ブッククラブニュース
令和3年
6月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせ・いろいろ
②1歳前半

 一歳前後の赤ちゃんについて「本を噛んでしまう」、「舐めてしまう」、「ペラペラめくることばかりして聞いてくれない」というようなおたよりが多く来ます。当然、まだ本というものがよくわかっていない子も多いのですから、これはある意味、自然なこと。男の子に多いような気がしてますが、女の子でももちろんあります・・・最初から聞ける子もいますがはじめは散漫です。
 まず、1歳過ぎではそれほどの注意力・集中力はなく、すぐ他のものに気をそらすことが多いのです。まだ本が物にすぎない子もいますから本で遊ぶこともありえます。でも、そういう傾向、すぐに飽きてしまう散漫な部分は「この時期特有のことでふつうだ」と思っておいたほうがいいでしょう。だからこそ、一歳前後から読み聞かせをすることは重要なのです。
ただ、最初に知っておいてほしいことが二つあります。

①本は初めがあって、

そこからつながりのあるスジがあり、必ず終わるもの」ということ。初めから終わりまでをどう楽しめるか・・・それが、この時期、読み聞かせる親がきちんと認識してもらいたいことです。はじめがあって終わりがある。これが物語です。これから先ずっと本はそういう仕組みであることを子どもに知ってもらう思いのようなものが必要です。これがこの時期の読み聞かせ技法の中心軸でもあります。なかなか気が散って最後まで聞いてくれないこともありますが、子どもは初めから本が好きで、いきなり内容を楽しむわけではありません。
 まずは、親との接触、交わりが好きなのです。それがしたいために、お母さんと自分をつなぐ媒体である本に関心が向くようになるわけです。この時期の子どもの習性を利用するのが「読み聞かせ」です。いずれ本が好きになるための準備です。そして、やがて物事には初めがあって終わりまできちんとしたスジがあることがわかるようになるわけです。2歳半ばではじょじょに長いものも集中して楽しめる力もついてきます。つまり、最初の「論理性」が養われるわけですね。これはすごいことなんです。いま、そういうことができない小学生・中学生が山のように出てきています。文が読めない、作れない、相手のことが考えられない子です。
 次に・・・

②「読み聞かせは読書につなげるもの」

 という意識を親がもってもらいたいということです。人間は言葉から想像できる動物で、やがて文からイメージする力が身についてきます。赤ちゃんは、この想像力が未熟なので絵を補助にして言葉を身に付け、その絵と言葉から想像力を高めていきますが、最終的には言葉→文→物語から想像する力がでなければ「読書」の意味がありません。言葉がつくりだす想像の力が、人の格を高めて、行動の力になります。環境に反射するだけの行動では動物と大差ないですからね。読書ができない人は絵からばかりの想像です。絵や映像は想像を限定してしまうものなので大きな想像力を発揮できません。内容のないアニメやテレビは論理的でない話し言葉と絵、画像ばかりです。これでは想像力は高まりません。
 すでに30歳代の親で一般的な子育てをされてきた方は、ほとんどがアニメ世代です。そしてケータイ・スマホを駆使する世代です。社会に出て働くことを教えられてきた世代ですから子どもに読み聞かせをして育てようなんて人は少数です。
 かつての母親のように読み聞かせを受けていなくても自分の子には本の楽しみを知ってもらいたいなどと感じている人は稀も稀、十人に一人もいないでしょう。スマホ動画を見せて子育てが当たり前となっていると思います。社会はそれをたしなめたり、注意したりする人々が消えてしまいましたので、かれらは「自由」の中で「勝手」をすすめていくわけです。その結果は、もう出ているのですけどね。親子関係や社会的事件を見ればわかることですが・・・。さて、そんな人たちはしり目に・・・・

1歳前半では、

 急速に認識力や理解力が高まるので,ここの変化に対応するのは目まぐるしいです。あっという間にわかってきますからね。それに応じた配本を組んであります。動物や植物の認識絵本から生活動作をテーマにした絵本が発達対応順で組まれています。さらに半ばでは次に紹介する感覚的な絵本もじゅうぶんに楽しめます。タイムリーに読んであげることは重要です。でも、そんなことを意識しないで、とにかく、その時期の絵本を何度も何度も読むことが大切なのかもしれません。まずは、絵本のおもしろさ、お母さんやお父さんの読み聞かせの言葉を通しての伝わることの楽しさを教えてあげてください。すべてはここからはじまります。

絵本・いろいろ

①消えるもの 残るもの

 こういう目まぐるしい時代なので、あらゆる分野で次から次へとあたらしいものが出て、古いものが消えていきます。消えていいものもあるし、消えては困るものもある・・・ただ、時代の流れをせき止めることはできないので、私たちは「消えろ!」と思うようなものが出てきても受け入れなければなりませんし、「消えないで!」と思っても消えていくものを止めることができません。本の選書をしているとき、いつも、この二つの流れのぶつかり合いで葛藤します。絶版を止められない、くだらない新版に目を通さねばならない・・・大変です。
 たとえば、上の平井さんの「おたより」に出てくる本は多く残っていますが、その中では「ゆびくん」が絶版です。この本はじつにすぐれた本で、2歳の初期に入れていました。子どもが自分の指と対話する本なんです。1歳児は1人称の世界にいます。じょじょに年齢が上がると2人称という「相手」を意識できるようになり、やがて3人称がわかるようになりますが、自分の指との対話は1人称と2人称の中間、つまり1.5人称なんですね。自分の一部でありながら話す相手でもある。優れた本だと思うのです。

悪貨は良貨を駆逐するのか?

 こういう本が「売れないという理由」だけで消えていくわけです。もちろん、5歳くらいになれば不要の本でもあるのですが、次々に出版されて一刷りだけで消えていく本も多いですから、残したい本のひとつでもあります。比較的新しい本では「でんしゃにのって」がありますが、ゆめやでは女子向けに、この十年、2歳対応で入れています。柳の下のどじょうを狙ってシリーズ化されていますが、試した結果、この「でんしゃにのって」が一番反応が高かったです。
 新しいから良い、古いからだめという流れは断ち切りたいものですが、消費社会では無理なのでしょうか。ふと「行く川の流れは絶えずして、いつも元の水にあらず」のフレーズを思いだします。絵本についての雑感を今年度はシリーズでお届けします。(ニュース一部閲覧)

考える方法

②比較は重要だが直感も重要

 人間はものを見るときに必ず比較します。そして、どちらがいいか考えますが、選択は絶対的なものではありません。私も本の選書をするときに、似たような本を並べて比較します。比較することで違いがわかってきて、どちらの方が適切かを見ていく目安のようなものができます。
 ところが、最終的な選択は私自身の判断となるので、どこかに好みが生じてしまい、その好みが変な方に、できるかぎりかたよらないようにしなければなりません。右の三冊でどれを私が選んだかわかりますよね。どう考えても両脇は取りません。まず表紙で選定します。中を読み比べます。数ページでよい。案の定、真ん中の里見八犬伝が両脇より優れている内容です。で、これに決める。
 内容を見た後で比較を繰り返すことで、どれがいいかの規準は、それまで訓練してきたものでつくられますから、それまでに経験としていろいろ見ておけばいいと思うのですが。

全部調べる必要はないが・・・

 これは、本ばかりでなく何でもそうですが、数点、比べてみればどれがいいかはわかってきます。早い話、Bestはなかなか得られないので、Betterを求めればいいのではないでしょうか。
 ただ、本も食べ物もかなり好みに左右されるますし、外部情報だけで判断することも多くなってしまうのです。つまり、「評判」の影響を受けて、それがBestだと錯覚してしまうのです。なるほど、食品などは食べて一定のおいしさがあればBetterでしょうが、行列しているお店はBestだと思い込んでしまうのです。本でもそういう宣伝がされると思い込みが強くなります。
 いま多くの商品が一銭でも儲けたいがゆえにかなりの確率で騙しをいれながら、宣伝します。老人向けの薬用品やアンチエイジングの商品、健康食品、そのほとんどが効果が疑われるものばかりですが野放しです。いまや日本製品はその意味でも劣化が始まり、肝心要のまともな商品も手抜きなどから質が落ちJapan as NO.1ではないのです。
 市場原理で動いている社会ですから売る方はどんな嘘をついても売りたいでしょう。芸能人御用達のお店ネットランキング1位と言えば人は並んででも買いますし、食べに行きます。ここでは比較もなにもなく、ただ情報に乗せられているだけです、育毛剤、シミ消し、ダイエット食品・・・全部の商品を比較して「これが最適!」などという選定はできるわけがありません。だからこそ、適切と思われる数種を選んで比較するよりないわけです。

操作される人々

 食べログだって、書いている人、集計している人が意図的に情報操作をしている可能性は高いのですから、乗せられないような選択が必要となりますね。選ぶにはほんの数種からの選択でじゅうぶん!というより、たくさんのものを比較することなど時間的にできません。瞬発力での選択が必要になりますね。行列ができるというのは、そこで売られるものがBestなもかどうかはわからないのです。
 テレビ局がしかけて「おいしい!」と流すと、人が集まって行列となる。それがほんとうにおいしいものかどうかはわかりません。てきとうに無難なものなら、人はおいしいと思います。そういう仕掛けがちゃんとあるのでテレビというのは困りものなんですね。
 以前、たくさんの「いいねポイント」を押させて、ランクを上げさせるログが問題になりました。そういう嘘でなくても、テレビショッピングや新聞、ネットの売り込み商品では客の心理の隙をついて半分嘘のような騙しが横行しています。騙されないことです。

仕掛けに騙されないで比較

 売り手側は、うたい文句を並べます。「行列のできる・・・」「興行収入最高」「一週間で200万部」などと謳われたものにウカウカ載せられると「思考停止(考えるのをやめる)」がおきてしまい、それだけしか選べなくなります。
 よく考えてください。一週間で百万部売れた高名な作家の本が、次の週に二百万部増刷で売るという報道がありました。「売れてる、みんな読んでる、私も読まねば・・・」という意識を作るのです。よく考えてください。パンフレットではあるまいし、暑い本を200万部印刷して全国に出荷するだけでも無理が生じます。誰もその印刷所が刷って納品した書類を見ていません。出版社が全国に発送した荷受け伝票も見えません。誰かが仕組んだ嘘なんですね。
 たとえば、興行収入日本一というアニメが500億円売り上げたとします。たしかめようはないのです。報道されれば「そうか、そんなにみんな見に行ったのか!」で終わりです。「では観に行かねば!」を引き出したいのですから、なんでもあることないことを言うでしょう。
 こういう発表の数字は、みんなアヤフヤな数字が多いのです。何のためにどういう質のものが大切かという基準はなく「売ることが先決」なので、当然、嘘も言います。
 本も似たようなものが山ほどあります。全部を分析して、比較検討してそのなかから1冊を選ぶなど、とうてい無理な話なんです。

Betterなものを選ぶためには

 私の場合、まず膨大に来る宣伝チラシから出版社、作家で80%はふるい落とします。残り20%を精査。絵、文、構成・・・・そして、ここでの主な基準は、どの月齢、どの年齢に適切かどうか・・・比較によって残ったものを実験的に各学年で3年間試します。反応が大きければ定番に! ワクチンで言えば治験例(笑)です。現在、例を挙げると低学年では「めいちゃんの500円玉」「クレヨンマジック」、中学年では「やがて物語は逆転する」「岸辺のヤービ」、高学年では「未確認飛行物体」「絵本アンネフランク」です。3年ごしで実験して、反応を見て入れ替えたり定番にしたりしています。そうしないと新しい本を定着させるのがむずかしいのです。ご協力ください。

自分で考える力??

②答えが多様にあるものをどうするか?

 「プログラミング教育」まだまだ手探り状態で、はじまり!はじまりぃ!!です。プログラミングの問題は教科としての歴史が浅く、全体的に実践もほとんどないわけですから、方向性や出てきた問題を取捨選択する基準もないということになります。
 だから、現場の先生に任される部分が大きいのですが、そこがこのプログラミング教育の不安なところです。プログラミングのことをわかっていて、うまくやれる先生はいいのですが、力量によって教育効果に大きな差が出てしまうでしょう。
 また、生徒たちの出来、不出来を評価をするのもむずかしいです。だいたい、これまでにも子どもたちが作ったプログラムを評価するのは、それを専門に仕事にしている人でも高い判定能力や熟練度が要求されました。
 よく考えると、前回述べたように、ゆとり教育がダメだからプログラミング教育という試行錯誤のひとつで、一過性の流行教科と考えればいいのかもしれませんが・・・・。

評価できるの?

 かんたんなプログラムなら動けば満点ですが、それなりに動くというだけでは、子どもがつくったプログラムの出来の良し悪しを評価できないのです。例えば、同じ動きをするのに半日かかるプログラムと、三十秒で終わるプログラムでは、後者の方が良いと判断されてしまいそうです。でも、そんなに単純ではないでしょう。動きの質もあれば、どのくらい多様な問題を解決できるかなど評価の視点は多角的になってきますからね。
 チームでプログラムを作っている場合、やった人が理解しやすいかどうか、わかりやすくすぐに慣れるものかどうかなどが重要な評価点になります。早い話、正解は無限にあると言ってもいいのです。考えたり、物をつくろうとするときに方法はたくさんあります。でも、「正解はひとつ!」の受験教育で長い間慣らされてきた日本人がわかるかどうか・・・。
 例えば文学作品は読んでいって解釈や感想は個人個人で違い、テーマの読み取りも無限にあります。ところが、日本では、どの職業も単純正解のテストで学歴だけを積んだ人が就職して働いています。
 今の段階では、教育の現場にいる多くの先生が多様な答えを出すコンピュータ・プログラミングに触れていないことが多いと思うのです。すべての小学校の先生がまともに評価できるようになるのは、何十年かけても難しいですから、プログラミングはすぐには評価の対象にはできないでしょう。でも文科省は「評価しろ!」と言ってくるでしょうけどね。そうなると、とりあえず、すぐ習熟する子が高評価を受け、そうでない子はダメな子になるという問題も起きてきます。我田引水ではなく、まともな本は多様に考えられる宝庫ですから、読書経験の豊富な子の方があきらかに発想力に幅が出てくるでしょう。
 よくかんがえてみてください。ドラマの脚本を書くひとが、さまざまな物語を読んでいないことはないでしょう。また、新作の物語を書く人が本をまるっきり読まずに書くことはできないのです。
 同じことはプログラミングでも言えます。ゲームばかりやっていて、ゲームのプログラミングができても、それは新機軸、新しいアイディアがないかぎり焼き直しで同じような物ばかりつくってしまうのです。
 似たようなものばかりできるのは、いまは歌謡曲の世界からアイドルの顔まですべての分野で個性がなくなっているからでしょうね。プログラミングで必要なことは個性なんだと思います。学校がやれるでしょうか。

ぜったいに格差が生じる!

 学校現場が、プログラミング教育に習熟していないということが見えてくると、今度は「民間企業を活用しろ!」と文科省は言うはずです。今の政府ならすぐやるでしょう。これも問題なんです。民間が教育機関になると各家庭でお金を払う必要がでてきます。タブレットは無料ですけどね。教わるのに別にお金がかかる・・・タダより高いものはないということになります。色々な企業がプログラミング教室を開いていますが、どのくらい受け皿になれるか。
 お金が払える家庭の子だけがどんどんスキルだけ身につけていくことになり、そこで教育格差が出るのは目に見えています。これからその不公平が大問題になりますね。そして、いくらプログラミング教育で論理的思考を子どもたちが学んだとしても、大人たちが作る学校や学校の先にある社会が「論理」を軽んじていたら、論理的思考はまったく役に立たないものになります。
 「論理的に」と言われているのに「前髪は眉にかからないように」「髪の毛は黒でなくては」のような非論理的な校則があったり、「やる気があれば何事もできる」などという根性論で教育がされたり、上司が残業しているから「部下も残業しなきゃ!」「嘘を言っても言い逃れられる」というような社会が続くのであれば、子どもたちが身につけてきた「論理性」が意味のないものになってしまいます。プログラミング教育の本当の効果を発揮するためには、私たち大人が考えるべきや改善することがまだまだたくさんあるように思います。
 なぜ、こういう教科が唐突に出てきたのでしょうね。海外で進められているから日本も!なのか、ほんとうに論理性を高めたいのか、官僚の作文を棒読みしたり、たったひとつの答弁で矛盾したことをいったりする政治家のかたがたのほうこそ「論理」のお勉強をしたほうがいいと思うのですが・・・まあ、どうなるか見ものです。また、ゆとり教育のように「やはりうまくいかなかった」で、ハードだけが暴走していきそうな気がします。

おたより

 福岡県 平井さん 中一
 これまで11年以上にわたり本のある生活を支えてくださり、ほんとうにありがとうございます。おかげで本が好きな子に育ちました。思い返してみると乳幼児期の読み聞かせの時代がとてもなつかしいです。そのころ娘が好きだったのは「ゆびくん」「でんしゃにのって」「きんぎょがにげた」「ぼくのぱんわたしのぱん」「からすのぱんやさん」「わたしのワンピース」「しろくまちゃんのほっとけーき」
 とくに「ゆびくん」「でんしゃにのって」はバラバラになるほど読み、暗記してしまうほど好きでした。

 好きな本を紹介するラジオ番組に出演する機会があり、「しろくまちゃんのほっとけーき」を5歳の娘なりに紹介していました。じつは読書と同じくらい好きなのが食べること。「からすのぱんやさん」ではパンのなまえをよく覚えました。
 中学生になった現在、学業や習い事に忙しい日々を送り、なかなかゆっくり本を読む時間がありませんが、定期考査の課題図書の1冊が「モモ」らしく、ここ数日は読み返しています。
 コロナ禍でいろいろなことを実際に経験することがむずかしくなった現在、本は子どもの想像力や知識、そして生き抜く力を与えてくれる大切な要素だと感じています。娘にもやがて自分にとって必要な本を自分で選んで、生き抜く力をつけ、「豊かな人生をおくってほしいなぁ」と思う今日この頃です。
《ゆめやから返信》最初は2009年11月に中国の上海への配本でしたね。あのころはまだコロナも何もなくおだやかでした。十か月の赤ちゃんが中学生になる!!時間とはすごいものです。小倉は遠いですが、今度、松本清張が好きだった栗饅頭で有名な湖月堂の喫茶部でお会いしましょうか(笑)。(新聞・ニュース 増ぺージ一部閲覧)



(2021年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ