ブッククラブニュース
令和3年
2月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせとは⑥

4歳以降も・・・・同じように読み続けて!

 読み聞かせのある生活は、やがて読書のある生活にむすびついていきます。でも、それは「ふつうならの話」です。しかし、配本開始の最初に述べているように4歳ごろ、7歳、11歳をおおまかな区切りとして本から離れていく子どもがいるのも事実なんです。4・7・11の分岐点と私は名付けてますが。
 ブッククラブ内では4〜5歳で絵本から離れる子はあまりいませんが、読み聞かせをしてこなかった家庭の子ではキャラ本や戦隊もの絵本、プリキュアなどカワイイ系アニメ本に流れるのは一般的なことなんです。さらにアニメ映画、youtubeなどの影響は4歳で出ます。私どもが絵本と言っているものにまったく触れないで育つ子も多いのです。
 8歳は一人読みが確立する時期ですが、ここできちんとした本に移れない現象も起きます。その背後には、お稽古事や学習、子どもの周辺にはびこる粗悪なマンガやスマホ関連の遊び・ゲームなど、さまざまな問題がります。息抜きにゲームや動画に浸ってしまい、一人読みグレードに達せないまま別の方向に行ってしまう子どももかなりいるでしょうね。間違っても「読み聞かせは十分にしたのだから読書に進む」などとは思わないことです。進む場合も稀にはあるが、環境設定がよくないと本を読まない状態になってしまうこともけっこうあるのです。

環境から逃げられない8歳

 「そんな子たちの心配をしなくてもよい!」と言われる方もいるかもしれませんが、ブッククラブ内部の子どもたちも社会的な風潮に常にさらされている状態があって、「読み聞かせのある生活が読書のある生活にむすびついていく」というのは安易な思い込みだと思います。
 子どもは成長過程で、育ち方の違う子と接していくわけですから、影響は少なからずあるわけで、なかなか自分だけというわけにもいきません。
 環境からは逃げられないのです。園や学校は行かねばならず、行けば流行や悪影響にもさらされます。そこをうまく抜け出るには、適当に悪影響を避けつつ、基軸になる本読みができることが肝要となります。
 世の中を変えることが問題解決の早道だとは思うのですが、日本では社会を変える力は期待できません。となれば、各家庭で防御をしつつ、よりよい方法を考えを作り上げる軸に据えなければならないと思います。

最大の峠・11歳

 11歳ともなれば、学習自体が子どもの生活に余裕をもたらさないので、読書から遠ざかる子も多いのです。親も勉強さえすればいいと割り切ってしまう人がたくさんいます。もちろん、本を読むことができる子どもは時間を作ってでも本を読みますが、ふつう、なかなかそうはいかないのです。一日は24時間しかなく、いまでは大人同様、子どもも忙しい一日を送っていますからね。スポーツで疲れ切ったら読書もないでしょう。そういうものが横たわっていて、本を楽しむ体験ができないまま大人になってしまう人も多いのです。
 現代は「のんびりしていたら取り残される」と焦らされる時代です。新しいものを追いかけて、それを獲得しないと置いてきぼりを食う恐怖感がみんなにあります。
 学校も最近は本を読めとはいわなくなりました。お上には逆らえないのが公務員です。国家公務員ですら忖度で生きていますから、文科省方針に地方公務員が逆らったって向こうは痛くもかゆくもないことがわかるからでしょう。息高く戦った先生方は団塊の世代ですからとうに退職、いま残っているのは受験勉強と教員試験に圧迫されて頭を造った先生方ばかりです。自分自身がろくに本を読んでいません。本の良さも可能性もなにもわかっていないのではないでしょうか。
 さらに、そのていどで高給が取れるなら本など読まなくてもオーライという考えにはなるでしょう。自分が効果を感じないものを生徒に進めるわけではないですよね。ここ、高学年が大人の本読みにつながる大きな山場なんですが。
 いったい学校は何を考えているのでしょうか。妙に醒めた大人のコピーのような子供ばかり製造しているような気がしてます。

自分で考え、自分の生き方ができるか

 ほんとうは、そんな高をくくったような考えでは生活も人生も満たされないのですが、バブルこのかた、新しいものを追いかけることがいいことで、ゆったりと暮らすなんてとんでもないという考え方が支配し始めました。
 いまや、楽しく読み聞かせ、読書の時間を味わう良さなど絵に描いた餅になるかもしれませんが、個人的には「ゆったりと楽しい子ども時代を送った人は人生にも厚みが出てくる」と思っています。読書はそうそう価値のないものではありません。なんとか「読み聞かせのある生活を読書のある生活に」つなげれば、次の、次の時代(次の時代は今の時代が崩れて大混乱の時代でしょうから次の次です)を生きる子どもには大きな能力、原動力になると思いますよ。4歳以降6歳くらいまで、一人読みができてもぜひ読み聞かせてください。それは親子の絆も強いものにすると思います。なんと言っても体を接して、息遣いまで伝わる状態というのは言葉の理解や話の把握以前に親と子のつながりを固くするものです。いま流行りの親殺し・子殺しはそういう体験のない人たちのなせる技だと思うのですが・・・・。

家庭と家族しか頼れるものは

 子どもに特化した教育論とか子育て論が長らく、かまび(喧)すしいが、子どもが大きくなるうえで重要なのは家庭、家族であって、とりわけ親が重要な要素だと思うのです。親がダメだと子どもの命まで危険になることは昨今の虐待事件を見ていればわかること。親をなんとかするほうがはるかの子どもの教育や子育ての方法を伝授するより効果的ではないかと思うのです。子どもを産んだから親になるわけではないことは自明の理ですよね。育てているうちにだんだんまっとうな親になるのですが、幼少期・少年期にまともな育ちをしていないと親になってもでたらめな行動しかできませんよね。
 バブル・ジュニアは親になっても派手なことしか考えられないので、幼稚園の卒園式に子どもを袴(はかま)、羽織で出させたり、子どもをダシにして遊びまくったりです。早い話、躾(しつけ)ができていない親ですから、子どもに行儀を教えることもありません。というより、できないのです。そういう人たちは「なにをしても個人自由だ」「うざいルールより自由な行為」と言いますが、その結果、すごくみっともない現象が子どもに起きます。甘やかして育てるとどうなるか、前の首相の食べ方の汚らしさは話題になったことがありますが、甘やかしの典型例でしょう。「だめなことはだめ!」と教える規準を親が持っていなければ、子どもには礼儀も行儀も行動規範も身につきません。
 外部組織が躾てくれる、外部から学べばいいといいますが、現代社会は進歩的文化人が「自由」の名のもとに社会規範を数十年前に壊してしまったので、新しい規範がないのです。園や学校では教えてはくれません。そして、行動基準がつくれなかった子どもは少年になり大人になったとき軋轢が生じて精神的に追い込まれることになると思います。いま、するべきことは親が反省して考えることではないでしょうか。(一部閲覧)

3・11から十年

 今月11日で東日本大震災から十年目です。なんだか、いまの日本は十年ひと昔で、あの惨劇をみんな忘れてしまっているかのようです。終わったのでしょうか。先月13日、福島沖を震源とする震度6強の地震が起こりました。甲府のゆめやはその4時間前に直下型地震(震度3)を感じました。そして、あのときと同じような大きな横揺れが始まったのです。でも緊急地震速報が出なかったんですよ。
 1月号ニュースで、また3・11と同じ、辛(かのと)の年になり、3・11は辛卯、卯は東方向、今年は丑で北方向を指しています。「辛」はエネルギーの噴出だからあぶないと書きました。すぐに起こってしまいましたが、1回で終わるのか。今回は津波がなかったので被害は大きくなりませんでしたが、まだまだあるんじゃないでしょうか。今年は丑年、福島はまた電気や水が断たれたようです。公共放送からのニュースが入ってきませんが、かなり大変なようです。一応、沿岸部の会員には安全確認をしましたが、福島第一原発では原子炉水位が下がってきているそうです。
 そういう重要なニュースが緊急地震速報のように消されているのは、どうしてもオリンピックをしたいからでしょうね。

アンダーコントロール・・・?

 「東北は復興した!」、「原発はアンダーコントロール下にある!」・・・それにしても、これで今年は終わりとは思えません。嫌なことなど考えずに、忘れて気楽なことばかりやっているのをヤンキーと言いますが、どうやらこの国の「あれから十年」は「お祭り騒ぎ」のヤンキーの国に変身してしまっているようですね。次を気を付けましょう。コロナ禍でこれまで以上にスマートフォンやSNSは生活に欠かせないものとなったが、その半面、ネット上での心ない「いじめ」の問題が社会問題になっています。匿名の誹謗中傷に心を痛め、自分を追い込んでしまう人も少なくない。
 もう社会にコントロール機能がない時代になってしまったといえるわけです。とにかく人の言うことを聞かないという風潮をネットは作り出してしまいました。国民全体のマザーマシン化しているのがインターネット環境であり、その取り出し装置であるスマホです。これが暴走を始めているわけですから、かなり厳しい時代になるのは間違いありません。コントロールなどできるわけがないのですから。

電気と伝記

 ビルゲイツやスチーブジョブズはいまや伝記にまで登場するヒーローですが、そのうち、この発明が恨まれる日が来るのではないでしょうか。
 伝記に書かれる人物ってじつはけっこう胡散臭(うさんくさ)い人がいるのです。一人殺せば殺人犯、たくさん殺せば英雄という感覚でしょうか。二人は若者にも信奉者が多いことでしょうが時代が変われば評価も変わります。
 原発をつくった人だって最初は英雄だったことでしょう。電気の行きつく先は原発問題となった時代、さて便利さと豊かさを維持するためにスマホや原発はどこまで貢献できるのか。考えておかねばならない問題です。
 電気というものは見た目は利用価値がたくさんあり「未来を開くエネルギーになりうるのか」ですね。ここをわれわれは深く考えておく必要がありそうです。人は夢と希望を語れると、輝かしい未来がやってくると思い込む生物ですからね。

2020年度修了者へのお礼

 今年もまた桜が咲く季節・・・就学児ブッククラブ全課程の修了です。長い間、お便りをやりとりしたり、毎月会ったりした方々のお名前が下の修了者一覧です。時代というものでしょうか。今年も世相に影響されてはいますが、半数の方がここまでつきあってくださいました。もちろん、ここで終わりですから、ホッとされた方もいるでしょう。離れがたいと思われる方もいると思います。始まりがあれば終わりは必ずあります。
 この中には、兄姉からずっと20年のおつきあいの方もいます。いや、1名、お母様がかつてここまで修了した会員のお子さんも入っていますから、この方とは30年以上のおつきあいになるということですね。びっくりな話です。通販型のブッククラブとちがい、ゆめやのブッククラブは、交流がありますからね。原則2歳までのスタートなので、ここに残った皆さんは、0歳、1歳からスタートの方がほとんどです。最近は、ご承知のように一般家庭では長い物語を読める子がどんどん減っています。だから、この子たちは貴重な存在になると思います。
 6年間の配本で何が一番心に残ったでしょうか。高学年の配本は、かなりレベルが高いものが入っていましたので、読み残しのある方は後で読んでくださいね。ここまで読めれば大人の本はもう目と鼻の先です。
 今年の修了者の皆さん! ゆめやとしては、よくぞここまで残ってくれたと感謝してます。絵本から始まる読み聞かせの底力でしょうか。それよりもなによりも・・・・本を与えて育てよう! 「読み聞かせをして楽しもう!」というお父さんやお母さんの考えと家庭環境がなければ、ここまではきません。いまの時代、高学年に配本した本など手も足も出ない子が多いのです。いや「目も耳も」です、本だから(笑)。
 終わっても、ぜひ「その後」をお知らせくださいね。必ず返信しますので(ゆめやが存在する限りはですが・笑)。

修了者一覧は新聞裏面に

 遠方の方は電話でもメールでもお手紙でも何でもけっこうです。お便りをください。最後に、あらためて、これまでのご愛顧に感謝申し上げます。ゆめや
 ↓記載洩れの方がいましたらすぐにご連絡ください。修了書などを発行しなければなりませんので。
 (修了書などは配達配本の方は最終配本で、遠方の方はこのニュース同封で発送します)
 来年度配本表を今月お渡ししています。お子さんの読書の状況を見て、グレード変更したい場合はご相談ください・ご相談はプログラム関係はできればメールでお知らせください。就学児ブッククラブについて◆配本表にはA・B・C(一部D・E)のコースあります◆

こんな絵本もあるよ(7) さくらの谷 

 新しい昔話とでもいうのだろうか。さすが文を読ませる名人の富安陽子さんならではの話の進め方に舌を巻く。小学生でないとむずかしい絵本だが、こういう物語は自分が文章を書くときのお手本になるものだろう。その練習のためにも適切な本。
 これは富安さんの話によるとお父様が亡くなったときに見た夢を物語にしたそうで、さすがはインスピレーションをすぐ物語化できる作家の真骨頂を見ました。
 「あの山なみをずっと西に行くと、そこにだれも知らない谷があります。さくらの花にうもれた、そのふしぎな谷に、わたしはいちどだけ行ったことがあるのです」で始まるふしぎなふしぎな物語。その谷にいるのは人ではないのです。鬼たち。数え歌や子どもの遊びが鬼たちによって、満開の桜の谷で繰り広げられます。
 それは一瞬のできごとなのですが、自分が出会った人、自分が行った所が現れては消えていく。深い心の思い返しは、どこかでその人の「ひととなり」を作っていくんでしょうね。

サブカル問題 9 最終回

 山梨大学医学部精神科の志田博和先生が、講演でゲームやネット依存の背景には「孤独」があると指摘していた。それは近年、急速に広がる依存症患者や自殺者を分析したところ、多くに「孤独な生活」、「人との交わりが希薄な過去」があるというのだ。つまりサブカルにはまってしまう最大の原因は、この「孤独」らしい。
 学生を対象の調査では、スマホの使用時間が長いほど「不眠」「抑うつ」「不安」の症状が出てきて精神的な問題を抱える若者が多いという結果が出たという。スマホを熱心にいじっているときはたいていは人は一人である。生身の人間と対話しながらゲームやSNSをする人は少ないだろう。若者の場合は、精神的不安に陥るだけかもしれないが、親の場合はこういうことも起きるらしい。
 親がゲームや動画、LINEに夢中になっていて、必要なコミニュケーションを子どもが要求してきたとき生返事をすると子どもに対話上の「言語獲得」が不足し、問題解決能力、認知能力の発達に影響が出るのだ。さらに困ったことは、子どもにスマホを渡し、「動画を見て待っていて!」という対応をすると「他人への共感や相手の立場を理解したり、配慮したりする能力が低くなる」のだ、という。

なんと乳児の依存も

 さらに恐ろしい現象が起こる。子どもがスマホ依存になると、その先のネット世界が「親」代わりになり、信じ込む。本来、子どもは不安になったときに親に怒ったり、なだめられたりする中で「愛着」の気持ちを育てるものだが、スマホが愛着の対象になってしまうと、依存するのが当たり前になり、その記事や映像をうのみにしてしまうというのだ。さらに、環境が生きづらいとなると、さらにゲームやスマホ依存になるという。結果、見ていて楽しくない映像でも「現実よりはいい」と思い込み、スマホやネット世界を愛着の対象にしていくというのである。そして、そこには絶望的なほどの孤独がまた生まれていく悪循環が起こるらしい。もう起きているような気がする。ハラスメントをする人も孤独や依存のタイプが多いらしい。
 山梨大学での調査だが、1歳児の1割に、「すぐに使いたがる」「取り上げると機嫌が悪くなる」という現象も起きるらしい。これはおどろきだ。デジタル・ネイティブ世代が親になったら、こりゃあもう社会での人間関係はバラバラになるしかないではないか。杞憂(きゆう)とばかりは言い切れない。
 ただ、この対策を志田先生が述べていたが、「学校で何があったかを子どもに聞いたりして会話を増やす」「ほめたり、スキンシップをしたりする」「朝ごはんをちゃんと食べさせ、午後10時までに就寝する習慣をつける」「1日2時間に決めて、時間には必ず回収する」など、ありきたりのものだった。これは残念。この対応策が実行できるなら、依存など起きることなどないと思える。便利を求めているうちに、大人自身がいつのまにか悪魔の罠にハマっている現代があるというのに、こんな対応しかできないとしたら、いつかガラガラポンになるしかないなぁ。

半導体を売りたいだけかも

 ネット社会で必要不可欠なものは半導体だ。半導体というのはパソコンやスマホなどネット関連機器の主役である。しかし、これまでの間に便利さもアップしてきた半面、人々の精神に異常な負荷をかけてきたものでもあったと思う。半導体そのものではない。半導体が使われるネット社会の影響である。
 たとえば、自殺は「ネット絡み」のことが多い。韓国でも日本でも起きた事件だが、人気の女優や有名タレントが自殺した背景に「SNSで批判や悪口を言われたから」というのが理由のものがいくつもあった。
 最近、テレビ界で問題になったのは記憶に新しいからみなさんも知っているだろう。生活をテレビ中継するという企画に出演していた女子プロが、SNSで批判や否定的なコメントをたくさん出されて自殺したのだが、SNS批判を真に受けたのが原因だったという。この人が見ていたのは当然テレビ画面ではなくスマホだったと思う。おそらく、日に何千回となく触っている代物だ。スマホ自体が気になって気になって仕方がなくなっているのに、さらに自分に批判してくるものを見続けたらどうなるか。悩んで鬱病になるくらいならまだいいが、自死とか凶悪な事件を起こしたら、これはもう被害が加害になる。
 ネットにはまり込めば頭がおかしくなるのは当然だろう。しかし、ネットで儲けている側はそんなことは無頓着だ。こどもがおかしくなろうと、世の中が大変なことになろうと、儲かればいいわけだから冷たいものである。

井戸端会議電子版

 たしかに、SNSは「世界のだれとでもつながる」がキャッチフレーズなのだが、それは見かけだけなのではないだろうか。もちろん一部分はそういう機能があるだろう。
 しかし、本当にそうか? 実際は現実世界で何もできない人々が、不満を誰かにぶつけるはけ口になっているとしか思えないのだ。
 FacebookもTwitterもLineも90%はどうでもいい個人のグチやののしり合いのようなもので、重要なコメントを探すほうがむずかしい。重要なコメントや意見は、紙媒体の方がはるかにピックアップしやすいのだが、毎日吐き出されるネット上のうわごとは、重要なコメントがあっても時間で流れていくのでとらえどころがない。
 たとえば、芸能人やスポーツ選手に醜聞はつきものだが、昭和の時代ではそれがかなりひどいものでもネットがないので、大きな話題にはならなかった。執拗な個人攻撃の電子版井戸端会議はなかったからだ。きっと「嫌な奴」「死ね」などの悪口や批判は見えないところされてはいたと思うが、誰もが知る状態ではなかった。そうなれば批判されている本人は気にしないし、どうでもいいことになっていたはずである。しかも、クズ芸人や売れないテレビタレントなどが、言いたい放題を言って人気を上げることにつながる、いわばSNSを使って炎上商法のようなことをやっているのである。真実の訴えではない。どのくらい自分が売れるかを危険覚悟で行っているのだから始末が悪い。こういう中で、芸能界やスポーツ界の人々がSNSやネット掲示板を見るということは、自分から動物園や水族館の檻や水槽にはいるようなもの。人々に見られた結果、ああでもないこうでもないと言われて神経衰弱になるのがオチである。

電子社会の大衆は怖い

 こうなるとネットリンチみたいにどこからも攻撃されて、ボロボロにされる。損することはあっても、得することは何もない。やってはいけないことをしたのだから本人はしかたないにしても、周囲が大きな迷惑・被害を受けるわけだ。法律の権威が落ちているから、大衆の不満はこのようなリンチに向かうわけだ。まあ、かんたんにいえば、井戸端での憂さばらしという、ひじょうに低俗、低劣な状態になるというわけ。
 それをやるネット大衆も依存で、みんなネット・スマホに時間的に縛られてるし、それで毎月の通信費まで取られてるのだから、儲かるのはNTTとか関連会社、半導体製造企業・・・ウハウハの笑い声をこらえているのだろう。今後いくら菅首相が通信費を下げることができたとしたって知れてるよね。儲かるのは依然、電話会社とネット企業ばかりだ。

私はスマホを持ったことがない

 私は1995年ごろPHSというのを持って通話料が40円なのに通話料を3000円も取られて一か月で不使用にして、大変嫌な思いをした。以後、ケータイもスマホも持たない。そのときに、このゆめやのニュースで「私はケータイを持ちません」と1998年宣言をした。こんなものに依存するより、スマホの電源を切って現実の世界とちゃんと向き合ったほうが精神のために(いや体のためにも)よほど健康的である。
 最近は、女子高校生や大学生だけではなく、いい歳をした社会人や老人もスマホがないと不安で仕方がないらしい。忘れれば遅刻しそうでも家に取りに帰るし、電池が切れそうになるとコンセントや充電器を物色して血眼になる。電話やメールが確認できなくなるからというけれど、ことんど、それが一分一秒を争うような話とは思えない。だいたい考えてもみよう。スマホがなかったとき、われわれの気持ちはそんなものに惑わされずゆったりしたものだった。

四六時中の通信は不要

 本当に緊急案件なら、会社にでも出張先にでも電話連絡はくるはずだ。「必要だから」と言うより、もはや依存症に近いとすら思える。親が死んだときだって、電話が来て慌てて駆け付けたものだ。
 私は時間を決めて80年代、ケータイなんかなくても周囲の人々と平気でつきあい、それも直接会って話をし、さほど電話も使ったことがなかった。当時を生きた人はみんなそうだったのである。身近で自殺もなかったし、スマホではなく公衆電話で救急車を呼べばすぐにやってきた。孤独死なんてほとんどなかった。それなのに、今では四六時中ネットとつながっていられるはずのスマホやタブレットができたのに、世の中を見渡せば孤独死や自殺者であふれ返っている。つまり、スマホが孤独を再生産して、前述の志田博和先生がいみじくも言ったように、依存への悪循環にはまってしまうのである。
 自殺、引きこもり・・・・社会的問題ではあるが、できればそういう人たちには、そこまで自分自身を追い詰めてしまう前に、目の前のスマホをぶっ壊す勇気があれば命まで落とすことはなかっただろう。ネットで、何か手助けになる情報を得るより、自分の勘や危険察知能力を磨かないと心が壊れてしまうといいたい。スマホやケータイでは孤独は解消できない。人とのつながりはそんなものではないからだ。そんなこと、自明の理である。
 ネット社会でくたびれたり、悩んでいる人には「スマホを捨てる勇気を!」と言いたい。できるかな?できないかな。ま、それで、便利だ! 世の中が広がる、たくさんともだちができると思う人は、もちろん止めません。ご勝手に!である。自由な社会だからしかたがない。その自由というのが曲者なんだけどね。(一部閲覧)



(2021年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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