ブッククラブニュース
平成30年8月号新聞一部閲覧 追加分

昔ばなしの中に出てくるツール④
聞き耳頭巾(ききみみずきん)

 もとの話がわからなくなるほど、たくさんのアナザーストーリーがある昔話。当然、今回のツールは、かぶると動物や植物の会話が聞こえてしまう「聞き耳頭巾」である。話は、たいてい、助けた動物から薄汚い頭巾をもらって、かぶると鳥や獣の話がわかり、草や木の話もわかってしまうというストーリーだ。助けた動物がキツネだったり、魚のタイだったりするが、最後は御殿様の娘と結婚出来たり、財産が転がり込むというワンパターンの説話。教訓臭いところがある幸福獲得物語なので個人的には「ききみみずきん」は、あまり好きではない。しかし、こういう頭巾があればいいなと思うのは私だけではないだろう。昔の人ならなおさらのことだと思う。狩猟や農耕で暮らしていた人々は現代人以上に動植物との会話を願ったかもしれない。そして、その能力を「観察」という形で動植物に向けていた。苗がこういうときは天候が悪くなる、鳥がこう鳴くと異変が起こる・・・こういう直感は自然との対話だろう。欧米でもそういうことはあったわけで、動物と会話できる話もある。「ドリトル先生」などは、その代表で、私はこのシリーズに小学生のころハマったこともある。動植物の話まで聞けるというのはすばらしいことだ。

話がわからない

 昔なら荒唐無稽なおとぎ話だったんだろうが、最近は科学の発達で動物たちが会話をしているということがわかってきた。また牛に音楽を聴かすと乳の出がよくなったり、作物に話しかけるとよく実ったりする話題も聞く。かれらの話の内容がわかれば「一儲け」できるかもしれない(笑)。
 とは、いえ、最近では相手の話も聞けない人が増えているとも言う。「国語もわからなくなったか!?」と評論家は批判するが、じつは、私がテレビを観なくなったのは、言っていることが分からなくなったからだ。年齢のせいでは断じて(笑)ない! タレントたちの会話がわからない。日本語だから言葉の意味はわからなくてもいいが、受け答えにまったく論理性がないのでわからない。で、観るのをやめた。若者やお笑い芸人の話がわかる聞き耳頭巾がほしいね。そんな頭巾があったら世代間格差もなくなることだろう。マザーグースの歌に「だんだん馬鹿になっていく」とあるが、まさにその通り。私も馬鹿になっていく。そのうちアルツハイマーになって、何もわからなくなるかもしれない。

外国語を勉強すると

 ところで、私は外国語学部の出である。それは「他国の言葉を知りたい、話せたらいいな、」と思ったから勉強したわけなのだが、頭が悪いせいか、時間が経つと単語の意味さえ忘れてしまっている。帰国して数年で会話もできなくなった。
 ところが最近、翻訳機能を持つ機械が出来たらしく、話をインプットすると、こちらの言葉で出てきたり、あちらの言葉になったり、外国語の勉強など、そりゃあ、もう、する必要もないくらいの機械らしい。
 この調子で行けば、そのうち、動物や植物との会話もできるだろう、なーんも勉強しなくて、話が通じるというのだから科学の発達はすごいものだ。もう、すでに「聞き耳頭巾」はできているのだ! ならばお互いにすぐ分かり合える。言葉がわからなくて、相手の文化もわからないから戦争が起きたが、わかれば何のことはない。話し合いで解決できるだろう。丁寧に対話をすれば、武器を天文学的な金額で買わなくても済むし、日本の憲法で戦争ができないこともこちらからの説明で納得してもらえる。誠意を示して対話を重ねれば拉致された人も戻るだろう。相手は鬼でも蛇でもない「言葉を理解する人間」だからだ。

言葉は心と一体だったか!

 そして互いに理解しようというハートがあればなんでも通じるものだ。ああ、でも、ハートのない大統領もいるね。かんたんな漢字も読めない戦争好きな首相もいる。欲ばかりかいて権力を持ちたがる指導者もいれば、「隣人愛」を信奉する宗教の国家なのに隣国を攻め滅ぼしたい国もある。
 聞き耳頭巾ができても、まずは人間の心や頭が進まなければ、話は通じないのだ。やっぱり科学が進むと「だんだん馬鹿になっていく」のかなぁ!
 でも、われわれは言葉で相手がどういう人間かを判定することもできる。心のどこかに「聞き耳頭巾」を持ってるのだと思う。
 猛き者もついには滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ、って昔の人が言ったけれど、どんな悪政でも十年は続かないものだ。悲惨なことは観たくないからね。

本とともに過ごしてきて 

 山梨県 匿名 お子さん 小5
 名前を伏して寄稿させていただき申し訳ありません。書いたことが目に触れるとまわりで話題になったり、あらぬことを言われるのも嫌で、ゆめやさんに匿名をお願いしました。ゆめやさんが言うことには40年間で初めての例ということでしたが、ご承諾いただきました。ワガママを認めていただき。ありがとうございます。
 子どもは十か月から配本された多くの本が好きで、小学校に入っても寝る前は必ずベットに持ち込んで読んでいます。最近は厚い本が配本され、読むのに時間がかかりますが、お稽古事はさせていないので時間は十分にあり、読むのは楽しそうで、こちらの声が耳に入らないこともあります。
 最近はロアルド・ダールがお気に入りです。これだけをゆめやさんにお伝えしたかったのですが、いつも、振替用紙に書いた私の感想や質問に丁寧に答えてくださり、どのくらい力をいただいたかわかりません。感謝してます。これからもよろしくお願いします。
 ゆめやから 山梨県は80万人しかいないので、だれかどうか知っていたりしますね。良くもあり悪くもあり。つながりが強いともいえるし、それがいじめなどの原因になったりします。ほんとうは陰口をたたくほうが悪く、そんなのは無視すればいいのですが。私なんか、この狭い山梨の子どもの本の世界でズバズバ相手のことを言うのでだいぶ嫌われています。でも、いくらいいかをしていても、困ったときに相手が助けてくれることなんてありません。陰口をいうような人はそういう人なんですから。(8月号ニュース一部閲覧)

低・中学年の本読み ③
書くことの重要性

 前回、文をつくる遊びの5W1Hのことを書いたが、本を読むことと並行して文を書くことがとても大切だからだ。昔は、国語の時間の中に「綴り方(つづりかた)」というものがあり、これが作文練習だった。ところが、詰め込み学習のために作文の練習がなくなり、感想文も「自由に書け!」という。当然、文が書けなくなる子が多くなって最近の夏休みの宿題では「書かなくていい」ところまで来た。文が書けなかったら絵でもいいと「読書感想画」なる奇怪なものまで出現している。
 文が重要なのは伝える手段でもあるが、自分の考えを確認したり、修正したり、思いをぶちまけたり、しいては「心を洗ったりすること」につながるからである。
 右の中日新聞上の投書は、会員のお母さんから送られてきたものだが、戦争番組に対する家庭の見方がじつに素直に嘘がなく書かれている。うまくまとまったすばらしいものだった。若いお母さんがこういう考えならお子さんもしっかり考える大人になるだろう。こういう文でもやはり本を読んでいなければ書けないもので、自分の考えを生み出すには、読むこと、書くこと、体験することが基本にあるような気がする。書いていけば、想像力が働き、さらに心に磨きがかかる。書いたことに反したことはできなくなる。書けない大人、読めない大人が増えている時代に書くことができる人はきっと信用されるだろう。

中三少女へのおどろき

 さらに6月、沖縄戦記念日のこと。一人の中3女子が自作の詩を朗読した。首相や政府関係者など大人の前で。この少女の朗読の何と堂々とした表現だったことか。そして、その詩のなんとすばらしかったことか。
 最近、国会では用意された原稿の棒読みや漢字の読み間違いなどがいい年齢の大人の間で平然と行われているのに、少女はピンと背中を伸ばし、始まった瞬間から、その場の空気を支配するがごとく、暗唱した自作を朗読し始めた。その立派な姿に私は目も耳もくぎ付けになった。
 詩の巧拙については、専門家ではないので、評価などできないが、詩の典型的な手法である隠喩、倒置、反復、対照法、畳みかけ、列挙、省略法、韻などといったレトリックが余すところなく使われていた。「これは才能だ」と思った。さらに、こうした技巧はともかく、聞いている私や聴衆の心をとらえたのは、何よりも五感を刺激するその言葉と伝え方だろう。ぜひ、一度、Youtubeで引いて聞いてほしい。原文もあると思う。
 「マントルの熱を伝える大地」「心地よい湿気を孕(はら)んだ風」「草の匂いを鼻孔に感じ」「遠くから聞こえてくる潮騒」「岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波」「山羊の嘶(いなな)き」「畑に続く小道」。聞き手の頭に情景が浮かぶ描写の数々。熱気、湿気、匂い、海のさざ波・・・・・・まで感じる。おそらくだれもが、摩文仁の丘に立っているかのような錯覚に陥ったと思う。難しい言葉は一切ない。ただただ、美しい島の情景を写真でも見せるかのように、聞き手の脳裏に焼き付ける。
 そして、突然、その美しかった島がまさに阿鼻叫喚の地獄絵図に変わる怖い言葉が鮮かに戦時のの島を描き出す。「小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった」「優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた」「青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった」「草の匂いは死臭で濁り」・・・「平和」と「戦争」を対比させることで、その残酷、無常さを際立たせている。すごい! これが中3とは!私は、この少女の読書歴を知りたくなった。

他人の作文を棒読みする

 平和の尊さと戦争の残酷さを「語る」のではなく、聞き手にそれを「見せていた」のである。英語圏では、コミュニケーション教育の過程で、小さいころから叩き込まれるルールがある。「Show. Don’t tell」というものだ。「語るのでなく、見せろ」・・・これは詩の究極の表現である。つまり、「戦争は残酷だ」「平和は大切だ」そんなありきたりな抽象論を語るのではなく、もっと生々しい言葉でイメージとして植え付けろ、というのが欧州の詩文化の手法である。
 これを一番前で聞いていた安倍首相は何を思ったことだろう。「命」「今」「生きる」という3つのキーワードをちりばめながら、躍動感のある言葉で織りなされる壮大な抒情詩は、激しい地上戦を生き抜いた曽祖母の体験をもとに紡がれたものだとあとで新聞が解説していた。そのすぐ後で、首相は、官僚が書いたそっけない追悼文を棒読みし、沖縄県民の厳しい視線を浴びながらそそくさと立ち去った。そして、これを書いている時、政権と戦い続け、そのストレスのために癌を併発した翁長知事(前列座席もっとも手前の黒い帽子の人)が急逝した。明治11年の沖縄処分から150年、戦後の沖縄斬り捨てから70年・・・悪政と戦う人がいる。少女の詩への賛美とともにご冥福をお祈りしたい。(新聞8月号一部閲覧)

中流から格差へ ③

 「貧困が悪い、富裕がよい」という考えで言っているのではないことをまずお断りしておきます。いまの政権で頻繁に出る差別発言と間違われそうなので先に述べておかねばなりません。私のような人間が何を言っても炎上ひとつしないでしょうけれど・・・(笑)。
 昔から貧しくても立派な家庭はあるし、豊かでも裏口入学やコネ就職など悪いことをする人がたくさんいることはおわかりでしょう。ただ、みんなが同じようなことで生活(中流)してきた時代と、そうでなくなってしまった現代では大きな子育て格差が生まれてきていることを言いたいわけです。
 図は、中年男性の所得分布ですが年収500万・家庭が20年間で大都市(それも東京圏と名古屋圏のみ)だけになってしまいました。たしかに、ゆめやの会員もこの二つの大都市圏が多いです。これは、大きな格差が地域によって生まれていることを示しています。前回、貧困層が圧倒的にテレビゲーム機を持ち、読書する家庭がほとんどないことを書きましたが、この家庭での体験格差はいずれ社会的に大問題を引き起こします。

親が貧困層か富裕層かで変化するもの

 ここまでで、家庭環境による「体験格差」が広がると、かなり問題です。拡大傾向にあることもわかりますよね。政治が故意に勝ち組・負け組をつくっているのですが、じつは勝ち組も安心はできないのです。負け組(これには勝ち組の中にもいる価値観が低い人々も入る)は非常識な方法で学校や地域に食い込んできます。イジメやモンスターのような形を取って、です。

 図は、小学生の美術鑑賞と海外観光旅行の経験率が、2008年〜2011年での5年間でどう変わったかを貧困層と富裕層で比べたものです。
 ご覧の通り、5年間で差が開いています。貧困層の実施率が下がっているのは、年収300万未満というくくりの中で、年収200万未満の極貧層が増えているからかもしれません。もう一度言いますが、貧困を蔑視しているのではなく1冊千円の本はケチり、平気で焼き肉一万円を支払うのがここでいう貧困。政治がつくりだした貧困層ではありません。
 一方、富裕層では美術鑑賞、海外観光旅行とも、実施率が5年で急上昇です。当然、音楽鑑賞、遺跡や博物館などへも足を運ぶでしょう。「人物重視」「生きる力」といった教育界の動向をいち早く察知し、わが子を適応させる戦略を取っているのかもしれません。しかし、効を奏すかどうかは家庭の質ひとつです。間もなく公開される2016年のデータでは、どうなっていることか、きっと開きはさらに拡大しているでしょうね。
 学校や社会での子どもの達成(成功?)要素として、家庭の価値観と経済力が大きいことはよく知られていますが、実際のところは、経済資本よりも、これまで述べてきたような「文化資本(読書・文化体験・世界体験)」の影響が強いのです。その証拠にどの分野でも上層を形作っている人たちは教養がありますし、本はふつうに読んでます。文化上の実体験も知識も豊富に持っています。
 その意味で、家族や個人が、いま「見えない文化の差異」を個別に考えるのは意義あることで、家庭の文化資本の量と子どもの教育達成の関係を考えていくことも重要になってくるでしょう。
 外国籍の子どもも増えてくる中で、文化体験の不平等は確実に起きます。マンガやアニメを文化と言って威張っていたところで、また金があっても子どもがオタクやヤンキーになってしまったのでは意味がありません。

読み聞かせのHow To ③
冊数より回数

 1歳児は(これは5歳くらいまでそうですが)多数のものを詰め込むより、何度も読むことで内容がわかっていきます。一度では無理。これも絵本屋の手前勝手ではなく「幼児は所有することで内容も所有していく」のです。配本体験のある方なら分かりますが、図書館派の親には、この単純な事実が分かりません。図書館貸し出しが幼児においては弊害をもたらすこともありうる・・・・。幼児の多読は「本の体裁として知っている」だけの記憶を残すだけです。「ああ、それ知ってる!図書館にある。」・・・これは、さびしい言葉ですね。
 このように幼児に多読は戒められるべきですが、図書館ボランティアや読み聞かせおばさまたちは「さあ、たくさん読んであげましょう!」です。知識攻め、量攻めのセンター入試世代の親へのキャッチフレーズとしては良いかもしれませんが、やはり子どもには借りて・返すの繰り返しは害があります。もっと極端になると本などまどろっこしい! フラッシュカードで、「はい、象」「つぎは、これは虎!」「その次は猿」などとカードを見せて素早くしまうことまでします。
 これと同じで「良い本ならたくさん与えても大丈夫!」という人がいますが、それも成長や発達にあっていなければ意味がありません。子どもの読み聞かせ、読書を「多読にしないこと」が子どもに本を与えるコツのひとつだと思います。本を知っているだけではなく、中身を味わう読み聞かせや読書にしていきたいものです。まあ、だまされたと思って、配本を何度も読んであげてください。いずれ本は溜まっていき、親が音を上げることもありえます。

数ではなく質

 まず、図書館では大量の本が借りられます。五冊、十冊はあたりまえ。十数冊を一回で借りられるところもあります。当然、これが何の指導や注意もなく貸し出されます。親や子の好き勝手、好みで・・・公共図書館にとっては利用率が命。黙認です。トーマス写真絵本を山のように借り出してもおそらく誰も何も言わないでしょう。そうすると子どもの瞬間的な好き嫌いで選んだ本や発達に不対応な本(親はグレードも内容も分からないので)を選んでしまうことが起きます。一回十冊、十日か二週間の間、まさに量攻めで、とっかえひっかえ読み聞かされたらどうなるでしょう。子どもはお母さんの肉声を待望していますから、それは聞くでしょうが、じつは右から左状態で何の成果も出ません。本をフラッシュカードのように使って何の得があるか。ないです。そんなことより一冊をていねいに何度も読み聞かせるほうが効果的なのです。その意味ではタダより高いものはないのでしょうね。そんな読み聞かせでは、まず3歳でまともな絵本など見向きもしなくなります。
 次に図書館派の問題では本の取り扱いがひじょうにぞんざいになるのです。1歳からやればなおさらです。本を大事に取り扱うことはすべてのものを大事にすることにつながります。「図書館の本とは違うのよ!」と叱る親がいたらもっと愚劣ですね。子どもは「図書館の本なら乱雑に取り扱ってもいいんだ!」と思ってしまいますからね。

生後10ケ月〜1歳前半

 ▼ 物の認識を触覚でしていた時期が終わり、生後十ヶ月前後から視覚で認識する力が高まってきます。でも、読み聞かせを始めるときには、多少、触覚認識の残っていて本を物のように扱う子もいます(本を舐めたり、噛んだり、投げたりする)。1歳半ごろまでにはなくなりますが、なるべく早いうちに本の各場面に集中する力をつけたいものです。なぜかというと、この時期の本は、さまざまな違いを覚える時期です。ライオンとイヌのちがい、スイカとリンゴのちがい・・・、出てくるものと消えるもののちがい・・・物には言葉がついていて、世の中に存在するものであるということを知る最初です。
 ▼ 赤ちゃんの意識は世界といつも一体ですが、世界からひとつずつ物を切り取っていく過程です。つまり、世界を客観的に見ていく最初だと考えればいいでしょうね。違いがわからないというのは大変です。近年、教室と自分の家の区別もつかない子も出てきていますしね。認識力というのは区別ができる力なのです。ですから、本と紙の区別ができないで、破いたり、乱雑に取り扱うことは戒しめるべきです。もちろん、この時期には当然のようにやる子どももいますが、「それが子どもだ」と思わずにキチンと区別を教えるべきです。もし破ったりしたら、その場で叱り、時には手のひらを叩いてもいいでしょう。そして、テープなどで修復するところを見せないとまずいです。おもしろがって何度でもやりますからね。叱ることは必要です。叱らないで育った子は、注意力が働かず、いつまでも失敗するものですから、やはり「大切さ」を教えるためにも気配りの気持ちは育てたいものです。(つづく)増ページ一部閲覧



(2018年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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