ブッククラブニュース
平成30年2月号(発達年齢ブッククラブ)

泣く子はいねぇか!

 私は本物の「ナマハゲ」を見たことはないのだが、おもしろい映像を見た。ナマハゲに扮した土地のお年寄りが、子どものいる家庭に入ろうとすると断られるもの。「子どもが怖がる」「勝手に家に入られては困る」・・・まさに現代の子育て、現代の家庭を象徴する事態だ。お年寄りは「伝統行事も地に堕ちたものだ」と嘆いていた。
 昔は、玄関に鍵なんか掛けてないから、鬼も三河万歳も托鉢僧もナマハゲも入ってくる。安全と水が豊富だった時代である。もちろん、入ってくるものは皆、家族・家庭の安全を祈願するために入ってきたのだが、世の中が金目の時代になると、入ってくる者が泥棒とか殺人者とか暴走車とか詐欺師・・・いやな時代になったものだ。

怖いものがあるんだよ

 ナマハゲは秋田の風習だが、ナマハゲが子どものところに来るというのは、まずは子どもに「世の中には怖いものがある」ということを教えるものだった。悪いこと、デタラメなこと、不注意なことをすればナマハゲが来て連れて行かれる・・・これは子どもには怖い。
 考えてみれば、グリム童話もペローの昔話も日本のおとぎ話もほとんどが世の中の怖さを教えるためにできたものだと言える。派手な格好をして森の中を歩けばオオカミが来るよ・・・これは怖い。約束を守らないでいると笛吹き男が子どもをみんな連れて行ってしまうよ。欲をかいて大きなツヅラを持って帰ると中から恐ろしいものが・・・物を盗み、人を殺せば地獄の鬼から痛い目を喰らう・・・これも怖い。
 中世のヨーロッパではサンタクロースが袋を担いでくるのは悪いことをする子どもを袋に詰め込んで連れて行ってしまうという話さえあった。これはもっと怖いよね。
 人間は完璧な行動などできるはずもないから大人の経験で子どもが失敗をしないように叱ったり怒ったりすることとなる。叱られずに育った子が、勝手な行動をしたり、対人関係がうまくいかなかったり、注意力欠陥障害になったりするのも、じつは頭の中に怖いものがないからである。人間は怖いもの知らずだとロクなことはないし、周囲に対する気配りも、物事に対する注意力も、またリスクを回避する力(用心深さ)も身につかない。

宗教は怖いものを教えてくれた

 昔、日本では、何もかも信仰の対象で、お天道さま(太陽)から始まって、山や川、森や林が敬うものだった。そして、それは、恵みをもたらしてくれると同時に怖いものでもあったのだ。やがて、時代が下ると怖いものは神仏になり、閻魔様や鬼にもなった。もちろん、これらは神仏でも怖い部分はあり、閻魔、鬼でも優しい部分がある。だが、人は頭の中にこういう怖いものがいると、デタラメなことをしなくなる。でも、その一番最初の怖いものが、やさしい存在でもある親なのだ。お日様、山、川、森、林、神仏、閻魔、鬼が、じつは優しい部分をもっているように親もまたやさしいだけではなく怖い側面もあるということ。
 ところが、近年、「自由に育てる」とか、「言って聞かせばわかる」とかいう風潮が出てきて、また一方で虐待などの悲惨な事件が起こるので親はビビってしまって、なかなか子どもを叱れなくなる。この結果、子どもは注意力がどんどん低下して失敗ばかりする子が多くなったり、クラスで制止も聞かないで飛び回る学級崩壊の象徴のような子が増える。子どもは叱らねば怖い存在がいることがよくわからないうえ、そういうことをしてもいいものだと思ってしまう。

インスタ映えする親子ではなく・・・

 いま、子どものまわりにあるのは見せかけのやさしさだ。貧しさもないから相手を思う気持ちも薄くなる。それでは困る。だから叱らねばならない。
 しかし、ふつう0歳、1歳の子が「食べ物をこぼした」、「言うことを聞かない」と言って叱る親はいないだろう。成長につれて、じょじょに注意を与えていくはずだ。それが3歳を過ぎて限度を越えたことをすれば叱る。言うことを聞かなければ強く叱る。「鬼が来るぞ!」「おてんとうさまが見ているぞ!」。目に見えぬ恐ろしいものが人間の頭の中にないと、人は暴走することもあるからだ。これはリスクを回避する能力も高めるのだが、なかなかね、最近の親は子どもを叱れない。ただね、これは鬼のようなゆめやの考え。「やさしく諭せば子どもはわかってくれるはず」という人は、それなりにやってください。(ニュース2月号一部閲覧)

ええっ!勉強しても台無し?

 「スマホ使用と子ども学力低下の関係性」を調べたものが本となっている。『やってはいけない脳の習慣』(東北大学加齢医学研究所・横田晋務・著)の中で「勉強してもスマホやLINEで学習成果が台無しに」という調査結果を出した。
 10代の子どもでも、63%(3年前の統計)がスマホを所持しているという報告もされているなかでスマホが子どもの脳に与える深刻な影響について検証したものである。
 「東北大学では、仙台市教育委員会で毎年行われている標準学力検査に合わせて、学習意欲や生活習慣に関するアンケートを実施し、全ての仙台市立の小中学校の児童生徒約7万人のデータを9年前から解析したものである。「長時間勉強している子どもの方が成績がよいだろう」と予想して調査したが、結果はそうではなかった。
 「例えば算数・数学の勉強時間が2時間以上でスマホ使用が4時間以上の場合の正答率が55%なのに対し、勉強時間が30分未満でスマホを全く使用しない場合の正答率60%。」・・・ホント?と思うような結果だ。これは家庭で一日2時間以上、勉強している子が、ほとんど勉強していない子より成績が悪いということである。どうもその理由は、スマホに夢中になって勉強がおろそかになったから、という問題だけではないようだ。
 このように学力が低下してしまう原因は何なのか? そこで、脳科学が登場する。考えられることは、「前頭葉の活力低下の可能性だ」というのである。
  前頭葉で解釈するのは、テレビを見たりゲームをしている時は脳の前頭前野という部分(物事を考えたり、自分の行動をコントロールする力に重要な部分)の血流が下がり、働きが低下することはわかっているからだ。
 そのため、スマホを使用した後の30分〜1時間程度は、前頭前野が十分に働かない状態なので、この状態で本や教科書を読んでも理解力がまったく低下してしまう。スマホを長時間使用すれば、テレビやゲームを長時間視聴した後の脳と同じ状態になり、学習の効果が失われてしまうのではないか、という推定である。まあ、考えらえないことはない。両方とも同じようなものだ。

交流型のSNSアプリが!

 また、LINEなどの通信アプリによる影響はさらに大きいと言う。スマホと同じく、勉強時間の長さに関係なく使用時間が増えるほど成績が下がってしまうが、スマホよりも下がり幅が大きいらしい。せっかく一生懸命勉強をしてもLINEを使用すると、その時間分の学力効果が打ち消されてしまうのだ。
 どんなに勉強してもLINEを長時間使用していたら、使用しない子どもよりも成績が下がってしまうというわけ。LINE等は使うことはやめても、一度使ったことがあれば学力は上がらないという調査結果も出ている。
 受験のためにスマホ断ちする、あるいは使用禁止で学力が向上するかという実験ケースでは、もっとはっきり結果が出た。
 見えたのは、「たとえLINEをやめても、それ以前に長時間使っていた子どもたちは、成績が上がっていない」というものである。そして、大学生に行った「一定の条件での連続遂行課題テスト(実験中に、1分ごとにLINEの通知音が鳴る条件と異なるアラーム音が鳴る条件で反応時間の違いを検証)」でも集中力の差がハッキリ現れた。
 「どんなメッセージがきているんだろう」、「どんな話の話題になっているんだろう」、「返信しないと嫌われてしまわないだろうか」、「仲間はずれにされないだろうか」など色々な考えが頭に浮かびやすい人ほど“人間関係不安”とか“社会不安”呼ばれる傾向が強くなり、集中力に与える影響が大きくなるのだ。そして、脳内で何が起こっているかというと、脳の活動が縮小されていく現象が起こるのである。スマホの使用習慣の頻繁さで注意力や集中力の切り替え、衝動的な行動を抑える機能に関わる脳領域が小さくなることもわかってきた。LINEを習慣的に長時間使っていると脳の形が変わってしまい、集中力や注意力の低下につながるらしい。これではいくら時間制限や生活習慣を治しても、改善は無理になるが・・・。みんなやめられないだろうね。一種の依存になるのだから。
 こういうものを考え出す連中は、ひたすら金もうけのために人の劣化など関係なく活動している。LINEがビットコインにまで手を出すのは社会性より金もうけだけを目指していることがわかるだろう。しかし、子どもや若者はそういうことはわからないまま、流行らされるものには乗っていく。(新聞2月号一部閲覧)

言葉と人格

 絵本作家の仁科幸子さんとは、住んでいる場所が近いこともあってよくお話する機会がある。12月号でもブックトーク(左写真のクリスマス絵本のトーク)のことを書いた。そういうイベントに呼んでもらったりするから浅学の私としては、ほんとうに緊張するのだけれど、話していて楽しいし、幻想の世界ばかりではなく、現実の世界や時代の話もできるので、とても勉強になる。視点が違うので、これもまた「ああ、なるほど・・・」と納得したり、反省したりする会話ができる。これはありがたいことだ。
 仁科さんは、なにより、よく本を読んでいる。作家ならあたりまえと思うかもしれないけれど、高名な作家でも自分の分野の本すら読んでいない人が多いことを私は知っている。今月のブログに、1月21日に亡くなったゲド戦記の作者のことを書いていたが、なるほどこういう見方で・作者ル=グィンを見ていたのかという感想だった。その前に「長谷川さんは『ゲド戦記』をどう読まれましたか?」というメールがあって、感想を聞かれたが、私は「第一巻、第二巻あたりと後半の『アースシーの風』じゃ、同じ物語かと思うほど環境問題や思想的閉塞の問題まで広がってきて、年齢からかんがえてすごいな!と思いましたよ。」と通り一遍の話しかできなかった。しかし、ブログではル・グインの顔つきにまで触れた文章があり「彼女の顔には、その瞳には、長年に渡って多くを真剣に考え、戦ってきたものがある」と「なるほど!」と思える文章が綴られていた。
 やはり、われわれの多くはボーッと生きていて、「サッカーの、いや野球のあのチームが勝った、負けた」、「あの俳優がスキャンダルを起こした、賞を取った」など些末な情報で会話をしている。もう一歩進んで、深い部分を話題にすることが少ない。やはり、日常会話が広がりと深さがあると人格も高まるだろうし、なにより話をしていておもしろいのだが、そういう独創性の高いレベルの会話はなかなか一般人は無理なようである。
 例えばこんな話を仁科さんは語る。

直感で話を紡ぐ

 女優の原節子さんが亡くなった。この女優さんのことを、横尾忠則さんも描いていて、横尾さんにとって原さんという女優は特別な存在だったと知った。この時代の女性の言葉使いは、おちゃらけていても品があり、「言葉」の力を感じることが出来る。
 ネットに飛び交う言葉など、本当に言葉に宿る言霊など、どこかに吹き飛んでいるのではないか?という時代に入ったと思っていたら、面白い話を読んだ。
 「中世に生きる人々」という本の中に登場する悪魔ティティヴィルスの話だ。彼は、首から長い袋を下げて、言葉をいいかげんに使う人の側に行っては、その屑のような言葉を集めて、その袋に入れるのが仕事なのだという。
 中世以降、ティティヴィルスは西ヨーロッパの修道院でとても忙しくなったのだという。人々が手を使わず働かなくなり、頭を使うこともなくなって、何事も「ぺらぺらと早口にいう罪」ばかり盛んになったからだという。ある時、修道院長が、悪魔に「おまえは驚くほど勤勉だが、いったい何をしているんだい?」と尋ねたのだという。
 すると悪魔は、「あなたがたの修道院の日々の失敗、怠惰、言葉のきれはし、損なわれた言葉などを、千袋づつ、主人である悪魔の父に持っていくことが私の仕事です」と、答えたのだと言う。
 「言葉を邪悪に堕落させるものは何ものか?」と聴くと、「ぶらぶらする者、喘ぐもの、飛び跳ねる者、駆け出す者、だらだら歩く者、もぐもぐいう者、さきを急ぐ者らです。そうした者らの言葉を私は集めます。噂話にふける連中のつまらぬおしゃべり、自分の栄光のためにしか歌わない虚栄心のつよいテナー歌手の甲高い声も」
 「言葉」で養われる心、人のことは言えないが、この話はまるっきり現代に通用する話だと思った。

話題を深める

 女優・原節子(知らない人のほうが多くなった時代だが)の死去のニュースから言葉と心の問題まで、仁科さんは短い文で多様に展開できるというのがすごいと思った。しかも「悪魔ティティヴィルス」のエピソードが入るというのも生半可のものではない。
 私など「ネットに飛び交う言葉が品がない」となったら、その例を山ほど挙げて、説明に100ページほど割くが、仁科さんはサラリと話を「悪魔ティティヴィルス」に変える。すると、この本を読んでみたくなるし、その詳細を知りたくなる。さらに、この皮肉とエスプリが効いたエピソードは言い得て妙だし、アナトール・フランスの小話まで連想させる。集めた言葉を袋に入れる話など、いくらでも最近話題の人々を思い起こさせてくれるじゃないか。「ああ、これはあいつだな。」「うん、そっちはこいつだな。」と。
 * * * * * * * *
 さて、節子さんの話しぶりに戻るが・・・。こういう語り口とか感想は、聞く、あるいは読む私たちにいろんなことを考えさせる。みなさんは若いから原節子の映画を観たこともないだろうが、映画の中の彼女の口調はじつに品のある言葉の連続だ。いま、このような話し方ができる女優はいないし(東京あたりではこの話し方をする人も当時はけっこういた)、これからも出ないだろう。
 テレビのバラエティ番組では粗雑で汚い言葉が次々と放たれる。話題など深まろうにも深まらない。そんな言葉を聞いて育つ子どもは、やがて同じような品のない人間になってしまう。悪魔の袋に自分の出した言葉をつめこまれないようにがんばりたいと思います。(2月号一部閲覧)



(2018年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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