ブッククラブニュース
令和3年
7月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせいろいろ
③1歳後半

 1歳半にもなると、多くの子どもは絵本が親と自分をつなぐものであることが分ってきます。いくらオクテの子でも、読んでもらう楽しさや快さは感じ取れますので、読み聞かせは、親も子もじゅうぶんに楽しめる時間となります。1歳半から2歳までの間には感覚絵本、初期のナンセンス絵本、探しもの絵本などが発達に応じて配分してありますので、前半のときと同じように何度も読んでください。

新しいものには手が出ない?

 さて、ちょっと、ここで知っておいてもらいたいことは、「子どもは大人と違って新しい本にはなかなか手が出ないことがある」ということです。慣れ親しんだものが一番で、新しいものは苦手という子が出ます。大人と違い、これは自然なことです。親から引き離そうものなら泣いて騒ぐ「人見知り」・・・生後1歳前後から始まりますが、これと同じで「本見知り」という現象も出ます。
 新しい本をなかなか開かないこともある。この傾向は3歳近くまで続くことがあります。
 対策としては、今まで慣れ親しんだ安心の内容を持つ本を何回か読み聞かせて、最後に新しいものを1冊加えることで解消できます。読み聞かせを何回か繰り返せば、それはやがて「慣れ親しんだ本」になっていくのです。

まだ、どういうふうに読んでも

 読み方にはまだ制約はない時期です。前回述べたように内容のおもしろさ、親と触れ合う楽しさなどが感じられればいいわけで、声のトーンを変えたり、抑揚を付けたり、とにかくおもしろく読んでくださってけっこうです。
 1歳前後の文字のない絵本、一語あるいは一行しか文がない本、擬音だけで構成されている本など文は長くないですが、その感じを生かして読み聞かせればじゅうぶんです。もっとも、読み聞かせは、文が少ないほど読む人の力量が試されるものです。
 例えば、写真は会員のご家庭ですが。本の中のものを実演で、中の文を話しながら体験で読み聞かせるというのは効果が大きいでしょうね。ほっとけーき、じゅうじゅう、ぺたぺた・・・ことばがおいしさを招き寄せますよ〜。
 1歳後半の子どもの認識能力と把握力はものすごいです。たった一年で、その力は急上昇して、すぐに会話が可能になり、言葉が出始め、かなりの長さのセンテンスが分るようになってきます。もちろん、言語表現では個人差が大きいですが、耳から入った言葉が増殖していく2歳前半では、かなりの内容のものが分るようになります。とにかく、まだまだ楽しく、楽しく、快く・・・ですね。

絵本・いろいろ
②人気のあるもの ないもの

 じつは、ずいぶん長い間、というより最初からこの世界的大人気作を選書に入れていない。どの年齢の子に与えていいかがわからないからだ。
 絵は見た通り、かなり目を引く原色使い。1歳の子どもでも反応する。穴あきダイカット方式は、2歳の子でも関心を示して遊ぶことができる。
 どこの本屋に行っても置いてあるから、おそらくものすごい売上数になるのだろう。それを配本に入れないのはもったいない気がするが入れない。入れないのはゆめやの好み?(笑)・・・と言われればおしまいだが、やはり入れない理由はある。
 どの年齢の子でも楽しめるというのはいいことだが、例えば文中に「水曜日」、「木曜日」なんて言葉が出てくる。3歳だって、昨日と明日くらいの時間観念しかないから、これを理解するのはむずかしい。本は100%、その時期に楽しんでもらいたいゆめやとしては多様な内容を持つものはちょっと!というわけだ。
 もちろん、そんな複雑なことを考えずに「子どもがどこでも何でも楽しめればいいじゃん」という人は、その感覚で与えて楽しめばいいのである。つまりは1歳も4歳も反応する・・・どこでいつ買い求めていいものというならわざわざ配本に入れることもない。

カールさん逝去 ご冥福を

 この本が人気なのはそれなりの理由があるからだと思う。多くの人が楽しめればそれはそれでいいわけだ。こういう人気のある本と、爆発的人気はないがロングセラーになって読まれている本とがある。その中から厳選するのはほんとうにむずかしいが、すべての本を与えるわけにもいかないのでここは選んでいくという一点に絞って、この本は入れない。
 エリックカールさんは、消費者の気持ちをつかまえるのが上手な方で、絵もダイナミックです。色使いもかなりインパクトのあり、店頭に並べても映える。だから皆さん、買い求めるのでしょう。アメリカの作家では昔のバージニア・リー・バートンやレオレオニに並ぶ作家です。配本には入りませんが、どこかで手に取って楽しんでください。

花子とアン

 NHK朝ドラ「花子とアン」が9月27日まで再放送されている。花子とは「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子のこと。甲府で生まれた。私の家とは400mくらいしか離れていない甲府市寿町が生家だが、子どものころにはもう東京に移っていた。甲府市生まれだが甲府育ちとは言えないだろう。ドラマの中に出てくる生家は、この写真だが、いくら明治時代でも甲府の真ん中にこのような農家があったとは思えない。ドラマの誇張だろう。
 でもまあ、田舎町で、私が子どものころはものすごい訛りの甲州弁が街中でも飛び交っていた。
 どこの地方もそうだろうが50年くらい前から方言は激減して、若者は標準語化している。甲府も同じで、いまや行きかう人のファッションも言葉遣いも東京と変わりはない。その意味では地域の個性など50年で消えてしまったといえる。

日本一汚い言葉 甲州弁

 しかし、ドラマはかなり誇張するから、ものすごい訛りの甲州弁が使われる。私は生まれも育ちも甲州だから意味は理解できるが、日本一汚い言葉だと言われているので使わない(笑)。しかも、アクセントによって意味が変わったりするからわかりづらいことおびただしい。
 甲州弁には他国の人にはまったく意味不明な単語群がある。
 ドラマでは「こぴっと(きちんと)」がブレークしていたが、「都会じゃ、甲州弁がでんようにこぴっと気をつけらだぁ」「ちょびちょびして使っても相手はいっさらわからんど!」などと、どこの外国語かと思うような言葉が多い。
 「はんでめためたごっちょでごいす」が典型的意味不明甲州弁だが、この意味は「急いでいつもわずらわしいことでございます」というものだ。文もだが単語もまるで他所とは違う。
 「蚕=おぼこさん」、「いまでのし=最近の若者」、「いなよう=具合が悪い」、「からかう=ていねいに仕事をする」・・・ひょうじゅんごとはまったく違う言葉、これを使いこなすと、日本一汚い言葉を話す達人となる。

タンタンの「黒い島の秘密」

 ところで今月中学年で配本する「タンタンの冒険旅行・黒い島の秘密」に甲州弁をしゃべるおじいさんが出てくる(黒い島の住人・下の場面)。
 バリバリの甲州弁だが、甲府周辺のまだひどくない言葉、山梨県北部や南部はもっと汚い。これはわかるほうの甲州弁である。
 で、訳者の川口恵子さんが山梨出身かと思っていたが、調べたら福岡だった?。「よく甲州方言を勉強したなぁ、さすがは翻訳の達人!」と思ったら、なんと夫は宗教学者・中沢新一で、私の高校の3年後輩でした。それなら、縦横無尽に甲州弁が使えますね。おそらく私らの世代が最後の甲州弁を知っている世代だと思うのです。
 難解な甲州弁もだが、甲州には難読地名もいっぱいあります。これが読めればI can speak Koshuuben。
 右左口、西広門田、曲輪田、百々、七五三石、大豆生田・・・さあ、読めますか、全部読めたら、生粋の甲州人ですが、県外の方は一つくらいしか無理かな。

さて夏休み・・・

 いつもなら、夏休みの旅行計画を立てて、あちらへ行こう、こっちへ行こう、ですが、どうも、雲行きが危うい感じがします。第五波どころか感染爆発になるかもしれません。ただのインフルエンザという人もいますが、夏、流行るインフルエンザもないわけで、やはり疫病にはちがいないでしょう。
 海外渡航も無理な感じだし、実家にも戻れないし・・・現代人のストレス解消のための行動を阻むコロナ・・・新しい生活価値観を考えないといけないかもしれませんね。
 でも、子どもは夏には外でよい空気を吸って遊ばなくてはなりません。混雑飲食はなるべく避けて空気の良い海や山で遊べる時間を作りませんか。海も混雑のないところ、山も観光ルートではないところ、あと博物館や見学施設は比較的、空いているのではないでしょうか。柔軟な計画で楽しい夏を!お過ごしください。お便り待ってまぁす。(一部閲覧)

筋肉脳

 「筋肉脳」・・・こんな日本語はないのだが、最近、こういう脳を持っている人が増えているように思える。つまり、なんでも「いけいけどんどん」で「他人の迷惑顧みず」という人だ。都市化が生み出したものともいえるし、社会行動が個人主義・利己主義に変わった影響ともいえるかもしれない。
 たとえば空調の室外機を隣の家に向けて真夜中に稼働させれば一晩中うるさいが、やっている側の人は平気である。こういうことを親が平気でやれば子どもはそれが当然と思う。思うに、こういう勝手で物事を進め、隣近所のことを考えなくなったのは40歳代の親の世代くらいからだろうか。
 中学生が狭い路上や隣家と近接した狭い庭でサッカーやバスケットの遊び練習をすれば隣家への騒音はどうなる?。この年齢になれば幼児や小学生のたわいもない遊びではなく本格的なものになる。子どものことしか考えない親は、人の迷惑顧みずの世代だから、子どもにしつけはしないし、子どもためなら何でもする。狭い庭に練習場をつくったり、ボールを買い与えたりする。シュートやドリブルでどんな音が立とうが、親も子も近所の迷惑など考える頭はないから、平気である。
 かつては家庭にボールひとつ買う余力がなかったため、スポーツの場は学校の運動場や体育館などの練習場に限定されていて、音や声は抑えられていた。ところが、いまやどこでもである。やっていい場所、悪い場所という判別すらできないのだ。
 かつては儒教などの倫理で、世間一般に「いましめ」のような抑制が働いていたが、いまや大声を出し、したい放題である。これは一つの文化の終わりを表す現象で、乱世に向かうときには必ず、このような単純な倫理が崩壊していくのはよくあることでもある。ひとつは親から子への伝達がなんらかの現象で途切れたのではないかと思われる。また、その結果、脳が自己制御できない「筋肉脳」になるというわけだ。

アスリートの頭

 スポーツの好きな人、趣味にしている人にとってはおもしろくない意見だと思うが、いわゆるアスリートは幼いころからすべてスポーツ練習に多くの時間を割いてきた。だから、いろいろな体験や思考をする機会がなかなかなく、広範囲に物を考えたり他を思いやるという気持ちに欠ける人が多い。
 なにしろ自分が勝つことが先決なので、頭は自分のことだけだ。さらに近・現代では科学的に技術や力を向上させるシステム練習があるので、一日の大半を練習に費やすこととなる。このためさらに別のことが考えられなくなる。ろくに本も読まないし、特殊な狭い人間関係の世界にいるだけだ。また、スポーツは一定レベル以上になるとスポーツをすることに頭が依存する脳のパターンが生じ、やっていないといられない状態になる人もいる。これも多様な思考をするうえではさまたげになり、倫理観や価値観が短絡的になったり、ゆがんだりすることも指摘されている。まあ、世間常識がわからないということである。
 なにしろ勝利がすべてで、自分が一番という考えが主になれば、家族とか家庭は二の次、三の次、まして他人は、で、自分が思ったこと、考えたことばかりで行動が優先される。少しくらいの困難や障碍は、「必ず勝つぞ!」「気にせずいけ、いけ!」「やってできないことはない!」という精神主義で乗り越えればいいと思いこむ傾向が強くなる。
 われわれ一般人はそうはいかない。「自分の勝利」や「思い通りにやる自由」の前に、配偶者や子どものこと、周囲の人々のことを考えなければならない。金メダルは何にも勝る価値ではないから、それよりはるかに大切なものを大切にする。

インパール作戦

 思考が停止した筋肉脳は、もうがむしゃらに進むよりなくなり、一度決めたことなのだから「為せば成る」「為さねばならぬ」という妄想に陥ることになる。他の方法や状況も考えず、きまったことだから「やるぞ!」「突き進め!」「肉を切らせて骨を切れ!」と突っ走ることになる。
 当然、自分だけの世界だから、子どもや配偶者のことなどどうでもよくなる勝利だけが目当てのさもしい突き進み方になってしまう。
 つまり道徳観も生活観もない状態で、ちやほやされればされるほど図に乗っていくから始末が悪い。
 例えばオリンピックの委員会やIOC、JOCの内部には金メダリストの委員が重要な職位についているが、判断も決定もなにもできないうえ、責任をとるということがしつけられていないので、先も見ない、回りも見ないという状態で、背後にいる政治的実力者のいいなりになるしかない。これが筋肉脳というやつである。
 昔は、筋肉脳は思考を重視しない軍隊組織の中でつくられていた。彼らにとって考えることなど無意味な代物で、とにかく、「やる」「実行する」それが戦いにつながると思っている。
 当然、倫理観などないから行動は欲の赴くまま、略奪や強姦なども平気になってしまう。筋肉脳の軍事作戦で最大のものはインパール作戦だった。愚劣極まりないいけいけどんどんで全滅に近い敗北になったが、人の迷惑どころか自分たちの命まで軽視する作戦遂行で、もはや狂気である。もちろん、牟田口司令官など本もろくに読まないトップである。これでは状況を考える力にはならないだろう。

考える?考えない?

 もちろん、考える力が養われないのは、本人の問題だけではなく学校教育や社会環境にも原因があるだろう。
 日本オリンピック委員会会長、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長などアスリート出身者が自分の考えが出ない・出せないのは筋肉脳=アスリートの頭でしかたがない面もあるが、五輪相は東大卒なのに言うことなすことちぐはぐな矛盾、同じことは推進派の東大卒官房長官にも言える。
 考えても見よう。どういうわけか、日本の学校教育は中学・高校では半ば強制的に部活を推進する。本など読んでいる暇も体力の余りもでないほど過酷な部活があるところもある。コロナ禍でさえ闇部活も行われている。こういう現象はなぜか。個人的な考えながら思うに、これは「考えさせないように」なのではないだろうか。
 「思春期に変な考えを持たれたら管理しにくい」という発想から、物事が考えられないほどスポーツに打ち込ませる。じつはテスト勉強もこれと同じで、物事の暗記を推し進めれば考えている暇はない。「?」「おかしい?」と思っても次から次に覚えることを強制されれば、これはもう考えることなど無用な状態が起こってしまう。そんなことが繰り返されれば、いくら成績がよくなったところで、知っているに過ぎないことになり、残るのは学歴だけとなる。あげくのはては、ゲームと芸能で考えることすら抑え込まれる社会環境がある。

大本営の頭脳

 これはかつて陸軍大学、海軍大学で訓練された頭が参謀本部や大本営に入っていった状態に似ていないだろうか。高学歴者のみならず、現在では、政治的実力者も大戦末期の大本営と同じ思考中止状態に陥っていて、イケイケドンドンの精神主義である。2020東京オリンピック開催などは、もはやその典型例だ。
 だいたいスポーツはものを考えない方が勝利につながるものなので、練習には依存体質のようなものが生じて、限度も知らず、周囲のことなど考えずやる。
 そんな自分の欲だけで進む為政者が思い付きや思い込みでものごとをされたら庶民としてはたまったものではない。この国のトップは空手の達人だという(笑)。若いころから空手に精進したらしいが、勉強はどういうふうにして、本はどんな本を読んだのだろうなんて思ってしまう。
 こういう筋肉脳を否定しないと、社会のほうが壊れてしまう。
 空手の達人・大山倍達(極真空手)がこういうことを言っている。「自分なりの行動や考えのない者に自分の言葉があるはずない」と。その通りだと思うが、これは剣道・柔道などひとつの道を究めた人から出る言葉。この国は学校教育がかなり筋肉脳をつくりだしてしまっているので道を究めるのはむずかしい。
 子どもにスポーツを奨励する親たちもせめて「周りの迷惑」を考えないとね。(一部閲覧)



(2021年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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