ブッククラブニュース
平成29年10月号(発達年齢ブッククラブ)

世界の終わり

 チャラけた音楽グループ「Sekai No Owari」の話ではない。文字通り「世界の終わり」について考えてみた。そりゃなんてたって最近、地震とか台風とか噴火とか大きいものが多いのでみんな内心は不安に思っている。
 いまインドネシアのジャワ島で大噴火が懸念されている。これがアップされるころに噴火が起こるかも。さらに以前にはチリの地震、もちろん、東日本大震災・・・中国でも地震が多い。つまり、環太平洋では活発な地殻変動が起きているということ。西ノ島だって巨大化した。なんだか不気味なんですよね。また5大陸がバラバラになる大陸移動が始まったのかなぁ。
 つい最近もメキシコで地震、それも二回目が大きかった。メキシコの古代文明マヤの伝説は太陽神と滅亡神話だからメキシコ人には「世界の終わり」感が昔からある。九月の初めの太陽フレアとむすびつけて「怖かっただろうなぁ」と思ってしまう。
 メキシコ人には、日本人のように原発が爆発してもまだ動かそうという神風思想なんてないから、地震は紙の怒りで、まだ不安に思っているんじゃないかな、と思う。
 日本の神道には「世界の終わり」を記すものはないけれど、世界の高等な宗教には、昔から、この世の終わりを予言する言葉や書が多い。アズテカ暦からノストラダムスの大予言まで・・・まあいろいろ生まれては消え、消えては現れる。こういう話が流行っている時はドキドキハラハラだが、多くは予定日を過ぎても予言通りにならない。

当たるも八卦、当たらぬも・・・

 まあねぇ。天気予報だって当たらないことが多いのだから、人類滅亡なんて大きな問題は予言できないのだろう。逆に予言など無しで起こるかもしれない。そんなことに頭を悩ましているよりは足元の身近な問題を解決した方がずっといいと思う。でも、周りのことは他人事で、自分に降りかかってくる災難とはなかなか考えないのも私たちの悪いところである。たしかに、災難ばかり考えていたら道もロクに歩けない。電車にも車にも乗れない。「世界の終末」におびえるより、子どもたちと週末の楽しい日々を迎えるほうがずっと心や体の健康のためにもいいことはわかりきっている。
 でも、いろんな本を読んでいると、やはり「終わり」は気になる。

終末論は高等宗教だけが持つ?

 日本の神道は「終末論」を持っていない。前述のように世界の高等な宗教や哲学は終末論とかペシミズムをともなうが、日本の神道は、お願いして終わり。いろいろな高等宗教に比べれば戒律もなければ終末論ももたない、いわば「おまじない」のようなものなのかもしれない。
「大祓の祝詞(岩波・日本古典文学大系1・古事記 祝詞参照)」なんか読むと、「罪とか穢れとか都合の悪いものは、みんな水に流して清めてしまえば鎮まる」という祓いの考え方だ。禊(みそぎ)なんていうのも同じで、よく政治家が使う。失敗や過ちは禊をすれば問題ない、という考え方。日本語の常套句で「水に流すというのも、ほとんど諍いとか問題を忘れてしまおうというものだ。だから問題の解決過ちの指摘はない。そういえば最近、何を言っても「問題ない!」「その指摘は当たらない」と答える政治家が出てきましたね。あれは神道の極意を語っているのかもしれない。まあ、政治的な罪や人道的な禍から汚物や放射能まで水に流すことが平気なのだから、しっかり日本人の体質にしみわたっている「おまじない」なのだろう。そうこうしているうちに核爆弾搭載のミサイルが飛び交って最終戦争ということも起こるかもしれないが、噴火による氷河期、地震による列島沈没など世界の終わりはなんとも恐怖を誘うものがある。聖書にも世界の終わりらしきものがあり、それはギリシアのアルマゲドンから来ているらしいので、昔から、そういうことは予想されていたわけだ。これはマヤの暦らしきもの(左・写真)だが、大嵐、洪水、火などが示されている。いつ、どこでどんな終末が訪れるかというカレンダーである。コワイね。どうも・・・・。

ヘシオドス「労働と日々」

 ところが「意外とおもしろい終り」が書いてある本を発見した。いまから2700年前にヘシオドスという有名な歴史家がいた。「労働と日々」という本を書いたことくらい世界史で勉強した人がいるかもしれない。でも、日本の受験勉強はそこまで。ヘシオドス→労働と日々、夏目漱石→坊ちゃん、ゲーテ→若きヴェルテルの悩み・・・・・とイコールになれば◎で、「著作は読まないでよろしい!」というのが学校の勉強だ。学校は読書をさせたくないみたいです。だから我々の頭では「労働と日々なんだから古代の働き方とその毎日が書いてあるのだろう」くらいしか考えられない。
 ところが、ヘシオドスが記した「終末の日」は、ちょっと意外なものだった。たいていの「世界の終わり」は大陸が割れ、巨大な噴火が起こり、大地震と津波、あるいは爆発で滅亡するという絵が浮かぶが、ヘシオドスの終末の日はこうだ。
父は子と、子は父と心が通わず、客は主人と、友は友と折り合わず、兄弟同士も昔のように親密な仲にはならない。」「親が年をとれば、子は親を冷遇し、罵詈雑言(ばりぞうごん)を放って、そしるようになる。」「年老いた両親に、育ててくれた恩義に報いることもしない。」「そして強い者こそが正しいと考える輩(やから)によって、互いの国を侵しあう日が来るだろう。」「力が正義となり、『恥』という美徳は失われる。……」「そうなれば人間には、悲惨な苦悩のみが残り、災難を防ぐ術もなくなるだろう」・・・火山噴火も大地震も氷河期も最終戦争も何も描かれていない。みんな人間関係の話である。 

こんなことが世界の終わり?

 何と、これが『世界の終わり』なのだ。火山も津波も爆発も地震も出てこない。なーんだ、人間の問題じゃん。それじゃ終末なんて来っこない。
 親子、友人、老人を殺したり、だましたりが周囲にありますか?
 力を正義とする人間なんて、そんなバカいますか?
 欲をかいて恥ずかしいことをする人は刑務所に行ってますよ。
 人類は知性と法律で秩序を保ち、相手に残酷なことをしないように歴史を学んできましたよね。反知性のバカが人の上に立つことはないですし、自分のまわりに便宜を図り、人が納めた血税をそのために搾り取るなんて人は現代ではいません。法律に違反するからです。さらに殺し合いなんて、けっきょく悲しみだけが残るので、いくら武器を売って儲けようとしても過去の経験を鑑みて、みなやめています。だから人類の社会に「終末の日は来ない」と断言できますよね。安心、安心、一安心だ。
 しかし、本は読んでみるものですね。タイトルと内容がこんなにもちがうとは思いませんでした。「労働と日々」・・・そりゃ人間、労働を重ねないと毎日を生きられませんが、悪事も労働なんでしょうか。内容と題名が違う!きっとそういう本はたくさんあるのでしょうね。そういうことがわかるのを「目から鱗が落ちる」と言いますが、私なんか何百枚も鱗があるのでいくら落としても先が見えません。でも鱗が落ちると目先が明るくなります。安心、安心、一安心。そして、こういう本を読んでいくための最初の一歩、それが子どもたちにとっては読み聞かせなんです。目から鱗を落とすためには本を読む。学校のお勉強では逆に鱗が重なってしまいますよ。(ニュース十月号一部閲覧)

変ではないおじさん、おばさん

 ゆめやは商売上かなりおもしろい人たちが出入りする。これらの人々は、私の子どどもたちにとっては血のつながらない「おじさん」「おばさん」になるわけだが、子どもにも親の私にとっても、楽しく愉快な人たちだった。いまも店の手作りおもちゃや折り紙指導の「おばさん」が頻繁に訪れて、来店のお子さんにも孫たちにも楽しいものをつくってくれている。
 この忙しい時代に、子どもに真剣に接してくれる人はなかなかいるものではない。みんなお子さんがいない方々で、だからこそ子どもが好きなのだ。そして親とは違う接し方もできる。もっとも子どもがいない人全部がそうではなく、自分のことしか考えない「ウソツキおじさん」「身勝手おばさん」もいるが・・・こういう人たちは子どものことなど考えない。と、いうよりは「今がよければいい!」という刹那主義的に生きている人たちである。いま儲かればどうでもよい。いまが楽しめればどうでもよい。銭・金・物が第一・・・そういう人のトモダチなんてお金がなくなればすぐに去っていくし、刹那主義には身を亡ぼす前に世も滅ぼす可能性もあるから、やはり未来は考える必要がある。
 だからこそ、子ども好きな「おじさん」「おばさん」は子どもという未来にとって貴重な存在なのである。

飽食の蟻

 エピソードをひとつ。そんな『おじさん』の一人がフラリとやってきて、こちらが仕事なので、おじさんは子どもの相手をしてくれていた。見ていると集めた蟻を子どもたちとガラスビンに入れている。
「なにをしているの?」と私。「蟻を飼うんだよね〜」と下の子。「『実験』なんだよね〜。」と得意気な上の子。 「ただ飼うんじゃないよね。」いかにも秘密気におじさんとニヤニヤする。「小さいビンだと、餌を入れておかないとすぐ死んでしまうよ」と私はいらぬお節介だ。
 すると「おじさん」は真剣なまなざしで私に説明を始めた。
「土の代わりに全部、砂糖を入れましてね。どういう行動をするか見てみようというわけですよ。周りが全部餌であるということは、運搬も貯蔵も必要がない。わずかに塩も混ぜてあるので塩と砂糖を分ける仕事を考えるかもしれませんがね。」
 オイオイ、ウチの砂糖で「飽食の蟻」を飼うつもりかよ。
「つまり、生きるのに基本的な条件をみんな満たしてやるわけてす。そうするとどんなふうになるかということです。」と、おじさんはまじめに続けた。
「じゃあ、お菓子の家に住んでいるヘンゼルとグレーテルようなものだね。」
 こうなると、苦笑をこらえてつきあわなければならなくなる。
 やがて、蟻のビンを前に、ヘンゼルとグレーテルが魔女(ほんとうは過保護の母親)を殺して一人前の大人になる話から「『蟻とキリギリス』ではキリギリスのほうが偉いんじゃないか」といったような話に発展しはじめた。
 そういう大人の難しい話には、子どもたちは口をはさめないが聞いてはいた。私は、つまらぬ理科の実験より、ずっとこういう遊びのほうがいいと思った。

考える練習をしよう

 だが、このおじさんは問題も投げかける。
Q「苦労なく食物が手に入るところは?」
A「冷蔵庫!」
Q「場所だよ、どこかの国とか・・・?」
A「南の暑い国!バナナとかパイナップルとかお魚とか。」
Q「そこに生まれたらどうする?」
A「なにもしないで遊んでばかりいるよ。」
Q「何もしないとおもしろくないよね?」
A「う〜ん。じゃ、したいことをする。」
 昔は、けっこう周辺に、こういう変なおじさんやおばさんがいて、親ができない子どもの成長の手助けしてくれたものだった。好奇心を引き出すので子どもは引き込まれるものだ。
 やがて大きくなると「変な大人だったなぁ!」と思うが、「けっこういろいろ役に立つことを教えてくれた」と思うようにもなる。

実験の結果は

 戦争の恐ろしさや環境破壊の怖さ、差別意識の根絶を教えるのも重要なことだとは思う。しかし、子どもは身近でない問題には考えが広がらないし、そんなことを小さいうちに教え込んでも足先の石につまづくことさえ起こるのではないか。
 マニュアルにあるような子育てや教育が疑問も持たずに行われている時代だが、ほんとうに必要なのは、お手本の大人の生活が人間的であるかどうかだと思う。人間的であれば、それは戦争や環境破壊や差別を否定する考え方が自然に伝わる。飽食の生活をし、平気で無駄な消費している大人たちのなんと多いことか。子どもをそんな欲ばかりかく人間にはしたくないと思うのは私ばかりではないだろう。
 さて、くだんの実験結果がどうなったかというと・・・・わずかな餌を入れた土の入っているビンの蟻は穴を掘り始めて巣をつくっていたが、砂糖のつまったビンの蟻は逃げ出すことばかりして、ついに三日後に全部死んでしまった。(新聞十月号一部閲覧)



(2017年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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