ブッククラブニュース
令和2年
2月号新聞一部閲覧 追加分

発達に応じるということ

⑦5歳以降,高度な内容が楽しめるか

 いちばん苦笑してしまうのは3,4歳で必死になって字を教え、読めるようになると鬼の首でも取ったように「ウチの子、本が読めるんです。」と話す人だ。無理やり教えれば字など3歳でも読める。それをさせたくないから読み聞かせ(はるかに、この方が大量に言葉が貼り、理解する)なのだが、字を読めることを誇りにするのは、明治時代からの悪い癖なのだと思ってしまう。識字率が高まることと読書レベルが高まることは正比例などしない。ところが、学校は字から入る・・・識字率を上げたいからだ。もちろん字が読める、書けるにこしたことはないが、物語が読める、文章が書けるにつながらなくては「字」を学ぶ意味はない。
 なぜ親が自分の子の識字にこだわるかと言うと、学校が妙に字を読める、書けるに注力しているので、その影響を受けた親が「字が読めなくては(書けなくては)ほかの子に負ける」という焦りを持つからだろう。ここで、親たちは「本が読めなくては」「つじつまの合う文が書けなくては」とはあまり思わない。

楽しいことで知識も考えも身につくのに

  今、小学校では一年生から漢字をやっている。じつにおもしろくない学習である。「ひたすら百字書け!」一回書いて覚えられるものもあるのに!と昔、小学生のとき思った。上の答え↑は、私に言わせれば正答であるが、採点者はこれでは〇をくれないだろう。子どもは楽しいこと、おもしろいことならどんどん覚えるのに、日本はどうも難行苦行を強いる。
 5歳から言葉遊びの本を入れるが、親たちには人気がない。教育的な意味を感じないからだ。「かっぱかっぱらった」(掛詞)「坂の魚屋、さかんにさかうらみ」(同音の繰り返し)「にわとりとことりとわに」(逆さ言葉)・・・これが楽しく感じられれば子どもの5歳児としての成長を感じるが、親子ともども「???」では楽しみでも何でもない。
 言葉に習熟していかないと、コミュニケーションがうまくいかないし、何より人の話、物語の楽しさがわからなくなる。この最初の楽しさ、快さは「読み聞かせ」から始まるのだが、底の浅いアニメやすぐ変化するYoutubeでは、この力を増していくことができないのだ。
 子どもにはきちんとした言葉をおしえていかなければ子どもが大人になった時の人間関係に低劣が起きてしまう。劣悪な交友、人間関係になるとやはり人生でも不幸なことが起こる可能性は高い。言葉は人間関係をつくりあげる重要なツールなのである。言葉は楽しく覚えるのものだが、識字だけで行くと、いい大人が平気で右のような文をつくって平気である。書いた人間も書いた人間だが、見て注意しない人間も人間である。

大人社会も言葉の劣化が

 最近、国会のやり取りを聞いていても、おどろくべき言葉の乱れ、論理の破綻が見られる。字は字だけでは意味をなさず言葉になって初めて意味が出てくるものだ。さらに文になれば論理、理屈になる。理屈は通らなければ屁理屈であり、論理は間違っていれば論理ではない。これは文章語ばかりではなく会話語も同じで、論理が一貫していないものポエムである。ポエムそのものは感性でわかるものなので否定はしないが、国会答弁でポエムを使ったり、虚偽の言葉を使われては対論する意味もない。
 つまり、言葉は行為と一体のもので、言うだけいってやらなかったら、これは嘘とか虚偽になり信用が生まれない。
 理屈の通らない文は、それだけで書いた人間の頭が疑われる。写真の看板は、字のうまさから見れば大人が書いたものだろうが、どう考えてても文の意味が何を言っているのかわからない。楽しく言葉を覚え、物語の中の文をおもしろいと思う積み重ねがあればこんな看板は出現しないだろう。上は政治家の世界から下はこういう町内の看板まで、言葉を無視してきた結果が出てきた現代・・・さあもう「学校のお勉強」はさておいて、まともな理屈を社会学習しなければならない時代になったのではないだろうか。

本とともに過ごしてきて

 田中江美さん 桜子さん (東京都)
 大学の時の友人の家に行くと、あまり見たことがない絵本がたくさん並んでたんです。どこで買ったのか聞くと、どれもみんな山梨の本屋さんから送られてきたものとのこと。「子どもが喜ぶよ」とも言っていました。絵本といえばアンパンマンとかディズニー絵本と思っていた私は、こういう難しそうな本を子どもが好きになるのかなぁと思って見てました。

 それから二年後に長女が生まれ、すすめられるままにゆめやさんの本を読み聞かせ始めたのですが、信じられないことに最初の「どうぶつのおやこ」から嫌がる本はほとんどなかったのです。5歳くらいで入った「もりのこびとたち」という本は丸暗記するほど好きな本で、似たような絵を何枚も描いて遊んでいたのを思い出します。いまは親の私も躊躇するような長い本を読んでいます。もし、私がその友人と会うこともなく本の話をきかなかったら娘はいまどんな本を読んでいたのだろうと考えてしまいます。(ニュース一部閲覧)

低学年の読書 ⑥先を見据えて

▼一節本活動・その2(11月号つづき)▼

 NPO法人「つなぐ」・山本育夫さん(写真左)の一節本発行企画の活動が山梨日日新聞記者の桑原久美子さんの目にとまり、左のような大きな記事で紹介していただいた。一般向け発刊第一号は山梨英和学院中高のみなさんが選んだ本の一節30点「英和中高生の選んだ一冊」である。
 担当してくれたのは国語科の長田晶子、関和美の両先生、教師一節もふくめて、なるほど先生方や生徒の選書はまっとうで、ライトノベルや漫画などは一切なかった。これは感動。やはり読む子は読むし、読まない子はいくら薦めても読まない。いったいこの差はなんなんだろうね。
 スポーツや芸能、さらにはゲームやアニメの大波の中という反知性全盛の時代にも本を読む子がいる・・・これはある意味、驚きである。もちろん、この時代はやがて終わる。こんなバカげたものが高評価を受けて世の中の前面で跋扈することがいつまでも続くわけはない。
 それはともかく一節本という新しい読書紹介法は、じつに個性的でおもしろいものだと思う。同じ本でも読む人によって、心に響く一節が違うのである。英和の生徒さんの中で「ぼくらの七日間戦争」(宗田理・作)を取り上げた人がいたが、私が「ここが響く」と思ったところと違った箇所だった。そこで、もう一度読んでみると、なるほど、その生徒さんの感じ方は中学生らしさが見て取れた。私は大人になってから読んだ本なので、通り一遍のテーマ取りに走っていたが、その生徒さんは中学生という年ごろらしい実にみずみずしい部分に素直に反応していたのである。
 このように読書は読み手によって受け取るものが違うということが見えてきたのも一節本の効果かもしれない。ただ、最大の問題はいまの子ども(小学生〜大学生まで)が、わずか十数行の文章でも読めない傾向にあるということである。大学生の50%が年間1冊も本を読んだことがないという統計が、この傾向を物語る。二十歳以上の人で、長い文章をスマホ以外で読む人はいったいどのくらいいるのだろう。

▼現状はあまり良い状況ではない・その2▼

 いまやデジタル化全盛で、親自体が本を読んでこなかった世代になっているから、誰もが本の効能というものを知らない。
 (さあ、ここからゆめやは極端に上から目線になる。上から目線のどこが悪い!とゴーマニズム宣言だ・・・)
 アホな連中はろくな考えもなしに、スマホからの情報の取り出し方とか、生活への利便性の応用などという政府や半導体企業の消費誘導に騙されて流れていく。そういうことをやっている親の下で子どもは思考力を成長させたり、想像力を大きくしたり、人格を形作る方法を得ることができるか。いまや子どもと電子ゲームでしか遊べない父親がゴマンと出てきている。楽しければそれもいいが、先を見据えている子育てとは到底思えない。
 おそらく、日本はこの負の連鎖の始まりで社会が壊れていくだろう。では母親はなんとかなっているかというと、すでに子どものころからマンガ・アニメだけで育ち、文学に触れたのは国語教科書の抜粋箇所だけという人も多くなっているのではないか。こういう親は子どもを早期教育漬けにして塾やプリント学習、デジタル学習に追い込む。自分が進研ゼミ程度の勉強でそこそこの学校を出ているとなおさらだ。学校の成績がよければ頭がいいという時代は過ぎ去りつつあることもわからないで同じ道に子どもをやる。

知識や考え方は物語から

 日本人独特の立身出世幻想が強く、けっきょく学歴主義となるが、昔と違い、高学歴かならずしも高い人格、高い教養ということにはならない。これはろくに字も読めない、言葉も知らない政治家や企業人をみていればわかるだろう。そういう家庭で育つ子はある意味かわいそうなものである。豊かでなくなったら何もなくなる。勇気もなければ突破力もない、想像力もなければ作り上げていく力もない。究極は東大王のような連中だ。知っているだけでは生きていく上では意味がない。
 まあ、無駄な抵抗だが低学年から中学年へ行くときの挫折が起こらないようにガイドラインと注意書きは毎年、書いている。中学年の読書が楽しめれば大人の本は目の前だ。すぐれたヒントをくれる本を列記していこうと思う。
 ゆめやの第一弾・一節本は大人の本限定30点、なぜ絵本版ではなく一般書籍版にしたかというと、子どもの本に関わる人々に少々頭に来ているからである。子どもに絵本から始まって児童書を与えるのは、最終的には大人の本を読んでもらいたいからだろう。そのガイドライン上に絵本や絵物語、そのた児童文学があり、少年期を過ぎた後は大人の本、つまり文学とか論説などがあるのである。ところが子どもの本大好きおばさんたちは、大人の本(名作も駄作も含め)はおろか古典にもなっている少年少女世界文学もろくに読んでいないのだ。
 大人の本は、当然のことながら子どもの読書の最終過程である。そこまで導くことが「ぐりとぐら」大好きだけのおばさんにできるのだろうか。しょせん、読み聞かせに行って光りたいだけの傲慢な自己満足なのではないか。そういう安易な読書指導の姿勢しかないから子どもは長い文になる小学校中学年あたりで読書挫折を起こすのである。
 次には、もちろん絵本版、児童書版と次々に出して行く予定。乞うご期待。

サブカル問題
①何を言っても止められない・・・事件

 今月3日、愛知県江南市で高校1年の少年が「母を殺そうと思い、はさみを手にして刺した」という通報があった。原因は「母親の金を勝手に使ってゲーム機とソフトを買って怒られた」からだという。大きく報道されなかったが、調べているとこの種の事件は山ほどある。昨年、九月、甲府の隣市の会員が「中学になってスマホを与えたら依存になり、母親が取り上げたら自殺した」と教えてくれた。学校では説明会があったらしいが、新聞にもテレビにもなぜかまったく報道されない。
 これらの事件はまさに氷山の一角であり、その底にはもはやどうにもならない(または止めることもできなかった)事件が横たわっている。警察も児童相談所も発表はしないが、そういう事件の犯人は成育過程でゲーム依存やサブカルの影響が見られるのである。事件として起こった背後が語られないので、一般の親たちは危機意識を持てない。そうしているのは行政機関だから、原因を知られてはまずい何かがあるのではないかと思うのだ。

最近の重大事件例を二つ

 例えば最近の大きな事件と言えば、「カリタス小学校無差別殺傷事件」がまず挙げられる。正式には「川崎市登戸通り魔事件」というらしいが、カリタス小の生徒らを狙ったことは明白であり、とりあえず「カリタス小学校無差別殺傷事件」とする。昨年5月28日朝、川崎市の登戸駅付近の路上で、私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた小学生の児童や保護者らが近づいてきた男性に相次いで刺された。加害者は、終始無言のまま待機列の後方から駆け足で襲撃した。犯人は51歳・・・両親が離婚して伯父夫婦に引き取られて育ったが、不登校になり引きこもったまま50歳に達し、世間では8050問題の典型と言われた。しかし、伯父夫婦の実子は有名名門校であるカリタス小に通い、犯人は公立小学校に入れられた過去がある。いわば、立身出世志向の家庭の中で自分は外されたという認識はあっただろう。50歳の引きこもりだからまだネット初期で、事件の引き金になったのはゲームではなくビデオとか劇画などだと思われる。実際、犯人の部屋からはSNS関連のものは発見されていない。しかし、カリタス小を標的にしていたことは容易に読み取れるのもので、幼少期の育ちが大きく事件にかかわっていることは間違いないだろう。つまり自分が受けた傷が裕福で幸福な人生を送ろうとしている他者(カリタス小学校)に向けられたのである。

自分の人生に決着をつけるため

 もう一つは京都アニメーション放火無差別殺人事件である。これも犯人は悲惨な幼少期を送っている。再婚で生まれた3人姉弟は母に逃げられて点々といろいろなところで生活し、貧しい生活だったが、こちらはアニメ全盛の時代でゲームからアニメに移った犯人の嗜好の変化があった。彼はアニメ作品をつくるまで行ったが(どの程度の作品かはわからない)作品を無断で使用されたという妄想から復讐劇に走った。おそらく、そんな確執や因果関係は実際にはなかったのだろうが、とにかく凶行に走った。これも復讐の部類に入るだろう。で34人の人が亡くなったわけだが、アニメに浸っていた人間にそのアニメを作った側がやられるというのはなんとも皮肉な事件だった。こういう結果をもたらすものがッサブカルチャーであったことは哀しい。もちろん、サブカルにもいろいろありすべてが悪いわけではないが、一般的には人間の成長にストップをかけ、なかなか頭が大人にならない、社会性が生まれないなどの問題はあると思う。この背景にはどういう社会的な原因があるのだろう。

国の政策の犠牲になってはたまらない

 個人的な考えだが、日本ではフランスやドイツなどと違ってデジタル機器、SNSなどでの社会的な抑制策は全くないようだ。おそらく政府が半導体産業を支援するために影響など無視して売ることを優先しているからだろう。装置産業の半導体は機械を止めることができない。どんどん出来たものを売るよりないが、ご承知のように記憶媒体は作りすぎで、ものすごい値下がりだ。昔、125MBのUSBを1200円で買っていた私は16GBが800円で売られているのにびっくりしている。どんどんつくられるのだから消費しないと企業が潰れてしまうからである。

学校も追随?

 政府は文科省を通じて小学生(中学生も?)学習用のタブレットを与えようとしている。右のものだ。渋谷区教委が27万8000円で導入を決めた。もちろん生徒・家庭の金銭的な負担はない。税金投入だからだ。ところがパソコン関係に詳しい人なら?と思うはずだ。これは通販では2万円以下で売っている。左の通販宣伝では27800円だ。メーカーの希望小売価格でさえ78000円。三〜十倍の値段で売っても税金だから誰も困らない? いや、そんなことはない!! 国富が減る。
 こんな詐欺まがいのことをしても半導体を売りさばきたい背景が、この社会の裏にはあるのだと思う。当然、スマホも半導体の塊。依存をともなう。手を変え品を変え、売り続けたいのが国の政策である。「採点がしやすい」「子どもが手軽に知識を集め、何かに使える」「便利」「プログラミング」に役立つ、というキャッチフレーズだが、それは大嘘の建前だろう。電子機器に強いだけの教師が上位に来て、学校教育が歪むのは目に見えている。
 ますます子どもたちも(大人も)依存になっていき、底辺では事件につながる。しかし、事件が起きても自己責任、自己責任・・・使ったあなた、与えたあなたが悪いのだ!で済まされる。バカな親は「学校が薦めているのだから安心、プログラミングで良い成績を取るよう、子どもに一台安いタブレットを買おう」ということになるだろう。

対話の後で

 以前、紹介したお便りをもう一度ここで出すが、この笛吹市が隣市。前述のブドウ畑で中学生の自殺があったところである。
 絵本専門店ゆめや様
 早速のお返事ありがとうございます。やはり、ゲームの影響は怖いですね…。親はよく考えて家庭のルールを決めていかなくてはいけないなと思いました。
 それから、中学生くらいまで本をよく読んだ会員の方でもひとたびパソコンにハマると大変なことになったというお話をお聞きして、中学生になったら安心、ということはないのだなと感じました。
 大人でもそうですが、自分で目的と使う時間を意識していかないと危ないことになってしまうのですね。
 そしてまだまだ中高生にはそれは難しい場合もあるということですね…。小2の息子は色々なことに興味を示す感じがしているので、きっとパソコンやゲームを使ってみれば、おもしろくてたまらなくなってしまうかもしれません。ゲーム、パソコンについては、周りに惑わされないようにしてできるだけ制限していけたらと思います。色々な本をこれからも親子で楽しんで読んでいけたらと思います。またご相談に乗っていただくと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 (笛吹市 M・Tさん 注・2014年のお便り

 このように真剣に考えているお母さんの子は大丈夫かもしれないが、子どもによっては依存になったり、急速に人格崩壊を起こしたりするのである。
 かつては、このようなお便りや疑問、相談がよく来たが、最近はほとんど来ない。親も、そして学校の先生さえサブカルどっぷりのゲーム世代である。大人はなかなか変えられない。

対策なんてないよ

 いまも影響はすざまじい。スマホでは大人も依存が増えてきたから、もうサブカルチャー対策なんてとても無理な話である。学校もメール配信する、危険を子どもに察知させるためにスマホを持たせて警告する。SNS機器を廃止するということができないので、元が断てないのだ。でも、まだそれはいい。問題は、他の機能もたくさんあるのだから、大人は使えなくても子どもはその部分をすぐに使うだろう。習熟も早い。ゲームに走れば読書どころではあるまい。読書しないくらいならまだいい。もっと大変なことになる可能性さえある。
 とても書けないが、SNSには裏の部分が多く、ホラー、アダルト、私が無駄口サイトと勝手に呼ぶ2チャンネル型のものもあり、そういうサイトの子どもへの影響は大きい。LINEだって、子どもが使えば、無駄口、告げ口、いじめ言葉の連鎖である。知らぬは親ばかりの「電子が飛び交う闇の世界」だ。さて、それをどうするか。
 香川県ではゲーム規制条例をつくったが、最初の威勢の良さはどこへやら成立条例はトーンダウンしている。また、スマホやSNSの依存を注意する講師が来て(上の新聞のように)語るが、すべて「時間を決めて!」とか「自然と触れ合う」とか「人と交わる」とか、実効性の乏しい話で終わりだ。それをまともに聞いて実行する大人はいない。そんなことで、依存がなくなれば、とっくの昔にひきこもりや悲惨な事件は止まっている。(つづく)

いじめの構造 2
(11月号からのつづき)

 イジメは構造を解明しない限り、イジメで起こる事件を減らすことはできないし、大人も子どももイジメられないように卑屈に行動する狭い考え方で生活していくよりないわけだ。イヤな人間とでも「和」を保つことが必要という、いじましい生き方を日本人は日常的にしているような気がする。いわゆる「世間の思惑」だけで生きる個人である。
 主なイジメ事件 (どういう事件かはこの名でネットで引けば出てくる 赤字は有名な事件)
愛子内親王不登校騒動 愛知県西尾市中学生いじめ自殺 旭川女子中学生集団暴行 尼崎児童暴行 山形マット死
大津市中2いじめ自殺
 上福岡第三中学校いじめ自殺 中野富士見中学いじめ自殺 名古屋中学生5000万円恐喝
新潟県神林村男子中学生自殺 北九州市私立高校生ラインいじめ自殺 桐生市小学生いじめ自殺
 高校生首切り殺人 福岡中2いじめ自殺 護衛艦たちかぜ暴行恐喝 滝川高校いじめ自殺 滝川市小6いじめ自殺 山形一家3人殺傷
 ほぼ毎日起きていると言っても過言ではない。おそらく多すぎて皆さんの記憶に残っているものはほとんどないかもしれないが、1990年代からずっと年齢や組織に無関係に起こっている事件である。つまりどこでも起こりうる事件だ。
 これらの事件では教師、上官、年長者がイジメる側に加わっている例が多い。しかも、メディアで一時的には、その「加わり」が問題になるが、その後はほとんど無罪放免である。これは、イジメる側を、さらにその外側にいる、なんらかの風潮(民族的な精神性?)が擁護しているとしか思えない。つまりメディアも多数側の論理で動いているというわけだ。上官・教師・年配者がかかわっているのも特徴だが、ほとんど事件後、誰も責任を取らない。

イジメの根底に「穢れに敏感」がある

 先に結論を言うと、イジメの背景には日本特有の「穢れ(誰かを汚れとする)」思想と「和(多数者をまとめる)」の思想、「祟りを恐れるために物事を隠蔽したり忘れたりする意図的な忘却」の思想の3本柱がある。
 起こった事件で、被害者からの報復(祟り)をなくすために、これは被害者が死んでしまうとさらに祟りを恐れるために「なかったことにする」という「信じられないほどの忘却」が起こる。
 関与を隠蔽したり、忘れることで事態の鎮静化を図る試み・・・・もともとが民族特有の精神性なので「罪はなくす、消す、水に流す」という発想である。当然、イジメることでの責任は感じず、責任を取るという考え方もない。
 また、悪いことをしたと感じても、穢れを祓うという発想で罪を払えば(消せば)問題はないという考え方をしてしまう。さらに自分を清めて禊(みそぎ)をすれば許されるという安直な考え方に持っていく。第一、罪を犯して、禊をすれば罪は消え、無罪放免などというお気楽なことがまかり通っているのは日本だけの話なのである。こんなことが認められれば、被害者はみんな泣き寝入りではないか。

加害も被害も穢れから

 「あいつは汚い、臭い」と言ってイジメる。この穢れについては日本人の食生活で考えるとよくわかる。日本人は穢れに対して敏感な感覚を持っているのである。例えば、食器で見てみよう。
 欧米人やアジア人の多くはスプーンやフォーク、箸などを使用すると洗うことは洗うが、洗った後は、誰が使ったか知れないものを平気で再度、口にする。ところが、日本では割り箸という一回こっきりの食事道具の普及でわかるように「人の口に入ったものは汚い、あるいは穢れているから使わない」という感性を持つ。「日本人が綺麗好きだからだ」という考えもあるが、物理的な汚れだけが問題になっているだけなのだろうか。
 第一、家庭の食器でも自分の茶碗やお椀は決まっていて、ほかの家族は使えない。これはまずヨーロッパではありえないことだ。しかし、じゃあ、きちんと区分されているかというと盛り皿や小皿は違う。誰の物という認識はなく、誰もがそれぞれ適当に使える。人の使ったものでもだ。あきらかに「穢れ」という感覚は個人的なものに限定されているというわけだ。と、いうことは、物理的に汚いからという感じではなく、あくまでも「人がくちにしたもの」という精神的な判別で動いているというわけだ。
 私自身、ヨーロッパへ行って家庭料理を食べさせていただいたときに日本人的違和感を持った記憶がある。やはり、他人が使った食器やスプーンを口にしたくはなかった。いくら熱湯消毒してあってもだ。すぐに慣れたが・・・。
 最近の若い人はそんなことはなく平気で他人の使った箸でも洗ってあれば口にするだろう。実際、ファミレスあたりでは使い捨てではない箸も置かれてもいる。これからは、だんだん気にする人は減っていくだろうが、この潔癖感がすぐに根底からなくなるということはないと思われる。まだまだ根深い生理的な潔癖感は残っていくはずだから、その意味ではいじめもすぐにはなくならない。その結果が気に入らない相手を「汚い・臭い」とするのである。
 異常に衛生的な綺麗大好きの突出は日本人の中に、いまだに穢れを嫌う感覚が根強く残していることを示している。これこそが、特定の人間を「汚い」「臭い」「うざい」と封じ込めるいじめの原動力なのだと思う。穢れを作って穢れを祓うという世界にも類例のない文化の中でわれわれは長い間暮らしてきたのだ。それがいじめを作っている。(つづく)



(2020年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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