ブッククラブニュース
平成31年6月号新聞一部閲覧 追加分

発達に応じるということ②

1)生後10ケ月〜2歳 ものすごい速さの発達

 これが幼児の発達の速さというものでしょうか! 十か月になると本を開く子が増えてきます。人の絵や動物の絵には目が行きます。早くて九か月、遅くても1歳。八か月以前の例はほとんどありません。そのころは子どもには本は物です。
 だいたいこのころから読み聞かせが始まるのですが、最近はマニュアル世代のお母さんが出てきて、読み聞かせる方法を問い合わせてくる方もいます。「字がないのですが、どう読んだら?」「読み聞かせようとすると子どもが本をペラペラやって困る」などですが、ふつう、字がないからと黙っている人はいないでしょう。この時期の子どもが本をペラペラするのは自然なことで押さえつけて読み聞かせる人はいないでしょう。スマホの手引きの答えは一般論で、基本方法などないのです。だから私は、そんなもので子育てしていったら、育てる統一性が失われ、「あなたの子育てではなくなりますよ」と答えるようにしています。
 犬を指して「いぬ!いぬ! いぬって動物よ!」と読むお母さんはいないでしょう。「イチゴを指して、これイチゴ、これイチゴ!」と連呼するお母さんもいないと思います。ふつうに行けば日ごとに子どもの意識や認識力が高まっていくのがわかるはずです。

2)読み聞かせの習慣

 読み聞かせをする生活習慣は、「時間的余裕」を要求します。朝から晩まで忙しかったら、読み聞かせを楽しむ時間の余裕が生まれません。義務的にやれば楽しくもなんともありません。覚えさせようと効率主義になったり、合理的な?読み聞かせでは親も子も楽しくないのです。受験教育の影響を受けた親は、量攻めをする習慣が刷り込まれていますから、図書館まで利用して大量に与えたりします。バカとしか言いようのないことですが、そういう親は最近とくに多いのです。いっぺんに二十冊の本を次から次へと読んでいけば、子どもは味わうことも内容を楽しむこともなく、親は「読み聞かせた!たくさん覚えただろう!」で終わりです。山のように本を借りてくるより、一冊か二冊を楽しんで読み、それを積み重ねていく方がずっと効果的なのですが、楽しんで勉強する教育を受けなかった親は一度に大量に与えがちです。来店受け取りの方は配本を溜めないでくださいね。三か月分をいっぺんに与えられる子は頭の中を本が通り過ぎるだけになります。

3)考えは変わってきている

 さて、そうはいうものの以前とちがって(若い世代ですが)お父さんが子育てに関わるようになっています。おそらく、ガムシャラに働いても、それに見合った幸福感が得られないことが背後にあるのでしょう。現在の二十代の人は、バブル体験もなく高級志向もない時代が青春だったので、物の豊かさより生活の豊かさを求め始めたのかもしれません。アラフォー世代の「経済優先」「ブランド優先」とは違う「生活を大切にする」人々が出てきてるような気がします。
 実際、人口問題研究所の調査でも三十代以下で「親は育児に専念したほうがいい」という人が増加していて、中高年のような「伝統的価値を否定して物の豊かさだけを追求する」人とは一線を画す傾向が出ているらしいです。これも若いうちに平成不況や経済の停滞を体験したことから生まれる現象なのでしょうね。正社員でも長時間労働でクタクタになり、昔のように楽に稼げないとなると生活規模が小さくても「家族楽しく」に向っているのかもしれません。十五年前は外で働きたい人が半数以上だったのに2003年あたりからパート程度で働く専業主婦が50%以上に増えてきているのが、それを端的に示しているのではないでしょうか。「わたし、定時で帰ります。」ですね。パートでないと仕事がないということもありますが。
 個人的な意見ですが、私は「働くな!」「専業主婦になれ!」というのではなく、働き方を変えてほしいと思うのです。赤ちゃんを外部に任せて朝から晩まで働くというのはどういうことなのか・・・読み聞かせひとつできないどころか夕食を与えて、お風呂へ入れて寝かすだけの家庭生活になってしまったらおしまいです。経済的な余裕ではなく、時間的余裕・・・その余裕が「言ったことは守る、約束は実行する」という信頼できる人間をつくっていくと思うのです。
 人間は子どもを産んだから親になるわけではないと思われます。子どもを育てながら親になっていく。これが欠けると産んだだけのようなもので、親になったとは言い切れないものが出てきます。近年、頻発する親殺し、子殺しは親との関係が希薄なまま育った子がなんらかのものに誘発されて親を殺し、自分がきちんと親子の関係を持てずに育って親になってしまった親が邪魔なものとして子どもを殺すことだと思うのです。

4)子の変化を見て親も成長する

 生後10ケ月から2歳までの子どもの成長は目を見張るものがあります。日ごと発達するのが目に見えるのです。これを体験できなかったら、人間として成長していく上で重要な観察対象を失ってしまうかもしれません。その証拠に6〜70歳代で孫の扱いがひじょうに下手なじいさん、ばあさんがいます。高度成長期に共働きで必死に働いてきた人に多く、金で孫を釣るということしかできない人たちです。つまり子どもを観察してきた体験がないので、若い親へのアドバイスもできず、相談されても答えられないので、もはや頼みは金だけ。豊かだからいいけど、豊かさが崩れると大変です。お金のない底辺では、それが親子の軋轢になって凄惨な事件となり始めています。まあ、一度しかない成長の過程、親と子が楽しみながら、きずなをつなげていくということはしたほうが先行きのためにはいいでしょうね。(次回は1歳児の絵本の変化)

子どもは何が好きか?

モノから語りへ 語りから想像へ

 どんな人でも自分が嫌なことは嫌なもので、我慢までして嫌なことをしたり受け入れたりする生活はこれまた嫌なものである。誰でも食べることは好きで楽しく食べるのはさらに好きだから、インスタグラムも食い物・飲み物の写真があふれている。
 幼児に「くだもの」「おにぎり」「サンドウイッチ」の本を入れると。その反応について多くのコメントが寄せられるので「子どもは、まず食べ物で刺激されるのだ」と思う。「しろくまちゃんのほっとけーき」や「ぐりとぐら」が根強い人気を誇っているのは、食べ物をつくる過程とできあがったおいしそうなホットケーキやカステラに幸福感が生まれるからだろう。ある意味、命を維持する原始的な感覚を呼び起こされるからだ。
 大人でも高級な食事に接待されただけで、接待してくれた人に心を開き、言うことを聞いてしまうことが多い。恋人同士の会話でひんぱんに食べ物がでてくるのもそうだし、大手メディアの社主が食事をおごってもらうことで、政治家の都合の良い記事を書いたり報道したりすることはよくあることである。幼児なら、それも仕方がない。しかし、いい大人が「食い物」につられるというのは、それはやはり頭が育っていないということでもあるだろう。

いつまでも子どもの頭では

 成長するということは、モノにとらわれるところから離れて、語られたものへ関心が向き、それをおもしろいと思ったり、すばらしいと思ったりすることである。たとえば人との対話やエンターテイメントでの楽しみなどでおもしろいと思える人になっていく段階だ。トークが楽しめない人は人生の半分を孤独の水に浸かっているようなもの。落語や漫才、映画や演劇などが楽しめなければ、これまたその半分が不幸の水に浸かることになる。
 そうではなくて、さらに想像を表現したものが楽しめればぐっと体が水から浮き上がる。この方向に子どもを持っていきたいと思うのが読み聞かせから始まる創造力への道である。
 大人になって、話題が食い物と芸能とスポーツだけではさびしいじゃないか。ならば子どものうちからじょじょにその方向に向かって力をつけていくことが必要だと思う。
 そうすれば、自分を取り巻く人間関係が変わってくる。より快く楽しい関係が成り立てば、いま世の中で起きているような悲惨な事件はもっともっと減ってくるはずなのである。人生を楽しくするための一歩は、歩く「方向」を決めることで意味が出てくるはずである。とりもなおさず、それは子どもをどういう人間にするかということでもある。
 昔と違って、子どもとは、少年とはかわいらしく、清々しいものでらうというのは幻想である。そんなものは党にすたれた童心主義の残りかすのようなものだ。時代が変われば、子どもも変わる。悪い時代なら子どもは悪くなるのは当然のことだ。
 だから、大人は子どもを食い物や着るもので釣る子育てではなく、きちんと世の中の不条理や友情や理屈を教える方向にもっていかなければならない。いい年齢の女親が娘とディズニーランドのパスポートをもらって二人で夢の世界へでは困るのである。
 子どもが好きなものは初めは食べ物だろう。しかし、大人になるにつれてその好みは変わってくる。本を読むことでもあるし、芝居を見ることでもある。また、そのたもろもろの楽しみがあるだろうが、渋谷でハロウィンに興じたり、テーマパークやコミケに狂っているようではまっとうな大人になっているとはいえないだろう。

大人になるということ
ふつうの人間でいいんです

 先日、昔の会員で大杉さんという方が来ていろいろ話していました。もうお子さんは大学生ですが、絵本に魅かれ、今でも小学校や幼児サークルでの読み聞かせを南アルプス市でしている方です。そういう場にあるので新規会員を紹介してくれることも多く時折、顔を見せてくれます。じつは、この方は東京の渋谷出身で、ご実家はそこにあります。まだ配本していた時、渋谷でアっと驚く事件が起きました。(「渋谷区短大生切断遺体事件」で引くと出てきます。歯科医の息子が妹をバラバラにしてクローゼットに入れておいたものです。)大杉さんが配本受け取り来た時、この話題を出すと駅から実家に行く道の途中の歯科医院だというのです。
 当時はゆめやはサブカル批判の真っ最中、「こんなゲームを与えたら依存になり少年時代はいいが、先行きはとんでもないことをしでかす」というようなことをこの新聞に書いていたわけです。まだRPG ゲーム全盛の時代でしたが、最近を見ると的中です。
 大杉さんはお子さんが男の子だったので、いろいろ話し合ったものです。この事件の犯人は「まじめでおとなしい」
 という報道があったのですが、お金持ちで何不自由なく与えられ、「勉強せよ!勉強せよ!」と言われながら育って学習能力がなければサブカルチャーの世界で異常性格を形作っていくのはあたりまえのことだったでしょう。同じ回数や量でサブカル体験しても異常にならない子もいれば、人と接するのもイヤでこもってしまうタイプもありますが、こういう子たちに特徴的なのは社会性が欠けている点です。ふつうの人間でいいのにね。ふつうが難しい時代なのですが。

絵が動かない!

 大杉さんが、現在、読み聞かせをしている経験話の中でも私が驚いた話があります。小学校(低学年)で読み聞かせをしていたら、ある子が反応を示さない。そこで、感想のアンケートを取った時におどろくべきことを言ったというのです。「だって、この絵、動かないんだもん、おもしろくない。」・・・これはショックな言葉だったということです。ここまで日常の中でアニメ漬けになっていると感性も変わってしまうのですね。帰園、下校すると夕食時間までずっと大画面テレビでアニメをかけ流している家庭も多いのです。それがこういう子になっていくと思うと怖いですね。
 これを聞いてふと40年ばかり前にある小4の子に勉強を教えたときのことを思い出しました。その子は〇〇式算数をやっていたのですが、文章題が解けないので私が教えることになりました。紙に文章題を書いて図まで書きました。そして解かせようとすると、こういったのです。「きちんと印刷された問題用紙でないとやる気が出ない」・・・手書きだとダメなのです。いま50歳前後ですが、お定まりの「ひきこもり」だということです。やはり裕福で仕事しなくてもよかったのでしょう。たしかにあんな昔でもいろいろお稽古事をさせられていました。遊んではいませんでしたね。

『本とともにすごしてきて』

梶原礼子さん(甲府市青葉町)菜花さん、梨花さん

 ゆめやさんと絵本を通して、独身の頃からお世話になり25年。そして娘が、今年、中学入学と共に一区切り、卒業となります。思い起こして25年、多くの絵本の中から思い出の一冊があります。長女が3才の頃、出産を控えていた私はぐずる娘を連れて、ゆめやさんへ。
 年間配本表に記された本は、家にあったので、違う本への差し替えをお願いしたところ、奥様がお店の本棚と向き合い、一冊の絵本を取り出して下さいました。題名は、『ちょっとだけ』表紙の女の子は、赤ちゃんを抱っこしています。主人公の女の子の家に赤ちゃんが産まれ、母親を助けようと、幼いなりに奮闘します。姉になったので、母親に甘えたいけど甘えられない心情が優しい雰囲気の絵と共に書かれていて、主人公と我が家の長女が重なり、涙があふれてきました。母親をとられてしまう、でもお姉さんだから我慢しないと・・・葛藤と戦っていた長女。この絵本を読み、ハッと、そのことに気づかされ、出産しても、上の子のことを特に気にかけ、大切にしてあげようと誓わせてくれた一冊となりました。この絵本を選んで最高のプレゼントをして下さった奥様には感謝しております。夢新聞も、子育てで、方向性を見失ったとき、目を通し、心を落ち着かせたものです。卒業とはなりますが、これからも『ちょっとだけ』お二人に甘えさせていただきに、お店の扉を開かせていただきます。
 ゆめやから
 幼稚園にお勤めのころから保育者用配本を取ってくださり、おそらくお家の中は図書館になっているのではないでしょうか。ほんとうに長い間のおつきあいをありがとうございます。25年と一口で言いますが、四半世紀でもあります。あのころは幼稚園の先生方に・・・たくさん配本していました。みなさん、ご結婚されて配本を長く・・・現在では考えられない長いお付き合いです。ぜひまた、お出かけくださり、いろいろお話をお聞かせください。

低学年の読書・②「蔵書の質の影響」

貸し出しトップ

 日本全国の学校図書館で読書のベスト3に入っている本は長年「かいけつゾロリ」である。ここに至って「おしり探偵」が食い込んできた。いずれも高度な読書に結びつかない性質をもった、ただのおもしろ本である。図書館にあるのは本の体裁をしたシリーズだが、一般ではマンガ化されたもの(本もマンガに等しいが)やゲーム化されたものも出回っている。さすがに「ピカチュウ」や「アンパンマン」は影を潜めてきたが、幼稚園から根強い影響もある。
 さて、「ゾロリ」が小学生に人気になりはじめたのは、もう30年以上も前で、その意味ではロングセラーだ。厚い一冊が5分で読めてしまうお手軽本であり、圧倒的なリピート率を誇る学校図書館の王者である。ここにはダジャレやくだらないお笑いネタはあるが主題にしっかりしたものはない。だいたいにおいて、人の下劣な好奇心に付け込んでこういうものを生産する作家も企業も頭は「儲かればいい」という市場原理で動いているから、そういうものに目が行き、そんなものしか楽しめないような人はそれはそれでいかんともしがたいわけ。ほおっておこうというのが私の意見だ。

大人のレベルが低いから

 なぜ、高度な読書につながらないか! それは文が論理的でもなく美文でも名文でもないないところが子どもには受けるからである。当然、きちんとした文は物語の最後まで一つの筋を論理的に追うので、読んでいる子は自然に理屈と言うものがわかるようになる。積み重なればより高度な(例えば少年少女古典文学のようなテーマがあるもの)本を読み取れるようになる。だから低学年で、そういうものが読める下地を持つ、キチンとした本が必要なのだ。ところが学校は識字率を高めるだけが主眼なので「なんでも読めばいい」という姿勢しか持っていない。読めなくなっても「学習」に支障のない識字ができれば問題ない!というわけだ。言っておくが「学習」は人間に考え方も人格の作り方も教えてくれないよ。
 キチンとした本とは、矛盾がないもの、あるいは矛盾があるということを教えてくれるもので、そこには人間というものがどういうものか、世間の事柄とはどう見るのかをしだいにわからせてくれるものだ。

同類を敵視するお笑い

 「アンパンマン」を例に挙げよう。私がこれを選べないのは、おおもとの設定が矛盾に満ちているからだ。バイキンマンは悪者でアンパンマンは正義の味方、自己犠牲をするかっこいい人となっている。ここではバイキンがいないと物が腐らなくて世の中は死体の山になることは書かれない。もっと笑えるのはバイキンを敵視するアンパンマン自身がイースト菌でできているのはなぜか・・・も語られない。こんな上っ面の正義が身に付いたら、「あいつは汚いからやっつけよう」
 「そうだよね、みんな」とイジメ公認の下地を作ってしまうじゃないか。これは水戸黄門が印籠を出したら正義の発揮とという根拠のない善悪判断になってしまう。人間の世界はそんな単純なもんじゃない・・・こういうことがわからず通り一遍の考えで貫かれたら「ゾロリ」も「おしり探偵」もあまりにも思考力を妨げる作品でしかないと思わないだろうか。
 子どもの、その時々の反応をうまく捉えた(子どもにこびた)テーマで話が展開していた。「ゾロリ」も基本的には子どもの現在の欲望、関心にテーマを置いているのは事実である。
 「ゲーム」関連のものは多いし、定番の「お金」「超能力」「女(男)の子への関心」「食べ物(ラーメン・ハンバーグ・カレー」などがテーマとなっている。大人の週刊誌ネタと同じだ。単純に否定する前に、大人の雑誌記事と同レベルと考えれば・・・そのまんま、頭が成長しない人間が多いということになる。大人の欲望の対象と同じものが「謎」や「恐怖」「大作戦」と言ったお手ごろなドキドキ感とともにたやすく読めてしまうのが「ゾロリ」などの低次元の善悪物なのである。多くの子どもが借りるのは当たり前のことかもしれない。ここでも子どもは大人の似姿なのだ。
 子どものうちから決まった善悪の価値観を植え付けられたら、大人になってたやすくだまされてしまう(それは善人を装った詐欺師でもあり、国家を戦争に導こうとする為政者だったりするが)ことだろう。
 大人になれば乗せられるのでは、やはりきちんとした批判力と分析力で、だましてくる側の糸を見抜かねばならない。そうしなければ子どもも守れず、次世代を悲劇的な状態に追いやってしまうことにもなる。いつまでもアンパンマンは善、バイキンマンは悪という見方はやめようではないか。あれほどブームだったアンパンマンが、作者の死とともにだんだん姿が薄くなってきているのは、あながち飽きられたというだけではないだろう。

しっかりしろよ!学校図書館

 図書館に置いてあれば、和を尊重する日本の学校で逆らうのはむずかしい。前回、担任の先生が「二十面相をやめてゾロリにしたら!」と言った怪言も、「みんなが読むものだから読んでおけ!」くらいの軽い気持ちだったのかもしれない。個人的な意見だが、ちゃんとした本を読み聞かされ、それなりの選書観や価値観を形づくった子どもは、目新しいものとして「ゾロリ」などに見入るかもしれない。しかし、すぐに、その底の浅さに飽きて離れていくのではないか、ということである。中学年、高学年になっても離れられないというのは「その程度の子だったとしてあきらめたほうがいい」ということでもある。事実、ブッククラブ内で低学年では親がビックリして連絡してくることが多いが、三年生、四年生で「いつまでもゾロリを読んでいて困る!」という相談はほとんどない。
 学校図書館の選書が司書によるウエイトが多いのか闇雲にTRC(図書館流通センター)のオススメをそのまま受け入れるウエイトが多いかは学校によって違うし、司書でも見識のある選書観を持つ人もいれば、そうでない人もいる。子どものリクエストがあれば入れるのが民主的だと思っている人もいれば、目を通して取捨選択する司書もいる。司書資格など司書課程を持つ講座を受ければおよそ誰でも持てる資格だが、問題はその後・・・まともな読書ができる子をつくる読書指導になぜ力が入れられないのだろう。朝読書10分でまともな読書ができたら逆立ちして校庭をあるいてやるよ。
 自分の子が貸し出し競争に巻き込まれてレベルの低い本を読んでばかりいかない方法は次回で。



(2019年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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