ブッククラブニュース
令和2年
5月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせとは? ①絵本を与える前の時期

 ときおり気の早い親が申し込みに来て「生後4ケ月ですが、読み聞かせると聞いています。配本をお願い!」なんてことがあります。そういうときは「まあ、あわてず、10ケ月くらいまで待ってみてください、」と言います。生後4ケ月で物語や話を聞けるわけがないからです。それは母親の声に反応しているだけで、子どもにとっては、とても快い、やさしさに包まれたときですから、おなかが空いていなかったり、不快なことがない限り、耳で音を聞いています。耳は生まれる前から機能してますからね。こういうときは、歌を歌ったり、話しかけたりで十分なんです。それを何度もやれば安心感はさらに増しますし、それが母親とのつながりのもとになっていきます。
 そうかと思うと6歳就学前の親が来て「園まかせだったけど、あまり言葉を理解できないようなので何か効果があるのをほしい」なんて言ってきます。「遅ぇよ!」と思いますが、選んではやります。そういう人は二度は来ませんが・・・・。親と子のつながりは希薄なんでしょうね。 

読み聞かせを何かの役に立たせるな

 焦って早く読み聞かせようとする親の多くは、読み聞かせを何かの役に立たせたいと思っているのかもしれません。これは4ケ月児の親ではあまりいないかもしれませんが、1歳過ぎの子の親にはよくいます。字を教えるための準備段階とか、歯磨きなどの生活習慣、しつけを絵本からつけさせようとか、物の名前をほかの子より早く覚えさせようとか・・・そういうお気持ちなんでしょうが、残念ながら、その意味では役に立ちません。赤ちゃんというのは不思議な能力を持っているのですが、親が思う通りにはその力を発揮しません。
 読み聞かせを始める前に大切なことは親と子のつながりをつくることで、それは赤ちゃんの特性を生かした方法をとらないとだめなんですね。0歳児は、基本的に快いものでないと安心しません。
 まず、ごつごつしたものは嫌いで、丸い柔らかなものが好き、やわらかいやさしい声が好きで、野太い低音は好きではないのです。冷たい手触りは嫌で、温かい感触のものには安心します。当然、こういう傾向があれば父親より母親が好きですよね(笑)。で、これは子ども全般に言えることですが、食べ物を与えてくれる人にはなつきます。当たり前です。生きていくうえで一番大切なものですから、嫌いだったら生きられません。これまたお母さんに有利な話ですね。しかたがない! 父は哺乳瓶で飲ませ役になるよりありません。 

生後5〜6ケ月ごろにすること

 生後5ケ月くらいになると動いて、いろいろなものに触り始めます。ここから3ケ月くらいは、とにかくいろいろ触らせてください。触覚での判断、選択が増すときなんです。赤ちゃんは触ることで快・不快を感じながら物を判別していくのです。だから親はそれをたくさんさせないとまずいのです、触って汚いとか、ぐちゃぐちゃにするとか気にしてはいけません。きれいごとで育てるから免疫がつかないことにもなり、細菌に弱い子にもなってしまいます。落ちた食べ物は拾って食べさせるべき。よほど毒性のある地面や床でない限り。ぬいぐるみをなめたって大丈夫ですから。
 この触ることで認識していく力を無視して、物に触らせないでいると、本を与えたとき、ペラペラめくることだけを楽しんだり、積み重ねることだけを面白がったり、そんなことが1歳半まで続いてしまいます。10ケ月以前はまず物に触らせる・・・この時期、重要な育児のポイントです。 

だいたい8ケ月〜10ケ月

 この時期からが、早い子でも9ケ月前後、遅い子だと1歳前半まで本が好きにならないこともありますが、絵本を読み続ければ大丈夫です。だから、いよいよ読み聞かせの準備段階です。抱っこして歌を口ずさんだり、話しかけを頻繁にしてください。これはこの時期の赤ちゃんにとってはとてもうれしいことです。おっぱいを飲んで眠りにつくときのつぎくらいに、快いことだと思います。また逆に感情もはっきり出てきますから、ぐずる子はぐずりますが、これがなければ無表情の生後5ケ月状態・・・成長しているということです。この感情がでてこないと本の楽しみがわからないのです。標準では、多くの子が生後10ケ月前後から本に向かえるようになります。それまで立体を触ることで認識していたものを、ようやく平面に描いたものでわかるようになります。これってすごい進歩発達です。読み聞かせの準備OKで〜す。 

言わんこっちゃない! 最悪の幕開き
《新元号・令和の一年》

 改元から一年経った。一年経って戦後最悪の年がやってきたと思っている人は多いだろう。みんな去年のいまごろは浮かれていたが、「令和」という年号は最悪の年号だった。江戸時代以前なら、いまごろ「災異改元(厄災などで元号を変える)で、あわてて変えているはずだが、それができない。
 政府が「万葉集から取ったから出典は国書だ」と強弁した「令和」。浮かれやすい国民は「令和、令和の大合唱だったが、「歴史上はじめて、典拠が中国古典ではない」と言われて「日本、すごい!」で騙されてしまった・・・ふふふ、馬鹿だね。そんなことあるわけない。まさに間違いや嘘に対して天罰覿面(てんばつてきめん)である。
 以下、昨年5月号で元号に書いたものの抜粋をもう一度上げておく。詳細はまだ持っていたら昨年五月号を見てください。あるいはホームページの一部閲覧2020年5月号追加分を読んでください。以下、さいど掲載部分。 

《コピペ》

 考えてもみよう。万葉集は漢文で書かれた文。漢文は中国のものだ。しかも「令和」がある文は中国の「文選」にある張衡の詩「歸田賦」をコピペしたものである。国書から取ったって言ってもね。無理がある。ここが国粋主義なのに頭が悪い政権周辺とそれに踊らされるメディアや国民のバカなところである。菅原道真の爪の垢でも煎じて飲まさねば!
 「菅原道真公の爪の垢エキス・・・好評に応えて2袋つけてお値段同じ。30分以内に電話でお申し込みの方はさらに梅の花エキスもおつけします。もちろん送料無料」なんてやってみたいね。きっと彼らはひっかかる。こういうものに踊らされる国民は、LINEや SNS 、漫画やアニメの短文の文化で育って論理的に考える頭がないから、「国書」と煽られると「イケイケドンドン」「日本すごい! いいじゃん、いいじゃん!」で教養も学識も不要の時代なのだ。

《政治が嫌になった詩》

 新元号は、「仲春令月、時和氣艨vに由来だと報道された。日本語にすると「さあ、この塵芥の世界から抜けてはるか彼方に去り、生臭い俗世との縁を絶とう。」という後の「今は春も半ばの良き月だ。時はなごやか、空気も澄んでいる」というところ。腐った政治に愛想をつかして故郷に帰るから「歸田賦」である。もちろん、これだけでは問題はない。「国書からとはいえんなぁ」くらいだが、なんとなくしっくりこないね。だいたい二文から一字ずつ取るって変じゃない。熟語じゃないんだものね。でもね。苦笑い以上のもっと笑える話があるのよ。この官僚が仕えた皇帝は後漢の帝。そして、宮廷の宦官が幅を利かせ、忖度や賄賂が横行した。帝の妃の閻后も、側室の子を殺したり、縁故政治を増長させるなど、やりたい放題で評判が悪かった。それを嫌って官を辞したわけだが、なんだか最近辞めた文科官僚が日本にもいたよなぁと思う。よくある話じゃないかというかもしれないが、皇帝が「安」ですよ。それに国母の「閻后」も節操のないデタラメな女・・・・歴史は繰り返すというがなんか中国古代と現代日本で符合しすぎてないか!? 「歸田賦」の中身はまったく今の時代そのまま。世界史でみればことごとく違う? この「令和」を提示した万葉集学者は碩学・中西さんと言われているが、もし「安帝」「閻妃」を知っていて、「歸田賦」が現代そのものであることを知っていたなら、こりゃあもう大きな「皮肉」! 蜂の一刺し・・・すごいと思う。しかし、そこまではかりごとを学者いうのは学者であるが・・・ま、変な元号と文字がランダムに組み合わされたことだけは事実である。 

《令和という男》

 じつは、「令和」って男もいたんだよね。中国の政治家で江謐という男。字(あざな)がなんと「令和」だ。出世はしたが、性質が傲慢、冷酷で民衆に嫌われていたという。
 武帝が即位しても官位が上がらないのが不満で傲慢にも王位を狙い、斬首された。「令和」・・・人の名じゃないか。当然、元号法に抵触する可能性さえある。
  国家転覆をもくろんだ大悪人の名。こうして調べていると、なるほど下手な英語を覚えるより漢字・漢文を覚えたほうがずっと役に立つと思った。子どもが本を読んでいくのに仮名はもちろん、漢字が読めなくては高度な読書ができない。広範囲な教養は漢文からのほうが身につく可能性が高い。実際、近代の文学は江戸時代の漢学がとても大きな原動力になっているのだ。漢字の読めない政治家がやる政治がテイタラクなものであるのに反して、きちんと論文が書ける・あるいは読める人のやることはおかしなことにはならない。漢字は読めた方がいいに決まっている。
 いま、感じが読めないために、ちょっと高度な文のある本が読まれない。たった十行の日本語の文章がまったく理解できない中学生まで出現した。SNSの短文での言い放しじゃ、そりゃ理解力はつきませんね。 

サブカル問題・③ 依存症感染爆発

 今回のコロナ問題から考えたが、じつはゲーム依存も人為的な感染病のような気がしてきた。ウイルスの蔓延と流行と同じだと思ったからだ。
 先日、会員の英語の先生と「Virus」の語について話していた。「英語では発音がヴァイラスなのに日本ではウイルスと読むのはなぜか?」という話になって、「ドイツ語ではフィールスだから、医学がドイツを手本にしたので訛ってウイルスとなったかも。」というところで落ち着いた。Virusのもともとのラテン語の意味は「毒」らしい。「毒が回る」という言葉があるくらいで、これはどんどん体に回る。Computer Virusという言葉もある。ゲームな依存もどんどん感染していき、すでに爆発状態。限度を越えれば感染爆発=パンデミックだろう。
 ゲーム依存の最大の問題は、いまコロナ感染抑制の「おうちにいよう」運動。感染力が強いだけで子どもの罹患率はたいしたことがないようだが、子どもは「おうち」に縛り付けられる。当然、テレビゲーム三昧の子も激増するだろう。依存になり、生活が狂う・・・つまり別の感染が始まるということ。 

抗体があるのかないのかわからぬ世代

 子どもだけではない。馬鹿青年・アホ中年が緊急事態宣言中に新宿・ビックカメラに行列した。新作ゲームソフトとニンテンドー・スイッチが売り出したために三密状態の混雑になったという。この国は二重のイカレポンチが生息しはじめたようだ。子どもの依存の前に、儲けたい一心の企業と、この青年たち・中年たちをなんとかしないと、大変な堕落・・・つまりソドムやゴモラのような都市になってしまうだろう。社会的にはおかしな事件、残酷な事件が生み出される(3月号ニュースで出した事件の表参照)ので、注意しなければならないが、政府も半導体を売りたいがゆえに注意することはないのだ。そのうち「武漢ウイルス」と攻撃されているように「ジャパン・ゲームソフト」と「名指しされねばいいが」と思うが・・・。いずれ世界が、ゲーム依存の背後にサブカルチャーがあることに気が付くだろう。手遅れかもしれないが。 

ゲーム依存は病気である

 パンデミックで有名になったWHO(世界保健機構)は、2018年に「国際疾病分類」の最新版でゲーム障害を追加した。画期的なことだ。でも遅いよ。
 このガイドラインを世界の医療機関や保険会社が疾病のガイドラインとして参照しはじめている。これは、ゆめやがここ十数年、ずっと言い続けてきたことでもある。
 WHOでは依存症をこう規定している。@ゲームをする時間や頻度を自ら制御できない Aゲームを最優先する B問題(症状)が起きているのに続ける――などといった状態が12カ月以上続き、社会生活に重大な支障が出ている場合にゲーム障害と診断される。具体的には、朝起きられない、物や人にあたるなどといった傾向が著しい場合。パチンコ中毒や競馬・競輪の常習者にも共通した行為だとも指摘されている。
 いずれにしろ診断されると、(とりあえずは患者だから)会社や学校を休んで治療に専念できるようになるが、保険がきくか治療費支払いの対象になるかはまだ国によって違うらしい。
 あまり強制力はなさそうだが、WHOが国際疾病の認定で、ゲーム会社の開発にも影響を及ぼすことはありそうだ。だが、私はあらゆる公害問題でも製造責任が追及されないという問題点があるように世界的にみてもゲーム障害に対応できる専門医療機関はまだ少なく、日本には2つの病院しかない。前にも上げたが 

世界では問題になっているが、日本は甘い

 健康や社会生活に悪影響が出ている人はかなり多いと思われるが、政府が半導体を売りたいので、PCR検査と同じで、きちんと数を調べて対策を考えてはいないのである。ゲーム依存は各国ではもう社会問題となっている。以前、中国の例をここでも書いた記憶があるが、中国はひどくて、軍に預けて矯正するところまでいっている。日本は野放し。厚生労働省によると、日本ではオンラインゲームを含めた病的なネット依存が疑われる中高生が推計93万人と過去5年間で倍増したというが対策はなにもしていない。事件が起きたら刑法で処罰するだけだ。韓国ではゲームのやり過ぎによる死亡事故が起きたときから真剣に取り組み始めたので依存症は少ないらしい。
 WHOの一部の加盟国(日本をはじめとして)には「ゲームと依存の因果関係を証明するのは難しく、疾病認定は時期尚早」との慎重論もあった。だが、多くの国は予防に向けて早急な対策が必要と判断したようだ。米国の成人は全体の65%にあたる1億6400万人が日常的にテレビゲームをしているらしい。最近はオンラインゲームが普及し、利用者が課金を繰り返して長く続けるコンテンツが多くなる中毒症状。世界がおかしくなっていくわけである。なにせ、ゲームは儲かる。世界のゲーム市場は2018年で1300億ドル(約15兆円)だったが、2021年には1700億ドルまで拡大するという。まさにパンデミックだ。コロナと似ているのは重症化する人としない人がいるということ。世界的に広がるということ。人類の知恵が試されていること。自分の子はどうします? 親がゲーム依存ならもうこれは何をいってもどうしようもないが・・・。 

いじめの構造 4

つぎつぎに現れるイジメ

 放射能汚染の例を前回述べたが、汚染被害者はただの被害者である。それなのにひどいバッシング、いじめがあった。本来であれば放射能を出した側に向かうべき批判が、ただの被害者に向かう。これこそ、「穢れ」を嫌う独特の精神風土が生み出した典型的な例であろう。
 同じことがコロナ感染でも起きている。今月1日に東京から山梨に帰省した女性がSNSで私刑(リンチ)を受けているそうだ。陽性確認後に県の要請を無視して帰京したことがさらに火をつけたらしい。コロナはだれでも感染する可能性はあるわけで、感染自体はけっして非難されるべきことではないのにこういうバッシングだ。SNSでは本人特定作業まで行われ、要請無視が批判の矛先化している。罪を犯しているわけでもなく、気が動転していて要請無視だっかもしれない。これも放射能汚染者と同じ「いじめ」である。報道は、「自粛中のストレスがバッシングに向かった」というが、それは本質を見ていない。明らかに穢れを嫌う心が多数派になろうとして動く「和」の一環である。そんな「和」に同調して圧力をかける側に回ったら、それはイジメる側に回ったということである。 

多数が正義となり、和で少数を囲む

 もう一例、逆の側の例を挙げよう。日本人が大好きな水戸黄門だ。はびこる悪を退治する良いおじいさん、天下の副将軍・水戸光圀公である。誰も反対などしない、いわば正義のシンボルみたいな人だ。これが明治以降、巨大な偶像となって大衆に支持されてきた。
 しかし、歴史的に分析するとそんな正義の味方とは言えないような人物である。辻斬りをやり、女性には乱暴し、政治的にも善政を行った人物ではない。「大日本史」などという荒唐無稽な歴史を編纂して異常な国家主義の根幹をつくった人物である。これをどういうわけか明治政府は持ち上げて、物語や芝居で多数の支持が集まるように仕組んだ。実際、明治以後は水戸黄門賛美が多数派をつくってきた。
 なぜだろう。なぜ、水戸黄門をそういうふうに祭り上げる必要があったのだろう。それは薩長閥政治への反対派を駆逐するために少数派に追い込む必要があったからだ。勧善懲悪の物語で善のシンボルにすれば多数派を構成でき、少数派を追い払える。その道具が水戸の御老公さまであったというわけである。当然、イジメル対象は親・佐幕派である。あるいは不満分子である。こういうものは穢れとして追い払わねばならない。
 穢(けがれ)は和(わ)で防ぎ、穢れたら祓(はら)う、そして防ぐときにやってしまった悪行も水に流して忘れればいいという考え方が水戸学や平田神道にはあるから、イジメは根拠のあるなし、正義のため悪を懲らしめるという認識はない、
 この日本という国、人々に染み渡った問題をどう解決するか・・・ひじょうにむずかしい、日本人の精神性に関わっているものを捨てないでいい方法を考え出せるか、それが問題だ。少数者(性的少数者、知的・身体的障碍者、外国人・・・・)はいくらでもつくることができるので、差別、排除は多数をつくり維持する格好の和(わ)と穢(けがれ)排除を生み出すこととなる。つまり、ここでは和と穢れは一体のものなのである。 

子どもだけでなく大人の世界も・・・

 2015年の国際調査で、「職場の同僚との関係は良い」と思っている人の割合は、日本が世界ではなんと最下位だった。しかもこの10年で大幅に悪化しているという。なぜ日本の職場はギスギスしているのか。子どもの世界もまた同じような風潮が出ている。職場より早くその傾向が出たといっていいだろう。そしてそれを改善する方法は「ない」のである。
 イジメを起こさないと組織が守れないというひどい状態になっているからだ。古代の日本から連綿と続く和と穢れを祓う意識の流れ。多くの人はイジメ問題を話すときに自分はイジメる側ではないと思っているが、穢れの思想がある限り、イジメはされる側がする側にも回るし、その逆も多い。この意識を変えない限り、日本からイジメはなくならないとも言える。松谷みよ子/作「わたしのいもうと」という悲しい絵本がある。悲しいもの、汚いもの、見たくないものを嫌いな日本人には不人気な本だが、ここには典型的なイジメの原型が描かれている。
 数か月前、神戸の東須磨小学校で何と教師が同僚をイジめるという事件が起こった。記憶していると思う。あきらかに一人(じつは複数を個別攻撃で)を異質な人間として標的にし、自分たちの結束を高めるための行為だったとハッキリ、イジメる側が言っている。いまや、日本人はかつて儒教が浸透させた倫理観を破壊し、同時に自分たちも壊れていくという異様な道をたどり始めたようだ。次回は、その自壊の原因について述べてみたい。(つづく)(増ページ一部閲覧) 



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