発のほうが得だという勢力が働いているのかもしれません。まあ、そんなことはどうでもいいことで、まずは身近な危機が迫っていますが、そのコロナもなんだかなぁという空騒ぎに見えます。やたらにワクチン接種を進める・・・ファイザーを希望しているのにモデルナを薦めるのは在庫処分かもしれない、なんてね。だいたい、ブレークスルーって英語を使われるとごまかされるが、早い話、「効かない」ってことじゃないか、なんて思ったりして(笑)。(新聞一部閲覧)

おぢいさんのランプ

 21世紀の世の中はあわただしい。時代と生活のスピードが速い。古いものはすぐ消え、新しいものへ。あたらしいものはすぐに陳腐なものに・・・。
 起業100社のうち十年後に残っている企業は10%もないという。
 ゆめやは創業41年だが、零細も零細、ジジババ二人のお店屋さんだ。でも、鬼門の十年はクリアした。いや、逆に零細だからこそ長続きしたのかも・・・である。周囲では同業者がどんどん消える。デジタル化の影響もあれば、流通の変化もある。時代の大波に呑まれて消えていくものはそれなりの運命だろう。いずれ多くは消えていく。いくら価値があり良いものでも消えるし、しようもない悪影響を飛ばすものでも残るものがある。この不条理は人知の及ぶところではない。
 どうして人は変化を好むのか、コツコツと努力するより便利がすきなのか? これは人類学でも行動学でもまだまだ答えを出せない人間の特性といえる。それにどう対処するか・・・それはすぐれた作家が描いてくれているので読んで、参考にするよりないだろう。
 表題の「おぢいさんのランプ」は新美南吉の作品。読んでない人のために・・(知っている人は飛ばしてね)あらすじ抜粋で下に掲げよう。

《あらすじ》は・・・・

 少年がかくれんぼの最中に蔵でランプを見つける。持ち出して見ていると、少年のおじいさんは「そんなものを持ち出すな! 遊ぶものはいくらでもあるだろう!」と叱る。そして、おじいさんはある話を始める。
 時は明治の終わり頃。村に巳之助という子がいた。両親も親戚もいない全くの孤児。子守りや米搗きなど何でも仕事をし、村に置いてもらっている。ある日、町に行った巳之助は、初めてランプを見た。その明るさに感動した彼は、村の夜を明るくしたいと考え、ランプを仕入れて売り始め、生計を立てていく。
 売り口上で「畳の上に新聞をおいて読める」と言っていたが、じつは、巳之助は文盲。それが恥ずかしくなって、区長に字を教わり、書物を読み始めるのである。
 彼はランプ屋として成功したが、いつしか村では電気を引く計画が立てられる。電灯が灯されればランプは不要。巳之助は電気に反対するが、時代の流れは容赦ない。村へ電気がやってくる。
 彼は電気導入を指導した区長を恨み、彼の家に火を放とうとする。手元にはマッチがなかったので、代わりに火打石を使うが火がつかない。いらだった彼は、「古くさい物は、いざというとき役に立たねえ」と怒鳴ってしまうのだ。その瞬間、彼は自身の誤りを悟る。「そうか、今やランプは時代遅れなのだ」と。彼は、家にあるすべてのランプに灯油を注いで火を点す。泣きながらそれに石を投げつけ、すべてを壊してしまう。
 そしてランプ屋を廃業して、町に出て本屋をはじめるのである。次の時代、世の中を明るくするのは本だと思ったからだろう。もちろん、その巳之助はかくれんぼ少年の祖父なのだ。
 「・・・世の中が進歩して自分の商売が役に立たなくなったら、すっぱりそいつを捨てるんだ。昔にすがりついたり、時代を恨んだりしてはいけないよ。」と孫に言いながら。

《さて現代は・・・》

 電気の代わりにやってきたのはインターネットのパソコン、スマホだ。郵便、映画館、商店・・・レコード、カセットテープ、CD、DVD、時代遅れになっていくものは無数にある。人間は楽で便利に走る。南吉は、そこまで見通していたようだ。その意味でも私の心を強く打った作。 いずれ、スマホもネットも別のものに置き換わるときがやってくる。
 まあ、何はともあれ、これから、この国はめぐるましく変わる。コロナはさらに楽で便利な物に人を向かわせ、人と人を離れさせる。人はつながっているような錯覚を持つだけである。ネットでつながりすぎた世界に飽き飽きして、その不毛さに嫌悪感が出てくる時期がかならず来る。そう考える人たちは思う。
 「楽で便利なもの」が幸福をもたらすか、それとも世の中を壊すか。金をたくさん持てば人生は明るくなるのか。経済成長が国を豊かにさせるのか・・・と。
 そして、今様の便利な道具は、子どもたちの未来にどういう「明るい時代」をもたらしてくれるのだろう。過去は再現できないが、未来もまたじつはどうやってくるか、明るいか暗いかはわからない。現在を一生懸命やっていくよりないのはいつの時代も同じだと思う。
 過去を振り返って懐かしむだけでは現在を否定するだけとなる。また未来にバラ色の夢ばかり見て夢だ!希望だ!などとお題目を唱えてもそうなることはまずない。

自分で考える力??

⑧楽で便利という落とし穴

 コロナによる2年間の変化を見ていて、この先、かなり世の中は変わる、人も子どももさらに変わると感じた。いままで何となく習慣や常識でやってきたことが「しなくてすむ」ようになったことが、コロナがもたらした変化の大きな要素だと思う。入院した人をお見舞いに行かなくていい、お葬式も結婚式も省略や簡素化・・・会社や学校への通勤・通学もしなくていい、義理で参加していた飲み会も行かなくていい、・・・あらゆることで「大したことではない」という感覚が芽生えてくるだろう。つまり、かかっていた負荷が外れて、「意味があるように見えたもの」が、じつは「どうでもいいもの」に見えてくるからである。世の中は無駄でできていることは、そういう観点から見れば「無駄である」にちがいない。しかし、この無駄は人と人をつなげる重要な無駄でもある。生(なま)の対面で人間がつながるようになったのは人類が集団化してこのかた取られてきた手法である。これが電子画面や電子音声で置き換わったら進化の歴史に変化が起きるだろう。
 この影響が広がるとまずいことも起こる。みんな楽で便利なほうにばかり流れていくからだ。世の中には意味のあることや重要なことはそうそうあるものではない。資格や学歴や資産や情報も究極のところはさほど重要でないことが多いのである。それで生活するには必要条件の可能性もあるが十分条件ではない。

一度、電気の通ったものは・・・

 問題は、その必要条件がどんどん手軽に手に入るとどうなるか。墨をすって習字などしないでタブレットの書き順通りに電子ペンを動かす、厚い辞書など引かないで電子辞書をPushする。手軽で便利だ。なんで今まであんな面倒なことをしていたのだろうと思う。Zoom授業は友達と顔を合わせないので気を使わないですむから楽である。「これで学習できるなら人付き合いなどなくして画面でお勉強だけしていれば済むじゃん!」「読み聞かせなどYoutubeを見せればいいじゃん!」という人も出てくるだろう。
 「無意味で不要」は「面倒で気を使うものもの」「時間がかかるもの」になる。組織や儀式、集団や共同作業・・・合理的に考える人々は、「無駄だ!」と言い始めるはずである。楽で便利のほうがいい。買い物に行く手間よりネットで注文すれば楽、いちいち見て回るよりスマホに聞いてBestを教えてもらう。苦労するより手っ取り早い楽がいい。長い小説を読むより「映画で見れば楽じゃん!」「ついでに倍速で観れば便利じゃん!」・・・読書も速読、読み聞かせも倍速で!
 ところが多くの人は、「世の中の流れに逆らわず、何でも受け入れた方がいい」というのがふつうの考えである。作品や物の良し悪しなどどうでもよく、流れに乗ることそのものが得になると思っているかのようである。
 この傾向は、すでに現実を体験して面倒に思う大人より、子どものほうが早く取り入れ、どんどん楽で便利な方向に進んでいくのでわかるだろう。当然、省略や飛ばし、手つかずは増えていく。さて、その究極、「楽で便利な結果はどうなるか」。やがて生活をするのも面倒になる人は出てこないだろうか。そうなったらどうなるだろう。生きるのも面倒にならないだろうか。すでに、そういう人々がチラホラ出てきて、悲しい事件を起こしたり、自滅したりしている。孤独で自暴自棄になる可能性もあるかもしれない。
 面倒なことは生きる実感を与えてくれることもある・・・ことに気が付かないのかね。「楽で便利」の落とし穴に落ちないよう、たまには手をかけて不便なこともしなくてはね。自分に負荷をかけると、考える力ができたりして、いろいろな意味で良い面が多いことに気がつくのだけど・・・・だめかな。(増ページ一部閲覧)

「本とともに過ごしてきて」 

 甲府市 K・Tさん お子さん小6女子
 寝る前に絵本の読み聞かせをしなくなってどれくらいたっただろうか。
 先日そんな話になったとき、娘が私のお気に入り絵本ベスト3はね…と話し出した。1位は「もりのひなまつり」、2位は「はじめてのおつかい」、3位は「ばばばあちゃんのアイス・パーティー」だった。3位は何がどう凍ったのかをじっくり見ていた。
 他にも「りんごかもしれない」の五十音のりんごや「100かいだてのいえ」の住人たちの暮らしぶり、「からすのパンやさん」の様々なパンの種類など、一つ一つ指さしながら全部見る…を毎回飽きることなく繰り返した。
 私はブッククラブではちょっと肩身の狭い「仕事する母親」だが、それだけに読み聞かせの時間だけは意地でも確保。眠たかったけれど今思えばなんと豊かな時間だっただろう。何より配本された絵本だから自信をもって子どもと向き合えた。本当は順番など到底つけられない、一冊一冊が娘との共有財産である。
 その娘は12歳になりあらゆる物事をスポンジのように吸収している。ちょっと小難しい言葉をつかって理屈だの屁理屈だのをぶつけてくる。自分の部屋の模様替えをして、えほんは別部屋に収納してしまった。母は泣いた(本当に涙が出た)。
 そして娘は知らない間に配本を読んで、私の知らない世界に浸り、知らん顔して大人になっていく。ああ、まだまだ娘と一緒に本とともに過ごしたい。こんな時に読む絵本、ゆめやさんありませんか? 

《ゆめやより》

そんなときに読む本はありません(笑)。やはり、大きくなるのを見守ることでうれしさを増幅することでしょうね。いずれまた左の写真のようなお子さんが生まれて、二度目の豊かな時間が得られるはずです。心を砕けば、必ず、その素敵な見返りはあるものです。子どもが成長するのはうれしい反面、どことなくさびしいものですが。
 たしかに、あるものを通して、「親子が時間を共有すること」が子育てですよね。子どもに係われば「仕事する母親」が肩身が狭いなんてことはありません。卑弥呼の昔からこの国は女性が働いてきていたのですから。ほんとうに肩身が狭い人は、仕事onlyで子どもと係わりもせず。子どもや家族との時間の共有が乏しく、命令ばかり、放任ばかりの人たちでしょう。いくらお金を稼いで素敵な家、豪華な車を持っていても将来は孤独な老後になるかもしれません。いまでも、そういう老人がたくさんいますよ。
K家は盤石ですよ。かわいがり、世話をし、共有した時間が長い。これは盤石の親子関係と堅固な家庭の基盤を作ります。でも、Kさんのご主人とお会いするといつも盤石でない地盤を思い起こします(笑)。なぜなら2011/3・11の14時46分18.1秒に御主人と店でお話しているとき突然、地面が船のように揺れ始めて、あの衝撃は忘れられませんね。ご主人のお顔を見るとフラッシュバックが起きます(笑)。
 ということはお嬢さんがまだ1歳のときだったんですね。子どもたちが12歳からどんどん成長して立派になるように、この国も揺れやブレがない盤石の社会になってもらいたいものです。

 (2月号一部閲覧・今月と来月は増ページの追加分はありません。)



(2022年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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