ブッククラブニュース
令和3年
2月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせとは

⑤3歳からは文章語の物語絵本へ

 3歳になると、周囲の人たちとのコミュニケーションがじゅうぶんに可能になり、語彙は飛躍的に増してきます。前回述べたような会話語(おしゃべり言葉)の量はおどろくほど増し、2歳のかわらいらしいが、たどたどしい会話ではない、筋の通った話をすることもできます。そして、読み聞かせでは、いよいよ本格的な書き言葉=文章語の世界に入るわけです。1歳から読み聞かせをしてきた子は自然に書き言葉「〜しました。」「〜です。」という文の世界ですが、テレビや粗悪なアニメ絵本で育った子は、書き言葉には違和感や緊張感があってなかなか踏み込めません。これは、ですね、じつは小学生でも若者でも同じことが起こるのです。しゃべり言葉だけで育った子は、きちんとした文章語の文やおはなしに拒否反応がでてしまうようです。日頃「やばい」「ダサイ」「チョー」「カワイクネ」「メチャ」・・・だけで言葉をつないできた子が、「可愛らしいものと比較して、野暮で洗練されていないものには、はなはだしく不都合なものを感じるでしょうね」という会話にはついていかれないのです。
 文章語というものはかなりロジカルなもので、「だからこうなる」というものを持っています。もちろん、絵本自体に、始めがあって終わりがあり、その間を論理的なスジがつないでいるのですが、このおもしろさを経験できない子にとっては、論理的なスジ立てを追うのが苦痛になることもあるのです。ですから、1〜2歳の読み聞かせの充実が、ここで大きな役割を果たすことに多くの親が気がつくはずです。

配本では・・・・

 配本では絵本の佳境ともいえる3歳〜4歳にかけて多様なものを組み合わせています。
 定番である古典的名作の「ぐりとぐら」や「ももたろう」、親の別の側面を垣間見せる絵本の「よるくま」なども子どもの気持ちを引き付けます・・・また初期の数概念が出てくる時期ですから「かぞえてみよう」などの絵本もはいることがあります。ただし注意! べつに算数のお勉強をせよ!ではありません。数というものがどういうものかを知るだけでいいのです。ここでは勘定のしかたを教えてあげることも重要です。 魚は2匹、モミの木は12本、車は4台、お家は5軒、鳥やうさぎは6羽・・・・タンスや羊羹の数え方は大人でも知っている人は少ないですが、基本の数え方くらいは知らないとね。最近は大学生でも数え方を知らないで、なんでもかんでも「〜個」なんです。「あの子は、おれの三個下でね。」・・・そうじゃないだろ!三歳下だろ!!

とにかく親が楽しく読み聞かせ

 三歳・・・絵本は、このへんから読み聞かせるほうもおもしろくなってきます。なんといっても物語ですからね。大人にも面白いです。いずれおとらぬ名作が何年も山のように配本されることでしょう。これは子どもにとっても大人の親にとっても至福の時間になります。そして、読み聞かせをしてきたお母さんが口をそろえて「あのころが一番楽しかった」というのが3歳〜4歳の読み聞かせなのです。最近は働くのに忙しくて、帰宅したらご飯を与え、お風呂に入れて、ふとんに追いやる家庭も多くなりました。幼児期に読み聞かせをしなければ子どもは流行ものに飛びつき、心の中に物語の意味を溜めることなく本から離れていきます。どこまで行っても、この時期は親の接し方ひとつで先行きが変わるのです。大切な時期です。しっかり読み聞かせで親子関係と読書の基礎を築いていきましょう。
 最近の若いお母さん方は子どもと関わる時間を減らし(仕事や効率的な家事のために)、子育ての多くの部分を外部に依存するようになった人も散見されます。一番重要な0歳から3歳くらいの期間でも、ほとんど義務的にしか子どもと接しません。仕事ってそんなに大事でしょうか。女性が自立のために働くことは重要だとは思いますが、それは子育てをないがしろにしていいということではないと思うのです。女性に向かって言いますから不快に思う女性もいるでしょうが、男性も子育てに関わる環境をつくることで切り抜けないものでしょうかね。つまり、現代の労働形態が子どもにとっては不都合なものであるということです。三つ子の魂、これを大事にしないと大人になってから大変です。

いろいろな関係がわかるために

 3歳代では、まだ社会性や相手をおもんばかることができないでいる子どもに人とのバランス感覚を保つ内容の絵本も入ります。例えば「ガンピーさんのふなあそび」や「ガンピーさんのドライブ」。14ひきのシリーズやそらまめくんのシリーズなども楽しく家族や友達を知っていく本でもありますね。
 まだまだ人間関係に未熟な3歳。相手のことを考えたり、どうしたらみんなとうまくやれるかをシミレーションするものです。もちろん、じょじょに性差もでてきますから、女の子には女の子の「どうぞのいす」や「まほうのえのぐ」、男の子には「おたすけこびとシリーズ」など盛りだくさんの配本となっています。・・・もう、とにかく楽しく読み聞かす・・・そうすれば、子どもは乗ってきて、やがてわかっていくでしょう。だから「読んでやる」・・・それだけでOKです。

読書挫折の問題・2

学歴信仰が読書を遠ざける

 史上初となる大学入学共通テストが今年の1月16、17日に終った。少子化で子どもの数が少なくなるのに、大学進学率は上昇だという。年末の文科省調査によると、過去最高の54.4%が進学と発表された。半数以上の子が大学生になるというわけだ。
 受験勉強をがんばって、いい大学にさえ入れば、就職先に恵まれ、収入も安定し、幸せな一生を送ることができる──多くの日本人が信じる「立身出世神話」「学歴神話」の入り口なのだが、じつは実態は風前の灯である。
 「近年は、大学を卒業した学生の約1割が、就職も進学もしない」ほかにも、「名門私立中学や、医学部への高い進学率を誇る高校へ入ったにもかかわらず、不登校になるケースも増えている」などという話も入ってくる。就職しても、会社になじめず引きこもるという人も少なくないという。30年前、バブルがはじけるまでは、勉強さえできれば基本的に誰でも安定した幸せを手に入れられたが、いまの時代はそうは行かない。

学歴と立身出世

 親は、子育てしながらいつも子どもに学歴をつけ、出世させたいと願う。明治以来、福沢諭吉の教育論を刷り込まれた結果だからしようがないといえばしようがない。しかし、これが子どもから本(読書)を遠ざけている原因のひとつになっているといえば言い過ぎだろうか。福沢の教育論は出世のための実学であって文学など役に立たないという考えだった。だから学校も受験勉強や部活には力をいれるが「人間形成のために基本的な読書をしなさい!」とはほとんど言わない。なぜなら、親への立身出世願望を満たすためには「読書より勉強」という方法がずっと受けるからだ。
 じつは、このことは、教師を職業としている人々の子育てに強く反映している、いや、立身出世思想が一番頭に刷り込まれている人が教師と言ったほうがいいかもしれない。小学生のときにあれほど「本を読め!」と言ったのは、識字率を上げるためだけであって、人格形成のためではないということ。だから、ふつう一般の人より、子どもを受験戦争に追い込んでいく体質はかなり強いように感じる。
 ここには、成績が良ければ、自分の考えや生き方など身につけないでも幸福な人生が歩めるという思い込みがある。しかし、成績とは、決められた答えのある問題を解く力であり、100点を目指す努力だけが要求されるものでしかない。それで人生がうまく渡れるだろうか。

うまくいかない例

 成績の良さと学歴が壁となり、苦悩に陥いる人がいる。その代表は、例えばいまの皇后。高学歴で固められた家系でハーバード卒、東大法学部、外務省官僚・・・。まさに「スーパーエリート」だが、結婚・出産後に適応障害の診断を受けて療養が長く続いた。試験で100点を取れても、その力が家事や子育てで簡単に正解を出せる保証はないのである。この「普通ができない!」という現象が精神のバランスを崩させてしまうことはよくあることである。その意味では「現実を渡るしたたかさがない」のかもしれないが、この種の人々にはありがちなことである。
 エリートは、普通一般の我々とは違い「頭がいいと同時に、がんばり屋で努力家」だ。勉強は努力するほど成果が出て100点も取れるが、社会生活や家庭運営、子育てはそうはいかない。周囲との人間関係が崩れたり、家庭内で何か起きたり、子どもが言うことを聞かなかったりする。どんなにがんばっても予測不能なことが起きるのが世の中であり、家族である。
 ところが、スーパーエリートは100点満点じゃないと気が済まない性質だ。けっきょくできない自分、うまくやれない自分を責めて精神を病む。若いころから、さまざまな人生(失敗や挫折を描く文学)や多様な生き方を知る必要があるように思うが、そういうことより効率的な知識を求めてしまうのだろう。ひどい場合はカルトやスピリチュアルにはまる。
 オウム真理教の例を見ればわかるだろう。あそこには高学歴、理系で論理的な幹部がいっぱい集っていた。自分の力でサリンを生成し、プラントまで製作できるのだから、これはいわゆるエリートが持つ力の総集ともいえる。ところが、やったことはあの始末だ。かれらの学識の優秀さは、かれらが宙に浮く教祖の写真を見ただけで吹き飛んでいく。人を殺すことが世の中を刷新する方法だと信じる。普通に物が考えられなくなったり、「これはおかしい!」という理性が出なかったのは、人間がどういうものかということを文学を通じて考えることがなかったからだろう。
 ここに受験的な秀才、理科系のエリートの問題点がある。上昇志向と満点志向は、たやすくカルトやスピリチュアル組織の序列にはまり込みやすく、悪事を平気で行えるような体質があるのだと思う。このことは、政権に従う官僚群がいずれも同じ優秀な成績と学歴を持つエリートでありながら、序列社会の中で悪事をも平気で行える集団であることからもよくわかることである。だからまっとうな文学を読むことは大切なのだよ。

悲惨な例が多くなっている

 また、受け身の問題だけでなく、エリートが持つ優越感覚は他人に向けられて攻撃的になることもある。慶應大学や東大の学生による集団強姦事件などは、あきらかに「特権意識」の暴走が原因だ。女性の結婚願望が多い有名大学の学生は特権意識が高まり、「一般には認められないようなことも自分だけは許される」と勘違いする人が出てくる。東京・池袋で車を暴走させ、母子をひき殺した「上級国民」も、法廷で「自分のミスではなく車の不良」と主張して一般の反感を買った。「自分は特別な人間であり、間違いを犯すはずがない」というエリート根性が見え隠れしている。この人たちは、まともな本を読んで頭の足しにしたことがあるのだろうか。
 さらに近年は、勉強に打ち込んできたまじめな子が、進学校へ入学したことで「上には上がいる」と思い知り、落ちこぼれとなるケースも増えている。昔と比べ自己肯定感が低い子が増え、少しでも嫌なことがあると投げ出して引きこもり、難しい授業はあっさり単位をあきらめる。まじめに勉強して成績のよかった子ほど、挫折から上手に逃げられなくて苦しむことがあるようだ。学力と困難を乗り越える力は別物なのに・・・。難しい試験をクリアしても、周囲に見放された人生は、はたして幸福といえるかどうか。ここでは、物語を読み込むことで、さまざまな人生や世界があり、失敗もあれば挫折もあるという世界の真実が学べないまま大人になってしまう人々がいるということである。この読書挫折が小学校から起こっていることをもう少し知る必要があるような気がする。

こんな絵本もあるよ
(5) 天動説の絵本 安野光雅 

 「・・・ペストもこわいし、魔法使いも悪魔もこわい。世界はこわいものばかりでしたが、なかでも、こわいことは死ぬことでした。死神は王さまよりも、だれよりも強いからです。・・・」
 この本を読んだとき、私は「これはもう哲学や思想の世界の絵本だなぁ、」と思いました。中世、地球を中心に世界が回っていることが常識だった時代の人間の無知を現代人は馬鹿にしているかもしれませんが、じつは、現代もまた別の意味でコペルニクス的転回が必要だ!と思ったからです。コロナにしても長生きの薬にしてもブラックホールにしてもじつは人間は中世と同じく何もわかっていない。死さえ何もわからず、ということは生きていることも無自覚で、食べること、住むこと、着ることだけにおいまくられているとすれば、太陽の周りを地球が回っていることがわかっても大して天動説の時代と違いはないと思ったからです。これは考えるきっかけになる。こういう絵本は海外ものでもあまり見かけないなぁと思いました。

就学児の配本表のお知らせ

 来月配布する基本配本表ですが、以下のことをご留意ください。
 絶版本・品切れ再販中の本が頻繁で(最近は流通状態がおかしいので)、新一年生を含めて来年度の各学年の配本表を例年と同じく原則3月(来店者や新一年生などでの一部の方には2月)に配布いたします。発送会員にはニュースあるいは配本に同封で、来店受け取り・配達会員はやはり3月にお送りいたしします。配本表はすべて①学年別 ②性別 ③弟妹別です。
 お子さまの学年・性別・兄弟姉妹別に合わせてありますが、なんといってもゆめやは作業人員2人しかいず、家内制手商業のため、もしかするとお子様の学年・性別・弟妹別を入れ間違うことがあるかもしれません。必ずご確認をお願いいたします。学年・性別・弟妹別などが違っていたらご連絡ください。

★基本配本表★

 通常は学年別・性別の基本配本表が入っています。三年男子なら「3年男子基本配本表」とあります。低学年の配本表にはA〜Eのコースが記されています。とくにご要望のないばあいは、そのうちのB配本だけが配本されます。副読本を加える方はAC(低学年はD,Cからも可能)の中から選んでください。どのコースからでもOKです。また加えるのは何冊でもけっこうです。加えるのは、途中からでもご連絡をいただけば増やせます。
 こういう忙しい時代で、低学年からお稽古事や塾があり、当然、学童保育などで時間がとられ、家に帰ってくれば、お疲れのお子さんも多くなっているのではないでしょうか。こうなると、もう猛烈サラリーマン並み。家庭ではメシ、フロ、ネルの日常の子も多くなってきます。スポーツをやれば疲れ切って読書どころではないでしょう。
 他方では、ゲームやスマホなどの影響が大きくなり、本を読むひまもない子が増えています。とくに中学年で顕著です。こういうことは、ゆめやにはわかっていることですから、月一冊の本がたまる状態でしたら、ご遠慮なくお知らせください。配本は停止します。ご連絡はメールでも受け付けています。

いじめの構造 9

 コロナの第一、第二、第三波・・・で、これまで述べてきたいじめの構造がまた復活してきた。「感染者をいじめる」ということは、汚い、穢れているという構図があるからにほかならない。これがエスカレートすると営業自粛をしない店を狙って自粛警察なるものが貼り紙をしたりする。そして、そこで「そうだ!」「そうだ!」の大合唱が起こる。いわゆる同調圧力というものである。まだよくわかっていないウイルスについて考えることもなく、感染者や営業者のことを助ける気持ちもなく「汚い!」「穢れている」では話にならない。考えても見よう。これは疫病(ただの風邪だという人もいる)だ。たとえ、ただの風邪であっても疫病でも、病気にかかった人間が悪いということになってしまう。

囲い込みと排除

 この国の「同調圧力」と「病人いじめ」は、例えばハンセン氏病(ライ病)で、すでに国ぐるみで行ってしまったことで体験している代表例といえるだろう。またその後、公害病となった水俣病でもイジメと排除しようとする同調圧力が生まれた。被害者、つまり同情や庇護を必要とするかわいそうな人をいじめて、社会から取り除こうとする気持ちが日本人にはあるということである。
 松本清張が「砂の器」で描いたハンセン氏病の悲劇は、その小説のなかで強制隔離を大きく批判したが、それがきっかけとなって国が重い腰を上げて謝罪まで行った。しかし、この国では、そういう苦い経験が少しも次に生かされない。どこまでも「穢れ排除」の圧力が生まれ、またもや感染者イジメ、排除が横行することになってしまっている。
 山梨で東京に勤めていた女性が感染し、行政の指示に従わずバスに乗って帰ってしまったことで周囲から大きなバッシングを受ける事件があった。実家は、その地域にいられなくなり、転居せざるをえなかったという。
 感染を予防することのほうが重要なのに、こういうイジメで排除するというのはいかにも「穢れ祓い」の思想が根強いかがよくわかる例だ。

女は穢れているという古代からの考え

 子どもの間で友人間でのコロナいじめが起こるのは親がそういう考え(穢れ祓い)を持っているからだろう。「女性は話が長い」「女性理事は不要」という森発言(この発言ひとつで五輪はできなくなるかも)も根底には女性は汚いもの、穢れたものという発想があり、その起源は太古の昔、出産に使った産室は焼いてしまうという「穢れ排除」の思想から来ていると思われる。よく考えれば、そこから自分が生まれたということも考えず、屁理屈もはなはだしいのだが、気が付かない。これは疫病には誰もが罹る可能性があるということに気が付かないで、罹った者を差別、排除することと同じである。こういう森氏のような手合いは「れ排除が正義だ」思っているから始末が悪い。この考えがある限り、この国には多様性を見読めるという考えは生まれないのである。
 そして「みんなといっしょでなければ」という意識がひじょうに強くなる。それは学校によっても、あるいは地域社会(自治会のような)によっても、小さいうちから刷り込まれてしまうので、個人が何も言えないことになる。
 この発想は個人の特質を押しつぶすから、変わったものでよい者ならそれを取り入れて、何かに生かそうという気持ちがなくなる。

多様性を考えない国はあぶない!!

 まわりだけ気にして言いたいことを言えない環境、隣の真似をしていればなんとかしのげるという愚かな知恵が、この国をどんどん世界から「おいてきぼり」にしているのがわからないのだろうか。「砂の器」ではないが、この国には掘り下げて多様性を考える文学作品がひじょうに少ない。
 昔話でも常識を教えるものばかりで、人と同じことをしないで生き抜く話がほとんどない。こうすればとくになるというような話ばかりである。「はなさかじいさん」のように同じことをやって損する話があるが、近代にはあまりみかけない。人まねを戒める話がなかなか生まれないのは、農業で生きてきたので共同作業が必要なこと、村八分になると生きていかれないという歴史があったからだと思う。
 「さんねんねたろう」という昔話がある。旱魃に苦しんでいた村で、3年間、何も仕事をせずひたすら寝転がっていた寝太郎を周りの人は怒ったが、ある日突然起き出して、山に登って大石を動かし、川をせき止めたので川の水が田畑に流れ込んで村が救われたという話。寝太郎は3年間ただ寝転がっていたのではなく、いかにして村を旱害から救うかということを考えていたのだ。みんなと同じことをしなくてもまっとうなことを考えてきちんと実行すればそれはそれでいいことだ。異色の者、変わった者を排除しない頭を日本人が持たないと危機が乗り越えられない。

「本とともに過ごしてきて」

  埼玉県 丸本麻貴さん 紗実さん 佳奈さん
 初めてゆめやさんに足を踏み入れた時を、今も鮮明に覚えています。月に一度の訪問を重ねながら、ゆめやさんご夫婦やブッククラブの先輩お母さんにさりげなく励まされたものです。穏やかな店内は子連れの客ばかりではなく、なんとも面白い会話を楽しむ大人の集まりにも居合わせることもあり、近くに身寄りのない私どもには貴重な居場所でした。
 当時みかけた小学生は、来店して本を受け取ると椅子に座ったとたん一心に読む。
 「こんな小学生がいまどきいるのか!」と目を疑うほどでした。そして今、その姿が私の目の前に。(娘達はその姿よりも少々怠惰ですが、同じく猛烈に読む)
 甲府を離れても選書と共に過ごし、夢新聞を支えにして、子育てを必死で駆け抜けてきました。その豊かな時間は娘の脳となり血となり肉となり、ついに小学校卒業と3度目の引越しを控えております。「行ってみないとわからない。本があれば大丈夫!」そう話す長女は、不安を抱えつつも力強く、物事の本質を深く考え真理を求めながら、きっと未来も乗り越えていけるだろうと信じてやみません。
 これまで導いて下さったゆめやさん、私達親子と関わってくれたすべての方々へ感謝し
《ゆめやより》甲府の時は毎月お会いしていましたが岩手に行かれてからはおたよりだけでの交信でした。でも、一昨年秋に、私を二戸の天台寺見学に誘っていただけたのでお会いすることができました。私の方が感謝です。いい思い出ができました。その時の写真を添付しますが、お嬢さん方が大きくなられたのにびっくりです。そのぶん、私が老いてしまいました(笑)ね。甲府の時はまだ幼児!って感じだったのにおどろきの成長です。子どもの成長と時間の速さに驚いています。あの子たちならどこに行ってもがんばれるでしょう。次の場所での活躍!大期待しています。

「おたより」の寄稿のお願い

 忙しい時代ですからお願いするのも気が引けますが、高学年の会員に「本とともに過ごしてきて」の寄稿をお願いしています。
 また「おたより」=日頃の子育てや読み聞かせなどについてのお考えをまとめたものも募集いたしております。ぜひお寄せください。
 会員ならどなたでもけっこうです。
 原稿は500字前後。寄稿方法は、FAX、メール、手紙・・・なんでもけっこう です。内容は、どのようなものでもかまいません。何もお礼は出ませんが、よろしくお願いします。(ニュース、新聞、増ページの一部閲覧)



(2021年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ