ブッククラブニュース
平成30年9月号新聞一部閲覧 追加分

読み聞かせのHow To ④
親に見られる学校教育の弊害(?)

 十年前には、聞かれなかったことが最近ではあたりまえのようにお母さん方から質問となって寄せられます。どういうことかというと、一歳前後から入る、いわゆる認識絵本(例・「どうぶつのおかあさん」、「くだもの」)や動作絵本(「おつむてんてん」「ヘレンオクセンバリーの絵本」)「おつきさまこんばんは」)など「文字の少ないもの、ないものはどうやって読み聞かせればいいのか?」と尋ねられるのです。
 通常、赤ちゃんを抱いて、本を拡げるときに犬の絵を示してブッキラボウに「ねこ!」と読む親はいないと思うのです。
 ネコの絵を見て「ネコの子!」といい続ける人がいたらおかしいですよね。ところが優等生教育を受けてきた世代は、余計なことをしたり言ったりすると「間違いになるのではないか」と不安になるらしいのです。つまり正解を求めるわけですね。基本的に一歳児の読み聞かせは親と子が絵本の中の事物を媒体にして対話していくものです。内容と無関係でなければ、ある意味、何をしゃべってもいいのです。
 「うわぁ!犬のお母さんが赤ちゃんを口で運んでいるよ。すごいね!」です。「おいしそうね。サクランボ・・・甘いよ。」「ほうら、ネコの赤ちゃんたちが遊んでいますよ。お母さんはどこにいるのかな。」・・・・こういう普通の話で語ればいいわけで、ことさら上手く読む必要もありませんし、詳しく解説する必要もありません。

読み聞かせのプロなど真似なくていい

 図書館や読み聞かせ会のイベントであまりに上手な読み聞かせるおばさまの芸を見せられているお母さん方は焦るかもしれませんが、子どもはそんな上手さよりも親と居られる安心の時間の方を望んでいるのです。
 その証拠に、お母さんより百倍美人の女優が千倍上手に読み聞かせているDVDを見ても、子どもの反応は鈍いのです。実際にダッコしたり、寝ながら読んでくれるお母さんの読み聞かせが一番。息遣いやぬくもりが大事なのです。それをわかってください。
 認識絵本だから!動作絵本だから!覚えるように教え込まなくては・・・という意気込みで、「はい、クマのぬいぐるみ。」「これは月にかかる雲」なんていい続けたら、子どもは本が嫌いになってしまいます。ひたすら親が赤ちゃんとの時間を楽しめば自然に子どもの心は本に向いてきます。「教える」などということは頭から抜いて、子どもとの会話をする時間と考えて親も語り掛けを楽しんでください。教育的でない親のお子さんほど本の世界に入って行かれるというのが、これまでの結果として出ています。

物語絵本へ入っていく基礎

 配本は、急激な一歳児の発達に対応させて、四半期ごとに大きく変化した配本体系になっています。できれば何回も何回も読んでください。一冊の読み聞かせ回数は最低30回くらい(それ以上のことのほうが多い)です。
新しく配本された本へはなかなか関心が行かないのもこの時期の特徴です。
大人と違って、慣れ親しんだ本が一番好きなのですから、新しい本も読み聞かせている冊数に新しい本を1冊加える形で新しい本にも慣れ親しむようにしてください。
1歳後半までの絵本は大人にとっては物足りないものがあるかもしれませんが、お子さんの反応を見れば分るとおり、本格的な物語絵本へ入る前の下地をつくっています。先を急がないことです。物語絵本は文章語でかかれます。2歳半ばまで文章語の絵本がほとんど入りませんから、口語、会話語、おしゃべり言葉を楽しむのに一番よい時期なのです。文章語の絵本になったらアドリブもパフォーマンスも入れないほうがいいですからね。わからないことがあればご連絡ください。(九月ニュース一部閲覧)

昔ばなしの中に出てくるツール
⑤ タイムマシン

 映画「タイムマシン」に登場したタイムマシン
 十年ひと昔というから百年はその十倍の昔。
 H・G・ウェルズが「タイムマシン」を書いたのは1895年だから、「タイムマシン」はじゅうぶん昔話である。この本はブッククラブで高学年で副読本選書してあるが、よくもまあタイムマシンなんてものを百年も前に書いたものだ。「透明人間」「モロー博士の島」「宇宙戦争」・・・60年も前の彼の私の愛読書である。おもしろかった。読みながら作者のウェルズは「未来人か宇宙人ではないか」とも思ったことがある。これらの作品はかなり後になって映画化もされたので何回も観た。コンピューターグラフィックのない時代に撮影された透明人間はやはり驚くし、宇宙戦争の円盤は独特の形をしていて今でも鮮明に記憶している。映画技術は進歩したが、人間の目も肥えて来て、「ああ、これはCGじゃん!」となってしまうから,返って原始的な撮影の方が人を驚かせる効果があるのかもしれない。

時間を進める・戻す

 映画といえば、みなさんのタイムマシンは「バック・ツゥー・ザ・フィーチャー」の「デロリアン」だろう。過去に飛び、未来に行ける道具はいつの時代も魅力的である。浦島太郎の亀もじつはタイムマシンだったりして、昔から時空を越えたい夢を人間は持っていた。こんなものがあれば、便利さの極みで、ちょっと失敗したら過去に戻って、失敗しないように行動を直すなんてのもお茶の子サイサイになる。夏休みの宿題など1ケ月前に戻って仕上げれば何のことはない。虐待されている子も過去に戻って親を取り換えてしまえば悲劇も何も起こらない。税金をデタラメに使ってしたい放題をしても時間を5年も巻き戻せば、またやりなおせる。自分のお友達に不都合な貸し付けをしてしまった文書を改竄や隠蔽することも不要だ。政策の失敗は時間を巻き戻せばいいわけで、政府こそスパコンを使ってタイムマシンの開発をしたいことだろう。
 このようにタイムマシンは、まことに便利なツールだが、原理的にも技術的にもつくれないことになっている。つまりは人類「永遠」の夢なのだ。
 ウェルズは何と誰も考え着かなかった時間を巻き戻したり、早回しする方法を思いついた。つまり、この道具は人間の想像力が作り出したもの。では、彼が提案した時間旅行を具体的にどういうふうに行うのか?

歴史の研究

 それは意外にかんたん。歴史の本を読めば、幕末へも戦国時代へも、さらにはジュラ紀へでも頭が飛んでいく。このタイムマシンの推進力は想像力だから過去にも行ければ、未来でもどこの世界にも行くことができる。60年前、私が読んだ少年雑誌のグラビアは←小松崎茂の未来画だった。実現したものもあるし、しないものもある。未来機械の中には原子力のように人類をダメにするものさえあった。想像力はまた、そのうしろにきちんとしたものが考えられないと暴走することもある。タイムマシンが危険な結果をもたらすかもしれない「便利さ」を持っているように、科学の発達がみんなバラ色とは限らない。原発がいい見本である。ツールの危うさを見抜くのも、いい部分を取り込むのもすべて、読む子どもたちの頭にかかっている。そして、ごまかされた過去や嘘くさい未来を見抜く力もまた出てくるだろう。われわれは頭の中にタイムマシンを持つことはできるのだ。(ニュース一部閲覧)

本とともに過ごしてきて

 横浜市港北区 成田聡子さん 航一くん(小6)
ゆめやさんとは息子が10ケ月の時からのお付き合いとなり、もう10年以上になります。
毎月の新聞では、絵本を噛んだり破ってしまった時の対応の仕方から、実際に読み聞かせをする上でのポイントを丁寧に記載してくださっていたのでとても参考になり、楽しい読み聞かせの時間を過ごしてきました。また息子が配本に興味を示さなくなった時に、詳細のやり取りを手紙やメールで対応してくださり、「全てヒットするのは難しいですよ…」と、コメントをいただき、とても心強かったです。現在小学6年生の息子は、正直読書好きとは思えず、中学年ごろからタブレット学習や学校のパソコンクラブなどの影響で、夢新聞にも記載されているサブカルチャーの影響を多々受けているような気がします。それでも親的にはブレない方針で、ゲーム機やスマホは与えず息子が読書をする環境を整えようと頑張っている状態です。
 そんな中、息子がたまに夢新聞を読んでいる事をお伝えすると、「夢新聞が読めるなら大丈夫!」とのお言葉をいただき、赤ちゃんの時からの読み聞かせは決してムダではなく、今後の読書にも繋がっていくものと信じて、今の配本は親も楽しんで読んでおります。本当は、以前の会員の方からのこの欄への寄稿で読書離れから読書好きになったお話があったので、そんな息子を紹介したかったのです。でも、家の子はまだ時間がかかりそうです。
 それでも、今までのゆめやさんとのお付き合いのお陰で、子どもはもちろん、親も色々な事を学ばせていただきました。本当にありがとうございます。振込用紙に書いた内容に、いつも丁寧に返信してくださるゆめやさんには本当に感謝しております。
 私事ですが、私の母は息子が1歳になって直ぐに他界してしまったので、いつの間にか頼れる先として、ゆめやさんとのお付き合いをさせていただいておりました。秋になりましてもお疲れが出ません様に。
 ゆめやより
 なんだか、十年以上のおつきあいという感覚ではないですね。一瞬のうちに過ぎた感じがします。タイムマシンに乗ったのかな。いつもお便りをいただき感謝してます。

低・中学年の本読み
③ 書くことの重要性

 インターネット上のフリーマーケットやオークションサイトを運営する「メルカリ」「楽天」「ヤフー」が、宿題として学校に提出されることを想定した作品の出品を禁止した。文科省は、「大手3社による出品禁止で、宿題の代行はおかしいという考えが広まってほしい」と言っているが、いろいろググるとけっこう宿題代行のサイトが出てくる。当然、売買は成立しているのだろう。「何でもネットで一儲け」と「金ですべてを解決する」という供給と需要があれば、作文でも工作でもどんどん販売だ。
 ネットのなかった時代、私たち親は感想文の書き方から、工作の指導までしたものだが、今の親は平気で代行業者に頼む。「合理的」という理由で。しかし、漢字ドリルを誰が書くのだろう。絵は誰が描いたものなのだろう? と、そのほうが気になる。私は、こんなことで一儲けをたくらんだり、その仕事をしている人を軽蔑するが、市場原理社会というのどこまで人間をダメにしていくのだろう。
 そんなことを考えていたらブッククラブとして自慢できる逆のケースが久しぶりに出て来た。それは、中学生に配本している「ヒトラーのはじめたゲーム」で、たまたま兄妹が今年の夏同じ本の感想文を書いたというのである。お母さんに「読ませてください!」というと、そのコピーが送られてきたのでここで紹介したい。
 読んで書くこと・・・これが考え方を深めていくし、心で感じるものを多くする訓練にもなる。文章技巧をどうのこうの言って採点するのはやめて、もう少し未来を見つめて、考えを表現していくことでさらに考えが深まっていくことを評価してもらいたいと強く思うのである。低学年も目標にしてほしい「書くことの重要性」である。

柳澤さん・兄(甲府市・高1)

 高校生になって、初めて、ヒトラーのいきすぎた思想に気付いた気がする。この本は中学生のときに一回読んだが、そのときは収容所に入れられた人がかわいそうだな、ぐらいにしか思わなかった。あとはポーランド行きたいなーという何も中身のない感想があっただけである。そして時が経ち、この感想文を書くためもう一度読み直した。私はこの本から半分くらいしか吸収していなかったことに気付いた。
 まず、この本に書かれている事実を簡単に受け入れすぎていた。この本では私と同じ歳の少年ジャックが、ナチスに平穏な日常を奪われ、強制収容所に入れられる。家族と引き離される。友達だと思っていたポーランド人がユダヤ人である自分を実は軽蔑していた。感染病が流行する収容所。ゴミのような朝ご飯。よく考えれば考えるほど、考えられないような悲惨な状態・状況であったことがわかる。
 私はこれらを、物語を読む感覚で、現実で起きたこととは認識していなかった気がする。想像するだけでも虫唾が走るような出来事なのに、実際に経験した人がいるというのは、とても辛い。この本に書かれている時代の環境や政治内容、人々の気持ちを知った上で私は生活したい。そうすれば、心に余裕ができ、大きな器をもって人に接するようになると思う。
 私はこの本にかかれている事を簡単に受け入れていたが、1つだけ印象的なシーンが以前からあった。強制収容所に入れられているとき、ジャックの友達であるアーロンが、手に入れたパンをジャックに渡してあげるシーンだ。ジャックたちがいた収容所で出される食事は水のようなスープとゴミが入っているようなパン。朝食でそれらを食べた後は一日中辛い肉体労働をしなければいけない。そんな極限状態の収容所生活の中で、アーロンのしたことはどれ程親切なことであっただろうか。アーロンはジャックより歳は何歳も上である。厳しい環境のなかでも人と人は助けあっていかなければならない、という大人から少年へ向けたメッセージだったと私は思う。私もよく塾の先生から自分とあともう1人分の生活を養えるような人間になりなさいと言われた。アーロンのように強制収容所内でも他人を思いやることができる人間はいるのだから、環境が整っている現在でできないのはおかしい。私は人のことまで気にすることができるように、まずは自分の生活や行動に目を向けていきたい。

柳澤さん・妹(小6)

 我が家には四つ上の兄が読んできた本がたくさんあります。その中で「ヒトラーのはじめたゲーム」という本を見つけました。ヒトラーには良い印象がなく。決して遊びをする人ではないと思っていたので、そのヒトラーが始めたゲームはどういうものなのか知りたくなり、この本を読むことにしました。
 この本の主人公の少年ジャックは、もとは港町で家族と幸せに暮らしていましたが、ヒトラー率いるドイツ兵にユダヤ人が迫害を受け、家族と別れさせられ強制収容所に入れられてしまいました。最終的には戦争が終わり解放されましたが、そこまでの道のりは一言で言うと「地獄」のようだったと思います。恐怖、悲しみ、怒りの感情しかない毎日だったということです。もし私がこんな環境にいたら人間として生きられなくなると思います。
 私が特に心が痛くなったのは、少年ジャックが初めて強制収容所に行く場面の文章です。それは、「もはや、わたしたちにはなんの権利もありませんでした。唯一残された権利、それは死ぬ権利でした。」という文章で、それを読み、人々は必ず何かしらの権利を持っているのにそんなものは関係なく、ただ死んでゆくのための権利しかなかったのはとても辛いことだと思いました。でもその中でもけん命にがんばって生きていた少年ジャックは心身ともに強い子なのだと思いました。加えて、その少年ジャックは強い心持ちでいられたのも周りの人たちの支えもあったからだと思います。収容所の過ごし方を教えてくれたアーロンや、病気の時に手を差し伸べてくれた背の高いカポ、そして全てから解放されるまで色々な面で支えてくれた少年ジャックは心身ともに強くいることができ、最終的には長く生きられたのだと思いました。
 この物語を読んで2つのことを思いました。1つはどうして人々は平等になることができなかったのだろうということです。一人の勝手な考えがどんどん広がり迫害を受けたたくさんの人々が命を落とすことになりました。もし、もう少し人々が平等な立場にあったら迫害のえいきょうで命を落とした人々を減らすことができたのかもしれないと思います。もう1つは自分の周りに支えてくれる人がいたら少しでもがんばれるということです。少年ジャックは周りにいた人のおかげでがんばって生きることができたと思います。それほど周りにいる人は大切だと思いました。
 この本を読んで人間が平等であることの大切さと、人間の強さについて考えることができました。そして、ゲームという言葉を使ったのは、息子を思う親心であり愛情の現れだったと思います。この先、人々が平等であるための最も大切なことは周りの人の愛だということを学ぶことができました。

中流から格差へ ④

 「万引き家族」については先月号で書きましたが、是枝監督の「不況と貧困」へのコメントをマスコミはまったくスルーしていました。安倍政権への気遣いでしょうが、是枝監督の意見はこういうものでした。
 「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだ。」「日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」というものです。
 一見、裕福であるブッククラブの会員のご家庭でも近い将来で子どもの就職や結婚で危機を迎えることもありうる話なので、やはり、「万引き家族=家族の崩壊」問題は取り上げた方がいいと思いました。現在の高収入が永続的に続く保証はなく、貯蓄や資産自体が崩壊すると、あるいは長寿化やテクノロジーの変化で、働き方も大きく変わると思うからです。勝ち組と負け組ができるということは、家族の中でも勝ちと負けが出て来て、バラバラになる可能性が高いのです。カタチはどう変わるか。これからの変化の時代をうまく生きる方法はあるのか。これを「家族」という視点で考えてみたいのです。
 ある保育園の先生が、こういう話を聞かせてくれました。「・・・・朝8時半に子どもを連れて来て、夕方7時に迎えに来る。子どもはつぎつぎに間も開けずに3人もつくっているが親は朝から晩まで働いている。お金がかかるのに平気で何百万もする大きなバンの車に買い替える。いずれ家を建てればローンも出てくるだろうが、いっさい、そんなことは考えていないようなヤンキーぶりで心配だ!」というもの。
 そういうイケイケドンドンという向こう見ずな親も増えているらしい。自ら格差を作ることに挑戦なんだと思ってしまいました。保育園の先生も中尉はできないし・・・虐待や子育て放棄ということではないので、そこまで踏み込んで何も言えないということです。
 なぜ、こんな状態になっているのか。それにはまず、これまでの形はどうだったのかを見る必要があります。ゆめやは、どうも発達という視点で見る癖があって、未来を見るには過去を見ておかないと真っ当な未来がつくれないといつも思っているからなんですがね。

あのころはみんな中流?

 ゆめやが開業したころは、高度成長が可能にした「憧れの家族形態」が生まれていました。 でも、その少し前は、生活は自営業で支えていたのです。いまでもゆめやはそうですが、農業や零細な商工業の自営業は、家族総出で働くことが基本でした。実際、1970年までは約6割が自営業で家族従業者とくに妻の専従率が高かったのです。
 こうした風景を急速に変えていったのが、1960年代半ばに始まった高度経済成長。三大都市圏に地方出身者が流入し、都市部の郊外には核家族のサラリーマン世帯が急増したときです。こうした世帯では「夫は仕事、妻は家族のケア」という役割分業が基本で専業主婦の数は1955年の517万人から1970年の903万人へと急増していました。今では信じられない数です(上の表)。

新しい家族の始まり

 高所得層の特権である専業主婦が増えたのは、高度経済成長がもたらした収入でした。「夫は仕事、妻は夫と子どものケア」という役割分業は高度経済成長が最終コーナーに差し掛かったころでした。映画「三丁目の夕日」がちょうどこの時期に当たりますね。しかし、その後、学校教育がいい意味でも悪い意味でも女性が働くことを刷り込んだ影響も大きくなっていきます。
 ところが1970年代後半になると、家族のかたちは方向転換をはじめます。経済成長が終わり、勤労者世帯で世帯主賃金の上昇テンポが緩やかになると、子どもの進学率の上昇や教育費の増加などを理由に、幼児の子育てが終わった妻のパート就業が増えて行ったのです。こうなると女性の負担は、夫の世話と子どもの世話に加えて労働という部分が過重負担となっていきます。得られるものは便利な道具類です。

問題は山積み

 この時代の最初はNHKの朝ドラ「ひよっこ」の世界です。集団就職で都会に出て来た人たちがやがて家庭を持ち始めるころのことです。便利な家電製品が家庭に普及したこと、夫婦が生む子どもの数が減ったことも、妻が働く余力を生み出したのですが、じつは家や車のローン、消費物資のクレジット化で、先に物が手に入る代わりにどんどん忙しくなり、数十年後に「万引き家族」を生み出す流れになっていったというわけです。
 いまや急速に家庭は変わりつつあります。老親の問題も加わってきたからです。介護離職もあれば姥捨て状態もある。こういう中で、家族はどうなっていくのか。子どもはきちんと育って行くのでしょうか・・・しかも、水道利権は売り渡す、高額な武器を買い込む、安定した給与体系を確保できない、税金はどんどん上がる・・・問題は山積みです。売国・壊国が進んでいるかのようです。次回はそのへんのことに触れてみましょう。(つづく)



(2018年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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