ブッククラブニュース
令和3年
6月号(発達年齢ブッククラブ)

ルドルフと話す

 「ルドルフとイッパイアッテナ」の斉藤洋さんが講演をするというので聞きに行った。私は、めったに講演会に行かない。「どういう人なんだろう?」という思いがあるときだけ話を聞いてみたくなる。
 講演というのはたいていが雑談のようなもので、作品を書いた動機やいきさつについてだったり、作品とはまったく無関係な話題で終わったりする。その話の中にどのくらい書いた背景が読み取れるか、つまり、舞台裏がわかるのが講演を聞くおもしろさとなる。
 最初は、「ルドルフとノラねこブッチー」の話から始まった。
 なぜ、猫が江戸川区小岩から甲府の屋形三丁目(ゆめやのある)まで旅したかの理由。猫はめんどうくさいことが嫌いなので電車の乗り換えができない。そこで千葉発甲府行きの特急あずさに小岩から乗れば乗り換えなしで来られるというのだ。そして、甲府駅から武田神社前の越水家までは一直線の道、迷いようがない。「あずさ」を使ったのは斉藤さんが一番形が好きな特急だということらしい。かなりの鉄道好きのようだ。

電車好き

 彼は日本の特急の中でE353系あずさ(写真左)が一番カッコいいと言う。私はなんとなく「千と千尋の神隠し」に出てくる「顔なし」のような気がするので、その前のE351系が好きなのだが、斉藤先生は「顔なし」が良いそうだ(笑)。
 このルドルフシリーズはもう30年以上前から配本に入れている。猫がだんだん教養を積んで人格(猫格)を上げていく物語で、勉強の目的は知識ではないよ!ということが描かれる。・・・・よく聞いておきなさいよ!東大王の諸君!
 それから白狐魔記シリーズと西遊記の話になったが、歴史への考えの深さを光り始めた。おもしろいストーリーの背後にある歴史観。やはり、あの物語群の後ろにはしっかりした考えが横たわっていたのかと思わされた。あのおもしろさには、しっかりした歴史認識があったというわけである。ここが昨今の受け狙いの作家たちとは大いにちがうところだろう。

もうチョイ先がゆめや!!

 講演が終わったあと主催者にお願いしてちょっと別室で話をさせていただいた。と、言っても、こちらは考えもなければ知識もない絵本屋・・・言うことは文句だけである。
 「先生の本はこの数十年、毎年、かなりの量を配本してるんですよ。ルドルフとノラねこブッチー211ページの地図にゆめやを載せてくれませんかね。」とずうずうしいことを言った。すると、私が渡したゆめやの新聞1月号のブッチー訪問先の地図(写真左)に目を落として苦笑いをしながら、「それは知らなかった。」とおっしゃったが、改訂版を出すとは言わなかった(笑)。ま、知らぬのはあたりまえ。裏通りも裏通り、とんでもないところにあるゆめやは、近所の人だって知らないのだからしかたがない。
 しかし、新聞を見ながら1月号タイトル表記の「JanuarのスペルはJanuaryの間違いでは?」とは言わなかった。
 以前、横浜の会員・〇〇雅子さんがハガキで「ゆめや新聞のミス、見っけ! 1月はyがつきますよ。私は英語検定1級。」と言ってきたことがある。私は「今月は6月Juneで、Juniも間違いと思いますか? 世の中、英語だけが外国語じゃないですよ。これはドイツ語。私は英語を知らないのでドイツ語です。」と返した。そうしたら「赤面!」という返事が・・・・(笑)。
 斉藤洋さんは、じつはドイツ文学者でもある。当然、1月のスペルがJanuaであることはわかっている。だって「ルドルフ」はドイツ人の男子名ですからね。
 それにルドルフやブッチーに元の飼い主を教える犬のデビルはドイツ語ではTeufel。畜生とか悪魔という意味もありますね。まあ、言葉の仕掛けもたくさんある。地元が舞台ということもあって、気を入れて読みました。
 7月に配本になる学年の皆さん、ぜひゆっくり読んで、夏休みには特急あずさ「顔なし」に乗って、甲府まで遊びに来てください。いま千葉発はあずさ3号、小岩止まらず錦糸町7:08ですけど。(新聞一部閲覧)

私は仕事ができないらしい

 お客様に対して郵便でもメールでも時候のあいさつや御機嫌伺いの文をなるべく書くようにしている。
 定型文でおたよりを出す時は、へたくそな字だが、直筆で文を添えることも多い。振替用紙には必ず手書きで返信しているが、けっこうの長文を書くから、皆さんも読むのが大変だろう。すみません。
 しかし、これは私が「手書きやあいさつを加えないと人と人はつながらない」と思い込んでいるからである。実際、言葉で「やりとりした方々」と「しない方々」を比べて「親密感」はまったくちがう。人生は人と人のつながりなので、面倒でも挨拶やお天気や世の中のことは書く。それが礼儀というものでもある。嫌な人は飛ばすか、読まねばいいのだから。

ホリエモンの流儀

 ところがだ。実業家だという堀江貴文氏は「処理能力が低い人に限って、メールに『お世話になっております』などと書く。読んでいるだけでイライラさせられる」と言う。多くの案件を抱え、たくさん稼いでいるビジネスマンほど、メールは即レスポンスらしい。レスのスピードが能力とどのように関係しているのかわからないが、彼の周りの金儲けがうまい人は、みんなレスが早いのだろう。金儲けは悠長なことをやっていたらチャンスを失うからだ。必要事項が伝わればいいようだ。お金儲けのうまい人はじつに「合理的」である。
 彼はこうも言う。「LINEが来たら、すぐに『おけ!』『りょ!』」と短く返信だ。重要な取引案件なら1秒でも早く返すのが心がけだ。メールのレスが遅く、しかも内容がグダグダと長い人は最悪。処理能力が低い人に限って、『大変お世話になっております』『お待たせした無礼を深くお詫び申し上げます』などと本題にスッと入らず、読んでいるだけでイライラである。メールの送り手は、礼儀正しい返信を期待しているのではない!」と言う。こういう意見に拍手喝采の人は金のことしか考えない若い人には多いかもしれない。LINEに慣れ切っているからね。
 たしかにLINEやMessengerなど、短いコミュニケーションを高速でやりとりすれば、連絡だけならたやすく回せるかもしれない。テキストや図版も添付できるからやりたい人はやればいい、とは思うけどね。
 まあ、それなりに文章を短くまとめる技術も磨かれるかもしれない。しかし、『おけ!』『りょ!』と言われてもOKなのか、そうしておけ!なのか、解なのか、遠するのか、原始人の会話のようで意志が通じない。だいたい、そこまで言葉をコストパフォマンスで考える必要があるのかどうか。
 こんなことで人間関係が作れるとは思えないが、彼は心の交流がない悲惨な幼少期があったのかもしれない。知り合いにホリエモン礼賛の人がいて、彼のセミナー講演を8万円払って聞きに行ったが、「合理性」を真に受けて実行していると思うとさびしくなる。
 「目的を最適化しろ。時間を増やす工夫をしろ!心だとか礼儀だとかを持ち出してくる人間とは付き合ってはいけない。すぐ切り捨てよう。」と彼は叫ぶ。金儲けが目的なら人などどうでもいいわけだから、勝手にやれば!と私は思う。おそらく、彼は詩も物語も読んだことはないだろう。時間泥棒は「詩や物語は無駄で役に立たたない!」と考えるはず。この意味では、まさに灰色男そのものが出現したわけだ。エンデの予測は正しかった。

まぁ、生き方はそれぞれ!ですが・・・

 ホリエモンから見れば長い文ばかり書き、手紙には時候のあいさつ、世の中の様子まで書く私など「仕事ができない」「切り捨てるべき」人間でしかないだろう。
 しかし、人間は無駄でできている存在でもある。無駄がなかったら人と人の関係など成り立たないのではないか。お茶を飲んで話すより金勘定、旅をしてのんびりではなく契約の算段ばかりでは庭いじりも畑仕事も無駄の無駄である。
 私から見れば、彼ほど孤独な人間もいないように思える。金の切れ目が縁の切れ目で、心を許せる相手を自ら作らないのだから、大変だ。すべてを「効率」でしか考えないのは悲しい。もし、彼がヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」や芥川龍之介の「杜子春」を読んでいたなら、あるいはマルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んでいたならおだやかな暮らしと友人や家族を持てたのではないかと・・・・と、「仕事ができない人間」は思う。(ニュース一部閲覧)

子どもの社会的・歴史的疑問に答える

 子どもというのは素っ頓狂な疑問や好奇心を持つものである。素っ頓狂と言ってもそれは大人から見た表現で、すでに読み聞かせや読書の成果のひとつとして「疑問」と「批判」が生じるということは述べた。また、その疑問と批判は意外に「論理的」に展開していくものなので親はていねいに応える必要があることも述べた。
 今回は、この点をふまえて子どもがあるひとつのものに関心を持ち、それをどう論理的にまとめていくか、つまり「論理的な思考」をどうつくるのかについて考えてみたい。また、本を与える側はそのサポートをどのようにすればいいのか、も合わせて考えたい。当然親は教養と学ぶ姿勢がなければ子どもは好奇心や疑問がそのままで終わり、次のステージにいけなくなるふぁろう。
 歴史や社会の例にあげるが、これは例にすぎず、子どもが読書において高次元な方向に向うときには、どの分野においても大人としてできうるかぎりのガイドができる姿勢を持つことが重要なのだ。この忙しい時代に親が果たしてそのような子どもの疑問に耳を傾けられるかどうかがおおきな成長の分かれ道になることもある。

疑問から発見へ

 子どもの好奇心は大人が見逃すような疑問から始まることが多い。この好奇心が「ある分野」への関心につながり、やがて、それを追究していくときに我々はどういうスタンスで接すればいいのだろうか。そのフラットな視点から出された疑問にどう対応すればいいのだろうか。
 幼児の疑問は単純なものとして、ていねいに説明すればすむかもしれないが、じつはその疑問も我々が常識として持っているものと大幅に違うこともあり、説明に窮することもある。ただ、幼児のばあい「論理性」に未熟な面があり、われわれ大人の「論理的説明」では理解しないことも多い。こういう場合はいわゆる大人の「常識」で説明をすればいいと思うが、大人の常識を超えた真実を指摘している疑問が出ることもあって、一概に単純な説明で済まされるものだと断定はできない。
 さらに高年齢になってから好奇心によって生まれる疑問については、いわゆる大人の常識で答えを教えていくというやりかたは不適切である。疑問は単純なところから出発するが、それがあまりに単純なために大人は既成の知識で答えを教えてしまいがちである。とくに一定の答え押さえつけてしまうのでは、そこからの広がりはなくなる。その点については「わからないこと」は「わからない」として保留したほうが、子どもの疑問を子どもが自分の論理性に結び付け、やがては論理的見解にまで育てることができるはずである。
 以上の点に留意して、子どもが「社会的な書物」「歴史的な本」に触れたときに出る疑問を、どう扱い、どうガイドし、その結果、子どもが自分なりの考え方をきちんと持てるか、ともに試みてみたいと思う。ここでは、日本の例挙げて、表面的に読むのではなく、子どもの視点に立って出る疑問の例を多く挙げ、それに対する考え方の例もいくつか挙げていこうと思う。

好奇心の出現

 好奇心は「珍しい事物や未知のことに興味を持つ心」(国語大辞典)「物好きな心」(広辞苑)と一般的にはいわれているが、正確に言うと自分が持っている常識的な感覚で見て「不思議」「おかしい」と感じたときに出るものである。珍しい事物や未知のことが眼前にあっても「不思議」「おかしい」という疑問が出ないかぎり好奇心は出現しない。
 ふつう年齢が幼なければ幼いほどこの感覚が生じるが、それは世界を認識する常識が大人ほど蓄積されていないために起こる現象である。大人はそれまでに認識して形成した常識で動くようになっていて、逆に珍しいもの、未知のものに「不思議」「おかしい」という感情を抱かなくなる。このことは老人によく見かける好奇心でわかると思う。老人の好奇心は単に「物好き」にすぎない面があり、そこから新たな探求や分析に結びつかないことが多い。同じことは子どもの好奇心にもいえる。好奇心が出ても、そこでストップしてしまえば、それは「物好き」で終わり、子どもにありがちな「なぜ?」「どうして?」の質問癖としてしか残らない。質問癖の多くは大人の常識によって「解明」されてしまい、疑問を生じさせなくなる。
 しかし、子どもの、いわゆる大人の常識を持たない視点から繰り出される疑問は、常識によって論理化、定説化されているものを打ち破る可能性も秘めているのである。
 大人の論理がいかにあやふやなものであるかについては多くの著作が語ってくれているが、われわれは学習すればするほど学習が押し付けてくる定説によって常識の壁をつくってしまい、壁にさえぎられて好奇心を追究することがなくなってしまう。
 とくに過去のこと、歴史的なこと、科学的なことは定説や常識が権威を持って存在しているから、疑問を出しても突き崩せないことが多い。このため追究が止む。しかし、疑問をきちんと持ち、そこから新たに過去のことに迫ると意外に隠された事実に肉迫できることも多いのである。次回からは個別の例を挙げていくので、御参考に

【単純な疑問を持つ子どもに考えさせる例①】

 山梨県の古名は「かい」である。このことは誰もが周知のことである。お隣の東京は「むさし」で、神奈川は「さがみ」であることもわかっている。明治期に廃藩置県で「むさし」「武州」は東京都に、「さがみ」相州は神奈川になり、「かい」は「甲州」から山梨となった。しかし、逆にさかのぼるとこれらの古名は国司制の時代に使われたものであって、それ以前の名が何と言ったのかはわかっていない。
 子どもが「東京都は昔何ていったの?」と質問されても、「むさし」までしか教えられないのが大人の常識、学会の定説である。「武蔵(むさし)の前は何て言ったの?」と聞かれた大人は「そんなのはないの! むさしって覚えればいいの!」と制してしまうのがふつうのところだ。しかし……ちょっとかんがえてみよう。
□□□□ 国名が四音だったとする。
□□□□ そこには共通する音があるかもしれない。
 つまり、共通部分がより古い国名だったのである。
 この類例について、ちょっと考えてみる。「日高見国」という表記が「常陸国風土記」にあり、国造制以前の国々の名を解くために国司制の国名がヒントになるうることを示している。ヒタカミはヒタシモと一対の国名で、やがてヒタカミは北上(ひたかみ)として残り、ヒタシモは音が脱落してシが訛り、日立(ひたち)となった。時代を経ると音韻変化していくことが分かるが、これと同じルールで読み解くと多くのより古い国名が浮かび上がってくる。これは言葉遊びを応用したものだが、疑問を発展させて論理化する手法の例として考えてもらいたい。この読み解きができれば
  上総(かずさ)*下総(しもふさ)→「ふさ」
  上毛野(かみつけの)*下毛(しもつけの)→「けの」
 というふうにもともとの地名が何であったかを類推していくことができるのである。
  □□□□   ここに「むさし」と入れると「むさし□」。
  □□□□   こちらには「さがみ」と入れる。「□さがみ」。
 で、上の□に「も」と入れ、下の□に「む」を入れれば「むさしも」と「むさがみ」つまり「むさ+下」「むさ+上」になる。もとの名は「むさ」としか思えない。
 しかし、埼玉は前多摩だが、後多摩という地域は確定できていない。「かい」も同じである。このように時代が下るとわからなくなってしまうものが多い。どこかで疑問を出し、考えれば復元も可能なのではないだろうか。これを考え、しらべていく過程では論理性が必要となる。直感だけでは言葉遊びや思いつきにすぎないのだから、それを論理化する方法をヒントとして与えることを忘れてはいけないと思う。この話は例にすぎないが、つまりここでは子どもに「地名に関する本」をグレード別にどのくらい与えられるか論理化できるかどうか、どう引っ張れるかが親の腕の振るいどころでもある。(つづく)



(2021年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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