ブッククラブニュース
平成30年8月号(発達年齢ブッククラブ)

映画「万引き家族」

 なつかしい痛みだった。観終わったあと胸の奥に湧き上がってきたもの、前に何かで感じたものと同じ痛みだ。はて?何を見たときだったのだろう。
 こんな内容の映画や小説は山ほど見たり読んだりして来た.貧乏な家族の物語、生きるために罪を犯すドラマ、名もなく貧しいが美しく生きる人たちを映画で、小説で。 
   しかし、そういうものに触れたときの痛みとは何か違う・・・もしかすると、遠い昔、現実に見ていた光景がよみがえったのかもしれない。

 それはともかく、このパルムドール賞を取った映画、上演九日目にして私を含めて観客は何と6人だった・・・少ない! 開演前のざわめきがない! 
 だが、静かなだけに、始まるとすぐに画面とセリフが強く迫ってきた。まず飛び込んできたのは、暗く悲しい表情をした幼女の姿。何ともいえぬ視線がこちらの目と合う。目黒で起きたあの悲惨な虐待死事件からわずか二か月。偶然の一致か、それとも巷にはあふれている事件なのか。すぐれた作品は未来の現実を先に映し出すというが、すごい。
 やがて、つながっている家族の関係のすべてが「真っ当とは思えない」と感じ始めたところで、さほど切迫感も悲壮感もなく生きていく人々のドラマが動きはじめる。なるほど生きるということは、闇を抱えようと罪を犯そうと、すこしも重く考えないで「今日と同じ明日が来る」と思うことか。

新しいつながり?

 そして、いくつかの映像が象徴的に挿入され、心の痛みをしだいに増幅していく。「妹」らしき幼女と「兄」らしき少年がセミの抜け殻を集めているときにセミが脱皮を始める・・・二人は金権社会が作り出した下層から脱することはできるのだろうか。
 その「兄」が、絵本『スイミー』の一節を朗読する・・・小魚たちは力を合わせて大きく強い魚を倒すことができるだろうか。
 「母」らしき女が言う。「あたしたちゃ、捨ててあるものを拾ってるだけだよ」・・・なるほど万引きのためのスーパーの棚は市場原理で捨てられたものの陳列台だったのか。
 そして「祖母」らしきもの、「夫」らしきもの、「子ども」らしきものもみんな拾ってきたものだということがわかる・・・。深い!・・・。
 「万引き家族」とは、万引きをして暮らす家族ではなく、赤の他人を万引きしてきて「家族」を築き上げたものだったというわけだ。

偽物ばかり?

 そして、世の中が「真っ当」だと思っている商品の実体や家族の肖像は、じつは欺瞞と葛藤に満ち溢れたもので、人は偽善で取り繕っているだけのこと。それも音だけが聞こえる夏の花火のようにあっと言う間に消えていくものでもあるらしい。
 見終わって出ると、隣のシネコン2つを使って「ジェラシックパーク・炎の王国」。子ども連れで満杯。夏休みなので「名探偵コナン」「ポケモン」「それいけ!アンパンマン」も大入りだ。この国の「家族」は平和だ。頭はバーチャル、心はアニメが心地よく楽しいのだろう。
 しかし、昭和三十年代・・・貧しいが、さほど嘘臭くない時代があった。戦後の貧しさからくる痛みもあったが、あのころは大人も子どもも夢があったように感じている。失った夢だけが美しく見えるのはなぜだろう。そして、それもこれも、みんなすぐに消えていくSweet Memoryなのだろうか。(ニュース8月号一部閲覧)

この国では無理だろうね!

 山梨の話だけれど、8月1日の新聞に小学校の学力検査の報道があった。「5教科中4教科で全国平均を下回る結果」とある。原因はいろいろあるだろうし、その結果が真の学力とも思えないからいろいろは言わない。しかし、ここ数年、山梨だけではなく、基準になる全国の学力もバラツキが大きくて、全体的には下がっているという。私が子ども時代には小学校で塾など行く子はゼロ。それでも基本的な漢字は読めるし、計算はできる、読み取りもできた。真の意味の学力(学校の成績ではないよ)は、以前のほうが高かったように思う。なぜ、落ちてきているか。
 ここ三十数年、ゆめやはサブカルチャーが子どもを侵食して、知識は一過性のどうでもいいものになり、頭が働かなくなると言い続けて来た。それと並行して異常な事件も起こると言ってきたが、ここ十年くらいで、その結果は出てしまったようだ。頭が幼稚なまま大人になれば、ヤンキーな人間になるよりない。

ヤンキーな人々

 ヤンキーとはかつては暴走族のような連中を指したが、最近では姿形ではわからない。まともな本など読まず、教養なんて無視して、すぐにスピリチュアルなものに傾倒し、つまらないものに凝ったりする普通人のことである(詳細は斎藤環・『世界が土曜の夜の夢ならーヤンキーと精神分析』(角川書店)をお読みください)。これからもどんどん増えることだろうし、もう親になっている世代だ。自分の考えはないから、嘘にひっかかりやすく、神がかりやオマジナイが好きなのも特徴のひとつ。最初はオウム真理教に入った人々で、世代的にはすでに50歳代だ。ある意味、歴史がある(笑)。
 さて、同じ8月1日付CNNのニュース速報。
 「フランス、小中学校でスマホ禁止の法案可決! 9月から実施」 フランスの小中学校で9月の新学期からスマートフォンが禁止されることになったと言う。3〜15歳の児童や生徒を対象に、スマートフォンやタブレットなどインターネットに接続できる端末は自宅に置いて・登園・登校するか、校内では電源を切ることを義務付ける。」この禁止法案は7月30日に62対1(すごいね!)の賛成多数で議会を通過した。じつは、この政策、マクロン大統領が選挙運動で掲げていた公約の1つだった。15歳以上の子どもが通う高校については、禁止するかどうかの判断を学校に委ねる。また、障害を持つ子どもが授業や課外活動でスマートフォンなどを使うことは例外扱いとする。
 ブランケール教育相は「現代はスマホ中毒の現象がはびこっている」と指摘し、「我々には子どもや青少年を守る役目がある。これは教育の基本的役割であり、この法律でそれが可能になる」と強調した。さすが知性のフランス、日本やアジア各国とは大変な違いだ。

ノモフォビアってなぁに?

 スマホ中毒をめぐっては、スマホを使えないことに恐怖を感じる「ノモフォビア」の症状を訴える子どもの増加が欧米では問題となっている。英国で実施された実態調査では、回答者の66%に何らかのノモフォビアの症状があることが判明した。常時つながり続けるために2台以上のスマホを携帯しているという回答は何と41%もいるということもわかった。
 また、逆にロンドンの大学が実施した別の調査では、学校でのスマホ禁止が児童生徒の学業成績向上に明らかにつながっていることも分かった。フランスでは2016年の調査で、12〜17歳の子どものスマホ保有率が以前は90%だったが、現時点では半減している、という。  さて、国が学校にタブレットを導入し、親との通信がスマホという我が国は、これをどうとらえるか。そりゃあ、半導体を税金で買ってもいいから売りさばきたい国としては学校で禁止なんて無理だろうね。
 かくして世の中は悪くなり、子どもの学力が下がる。そして、「自分の考えを表明できない日本人」は流れに黙って従うよりない。(新聞8月号一部閲覧)



(2018年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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