ブッククラブニュース
令和元年(平成31年)
8月号(発達年齢ブッククラブ)

残暑お見舞い申し上げます

 こちらの夏はいつもどおりの高温多湿、毎日猛暑日が続き、クタクタになるので夜は快眠、朝まで起きることなくグッスリ。みなさまはいかがでしょうか。
 日本列島は長く、この時期、暑い!のお便りを頻繁にいただきますが、やはり北海道と沖縄の会員では「温度差(笑)」があります。さらに外国から帰省してお訪ねいただく会員はあまりの暑さに「甲府は暑いですね」を連発します。そりゃあ,暑いです。甲府・熊谷・多治見の町は日本高温最高地、40度越えの猛暑地です。ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー、世界ビールの名産地・・・当然、後者のほうに住みたいですね。でも、何の因果か暑い盆地のフライパンの底で営業です。トホホ
 それはともかく夏は、おでかけの季節、ゆめやにも日頃、発送でお世話になっている遠方のお客様が何組もご来店くださいますが、海に、山にでかける話が多く出ます。昔と違い、交通事故、異様な無差別事件、たくさん増えていますのでどうかお気をつけください。自然に触れる機会がどんどん減っているいま、子どもには自然を体験させたいですね。行列好きの親はテーマパークや都会のイベントに連れ出しますが、なんだかなです。自分の好み優先ではなく、夏は夏らしく伝統の夏、緊張の夏です。金鳥? そううるさいヤブ蚊には金鳥です。あとイベントというと八月は花火ですね。八月七日はハナビの日・・・その前後には全国各地で花火大会。仕掛けの大きな花火は見ごたえがありますね。

花火・100連発

 8月2日、3日は新潟・長岡の花火大会・・・近郷近在から老若男女50万人が見に来るから街中の混雑はものすごい。このためにインターチェンジを二つ増やしたというくらいだ。広大な信濃川の河原に無数の椅子席、桟敷席が延々と並んで、みんな汗を流しながら打ち上げを今か今かと待ち構えている。
 なぜ、この日に行われるかというと終戦間際の8月1日深夜に空襲があり、市街の約8割が焼失した。こんな町に空襲?
 一説には真珠湾攻撃の山本五十六の故郷だから狙われたとも、言われるが、ほんとかどうか。
 ともあれ、この悲惨な記憶をとどめ、平和を祈願して2年後から今年まで72年間、花火大会が行われている。2004年の中越地震もあり壮大な復興花火大会となっている。この辺は地震の震源が多い。
 今年も花火大会の冒頭で現市長の磯田さんが、空襲と地震からの復興のことに触れていた。だが「戦争なんて知らないよ」のヤンキーな若者や年金ぶくれの物見遊山の大人の中では、市長の言葉は違和感ありすぎ。誰も聞いていなかったような気がする。

「米百俵」

 しかし、午前中の平和式典では、市内の女子中学生の長谷川さんが「今、こうやってふつうに生活ができるということがいかに大切かを考えること、何十年か前に戦争で苦しんだ人がいることを忘れてはいけない」と話したのは印象的だった。まだこういう子もいる。日本も捨てたものじゃない。まっとうな教育の成果だろう。
 長岡花火はフェニックス(戦災・震災の不死鳥)という名がついていて、この数年、チケットは飛ぶように売れる。花火のスケールが大きいからだ。今年は大手大橋のナイアガラから始まり、80年の歴史を誇る長生橋にも花火が仕掛けられた。ベスビオス型スターマインから「米百俵」の逸話を表現した尺玉100連発まで息を呑んだり、歓声を上げたり。まだ150年前の思いもかすかに残っている。 「米百俵」とは・・・戊辰戦争で西軍に負けた長岡藩は窮乏したが、支藩三根山藩が見かねて米百俵を送った。ところが大参事・旧長岡藩士・小林虎三郎が「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万俵、百万俵となる」と説いて、その米を学校の建設に充てた逸話がある。
 それを聴いたら「生産性がないから大学から文系学部をなくせ」と言う安倍政権こそ「米百俵」の意味を知るべきなのだと思った。もっとも長州は敵軍。聞く耳も持たないだろうが・・・。
 歴史に「もし」はないが、もし、西軍の山縣有朋に冷や汗をかかせた長岡藩・名家老・河合継之助が死ななければ、東軍(官軍)は奥羽越列藩同盟に負け、負ければ帝国陸軍はなく、当然、太平洋戦争は起きない、戦争がなければ長岡に空爆はない。官軍の政治が敗戦の地をイジメてフクシマに原発をつくったように刈羽にも巨大な原発を置いた。刈羽がヒロシマ・フクシマのようにカタカナで呼ばれないことを祈りたい。

 我が家の四代前の先祖は長岡郊外の百姓だった(この辺には長谷川姓は今でも山ほどいる)が、私の祖先は「米百俵を食わずに子どもの教育に回したい」と考えただろうか。
 私の祖父は文久三年の江戸生まれで越後出身の親に育てられたが明治期だから小学校にしか行かれなかった。父は明治40年生まれで東京育ち、旧制中学中退だ。私が子どものころ父の部屋は本や書き物が山のようだったから、もしかすると「米百俵」の精神は我が家にもずっと生きていたのかもしれない。貧乏ではあったが・・・。

 花火はよく人の一生に喩えられる。パーっと上がって、光って消える。「はかない」という「たとえ」だが、そうなんだろうか。花火は人を感動させ、そして楽しませ、精一杯燃焼せよ!と教えているのではないだろうか。自分だけ光るという立身出世の光り方はやめて、相手を楽しませるために光るのも良いことだと思うが・・・・

取り除けない原因

 最近、異様な事件が次々と起きて、蒸し暑さも含めて、なんとなく不安で鬱陶しい。カリタス小・無差別殺傷や京アニ・放火殺人などを見ると、狂っているとしか思えないが、個人的には「起こるべくして起こったな」である。
 最近の会員の方々は知らないだろうが、私はサブカルチャー(アニメやゲーム)否定論者である。だから絵本屋になったともいえる。開店した年(40年前)に任天堂のファミコンが発売された。やってみて、「これは依存になる」と思った。それまでの遊びと全く違うものだったからだ。その後、数年して「天空の城ラピュタ」というアニメを観た。これもそれまでのものとは違い、出来がよすぎて「みんながハマる」と思った。そこで、ずっとサブカルの危険性を説いてきたのだが、ここ数年で、批判しても上から下まで染み通りまくっていて、いろいろ言うのが無意味だと感じられるようになってきた。「どこがいけないの?」「何が悪いの?」という反論が圧倒的だからだ。親たち自身がゲーム世代であり、アニメ大好き世代になってしまった。しかたがない。
 当然、子育ては自分の育った環境の中にあるもので育ててしまう。ここで、「サブカルは人格崩壊を引き起こしますよ!」、「異常価値観を生みますよ!」と言ったところで、ほとんどの人が耳を貸さない。これは国家規模で進められてきた「半導体売りたい文化」なのだから、もはや抵抗などできないわけだ。しかし、だんだん売り先に困ってきたので「学校で使うように仕向ければ税金でまかなえる」などという悪辣な方法まで取られている。これでは否定したり批判したりするものが悪者となってしまう。

加害者も被害者、被害者も加害者

 だが、言わねばならないことは山ほどある。2000年前後から起き始めた少年事件のほとんどは原因はサブカルなのだ。事件との因果関係の立証は難しいが、あきらかにある。
 今回のカリタス小犯人もその意味では被害者だ。親に捨てられ。預けられて差のある教育をされればひきこもりになるだろう。なればゲーム三昧となる。包丁を4本用意していたというが、これはあきらかにこの武器がダメなら次の武器という対戦ゲームの武器ゲットパターンだ。被害者が無意識に持っているステータスへの恨みが引き金になっただけだ。京アニの犯人など無関係に見えてアニメ・オタクの世界にドップリと使って異常をきたしている。彼も幼児期から悲惨な家庭で育ち、ひどい父親の犠牲者だが、直接の動機はサブカルだろう。被害者の作り出したものが加害者を作りだす。言い方が悪いが、加害者も被害者であり、被害者も加害者というわけだ。
 もちろん同じことをやっても人には個人差があり、まじめな社会人になる子どももいれば、とんでもない事件につながっていく子もいる。ウチの子は大丈夫だという保証はない。どこでどう頭が狂うかがわからないのだ。スマホを子どもが持てばまた新しい形の事件がおこる。原因はもはや取り除けない。なぜなら、現代社会では「原因が必需品」なのである。もはや親と子、友と友のしっかりしたつながりが幼少期からない限り、人は便利で刺激的な道具に一人だけでハマっていくだろう。これは考えようによっては放射能や病原体より怖いものである。便利さが生み出した精神のゆがみはヤバイ。
 たしか「ローマ帝国衰亡史」という本だったと思うが、「生活が便利になると人はあまり現実の生活を考えなくなり精神病が増え、異常人格が現れ、鈍感になっていって国が壊れる」という一節があった。娯楽がバーチャルになり(ローマ帝国では競技場で剣闘士が殺し合いをするゲームを見て楽しんだ)、「自分たちはいつも幸福でなくてはいけないが、不幸な人がいる必要はある」などと思うようになる。こんな風になったとき社会は崩れる。すでにもう、その兆しは見える。どう避け、どう関わらないでいるか・・・むずかしい。ゲーム・アニメ世代の親はもうすでに鈍感、当然、そういう親に育てられる子も鈍感になっていく。スマホや近未来のテクノロジーはますますそれに拍車をかける。無関心が作り出した悲壮な世の中である。



(2019年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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