ブッククラブニュース
令和2年
6月号(発達年齢ブッククラブ)

来店受け取りのお客様へ

コロナ終息まで
 感染を防ぐためマスクをつけてご来店ください。
 お顔が判別できないこともあるので、お名前をお願いします。
 当分の間、飲み物のサービスは中止させていただきます。
 頻繁に消毒・換気もしますが気になさらないでください。
 受け取り可能時間 (10:30am〜18:30pm)です。 
 発送も可能です。その際は県外会員と同じく3ケ月一括発送になります。
 ご利用ください。発送のご相談は メールでも受けつけます。
 お振り替えは郵便ATMか銀行振込のどちらかをご利用ください。

 ご理解のうえご協力ください。ゆめや店主 6月10日

タイムマシン

 科学がどんなに進んでも完成しない機械の代表はタイムマシンです。HG・ウエルズ以来、時間旅行を取り扱った小説・ドラマ・映画は多いが、百年経っても、その夢は実現しないし、機械も発明されない。
 それは、当然ですよね。原因があって結果があるのが世の中ですが、もとに戻って原因を消したり変えたりできたら、こりゃあもう、でたらめの世界です。「バック・トゥー・ザ・フィーチュア」も「テセウスの船」もドラマとしてはおもしろいが、よく考えると理屈に合わないことばかり。
 時間を進ませたり、遅らせたりすることができればこんなに都合の良いことはない。
 賭け麻雀がバレたら40年前にタイムスリップして麻雀を覚えなければ退職金を満額もらえる。漢字を読み間違えたら30秒前に戻って言い直す。隠蔽が問題になったら元に戻って書類そのものを始末してしまえばいい。・・・でも、そんなことは現実にはあり得ない話です。え、「やってる人がいる?」って、いやいやタイムマシンは絶対にできません。理屈に合わないものは科学ではつくることは無理です。

巻き戻る時間

 ただ、今年の春を見ていて(これは、まったく個人的な感想ですけど)、時間が巻き戻っていくような感じがありました。
 父親が夕飯の席にいる・・・60年前の風景ですね。昼間、母親が子どもと散歩している。30年くらい前の感じです。商店が夕方7時には閉店・・・50年前は、そうでした。飲食店が営業をしてない・・・50年前くらい? あのころは町に飲食店がそんなにありませんでしたよね。車の走行数も激減! 40年前は、女性ドライバーもわずかでしたから昼間や夕方には車は少なかったんです。
 5月末、甲府駅の横の踏切で特急あずさ12両編成が通過するのを見ていました。客数、目算でたった九人。3ケ月前は、ほぼ満員だったのです。50年前は東京へ行く人は少なかったのですが。
 四月〜五月は会員の皆様から膨大なお便りをいただきましたが(返信が遅れてすみません)、その大半は時間が逆戻りしたご家庭の雰囲気を伝えてくれるものでした。「時間に追われなくなったので読み聞かせがたっぷりできた」、「子どもって時間があると本を読むものなんですね」、「これまでの働き方、勉強の仕方・・・いろいろ考えさせられています」、「家族との時間が増えたけど食事や洗濯など大変です」などなど。まあ、50年前の生活ですね。

お便りから

 もうひとつお便りで特徴的だったのが、「感染」とか「コロナ」の言葉がほとんどなかったことです。
 「言葉に出すと現実に起こってしまう」という日本人独特の言霊信仰のせいなのか、「そんなものにかまってはいられない!生活が大事!」という本心から来ているのか・・・これはこれで面白かったです。
 でも、コロナ禍の3ケ月・・・耐えきれなくなった多くの人々が、毎日毎日「乗り切ろう」「がんばろう」と前と同じ生活を夢見て希望の言葉を投げかけています。気持ちはわかりますし、息抜きをしたいのもわかります。でも考える必要はあるのではないか。実際、コロナは国も企業も学校もできなかった働き方や授業の改革を一瞬でやってくれました。しかし、相変わらず少しも本質を考えないヤンキーな精神主義も倒しつつある。
 コロナをやっつけて元の状態にしたいという学習できない人々。「戦おう!」「がんばろう!」では、時代を越えることはできず、悲劇的になりかねません。
 「おまえたちに時間を巻き戻せるかな?」とコロナウイルスが言っているのが聞こえます。これまでの忙しく無意味な生活を変えるいいチャンスなんですけどね。

人間は考える葦である?

 ここ2ケ月くらいずっとコロナの意味を考えていました。4,5月ニュースでも書きましたが、どうもまだ考えきれない、思考が甘い状態です。ただ、先月号にも書いたコロナの要求するものは「行くな!」「来るな!」「集まるな!」「働きかけるな!」さらに「身近な人を疑う」でしたよね。これを因数分解してみると「人とのかかわりを否定せよ」と出ます。
 こういうとみんな不快感をあらわにするでしょうが、「これまでの人との係わりを否定せよ」といえば少しはわかってもらえるでしょうか。
 どういうことかというとですね。これまで日本人は人間関係をどんどん希薄にしてきたんです。その結果、つながりたい、目立ちたい、かかわりたいと思うようになりました。SNSがいい見本です。
 かつては海外渡航もそれなりの好奇心や勉学心を持って行った、しかし、いまや有り余る金で「食いたい、飲みたい、見たい」で終わります。卒業旅行だと称して「パリの2区のね、このビストロ・ヴィヴィエンヌのカフェがおしゃれなのよ」と小娘がインスタグラムに上げる。つまり、自分を出して世界にかかわりたい広告宣伝ばかりです。どんどん孤独になっていくのに。こういう大衆化に対して突き付けられたのがコロナ禍なのだが、大衆の無意識は考えもしないで、昨日と同じ明日が来るという御気楽な生活が続きます。

人のいない景色

 関わりたいと言えば、小学生がなりたい職業(?)ダントツYoutuber。これも「世界に自分を売りたい」版、自分の広告宣伝です。内容は質の悪いお笑い芸人並みの愚劣下劣なものですが、まずは刺激したいのでしょう。背景には「自由が大事」というわがままがある。それが「何をしても自由」になってしまっていると思うのです。そんな自由は自由ではなく「勝手」です。
 序列型の学校教育も人間関係のつながりを分断しています。さらに、そのうしろには人を大切にしない企業や社会がありますね。成績や生産性だけで測る・・・だから、みんな自分を認めさせたくなる・・・人と関わりたいと思いこんでしまうのです。安定した家族関係や友人関係があれば、そんなことは考えないのに・・・・。
 そんなことを思いながら、今年の春の空の青さ、木々や花の美しさを見ていました。人間が生産活動をやめると環境があっという間に改善する。すごいものです。
 飛行機の爆音が聞こえない。車がろくに通らない。深夜営業も閑古鳥…これって、不便でも人間的な環境かも?と思います。

子どもは物に関心を持つ

 半世紀前、まだまだ人間関係は密でした。子どもは何をしていたか。人間へのかかわりを求めてなんかいませんでしたよ。友達と一緒に遊んではいたが、楽しみは川であり、海であり、昆虫や植物、本の中の世界。
 つまり、関心の対象は、人でなく物だったんです。そして、そこから大人になっていく。そして、人とのかかわりを大事にしていく。まさにルソーの「エミール」の世界でした。
 それを日本人は、いや先進国の多くは序列と競争の中に追い込んだ・・・いわば、子どもをヘッセの「車輪の下」状態にしてしまったんですね。
 そりゃそうです。国の指導者からはじまって、学校まで「世界の賢人の教養」など捨てきって、「マニュアルのための知識と情報の詰込み」ですからね。人は、どんどん追いやられていきます。
 いまコロナが教えようとしていることをしっかり考える人が出てこないと、下手すると世界はだめになるかもしれませんね。すでに先進的な人々の間では、コロナ後の世界のことが言われています。人類はいい方向に変われるのか、変われないまま欲を追求して忙しい生活を続けるのか。考え時です。あまり心が充実しない豊かさのために家族や友人がバラバラになっていくは嫌ですからね。(6月号新聞一部閲)



(2020年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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