ブッククラブニュース
令和元年(平成31年)
12月号(発達年齢ブッククラブ)

ゆめやも静かに暮れていきます.

 皆様もおだやかなクリスマスをお迎えください。そして佳いお年を!!聖夜の歌では、ドイツ語でもStille Nacht, heilige Nacht! Alles schläft, einsam wachtで、静かな夜、聖なる夜、みんな寝静まり、という意味。本来クリスマスイヴは、静かに過ごすもの。飲んで騒いで、にぎやかに酒場で過ごすものではないのですが、日本人はだんだんヤンキー化しているので、心配。
 でもまあ、今年も会員のみなさまと穏やかなお付き合いができたことをうれしく思っています。この年ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。ブッククラブはほぼ何もなくいつもと同じ一年でしたが、世の中は、だんだんひどくなっていますね。来年は良くなるように祈るのではなく、良くなるように努力する一歩を踏み出しましょう。
 新年は19年12月29日〜2020年1月日まで1月4日(土)は営業。5,6日(日曜・月曜)は定休日。
●営業時間●
 午前10時30分〜午後6時(冬時間) ご注意ください!
●休業日●
 毎週日曜・月曜の連休となります。他は祭日(土曜の祭日は営業)※臨時休業日(事前にお知らせします)

今年を漢字一字で表すと・・・・

 今年は大変動の年ではないのですが、世の中的にも気候でも変動を大きく感じた年でした。大地震こそ来なかったものの強い台風が何度も来て、漢字一字なら「災」で表現するのが一番かな、と思うのです。でも、これは去年が「災」・・・災が続く時代になっているということですね。りきたりかな。でも、じつは天変地異よりはるか人間社会の変動の方が大きかったと思っています。かなりヤバい状態に差し掛かっていますよ。
 とにかく、金銭欲がふくれあがって、バブルのときのような感じになり、政界でも経済界でも・・・金関連の不祥事続き。人間、欲に駆られるとここまでくるものか・・・と思います。
 ローカルな話で申し訳ないですが、山梨県東部の小さな町の金融機関では3億円の使い込み、着服がありました。昔、府中で3億円事件があり世の中は騒然でしたが、貨幣価値が下がったのか、ニュースが流れて終わり。偉い人がお定まりの「申し訳ありませんでした」と頭を下げる光景・・・こんなことで許される社会というのはお気楽な社会です。謝る方も罪を犯した方も大学出の中年以上のオッサンたち。おいおい、お前らに責任感もなく、妻も子もいねぇのか、と思います。どんどん世の中が悪くなっているのを感じます。

騙す人たち

 毎日のようにゆめやの電話にはサギまがいの勧誘が来るし、FAXには金貸し業者からの資金融通のお知らせが流れてきます。30年前のバブル末期も同じことが起こりました。そのころよりは巧妙で「初期費用ゼロ」とか「大企業のパートナー」を名乗るとか、あの手この手で騙(だま)してきます。地方社会は景気が悪いせいか、居酒屋や食堂から「3000円ポッキリ、忘年会食い放題、飲み放題」のFAXが毎日大量に流れます。騙されるものか!すべて無視です。しかし、かなり多くの人が騙されているのでしょうね。その最たるものはTVのCMです。「2800円のところ、いまなら半額以下の980円、これもお付けして、30分以内のお申込みなら送料無料」・・・なんて商品宣伝が毎日毎日流されます。一体、原価はいくらなんだ!と言いたくなります。毛生え薬でも鎮痛薬でも効いたという話はないのですが、多くの老人が騙されて買っています。もはや儲かれば何でもいい、節操がない状態です。市場原理主義というのはすごいものです。

攫う人たち

 まあ、このくらいならいいですが、世の中の変化は事件の質にも現れます。法律の規制が緩むと、かなり、ひどい事件が起きますね。SNS使いの少女の誘拐・監禁・殺人・・・・世も末の事件が連続的に起こっています。「攫(さら)う」なんて字は、我が国の総理大臣は読めないでしょうが、小さい女の子の誘拐殺人・・・これはヒドいですね、この傾向と犯人の幼少期を見ていると、完全にゲームやアニメの影響を受けています。それがだんだんひどくなってSNSを使ってのワンパターン犯罪になってます。子どもがSNSというのもね。また来年は休んでいた「サブカルチャー批判」を展開しなければと思い始めました。
 世の中が危険だから子どもにスマホを持たせて安全を図る・・・庶民の気持ちを裏切るのがSNSの暗い側面です。ついこの間までは自殺を手助けするといって誘い出し次々に首を切って殺していった男がいましたが、こういうものに平気でアクセスする不用心さが、小さい子どもにまで広まっているのは、あきらかに政治が悪いからでしょう。考えてもみましょう。こういう事件が起こるたびに言われるのは「使い方を考えさせる」「依存にならないようにさせる」「上手に付き合う」というものです。決して、「持たせないように」とか「子どもは禁止」、「与えた親には罰則」というのはありません。あきらかに半導体を売りたいだけの話です。小学生全員にタブレットを持たせたい、と言ったかと思うと、全員にパソコンを与える・・・その弊害などどうでもよく、とにかく半導体を裁くこと。裏を返せば、個人消費が落ちているので税金で買おうということです。儲かれば半導体でも武器でも売りたい、恐ろしい時代になりました。

偽る人

 平気で血税を使って世の中を悪くする・・・昔は「子どものために」「みんなの幸せのために」という姿勢が必ずどこかにあり、なぜ、こういう状態になっているかというと、上の方が悪事を働いても逃げ切ろうという姿勢で、責任を取るどころかごまかして煙に巻く。だから、下も逃げ切れるだろうと軽く考えて事件を起こすわけです。被害者になったらたまったものではありません。記録を残すのが仕事の官庁が平気でシュレッダーで切り刻んでしまう。上がやるから下もやる。警察まで同じようにやる。隠滅。それでごまかせると思っているのですが、こんな偽装はすぐ見破られます。悪の力が大きいとどんどん強引に悪事が進んでしまいます。偽ってでも儲けて逃げ切りたいわけです。かつての日本なら「卑怯」という言葉がありましたが、いまや卑怯は大手を振って国を動かしています。そこを子どもは大きくなって成長していくわけですが、当然、影響は受け、平気で物事を偽ってでも荒稼ぎする若者が出てくるでしょうね。学校がSNSやそういう時代へのリテラシーを教えないのですから、到底、家庭では防ぎきれません。嘘ばかりつく上位の人たち・・・嘘でいつまでごまかすのでしょう。

隠す人

 嘘を嘘で隠すのは犯罪者の常套手段ですが、偽りを偽りで隠し、隠滅を図るのは官僚や政治家が筆頭にいます。・・・・この傾向は日本の中世でも明治時代でもありましたね。それは法律があっても権料や横暴な思想で倫理を無視する時代です。聖書の世界でさえ、ソドムとゴモラのような犯罪だらけの町が描かれています。これも当時の政治が悪いのです。悪事がどんどん隠されて、世の中が乱れ始める。得になることなら嘘をついてでも欲を掻いていくということです。もちろん、そんな時代が長く続くわけがありませんが、大きな悲劇が来ないと懲りないのも人間です。もっとも日本人はあの300万人が死んだ戦争もなかったような感じで懲りずにまた明治大正昭和初期のような生き方になっています。永井荷風が(断腸亭日乗の日記で)こう書いています。「日本人は強きに付き、日々楽しく過ごせればいい」とおもっている人々だ、と。

救世主はだれか?

 欧米世界では、世の中が乱れると「救世主」という人が現れます。日本でもいつの時代でも世の中を変える人が出てきています。こういう救世主が出るのを待ち望みたいと思います。
 先日、中村哲先生がアフガニスタンで凶弾に倒れましたが、こういう方も世の中をよくするために生まれてきた人です。見ている人は見ていて、天皇や教皇が弔電を打ったりしていましたが、どうも日本政府からは何も出ないようです。どうせ「自己責任」論で通したいのでしょう。
 子育てというのは親が、子どもにどういう価値観を持たせるかということですけどね。日本では、これがどうも学校教育の影響で、立身出世になっています。こういう実利主義の教育観は人間をだめにしますよね。

教育観を変えなくてはね。

 明治以来、農民が、商人が、職人が金を稼いでは子どもに「教育」をつけます。額面上は教育をつけるですが、じつは出世のための学歴、これは悪弊です。当然、自分の親や家の後継者にはならないで役人や教師などの給料取りですから、まさしく自分本位の無産階級です。これでは国の力は落ちるばかりです。地方の力もなくなります。頭の良い人は、100年も前にそういうことを見抜いていました。芥川龍之介は「或る阿呆の一生」で、本屋の二階から本を選んでいる書生や役人を描いていますが、かれらが出世の利得のために本を選んでいる、読んでいると喝破しています。そのころも、また、いまも農民が馬鹿にされ、職工が低く見られ、教師や官僚が評価される。悪事を働くのは官僚など学歴が高い方なのになんですがね。なんとか、泥臭くがんばらないと、これでは政治家や役人の悪事で国が滅んでしまいます。
 さて今年の大みそか。カケでもモリでもいいので、飲み込むように食べてがんばるぞ、と。桜を見させないためにもがんばるよりないですね。年越しには蕎麦がいちばんです。喉越しに引っかかる悪を押し流す。いつまでも続く悪はありませんのでね。どうか良いお年を・・・!(ニュース一部閲覧)

発達に応じるということ

⑦ やはり11歳まではバランス良い選書で

 だんだんヤバくなっているのは子どもより親である。この変化は十年前くらいから見えてきた。たとえば「もりのなか」とか「3びきのやぎのがらがらどん」などという本を入れると、親が「うちの子はきれいな絵のものが好きなので・・・こういう本はあまり反応が・・・」とか言ってくることがあった。私は「ははぁ、これは親自身がそういう本を汚い絵と感じるんだな。」と思った。まったく幼児期(その親の)の環境の影響は恐ろしいもので、物の良し悪しより、見かけの良し悪しで感覚が育つことがあるから大変だ。そういう親に育てられた子は、そういう子どもになっていく。これは、しかたのないことだし、間違いないことでもある。
 赤ん坊のうちからアニメやゲームキャラで育てば、それが良いもので、それ以外は汚いもの、感じのよくないものになってしまう。ふつう発達に応じるということは色では原色から中間色に移っていくのがふつうだが、いつまで経っても赤ちゃん向けの原色好きでは成長がない。

感覚の成長

 形だって輪郭のはっきりした「ブルーナ」や「ぐりとぐら」のようなものから、次第に絵画的に複雑な線や色が入り混じったものに変わっていくのが成長というものだが、いまの日本人の多くはそういう成長がない。
 現代では、サブカルチャーの影響で自然な人間感覚の成長が見られないのだ。ひどい場合は、30歳になっても40歳になっても原色とアニメキャラしか美しさを感じない人間がいたりする。萌えキャラでないと心がときめかない若者がいるというのも驚いたが、そのうち、目じりに切れ込みを入れて目が巨大化した同じような顔の整形女性にしか心がときめかない人も出てくるだろう。風潮に弱いというのは大衆の本質だが、いまや個性どころかテレビや映画に出てくるカワイコちゃん顔の若い女性がどんどん増えてくるのも恐ろしい感じだ。これも幼いころからの作られた「かわいさの固定概念」だ。ここまで来るとなんとなく恐ろしいものである。

親も子どもも

 これは、当然、内容にまで波及する。深いテーマ、重要な問題はウザイと感じて、善が悪をやっつけるゲームや漫画、かわいい子がカッコいい男の子を好きになるラノベ(ライトノベル)しか関心がなくなる・・・これでは心が大人にならない。テレビゲームや漫画でしか子どもと遊べないような親では困るが、さらに驚くべき傾向は、浅薄なかわいらしさを求めて子どもを育ててしまう親が多くなっていることだ。娘とディズニーランドのパスポートを取って年中行っているくらいなら、かわいい脳天気だが、時流に合った生き方をさせるために息子をモデルにしようとしたり、娘を芸能デビューさせようとしたり。否定はしないが、そんな連中にこちらの生活をかき回されるのもわれわれの子どもにとっていいことではないし、悪影響も大きい。
 それをすり抜けて、子どもにきちんとした批判力や物を見る力を与えるには、オーソドックスながら、名作に触れさせ、本物を見せ、優れた内容の本や映画、芝居を見せるよりないだろう。
 これからは、これが親の仕事だと思う。いずれ数年以内に、この社会は急速に変わっていく。良く変わるのではなく好ましくないほうにまずは行くだろう。そこを子どもは生きていくわけで、そのときにバランスのくずれた人格だったら、たやすく飲み込まれてしまう。

以前にもまして重要なもの

 かんたんに言うと現代は商業主義の時代だから、人目を引いて売れればなんでもいいという世界になっている。当然、ここでは偽物、まがい物が横行する。商品だけではない。文学作品も絵画や彫刻などの芸術作品でも偽物、まがい物だらけになる。巨匠がいなくなる時代だからだ。考えてもみよう。いま小学生に人気のある作品は内容的に充実した深い意味合いをもつものだろうか。ドラえもん、アンパンマンからはじまってゾロリ、おしり探偵に至るまで、ほぼ内容がない受け狙いのバラエティ番組のようなもの。こうなると感覚刺激にだけ特化した作品が増えてくるわけだが、当然ながら人々には良い影響は与えない。しかし、低劣な人間は反応するから、人気がある=良い作品となってしまう。困ったものだ。

世界で一番高い塔 新?・旧約聖書

 最近、いろいろな人と話をしていて言葉がつながらないことにびっくりすることがある。
 先日、20歳代の女性と5年前の大雪の話になった。「あのときは一晩で1m50cmの雪が降って、我が家の雨樋(アマドイ)が全部壊れた。」と言うと、その女性は『「アマドイ」って何ですか?』・・・こりゃだめだね。
 皮膚科を受診したら、たまたま先生が娘の同級生で、「いやいやウチの娘たちはできが悪くて、先生からは存在も見えなかったでしょうねぇ・・・。」と言うと「ああ、名前は覚えていますよ。」という応答。そこで「先生もウチの娘たちと同じ年子でしたよね。」と私が言うと、先生は後ろにいる看護師さんに「年子ってなに?」と聞いた。年配の看護師さんはブスっと「1歳違いの兄弟です。」と答えた。
 こういうふうに伝わるはずの言葉が伝わらないと愕然(がくぜん)とする。

本を読まないから?

 これが古典と歴史の言葉になると、もはや意味もわからず???になって、あきらめるよりなくなる。
 「ワセリンって体に塗るけれど舌に塗ってなめてもいいんだって。」と言うので・・・・
 「そんな化け猫のようなことができるもんか!」…これを聞いて佐賀・鍋島藩の「化け猫騒動」が連想できる人は「一般教養」がある。歌舞伎の演目にもなっているくらい有名で、夜中に化け猫が油をなめる話だ。昭和三十年代までの日本人の8割は分かっていた会話である。
 ところが、今ではまったく通じない。こういうことを言うと「ゆめやはジジイだから新しい言語は知らないだろう。パブリック・インボルブメント、コンプライアンス、コストパフォーマンス・・・意味、分かります?」と来るかも知れない。もちろん、わからない。「では、わからないので説明をお願いします!」と言うと、まず多くの人がきちんと説明できない。
 話し言葉で覚えて言葉は忘れやすいうえに、意味を考えながら読む本からの言葉と違って論理的に意味を理解していない。これはフレーズでも同じで、例えば「三銃士」には、こういう有名なフレーズがある。「One for All ! All for One!」,一人がすべてのために! すべてが一人のために!・・・力を合わせるときの言葉だが、どういう場面で使われたかがわからないとフレーズだけではピンとこない。言葉は故事もも伴い、意味はその故事から導かれることが多い。

繰り返す馬鹿たち

 言葉が伝わらないと、どういう現象が起こるのか。実はこのことが旧約聖書にしっかりと書いてある。
 中東の王様が、天まで届く塔をつくる。ほぼ、天に届きそうなったとき、王はてっぺんまで登り、傲慢にも天に向けて矢を放った。怒った神は、この塔を崩し、人々の言葉がお互いに通じなくなるようにしたという。有名なバベルの塔の話だ。この結果、人々の間で嘘の言い合いや騙し合いで争いが起こり、親は子を殺し、子が親を殺すという悲惨な状態まで起こった。そして、家族は散り散りバラバラになり、国民は国外に出ていかなければならず、やがて国が滅んだという。
 もちろん史実かどうかもわからない大昔の話だが、権力者が大きく高いものを造りたがるのは、まんざら誇張ではない。人が高く大きいものに崇敬の念を抱くのは今始まったことではなく、遺伝子にすりこまれている要素なのかもしれない。権力はそれを利用して国民を煽って言いなりにしたいのである。オリンピック工事などその最たるもので、人類のスポーツの祭典というよりは為政者が一時的に人を熱狂させて、煽るのである。国を求心力でまとめたいからだ。
 そして、バカげたことに中東ではまた何と歴史の反省やその結果も想定しない1000mものビルがつくられている。そして、ニューヨークは外しても、東京も大阪も上海もまだまだ高い塔をつくることに血道をあげている。
 この世界一の塔について書かれている旧約が載っている聖書は、これまた世界一のベストセラーである。多くの人が読んだにもかかわらず、相変わらず同じことを繰り返す。まったく人間というのは懲りない。こういう視点から見ると物語やドラマなど人間に何も影響を及ぼさないのかな、なんて思ってしまう。言葉の行き違いから中東でもアジアでもヨーロッパでも対立が始まっている。
 馬鹿がまた同じことを繰り返す。物語を読んでいる人の警告も無視して、悲劇をまた引き起こす。
 それにしても、高い塔が林立するメガロポリス・・・・また何か起こるだろうなぁ。
 首都直下地震・・・こわいなぁ。傲慢な王様が出てきて、天にミサイルを撃たねばいいがなぁー。

大人になるということ ⑤

 子どもは楽しいことが必要で、生育過程の中で楽しくない時期があると、まっとうな人格形成ができないと言われている。
 現代は忙しくさせられる時代で、朝8時過ぎに保育園に送り、夜7時に迎えに行く。保育士の先生が心配するのは、きちんとした楽しい親子関係や家庭ができているのかどうかということ。また、学童の指導者も言う。宿題をしたり、みんなとおしゃべりをするのはいいが、子どもらしい遊びをしない。スマホをいじっている子さえいる・・・遊ばない子どもは、大人になって家庭をつくれないとも言われているから心配だ・・・なるほど。掃除も洗濯も修繕も、また料理もゴミ捨てもみんな小さいころの経験が積み重なってできるもので、「金でなんでもできるというのは幻想だ」ということを知らないと大人になって家族を持っても、それは家庭ではないということになってしまう。
 子どもが大人になる条件のひとつは幼児期に楽しい時間、読み聞かせなどの接触の時間があり、少し大きくなると自分で本を広げて世界を空想していく余裕が必要となる。なぜなら、すぐれた本は、世界と人間をさまざまな形で描いているので、それは成長するための心の栄養であり、エネルギーの源だからだ。
 大人はすぐに役立つことお稽古事とか学習を重視するが、そんなもので世の中を渡ることができるのは学歴主義の組織の中(上下差別、イジメがある)だけだ。そういう連中が悪いことばかりしているのが現代の姿なのだから、本当の心の栄養を与えないと、子どもが大きくなったとき、親は「え〜、こんな人間にするつもりはなかったのに!!」となってしまう。時流に流されれば、それなりの結果しか出ない。世の中は責任など取ってはくれないよ。
 最近の風潮は子育て一つとっても子どもに社会的負担をかけないようないい加減な子育てが横行している。幼児が何か悪いことをしても、「それはほかにこういう欲求があるからかも」と妙に先回りした指導を保育研究者たちが言う。ダメなことはダメだろう! なぜ叱っちゃダメなのか。
 子どもがジレたり、何かできなかったりすると「ごめん、ごめん、お母さんが気が付かなかった。お母さんがちゃんとしてなかった!ごめん」と先回りして謝る親。「バカやろう!」と思う。子どもは増長して、したい放題になることがわからんのか! いまや、やってはならぬこと、やるべきことの区別がつかなくなっている子が激増している。その先には、今の若者が起こす信じられぬ凶悪犯罪もあるではないか。そのへんのことを考えないとね。(つづく)

いじめの構造

②「穢れ」に敏感な日本人

 先に結論を言うと、イジメの背景には日本特有の「穢れ」に関する考え方、そして、「和」というゆがんだ思想、「祟りを恐れるがゆえに物事を隠蔽したり忘れたりする意図的な忘却」という3本柱があるような気がする。
 起こった事件で、被害者からの報復(祟り)をなくすために(これは被害者が死んでしまうとさらに)「なかったことにする」という「信じられないほどの忘却」が起こる。
 関与を隠蔽したり、忘れることで事態の鎮静化を図る試みも頻繁に起こる。もともとが民族特有の「罪はないことにする、消す、水に流す」という発想が真ん中にあることでわかるだろう。
 当然、イジメることでの責任は感じず、責任を取るという考え方もない。なぜなら、自分は穢れていない方で、イジメられる側こそが穢れていると考えるからだ。また、たとえ悪いことをしたと感じても、穢れを祓うという発想で罪を払えば(消せば)問題はないという考え方になるのが日本流の責任逃れである。
 これはまたイジメで罪を犯しても自分の罪を清めて禊(みそぎ)をすれば許されるという安直な考え方にもつながっていく。第一、罪を犯して、禊(みそぎ)をすれば罪は消え、無罪放免などというお気楽なことがまかり通っているのは日本だけのことだ。イスラムの世界に行けば、刑罰としてやったことと同じこと以上の罰が下される。ところが日本では罪はうやむやにさせられる。イジメられる側を穢れとして見てこんなことが認められれば、被害者はみんな泣き寝入りではないだろうか。あまりにも清潔感を重要視するところから生まれたイジメ(汚いものとして囲い込む)は、もはや民族の体質や国の体質になっていて、学校や行政ではどうにもならない。学校・行政もイジメる側に加担することが起こるのである。このことを次回では、わかりやすく日常生活にある穢れ嫌いの体質から考えてみることとする。(つづく)新聞一部閲覧

こたつで考えたこと

 寒くなってきてミカンを食べながら雑誌を読んでいると感動した言葉ランキングという記事があった。それも漫画の言葉の中で感動したもの。いろいろあったが、「ワンピース」というマンガアニメの言葉に感動したというのが多かったらしい。「へえ〜、昨今はマンガで感動かよ!」と思う。時代は変わったものだ。見ていくと「ワンピース」つて子どもだけじゃなく、二十〜三十歳代にまで人気があるらしく、いいトシしたおっさんがあの主人公のセリフに涙するというわけだ。なんだか、この国は危ないね。
 こういう連中は続刊が発売される日はコンビニを何軒も回って探すのだそうだ。なるほどコンビニの雑誌売り場ね。本屋で探すというわけではないのか。
 しかし、そういう若者、そういうオッサンが感動するという主人公のセリフについて、テレビが流すと、視聴者はほぼ何も深くは考えずに「なるほど」「感激!」ということになる。これもまた浅薄すぎてなんだか怖いものを感じる。くだらぬものに感動している人々を見ていると悲しくなっても来るが、便利で豊かな時代に育つとどんなものにも熱狂したくなるのだろう。生活実感が希薄になるからささいなものにも反応して感動する・・・あるいは熱狂することで毎日蓄積される憂さを晴らす。わかってもわからなくてもいいから感動しよう!というわけだ。これも悲しいね。それをテレビのコメンテーターや雑誌の記者が盛り上げるようにそれらしく解説するから、学校の先生が教えてくれた底の浅い希望や夢で洗脳された世代が「そうだ、そうだ、素晴らしい」とまた盛り上がるわけだ。これは、あぶねえなぁ。なぜあぶないというと、見た目の派手なイケイケドンドンに、限りなく感動して熱狂する。何も考えないから、上が音頭を取って先導してきたら、そうだ、そうだの大合唱。体制翼賛 大政翼賛になるというわけさ。

サブカルチャーは怖いねぇ。

 こういう現象を見ていると、現代の若者・つまり二、三十代の人たち(ほんとうは中高年も)は受け取る情緒がかなり成熟しないまま大人になってしまったわけなんだ。そりゃあそうです。子どものうちから感覚だけを刺激するゲームやアニメ、テレビを見れば一貫性のないお笑いバラエティでは育ちようにも育たない。
 これは子どもの本である絵本や児童書にも大きな原因があるのではないでしょうかね。つまり情緒に訴える部分でもっと描くという作品が激減しているんだよね。一時的な受け狙いのものばかり。古臭いといわれるが、ケストナーの本とか、少年少女古典文学・・・もう子どもが読むことすらできない重たい文化になってしまっている。そしてくだらない底の浅い作品ばかり。ドタバタ系のおもしろおかしい作品、子どもじみたギャグばかり使って作られた作品が多すぎますよ。もっともっと心の琴線に触れる作品を子どもたちに与えていかないと、いずれ本を読まないどころか、視覚の刺激しか反応しない子どもばかりになりますかね。いや、もうなってます。
 ラノベでの底の浅い友情と裏切りでOKしてしまう危険性を今の時代に感じるのは、私だけではないと思います。この下地はもう長く水戸黄門やアンパンマンが作ってきた現代の文化の基本にあり、その影響をばっちり大衆は受けてしまったのです。つまり、あらゆることがわかりやすい構図、白か黒か、善か悪か、わかるものかわからぬものかに分別されたものになり、自らの思考や感覚を動かして考えたり、批判したり、分析したりすることを停止してしまったのです。

歌も世につれ人につれ

 このことは歌謡曲の変化を見ればわかるでしょう。かつては歌詞もメロディも「ある情感」をイメージさせる作り方で歌が歌われました。昭和30〜40年代・・・GSの曲でさえ分かりやすい歌詞と旋律・・・それが英語が混じったり詩にふさわしくないような歌詞・・・さらには一音符に2,3音入れてしまうような構成、だんだんイメージしにくくなるので、今度はビートで刺激しようとする・・・歌謡曲の変化は大きかったです。意味不明の歌詞、馬鹿でもわかる言葉の羅列・・・乱れるメロディー・・・だいたい何十人もが踊りながら歌われたのでは「歌」が響いてこないのはあたりまえですね。
 この流れは、感情や情緒をだれかにコントロールされているのではないと思ったりする。誰か? それは反知性主義という怪物で、反知性になると熱狂しないといられないので、なんでもかんでも老いも若きも熱狂材料を提出されればいいとうわけだ。感覚だから長い文章を楽しんだり、連続テレビドラマを見たり、長時間番組などはみていられない。刺激が欲しい。なんでもいいから感動したい、である。これが働かされて時間を奪われた結果、身についた習性というものだ。情感を味わう、イメージを描く・・・そんなまどろっこしいものより、いますぐ感動!というやつである。

言葉の示すものが?

 「かなしみはだれでももっているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきゃならない」(新見南吉「でんでんむしのかなしみ」)・・・こういう言葉の意味がわからない、感じられないという時代、南吉は「おじいさんのランプ」の中で時代の移り変わりにどう生きるかまで提示するが、だれもそんなことは見向きもしない。とにかく「強いもの、流行るものについていき、日々楽しく暮らせれば」(永井荷風「断腸亭日乗日記」)いいというのが日本人なのだから、しかたがない。
 最近愕然とすることがある。ブッククラブでそれなりの配本を読んできた子が、高校生になってそれなりになるかと思いきや、嵐のコンサートを追っかけたり、スマホを一日中いじっていたり・・・ああ、なんの効果もなかったね。と愕然だ。読んだのではなく字を追っていただけなのね!という思いにとらわれる。もう、重たい中身を考える時代ではなく「軽佻浮薄」極まるである。
 今は、アニメのように殴り合ったり殺し合ったりしないと悲しきも痛みもわからない状態で、やがてそれは現実に起こる殺人事件や戦争にも鈍感になっていくだろう。あれだけ憲法が否定している武器の輸出がいよいよ始まったが、だれもそんなことより、今日のLINEの情報、ネットのニュース、Amazonでのお買い物しか考えないのだろう。そんなものは生きる上で少しも必要のないものだが、それでいいのが現代日本人なのである(新聞・一部閲覧)



(2019年12月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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