ブッククラブニュース
平成30年3月号(発達年齢ブッククラブ)

ハートのないトランプ

 ゆめやのおじいさんはいつも子ども相手に手品をする。びっくりさせるのが楽しいからだが、じつは、子どもたちの好奇心の度合いとか、不思議がる様子などがけっこう勉強になる。ひたすらビックりする子、その謎を解こうとする子、いろいろいる。こういう反応は、じつは読書とも深いかかわりがある。好奇心の強い子は、本の言葉に関心を示し言葉を操ろうとするし、不思議がる子は、やがてテーマを見つけ出せる。ビックリするだけでも、やがては嘘を見抜く力になるだろう。  だから、私の手品は「子どもだまし」ではない。大人までだませる巧妙なしかけにする。さまざまなグッズを利用するが、一番出し物で多い手品はもちろんトランプマジック。これは相手をだます道具としてはポピュラーであり、オーソドックスであり、単純なものでもある。  トランプというのは、ひじょうに巧妙にできたもので知らない人がいるだろうから教えよう。トランプは52枚ある。種類はハート、クラブ、ダイヤ、スペード。これはね。一年が52週あり、それが4つの季節で動いていることを示すものなのだ。52÷4=13が一つの季節。さしずめ♡は春。心は春。ハートのないトランプなど心の無い心臓と同じだ。さてエースからキングまで13枚ある。♡A〜♡Kまで数を足すと1+2+…+13=91。季節は4種類あるから91×4=364だ。そしてジョーカーが一枚足すと365、つまり1年となるのである。でも、「たいていのトランプにはもう一枚ジョーカーがあるではないか」という人もいるだろう。たしかにある。ときにはモノクロのジョーカーなのだが、当然、この一枚は「うるう年」の一枚、つまり2月29日の札。よくできてますね。精密です。世の中はこうでなくてはいけません。  トランプはできたときから、こう決まっていて、それでいて多様な遊びができるようにつくられているのです。

精密さを壊すな!

 すべて、すぐれたものは完全な要素でつくられていて、矛盾や単純な理屈だけではなく意味がある。さらに勝手な変更もあってはならない。「時代が変わったからハートはなくなります」とか「53枚目をつくりたいのでもう一枚よけいに札を増やします」などとなったらおかしなことになる。それをしたら「何でもあり」になり、トランプではなくなる。決められたものを守らないで、自分の趣味で勝手に変更して、「おまえたちも従え!」では遊んでいてもおもしろくない。  ババを引いた人が「いまから、このババはJokerではなくKingの上の皇帝にする」というのは無茶苦茶な話で、いっしょに遊ぶ人はやがていなくなるだろう。ルールというのはみんなが楽しく、気持ちよく遊ぶための決まりで、「何でもあり」では遊びたくなくなる。  なんでもそうだが、楽しくやるためにはルールが必要だ。ルールとはやってはならないことを規制する決まり。できるかぎる完璧なルールを作り、守らないと、ゲームそのものがおもしろくなくなるし、それはゲームともいえなくなる。整然としたきまりは必要なのだ。  じつは、本もこのように整然とした法則のようなもので出来ているものが良い本で、それが文字通り本物。名作は必ずつじつまが合うようになっているし、哲学的なふくみもあって精密な構成だ。粗悪な本は刺激的なだけで、いいかげんな理屈で出来ているものが多い。  なかには八方破れがいいように見える文学もあるが、それはそれでひとつのルールのもとに書かれる。救いのないデタラメのもので書かれたものは読後、実に嫌な感じになる。矛盾があるものはさらに嫌な読後感となる。

アンパンマンの矛盾

 例えば「アンパンマン」は常にバイキンマンと戦う正義の味方で情け深いヒーローである。だが、おおもとの構成が「?」なのだ。物を腐らせるバイキンは菌だから「悪」と思わせたいのだろうが、じつは、アンパンマンもイースト菌という菌からできているではないか。これについて解説も説明もない。これでは仲間同士が戦うようなもので、良いも悪いもないだろう。バイキンマンは悪どころか必要不可欠な存在で腐らないものがあったら逆に気持ちが悪いことになる。  敵と味方をはっきりさせ、わかりやすい正義と悪を設定させることは、あまりにも「子どもだまし」だ。さらに悪いのは敵をつくることでまとまりたいと言う根性である。帝国主義の時代、どの国も敵(あるいは仮想敵)をつくって、国民を憎悪でまとめて軍備を増強し、戦争をした。これはもう手口が汚い。しかも、平気で歴史を修正して、「そんなことはなかった」「あんなこともなかった」とのたまうことで、自分たちは正義という仮面をかぶり始めるということだ。批判させない、論議しない。やなせたかしさんは戦争に行ったが戦争はきらいだったという(「ぼくは戦争は大きらい」(小学館))。その中で「南京事件はなかったと思う」と言っている。これはどう考えるべきなのだろう。子どもはだまされるかもしれないが、大人は見抜く。嘘を言うことはよくないことは歴史が証明している。傲慢になれば、さらにその行為は迷惑そのものとなるだろう。人の道に外れたことを言ったりやったりするのはよくないことだ、悲劇を招く。やはり人間は心を持たないといけない。自分に利益誘導するために心無いことを言ったりやったりするものは、ハートの無いトランプや心の無い心臓と同じで、とても、「すぐれたもの」とはいえない。

心の無い心臓

 心の無い心臓といえば、森友学園問題は急転直下大変な疑獄事件になりつつある。公文書改竄という信じられぬ事件となり、ひとりの官吏の自殺が報じられた。おそらく書き換えた当事者だろう。捜査は忖度なしになるだろうか。巨悪をあぶりだしてもらいたいものだ。一人の命が消えても背後の者は逃げ支度で、憐れんだり、後悔したりする心が無い。欲だけで生きてくるとこういう人になると言う見本である。ろくに字も読めない政治家がミゾウユウ(未曾有)の疑獄事件を生み出したという話デンデン(云々)・・・ここで正義が動かないと、この国は危険極まりない国となる。こういうことをしちゃダメというのは心の無い心臓がつくった「共謀罪」にもあったような気がするが、疑獄は売国でもある。心が無くなると国まで売りかねない。一般人なら平気で友や家族を売ることになるかもしれない。  やはり、為政者でも末端の国民でも心をなくしたらおしまいである。相手のことを考えない世の中は息苦しい。毎日、幼い子が虐殺されるニュースが飛び込んでくる。親を殺す事件も頻繁だ。やはり、「ならぬものはならぬ」で、時代が変わったから、状況が変わったからで、TPOに合わせて新しいことを考えたりやったりしたら、これはもう節操がない、心もないということとになってしまう。とくに為政者は、完全な要素を備えていて、単純な理屈だけではなく意味があることをやらねばならない。自分の欲や誤った考えでいけば必ず破綻して悲劇が起こるからだ。(ニュース3月号一部閲覧)

マイバッグ

 みんな忘れてしまっているかもしれないが「マイバッグ」というものが全国的に話題となったことがある。7年前だ。7年前・・・2011年3月11日東日本大震災。あの酷い状態の中でみんな「節約を!」「節約を!」いうことで、スーパーやコンビニのビニール袋を拒否してマイバッグを使うようになった。おバカタレントが、バラエティ番組で有名ブランドの「マイバック」を見せびらかしたが、いまやそんなことも覚えている人はいない。どこでもまたビニール袋に入れて渡すようになった。   また、あのとき芸能人の一部が名を売るために応援コンサートやイベントを開いた。しかし、もう誰が行って何をしたのかも忘れている。  大震災の映像を見て多くの人が息を呑んだ。しかし、その衝撃や恐怖もいまではみんな忘れている。「いつまでも覚えていたら精神病になりかねない」「怖いから写真やビデオは見ないようにしよう」という風潮も出てきた。それは「忘れたい」ということではないのか。昨日のことも忘れ、嫌なことは忘れ・・・まさに国家的アルツハイマーともいえる状態である。

てんでんこ

 9・11(ツインタワービルに旅客機がぶつかった事件)で衝撃を受けたアメリカ国民に大統領ブッシュが言ってのけた。「心を癒しにディズニーランドへ行こう!」と。私は「何をバカな!」と思ったが、けっきょく、何も学ぶことも反省もなく報復が起きそうなことをその後も繰り返している。懲りない。記憶しようとしないのは、あちらの二つのビルが崩れ落ちたことだけではない。こちらでは原発が壊れて放射能が拡散したことを忘れようとしている。まだ何も終わっていないのに。  しかし、われわれ人間は記録をする動物である。「あったこと」を記録する。必ず記録はしている。記録を残している。それはビデオであったり、書類であったり、写真であったりするが、「あったことをなかったこと」にすると、それは忘れることにつながり、あとで大変なことになるからだ。危険を避けるためである。  では、記録ができないときはどうするか。三陸沿岸では「てんでんこ」という言い伝えの言葉がある。  津波が来たら「それぞれが勝手に逃げろ!」という教訓だ。この教訓には津波が止まった場所まで言い伝えられているから、「そこを忘れるな!」ということだ。「そこの神社で止まった!」「あの山の松の木のところで止まった!」と語り伝えられる。昔は動画はもちろん写真もない。文字記録も読めない人が大半だった。  と、なると、忘れないために言い伝えをしなくてはならない。これを忘れると「大川小の悲劇(忘れてないよね!)」のようなことが起こる。忘れた教師たちは、校庭で長々と小田原評定をして、あげくのはてに低地に向かった。これでは助からない。大地震の後は、とにかく「てんでんこ」で安全な箇所まで逃げなければならないのである。  昔話が怖いのは、それらはすべてみんな「あったこと」で、「これからも起きる」という教訓だからである。脳天気にプチバブルを楽しむのではなく、どこか心に留めておく必要はあるのだ。子どもに伝えることも大事である。三陸沿岸の津波は「三代実録」にも貞観の大地震と津波が記されており、明治、昭和と繰り返して襲われているのである。なぜ1万5000人も亡くなってしまったのか。思うに現代人はリスクを避ける手順を覚えないのだ。津波に限ったことではない。犯罪からも、事件からも、事故からも・・・危険を避けることを考えない脳天気がある。

あの時の写真

 私は3・11のあと見たもので一番、心に残ったのはここに掲げた2枚の写真だ。 一枚は泥だらけの母親が泥まみれの娘を抱いて顔を歪めながら歩いているショット。こんなに科学が発達し、豊かで、みんなが安全に暮らしてきたはずの時代に一瞬でこういう哀しいことが起こることへの驚きが心に走る。  これを他人事で済ませてしまえるのは想像力のなさとなる。想像力とは自分の身に置き換えられるかいなかでもある。このとき、母親は何を思っていたのだろう。「生きていてくれたら。それ以外は何も望まない」か。それとも悲しみに押しつぶされて何も考えずに歩いているのか。  これがたった七年前に二万人もの人の上に起こったのである。それをみんな忘れている。考えてみれば、七十年前にあの戦争は300万人の人の上に、こういう悲しみを築いたが、もうみんな忘れている。  この母親も、この哀しい時間をいつかわすれてしまうのだろうか。ある人が言う。そんなことをいちいち心に刻んでいたら苦悩に押しつぶされてうまく生きていかれないじゃないか・・・。そういうものか。  そういえば動物は、自分の子が死のうと親が死のうと配偶者が死のうと、すぐに忘れて生きている。記憶も記録も持たない。戦争体験者の多くが何も語らず、何事もなかったように生きていくのと同じように・・・。  では、記録しない方がいいのか。いや、人間はなぜ、記録するかというと、それによって追体験をすることで、何か自分の中に、より美しいものを見つけようとしているとも思う。  復興大臣が「東北でよかった」と言った。自分たちは東京にいて悲劇に遭わなかった。だから良かった。生き延びている・・・なるほど動物と同じですぐ忘れるのか。

もう一枚の写真

 もう一枚は、一人の僧侶が瓦礫(がれき)の山と化した津波の跡地で深々と頭を下げている写真である。  これを見たとき私はやはり言葉を失った。そして、いろいろな思いが湧いた。僧侶は、何を思いながら頭を下げているのだろうか。鎮魂か。成仏するように祈っているのか・・・いや「人間とは何と無力なものなのか」「自分もまた何もできない」と嘆いているのではないか。  なにが当たっているかということではない。とにかくいろいろな思念が沸き起こってくる。  また、この姿を見て復興大臣や責任逃ればかり考えている電力会社役員には微塵も感じなかった「人間の崇高さ」も浮かんでくる。いくら宗教者とはいえ、みんながみんなこういうことができるわけではない。  だが、世の中を再び見ると、そんなこともみんな忘れて、株が騰がった下がった、あれが不倫をした、しなかった、銃の乱射があった、なかった・・・・「いま」だけのものにみな目と耳が行くだけだ。  まあ、いい。怖いこと、恐ろしいことを忘れてもいいだろう。それも自由である。でも、私は、この二枚の写真を見たあと、「起きたことを自分の頭の中に入れておく袋=マイバッグを持とう」と思った。(新聞3月号一部閲覧)



(2018年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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