ブッククラブニュース
令和2年
9月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせとは?
④つづき-2歳児の特徴

●自分を認めてもらう行動●

 1歳後半から言葉が出始める子が多いです。何度も繰り返し、何度も同じことを要求しますが、これには大きな意味があります。子どもが繰り返しを好むのは、すでに1歳前後から現れます。いないいないばあ、おつむてんてん、たかいたかい、などの動作を何度もしたり要求にこたえたりしますね。あれが始まりです。なぜ、繰り返すのが好きなのでしょう。よく観察すると、自分が嫌なことを繰り返しで要求することはしません。これは、快いことを繰り返して応えてくれる相手(親などの保護者)に自分を認めてもらおうという行動なんです。つまり、自己肯定感を得たいために同じことを繰り返します。快さから生まれることを何度も体験したいということです。
 2歳になると一回読んでもらった本を何度も何度も「読んで!」と来ます。これは自分が見知ったものを確認する快さを繰り返して体験したいからでしょう。親が飽きるくらい要求してきます。これも、あきらかに自分を認めてもらいたい現れです。相手をしてくれる安心感も求めているのです。
 これを体験できた子どもは、私が知る限り、大人になっても道を外すようなことはないように思います。信頼という考えができあがっているんですから、ここは、最初の信頼のつながりをつくる重要な時期ですね。

●発語・二語文・数語文●

 言葉はあまり自由に出ませんが、すでに頭の中では親や周囲の人の言葉がわかっています。だから単純な会話は可能。前回、言葉を「オウム返し」すると言いましたが、2歳になると「お菓子を食べた?」と言うと「食べた」
 「トイレ、行く?」「行く」となります。これが、あっという間に「グミを食べた」「トイレに行く」になり、「おばあちゃんと食べた」「お母さんとトイレに行く」・・・「〇〇ちゃんは、おばあちゃんとグミを食べた」「〇〇ちゃんはお母さんとトイレに行きたい」まで発展していきます。これも繰り返すことで発展していく言葉です。
 2歳から3歳にかけては会話が自由にこなせるようになっていく時期ですが、絵本の読み聞かせのなかでも大きな変化が起きるときです。この変化は画期的なもので、ひょっとすると言語獲得上いちばん大きな発達なのかもしれません。おしゃべりで使う言葉だけではなく書き言葉(物語で使う言葉)が分かるようになる・・・生まれて2年ちょっと、すごいですよね。おしゃべりで使う言葉は、いわゆる「カギカッコ」文で、セリフのつながりです。でも、「もりのなか」を例にすると、これは、「  」がなくても全文が書き言葉なのです。「ぼくは紙のぼうしをかぶり、森にさんぽにでかけました。」立派な書き言葉です。「おおきなかぶ」もそうでした。
 さらに「もりのなか」は「行って帰ってくる物語」です。おそらく夢の中の話で、目が覚めたらお父さんが迎えに来ていたというものですが、子どもが好きになる仕掛けがいっぱいです。何度も読んで!と持って来るはずです。
 ところがですね。原色のかわいい絵柄で育ってきた母親には地味で暗い、きれいに感じない絵本です。モノトーンの中には仕掛けがいっぱい。お子さんの反応を聞くと「そういう想像をふくらませていたのか!」「この子にはそういうふうに見えるのか!」という驚きで満たされます。お子さんの様子も観察した方がいいです。
 3歳や4歳で読み聞かせてもあまり意味がない本ともいえますからタイムリーに与えるなら2歳の中期です。個人的に思うことなのでただの体験感なのですが、この時期の読み聞かせをうまくクリアしないと読書につながらにような気がしています。

●書き言葉に慣れる●

 2歳前半から、じょじょに書き言葉に慣れるために文章語絵本を与えることは、後の物語絵本(3歳以降)を読み込める子どもに育てるうえで、とても大切なことです。書き言葉とは、「・・・です。」「・・・でした。」と地の文があるもの。これは「語り手が語るもの」を聞けるということです。つまり、本格的な物語に行く途中の2歳の時期には、こういう本が必要なわけです。2歳児が3歳児と決定的に違うのは、激しい物語展開にまだまだついていかれない面があるということです。書き言葉への緊張感がありますし、後先のつながりをすぐに把握できないこともあります。このため、同じようなことが繰り返される絵本が、この時期にはピッタリなのです。
 最近の傾向は、書き言葉に触れずに幼児期を過ごしてしまうことです。アニメドラマ、まんが、何もかもが話し言葉、吹き出しばかりです。わかりやすいからでしょう。わかりやすいということは、深くはわからないということでもあります。本の読めない子どもや大人が増えている中で、壮絶な社会変化も起きてきました。しゃべり言葉はすぐ消えるので論理的でなくてもだいじょうぶですが書き言葉はそうはいきません。ヤバイことを書いたら改竄・隠ぺいをしなければなりません。「気を付けよう! 吹きだし言葉と嘘の文 (笑)」ですかね。

こんな絵本もあるよ
(3) もしも地球がひとつのリンゴだったら

 小学校中学年で、「せいめいのれきし」という本を入れることがある。これは地球上に生まれた命がどのような歴史を経て、現在に至っているかを芝居仕立てで描いたものだが、「入れることがある」というのは、内容が難しいからで、すべての子が反応しないという問題点があるからだ。この「もしも地球が・・・」も同じで、比較する力や時間観念がないとむずかしい本になってしまう。幼児期で身につくか、つかないかが決め手だが、「物語」を知らなければ、この力はつかない。でも、私は、まだ、小学校中学年くらいでも、おおきな大きな地球をこんなふうに縮小して考えると客観的に物事を見ることができる!と思う。
 リンゴやミカンに例えて、地球の大きさを他の惑星と比較してみる自然観・・・人間の誕生から続く生命の歴史のこともコンパクトに解説されていてわかりやすい。地球の海と陸の大きさ 四分の三は海・・・それは知っているが、これをコップ100杯としたら? 私たちが生きていく上で大切な飲み水は、100個のコップのうち一杯だけだということもわかる。貴重な飲み水は大切で、日本人は意外に無駄につかう人種であることもわかる。かんたんな解説ながら、エネルギーや寿命人口、食べ物も地球という視点から見ると重要だ。客観的に見ることができるという訓練はこの年齢ぐらいからだが、・・・こういう考え方って学校の授業でやるのかなぁ。

サブカル問題・⑥

 五年ばかり前の8月の終わりに鎌倉市の図書館司書がこういうツイートをしたのが新聞やテレビで取り上げられていた。「もうすぐ2学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は学校を休んで図書館にいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日居ても誰も何も言わないよ。九月から学校行くくらいなら死んじゃおうと思ったら逃げ場所に図書館も思い出してね。」というもの。
 これを知ったとき「おい、おい、そのマンガ、ラノベが自殺の間接的原因になるんじゃねぇか!」と思ったものだ。ところが事態は、そうではなかった。近年はSNSによって学校内だけではなく、自宅にまで容赦なく「つながれ指令」が発信されるようになったことが原因らしい。

SNSによる縛り

 24時間・365日、子どもたちは、クラスや学校の狭い人間関係から逃れられなくなったのだ。つまり、以前はなかった強い“同調圧力”の中で翻弄(ほんろう)され続けているのだ。それが子どもたちの人間関係をより複雑なものとし、最悪の場合には自死を選ばせかねないらしい。LINE登録のクラス内順位さえストレスの原因になっているらしい。この元凶が、無料通話・メールアプリのLINE。いまや小学生にまで浸透しつつある同調圧力ソフトだ。総務省調査では10代のLINE利用率は86.3%(平成29年調査)で、つまり中高生のほとんどが利用している。小学生でも高学年は利用しているだろう。
 そして上のグラフは年間の十代少年少女の自死の推移だ。9月1日が突出している。楽しい夏休みのあとにありえないことが起こる。私のような世代の人間には少年少女の自殺などありえなかったが、現代ではあたりまえのようにグラフ化されているのである。

学校も無批判で加担?

 リモート授業でZoomが使われるが、当然、その合間には「Youtubeばかり見てしまう」、「ゲームばかりしてしまう」という声がブッククラブのお母さん方からもチラホラ聞こえてきた。
 まあ、家庭や人間関係がしっかりしていれば、多少の依存に巻き込まれても極端な結果にはいたらない。ふつうの子ならね。いつもいうように依存が問題になるのは、環境による個人差が大きいのだ。それは、環境や親子関係で「自己肯定感=自分がこうして存在していられる意味」がつくられているかいないかの差だ。読み聞かせをきちんと長く続けてきてもらった子どもが自己肯定感が育たないわけはないから、その点は安心していられる。しかし、世の中を高をくくって生きるような人間に育つこともありえるわけで、それはイジメる側にも回るかも。依存になった子は、まともな本を読むなどバカバカしくてという気持ちになる。そして変な本を読めば影響されるのも必至だ。
 いま、学校は生徒を取り巻く消費環境がどのようなものか把握しているのだろうか。マンガの内容、アニメの実情、ラノベの傾向、SNSの利用状況・・・そして、その影響がどう出るか・・・日々の授業に追いまくられて、子どもから思考力を失わせている代表が学校では困るのだが。コロナ下の夏休みとストレスが子どもにも出てきそうな秋・・・イジメの深刻化も注意しなくてはならないだろう。いずれにしても過度なサブカル依存はいい結果を生まない。日本の子どもの精神的幸福度は世界でも低いのだ。世界の32ケ国中20番目という低さ。笑えるのは、身体的健康度は・・・なんと世界一位。体は丈夫で頭がおかしい?ということではないだろうが・・・・幸福さは少ないようだ。20位前後の国は韓国や米国など学歴が目標になっている国が多い。

おたよりから

 井貝公美子さん  捷人くん(小6) ニュージーランド 
 今の日本の状況の中で、NZの今の生活の事を書くのは気が引けますが、こちらは元の生活に戻りつつあります。学校も通常になり、子供達は人との距離を気にする事なく遊んでいます。
 NZは3月25日から5週間ロックダウンになりました。その前1週間は、政府が早い段階で国境を閉める等次々と決断していきました。
 テカポでラーメン屋をしていますが、「ようやく開業1年過ぎたね」と喜んでいたのも束の間、収入ゼロの生活になりました。でも、国がすぐに補助金を出す政策をしてくれたおかげで、給料、電気代等を補うことができ、なんとか続けています。
 今回、ジェシンダ首相の決断力、人の命を大事に思う気持ち、実行力をさすがだと思いました。
 ロックダウン中、人の優しさにも触れた時間でもありました。大家さんが、家賃を値下げしてくれたり、子供達が散歩を楽しめるようにと"テディベアハント"と言って、ぬいぐるみを飾ってくれたりと、大変な時期の中、人を想う人が大勢いたように思います。
 元の生活にはまだまだ時間がかかりそうですが、早く収まるようにと願うばかりです。ただ、先日102日ぶりに感染者が出てしまいました。テカポへの旅行者はぼちぼちいたのですが、今回大都市オークランドから人が出られなくなってしまったので一気に静かになりました。この繰り返しを続けていかなければらないんだと、痛感しています。

ゆめやより

 井貝さん、いつもおたよりをありがとうございます。いやあ、もう長いおつきあいになりましたね。一番遠いところのお客様かもしれません。こちらが真冬でそちらの夏休みにご来店までいただいて、ありがたいことです。こちらもテカポまで出かけなければなりませんね(笑)。ラーメン食べに。
 送っていただいた写真ですが、各店舗に来店客の署名用紙があって、それに個人のデータを全部書き込むというのはすごいですね。これなら追跡ができますよ。日本じゃとても無理。まして歓楽街じゃまともに集計など出来ません。
 でもね、ゆめやはできますよ。いや実質、やっています。来るお客さんは、99%、知っている方(受け取り会員)で、その日の伝票を見れば誰が来たかは一目瞭然ですから。追跡はすぐできますが、問題はその後でしょう。それから大都会ではまったく機能しないと思います。コロナって大都市狙いですね。すごいウイルスです。文明に対しての何らかの意思があるみたいです。
 ニュージーランド・・・指輪物語撮影の地・・・テカポの有名な教会、ひまさえあれば行ってみたいです。
 今度は「本とともにすごしてきて」へのご寄稿もお願いいたします。

いじめの構造 7

 さて、前回述べた「大祓祝詞」だが、これは長いので知りたい人はネットで引けば出てくる。(*ただ、これはスピリチュアル系から過激神道団体までのものがゴマンとある。これらは「いわゆる無責任なお祓い、罪逃れを煽るようなもの」、ここがネットの怖いところでもある。ほんとうは岩波古典文学大系「古事記・祝詞」あたりを客観的に読んでもらいたいのだが)
 かんたんに言えば、「罪や穢れは流れの速い川にいるセオリツヒメという姫が海に流してくれる。それを海にいるハヤヒラツヒメが吹き飛ばし、キフキドヌシという神が根の国に吹き放ち、根の国のハヤサスラヒメが消す」という、じつにお手軽なお願いが書かれているものだ。これを唱えれば、罪は、「まるで朝の風や夕の風が吹き飛ばすように、あるいは鎌でばっさりと切り払われるように、消えていくだろう。」というのだからすごい。

近代では国家神道が引き継いで

 これがいたるところの神社や団体で唱えられているのだが、当然、むずかしい祝詞なのでお祓いを受けている方には何のことやらわからない。ただひたすらありがたいお祓いの言葉だと思ってしまう。
 以前は、前回述べた、この国への最初の侵入者にひどい目に遭った出雲大社や諏訪大社の人々は唱えなかったようだが、国家神道として神社組織が組み入れられたころ、つまり明治以降はどこの神社でも唱えるようになった。
 この祝詞の原文は古墳時代からあるらしいが実際には奈良時代から唱えていたという。
 侵入者が原住民をやっつけた記憶というのは、ありていに言えば天孫系種族が出雲系種族を倒したという話である。神話なので誰も信じないが、古事記にも日本書紀にもあり、現存地名が頻繁に出てくる話だ。まんざらなかった話ということではないだろう。「なかった!」と断言できるのは、恫喝で国を奪ったあと何事もなかったような流れになっているということだ。とんでもないPTSDが起こったのだが、それを力で押さえつけ、無責任な考え(祝詞)で押し流したということである。

近代で考えてみれば・・・

 こういう宗教風土がもともと日本にはあって、どんなことをやっても罪は不問に付し、水で流せば問題ないという考え方をずっと生み出しているというわけだ。
 何をやっても責任を取る必要がなければ楽だが、当然、世の中は乱れてくる。そこで、その乱世をなんとかするために、やったこと、言ったことには責任を取ろうという考え方も生まれた。武士の出現である。
 ところが、江戸時代末期に過激な神道が出て、昔の「お気楽な」神道を復活させてしまった。かんたんに言えば吉田松陰や藤田東湖が持った過激な神道である。これは明治政府の構造や考え方にひじょうに強く影響し、近代日本の社会構造につながっている。イジメから始まった宗教だから、たやすく止めることができないのもうなづけるだろう。
 そのまえに戊辰戦争があった。ここでも出雲征伐・国譲りのような残虐なこと、非道なことが行われた。戦死した会津兵や市民の死体を道端に放置したままで、葬ってはいけないという禁令まで出した。腐るに任せ、葬らせないというものである。とても武士の所業、人間の仕業とは思えないが、こうして「恭順した人々」を攻め殺すというのは出雲征伐と同じではないか。このものの考え方の中に平田神道の真髄があるような気がするというのは私の勝手な考えだろうか。力で勝てばなんでもいい。罪など感じなくていい。この考えは吉田松陰の門下の明治の元勲たちに引き継がれ、やがては立身出世・殖産興業・富国強兵となり、植民地を広げ、帝国主義をつくり太平洋戦争へとつなげた思想でもあったのだ。戦後の生き残った軍部の言い訳を聞いていると、まさに大祓の祝詞・・・「罪など水に流せば消える」である。植民地政策も軍隊もイジメの巣窟のようなものであり、それらはみんな根本で罪の大祓という考えで通底しているわけだ。

新しい倫理観が必要な時代

 こうなればイジメは卑怯なことではなく、力の強い方が「勝てば官軍」でなんでもあり。なにをやっても責任はとらずに水に流してしまえば終わると考えるわけだ。戦争を始めた人間が責任を取らなくてもいいし、大勢で少数をイジメて悲劇が生まれても責任は取らなくていい。これが、無意識に行われているから始末が悪い。イジメられた側は泣き寝入りで、何も言えない。これを脱しないかぎり、とうてい近代国家にはなれないが、大企業、学校、地域でも、この状態は続いている。
 なんでも水に流せば解決できるのか・・・。この風土の中で、原発の汚染水も流せば、川の神、海の神、霧吹きの神たちが、すべてを消してくれるというのだろうか。同調圧力で自死した生徒は水に流せば終わるのか。そういうものは見ざる、言わざる、聞かざるで行けばいいのか。ここで新しい武士道は出てこないのだろうか。(一部閲覧)



(2020年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ