ブッククラブニュース
平成29年9月号新聞一部閲覧 追加分

子どもの発達と絵本

④ 2歳児と絵本

 2歳という年齢は不思議な年齢で、いきなりなんでもわかるようになります。言葉の早い子は大人と自由に会話ができるようになるし、遅い子でも十分多くのことがわかってくるということです。一年前のことを考えてみましょう。注意力が散漫で、全体的にボヤーっとしてたり、逆に次から次へと落ち着きのない動きをしていたのが嘘のようです。たった一年で、ものすごい成長をしているということとなるのですが、意外に親は当たり前の成長のように思っています。
 まず、ほとんど問題なく言葉が通じる、つまり「意志の疎通」が言葉で可能になるのですからすごいことですね。語彙が少なくてもちゃんと通じます。
 また、本人は何でもできると思っているかのようで、実際、なんでもしようとします。できると(あるいはできないことでも)「見て!見て!」攻撃が始まります。何かすると「お母さん、これ見て!」です。積み木を積んでも、道具を並べても、何をしても自分を売り込むかのように自分のしたことを自慢気に「見て!見て!」が始まります。また男女の差が微妙にありますが、「これなに?」「なんでこうなの?」「どうして?」攻撃も2歳半ばから始まる子が出てきます。ハッキリ言えば大人にとってはうるさいことですが、2歳児はとにかく文句なくかわいいので、よほど限界を超えたことをしない限り叱ることなどできません。ことごとく大人(親)としては対応してあげることになります。

ものすごい速さで成長する

 むずかしい言葉で言えば「大脳の旧皮質が完成まじか」ですから、人と人のつながりをつくる基本のようなものがここで出来上がるといえる時期だと思います。もっとも重要な時期なので、きちんと相手をしてやらねばならないと思います。
 では、絵本はどういうふうに与えればいいかというと、これがまたかなりむずかしいのです。なぜなら発達が速すぎて、どういう状態かがなかなか大人にはわからない。1歳のときとちがって「自分」というものができつつあるので、じょじょに好き嫌いも出てきます。しかし、なるべく好き嫌いを抑えないと3歳の物語絵本につながらないこともあります。
 一方では、しゃべらない子もいますが、聴力に支障がないかぎり、読み聞かせた言葉や日常の言葉がどんどん頭に入っているので、言葉に関してはまったく心配することはありません。しゃべり始めのときに信じられないくらい絵本の中の言葉を、また日常生活から得た言葉を、場に応じて信じられないほどうまく使うようになります。
 どんな絵本か? まず日常生活に関連するもの、食べ物関連、人間(もちろん動物も含めた)関係のもの、あとは乗り物などですかね。人間はどういうわけか食べ物には関心が強いものです。

関心のある分野の絵本から

 大人のブログやインスタグラムを見ても食べ物のこと、乗り物のこと、人との関係がほとんどです。2歳児もこういうもには関心がでますので、やはり関連したものが出てくる本がのぞましいです。
 また、想像力が高まるため、2歳児は見えないものが見えるという特異な力を持つ年齢であります。暗闇を怖がるのは、大人は「何も見えなくて危険だから怖い」のですが、2歳児は「物が見えてしまうから怖い」のです。これを生かした本も何冊か配本では組み込んであります。とくに2歳後半では生活関連と想像力の増加に対応する配本が組まれます。
 こういうものが短い時間で発達する脳にうまく対応させることができかできないか?
 それが頭の基本をつくる分岐点になりますので、ここで下地をつくれば3歳代の物語はじゅうぶん楽しめる状態になるでしょう。。スマホで読み聞かせをしたり、オタクになるような図鑑を与えていたら、そこで柔らかい頭も固くなりますからね。
 また、この時期には性差がはっきりしてくるので、それを考慮した選書もしなくてはならないと思っています。代表的な配本は「しゅっぱつしんこう」「おでかけのまえに」(いずれも女子用ですが、前者は男子でも)ですが、生活の中での親子・周囲を感じさせることのできる本も準備しています。また就寝儀式(おやすみなさいの本)でも「おやすみなさいおつきさま(女子・男子用の続編もあります)」のように性差を考慮したすぐれた本もあるので与えてみたいですね。基本配本では、すべてを月齢に合わせて、あるいは性差に合わせて組み込んであります。それに沿って読み聞かせをしていただけば、じゅうぶんだといえるでしょう。とにかく2歳〜3歳は育ててみればわかりますが、あらゆる能力が急速に高まっていく時期です。危ない本はあぶない(笑)。
 とにかく、2歳の本は3歳代の本格的物語絵本へ入る前の重要な時期なんです。ここでの選書は先行きの絵本の選択や読書への重要な基礎になるので、選書・読み聞かせ方法などには注意したいところですので、それはまたくわしく次回で説明したいと思います。ニュース増ページ一部閲覧)

生活って? ③ その場かぎりで・・・

 さて、今年のおはなし会の二度目、三度目は心理カウンセラーの川邊修作先生をお呼びしてのワークショップとそのまとめだった。
 私はその2回を聞く立場とコメントする立場の両方を請け負ったが、いくつかおどろいたことがある。ワークショップでは、参加者をいくつかのグループに分けて、それぞれの代表が生活上、あるいは子育て上、困っていること、悩んでいることなどを「披露」する方法が取られる。まあ、世の中には数えきれないほどの悩み、心配がある。グループ代表の方々がそれを話すのだが、そこでビックリしたのは、「皆さんの場に慣れた口調だったこと」だ。ソツがない、うまくまとめてしゃべる・・・まるで企業のプレゼンのように感じた。ここでは、いちいちその内容を挙げないが、上手に自分の見解をしゃべることができるのは、会社内、または園や学校の父母会やPTAで、あるいはそれ以前の学校時代に公の場で話す話し方を訓練された成果が出ていると感じた。じつに上手な発表だと思った。私のような言い回しが下手な人間はとても整然とは語れず、すぐ感情が出てしまってトンデモナイことを口走ったりするのだが、発表者にはそういうことがまったくなかった。じつに訓練されているというか、テクニックを学習しているというか、びっくりの滑らかさだった。

質問してみた結果

 だが、意地の悪い私は、その次の回のまとめのときにこう発言してみた。  「前回、悩みや心配事を発表された方々にお聞きしたいのですが、それと同じことがもう一度言えて、さらにそれについてどう考えたか、解決に向かおうとしたか、が言えるでしょうか。」・・・もちろん、言っただけで終わったが、私自身も含めて、いつまでも心の中で悩みや心配事が継続していることはふつうはない。そんな状態になったら鬱病とか神経衰弱になってしまうだろう。たいていは悩みは持ちながらも、心配もしながらも日常の生活をしているものだ。そして、悩みや心配事を話すことで心を開放する。  悩みや心配についていろいろな角度から考え、打開に向けて努力しつづけるなどほとんどの人はしないし、まず99%の人は深く考えることもない。
 例えば、「子どもの能力が劣っている」とか、「成績が悪い」とか、「ダンナがまったく子育てにかかわってくれない」とか、そんじょそこらの悩みや心配はあるのだが、ほんとうに困って何とかしようということはないのがふつうである。
 こういう悩みや心配事は「その場かぎり」のグチのようなものと言ってもいいだろう。だから発表して一か月後に「解決への努力をこのようにした!」などということは一切ないのである。あるいは忘れているということもありうる。

なるほど自分で解決するのか!

 そこで川邊先生にお尋ねすると、「まず、問題を自分の口から出すことで自分なりの解決の考えを引き出すことが狙い」というお話だった。たしかに口に出さなければ、心の中でモヤモヤしたものになるし、他人がいるところで問題を出せば共感や助力も得られる。
 そういう中で自力で解決に持って行くのはとてもいいことだ。自分の中で爆発しないようにする一種のガス抜きである。
 私など、悩みや心配事があるとなるべく短時間で全力を挙げてぶつかり、いつまでも問題が長続きしないように試みる。おかげで胃が痛くなったり、髪の毛が薄くなったり、いろいろ大変だが、そういうことを経験すると、危機や問題はなるべく避けて通れるようになる。
 「ぶつからないようすること」に全力を挙げる。できるかぎり長く尾を引く悩みは持たないようにし、心配事も「その場かぎり」とする。性格でできない人もいるかもしれないが、たいていは時間が解決する。(ニュース増ページ九月号一部閲覧)

④ 心と言葉
視覚媒体は想像力を高めるか・・・

 一方、ビジュアルなもの‥・例えばテレビや漫画、映画やゲームのようなものは、想像力を駆使しようとする前に感覚的な刺激が優先される。 観る、聞く、操作するときにまず反射的な感情が必要だから、目と耳と触覚で反応する。
 映画「タイタニック」を観ながら無常観や運命論や人生を考える人は少ないだろう。船が沈むシーンや人々のパニック、あるいは楽士が奏でる音楽にまず感覚が動き、文字通り感動するのである。
 「指輪物語」でも「チャーリーとチョコレート工場」でもわれわれは刺激的な場面に感覚を揺り動かされ、テーマや先行きを想像する力はなかなか発揮できない。映像の世界では、これでもかこれでもかと刺激が襲ってくるわけで、刺激に慢性となり、刺激を避ける防衛力も身につかない。 TVゲームなどは、その最たるもので、もはや思考や想像の前に指が反射的に動くだけ、ということになる。こういうもので成長してしまうと困ったことになる。 それは刺激を求めてだけ行動する「依存」が起きるからである。
 動物は感覚で自己防衛するが、この感覚さえ麻峰させられた動物以下の動物である人間は想像力なしで、何に対処できるというのだろう。

わかりやすいから理解できる?

 たまには映画もいいし、ゲームもいいだろうが、それに日常的に漬けられて育ったばあいは、人間として欠けるものが出てくるのは明らかである。じつは、いずれサブカルチャーの項目で述べるが、すでにサブカルチャーによる汚染は日本の老人世代にまで影響を及ぼしているのである。例えば、オウム真理教事件というのがあったが、あれは宗教に依存することで頭がやられ、子どもじみた秘密基地ごっこを真剣に行い、テロ事件を起こした。その修行のなかに映像と音声による洗脳作用があり、それで頭をやられてしまったのである。かれらは漫画世代である。中心世代はなんと、50歳代半ば・・・もちろん上層部は60歳代でもある。ろくにきちんとした想像力を要求される本を読んでいない(理工系が多かった)ので洗脳もたやすかったのである。ここでは言葉はただのメッセージにしかならず、心は何も感じ取れない結果を生んだ。学校は電子黒板で動画などを見せ「理解を速める」と言う。教科書ですらアニメや画像を多くして、それで理解が早まると思っている。では、昔に比べて子どもは物事がよくわかる大人に育っただろうか。しかし、そんなことは無視しながら、時代はどんどん映像で(わかりやすさを武器にしながら)人間の心と言葉を劣化させている。こんな気がしているのは私だけなのだろうか。(つづく)

私の好きな一冊
⑤ かぞえてみよう 安野光雅

 「最近の若者は・・・」などと言うと、もうそれだけで老人であることを証明しているようなものだが、若者は何も知らないのではなく、世の中のグローバル化に乗っかろうとしているということを、まずは知らねばならない。かんたんにいえば日本語よりも英語にシフトする頭になっているのではないかということだ。たとえば物を勘定する言葉は、日本語では多様である。木は一本(ぽん)、車は一台(だい)、ウサギや鳥は一羽(わ)、タンスや羊羹は一棹(さお)・・・お茶は一杯、飲む回数は一服、Cup & Saucerで一客・・・無数に数え方がある。「こんなの覚えられないよう!」「だいたい不合理じゃん。」「みんな一個、二個でいいじゃん!」・・・そういう考え方は正しい。英語は細かい多様性にはこだわらない。ワン・ツー・スリーだ。とにかく相手に伝わればいいわけで、数え方より数が重要。みんな一個、二個でいいわけだから楽である。
 そう言うと「それでは、すぐれた日本文学の中には数え方があるのだからわからないと困るではないか!」という老人が出てくる。しかし、心配することはない。そういうグローバルなものを目指す若者はだいたい日本文学など読まない。「この数え方を知らないと困るよ。」と言ったところで、「知る気もないのですが、それが何か?」と言われるのがオチだろう。
 若者に文句を言う前に、老人は老人で日本語(数え方も)がわかっている必要がある。この安野先生の数の本。数学者の森先生とコラボしてつくったものだ。その意味でも出来がすばらしい。最初のゼロでは雪景色で何もない世界・・・そして1日、1時・・・などひとつだけのページ・・・最後は12で終わる・・・そこにたくさんのしかけがあって楽しめる。数え方まで隠されている。絵を見ているだけで引き込まれるが、動いていく季節や時間までもが描かれる。大人になっても楽しめる絵本はほんとうにすぐれた本だと思う。出てくるものを数えてみよう!なのだ。

サブカルを再び考える

 「シンゴジラ」という映画を観た人がいると思う。一見、昔ながらのゴジラ映画のシリーズで「CGが進歩したな!」くらいにしか思わなかったかもしれないが、意外に脚本も進化していた。このゴジラはいままでのゴジラと違って不気味なほど圧倒的な力を持っている。つまり、手の施しようがない怪物になっている。とても日本の防衛力では太刀打ちができず、自衛隊は米国の軍事力の傘下に入って攻撃するが、それでもどうにもならない。何とか日本のアイディアでゴジラを凍結させることに成功して話は終わるが・・・放射能を食べて強大な力を持ったゴジラは、あきらかに爆発した原子炉を思い起こさせる設定でもあった。
 しかし、さらに想像をたくましくすると、これは政治や経済、あるいは文化の世界で出現する「圧倒的な」悪の力でもあるような気がする。この巨大化を止める手立てはなく、ある意味で人間は「ゴジラ(放射能、劣化政治、市場原理、サブカルチャーに比喩される存在)と共存しなければならない」ことが描かれているというわけだ。とどのつまり「とても勝てない」「コントロールなどできない」ということ。実際、映画の中でもそれを表すセリフが使われている。
 もちろん、その巨大な「悪」を嫌う力も動き始めてはいる。しかし、蹂躙されつくすまで人は無力な存在でもある。ゴジラはもともと人間がつくりだした怪物である。人間がつくりだしたものなのに人間がどうにもならない存在となった。

ダークになるネット世界

 例えば、ネット(怪物の一種)はここ数年でかなりダークな部分を見せ始めた。しかも、信じられない速度で進化し、増殖している。それに対して識者が左の記事ように警告して「うまくつきあうこと」を教えるが、すぐにネットはそれを乗り越えてゴジラのように「圧倒的な力」を発揮する。下の新聞記事のように子ども用のスマホを増やそうという力・・・その後ろには飽和状態になった半導体市場を拡大しようという動きがあるのだが、当然、そこでは何でもあり、もたらされる被害は自己責任という逃れが広がっていく。その背後にはダークなネット世界が口を開け始めている。子どもは大人より習熟が速いから、それを通して闇のサイトへも入っていく。中学生でウイルスを作る能力さえあるのだ。友人間での情報交換速度も速くなっているし、複雑な操作環境もどんどんクリアされる。するとダークな影が忍び寄ってくる。こういう力に、親も子どもも個人としてはもう勝てない。ここ数年で子どもたちの読書力は急激に落ちたことは多くの人が指摘している。子どもたちだけではない。大人も長い文章など読めなくなっている。「ネットやゲームやニュース情報だけにかかわると依存になるよ!」と言ったところで誰も聞く耳など持たない。

スマホが支配する心の闇

 そうなると、現実に迫ってくる危険もバーチャルなものとなり実感が乏しくなる。なぜならネットの世界もそれで動いている世界もゴジラ並みに巨大で中がわからないほど複雑だから、これはもう見ている方も何が何だかわからないまま「直面する」よりないのである。
 これはスマホで代表されるネット関連だけではなく、すべての分野、食品でも教育でも、とにかく訳がわからぬほど複雑になり、それでも付き合わねばならず、ますます、すべてがゴジラ化していく。
 映画は従来のゴジラシリーズのように国や自衛隊がゴジラと果敢に戦うが、そこには憲法の問題をはじめ、独立国と機能しない日本と援軍アメリカとの関係なども描かれる。
 で、ゴジラに勝つことができるかというとそうではない。ゴジラはまるで凍土壁で囲まれたフクシマ原発のように凍ったままで残る。解け始めたらまた動き出すかもしれない。
 この映画が示してくれる「生き残るための大きなヒント」は「逃げること」、「避難すること」だけ。上の記事の識者が言うような「危険性を理解」して親や学校が防げるのなら何の苦労もいらない。私もここ30年防ぐことを言い続けてきたが、もはやゴジラ化したサブカルに対しては手の打ちようがないと思っている。食品や原発や市場原理やグローバル化などは我々自身が選んだ結果だからだ。逃げるか避難するか、どちらも同じことだが、はてさてどうするか・・・これが現在、親や子に、そして家庭に突き付けられている現実だと思う。
 しかし、考えても見よう。若者の多くはほとんど何の関心も示さず、多くの大衆はお笑い芸人が仕切るおバカ番組ばかり見て物を考えず、いいようにごまかされている。いま現在儲かれば何でもするという企業社会というゴジラにどう立ち向かうか・・・それを誰も考えようとはしていない。(つづく)

本とともに過ごしてきて  山梨県 古屋あゆみさん

 ゆめやさんとのお付き合いは、かれこれ、およそ25年になるでしょうか。学生の頃、甲府の中心街で偶然前を通りかかり「いつか入ってみたい!」と気になっていたお店。いつの間にかなくなってしまい残念に思っていたところ、就職後、先輩から「いい本を教えてくれるから行ってごらん」と紹介されたのが、屋形に移転したゆめやさんでした。
 初めのころは仕事の関係で幼児向けの配本をお願いしていました。当時は独身で、時間に余裕があった分、ゆめやさんご夫妻に色々なお話を伺いながら、ゆったりと心地よいひとときを過ごせたことが今でもいい思い出です。
 その後、「自分の子どものために…」と、新たに配本をお願いして、二人の子がお世話になってきました。上の子(娘)は中3になり、下の息子は小6になりました。
 ふだん仕事をしている分、「親子での絵本の時間だけは何よりも大事にしたい」、「身体の温もりを通してわが子と絵本でつながる心地よさをともに感じたい」と、子どもを自分のひざにのせ、親子で一緒に絵本の世界を味わってきました。二人目が生まれると、両ひざに二人分の重みを感じつつ、時には、どちらがページをめくるのかの争いを交えながら絵本を楽しんだのも、今となっては至福の時間でした。家事で手が離せずふと気づくと、上の娘が弟を自分のひざに抱えて絵本を読み聞かせていた姿に、ほほえましさを感じたことも度々ありました。
 いつの間にか私のひざには入りきれなくなった子ども達は、自分でページをめくり、本の世界に入っていく愉しさを感じられるようになっていきました。今は、二人も反抗期にさしかかり、子育ても難しくなってきましたが、幼いころから親子での心地よい時間を与えてくれたこと、子ども自身が豊かな世界を手にする喜びを感じられたことは、これまで出会った数々の絵本とゆめやさんのおかげだと、感謝しています。
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 ゆめやから・・・ほんとうに長いお付き合いになっています。ゆめやの創業場所・商工会議所の横道の店をご存知の方は、もうほとんどいません。長い時間が経ちました。こんな時代にここまでやって来られたのは、古屋さんのような県内外の多くの会員に長い間支えられてのことで、ほんとうにありがたく思っています。(ニュース増ページ九月号一部閲覧)

なぜ本を読まねばならないか

第三回・なぜ、こういう状態に・・・!?

 一回目のお話し会では、日本人の多くは教科書で常識をつくり、別の視点からの思考をしないので、目標は答えを覚えることだけで、論理的に考えたり、本質的なことを考えたりすることができない状態にあることを指摘しました。第二回目では、それがサブカルチャーという形で社会的な結果として現れ、非論理的でわけのわからない犯罪、事件、政治現象が起こる状態となってしまったことを述べました。
 戦前に比べて現在は教育の水準はひじょうに上がったと言われていますが、逆に、戦後70年の間でかなり思考力が落ちたとも言われています。この150年間でもかなり思考力(自分で考える力)が落ちているという分析もあります。現代では、大学卒の数はハンパではないのですが、じつは一つの言葉の具体的な意味もよく理解できていない大人が多いことは社会的な事実となっています。けっしてIT化の影響ばかりではないです。
 昭和三十年代は大学生が短大を合わせて全国で20万人。現在は大学生が50万人、短大・高専を入れれば百万人を越えています。小さい時から勉強をし、どれが正解かわからないようなむずかしい入試を突破して大学に入っていき、出ていきますが、ある言葉を理解して、それについて考えたり、論議したりすることはひじょうに苦手なようです。
 実際、最近・・・若者や大学生と話が通じない現象も起こっています。若者が社会的な問題や人間関係の問題について「話題にしない」という不思議な現象も起きているのですが、これも教育のありかた、家庭構造のあり方に起因していると思われます。
 なぜなのでしょうか。言葉の意味をよく勉強して来なかったからか・・・いや言葉など大学までにすべて学習できるほど少ないものではないから、おそらく言葉そのものの意味を考えることをしないで来たのだろうと思います。考える訓練や習慣というプロセスが幼児のうちから家庭で組まれていなかったり、学校ではもちろん与えられた課題だけを要領よくこなすことだけが訓練されてきた結果かもしれません。学歴主義の悪影響とでも言うのでしょうか。

答えをたくさん覚えた人間は偉い?

 考えないで答えだけを覚えるシステムが造られ、テスト勉強だけで言葉を感覚的に知っているにすぎないので、深く考えることに苦痛を感じて「話題になるのを避ける」のかもしれません。つまり、きちんとした本を読んでいないから自分の考えを話せないということでもあります。長い本が読めなければ、考えもつくれないから、結果的には「考えなし」の短文ブログやツイッターが流行っていくこととなります。これまたサブカルチャー的な社会では当たり前のことかもしれません。あなたも深く考えずにメールを打っていませんか。思い付きで言葉を発し、感覚で読む・・・・これが結果として起こってしまったのは明治以来の教育の結果です。もちろん、国民がこうなることは為政者にとっては都合のよいことです。なぜなら、難しい言葉を使ってごまかしても国民はわからないので言いなりにすることができます。
 学校教育のテスト勉強では、言葉も曖昧にしかとらえられなくなります。例えば、日本語には漢語熟語があり、漢字から意味が分かるのですが、理解は「なんとなく」であり、具体的に説明しろ!と言われてもわからないことが多いのです。学校教育は量的に言葉を覚えさせるだけで、深い意味まで教えませんから、言葉は詰め込まれるだけで、考える力はかえって失われていきます。
 例えば「日本国憲法」です。ひじょうに単純な熟語の合成ですが、これまた具体的に説明するのはむずかしいのです。大学生でなくても「説明しろ!」と言われたらなかなかできるものではありません。第一、中身を読んでいないからわからないのです。つまり、長い熟語は、感覚的に分かったような感じがするのですが、じつはわかっているようで何もわからないのです。「原子力発電」などは、長い間、その内容が平和利用という嘘で隠蔽されてきていたので、なんとなく・・・しか、わかりません。大学を出ているのに具体的な意味内容がわからない・・・これはいったいどうしてなのでしょうか。

言葉の意味を分からなくする教育?

 「集団的自衛権」・・・これだって、わざと中身をぼかした言葉です。政治や行政では、わざと中身がわからないように難解な熟語や外来語を使うことは以前から知られてきたことですが、基本的な質問をするとバカじゃないかと思われるので、多くの人は質問をしないで、わかったフリをします。
 とくに行政用語ではそういうものが多いのです。PCというからパソコンかと思うと「バブリックコメント」だったり、CPというから何かと思うと「コンプライアンス」だったりする。意味を尋ねると「そんなことも知らないの?」と思われるので多くの人は聞き返しません。バブリックコメントと言われても何だかちっともわかりません。わからなくしているのかもしれず、ここが学校側、行政側の手でもあります。
 「集団自衛権というのは、侵略をみんなで防ごう、守ろう、ということかな」と思っていると中身はアメリカの戦争に日本が参戦できることだったりする。もし、そんなことが閣議決定だけで出来るなら、独裁政治と同じで「日本国憲法」など何の意味もなくなるのですが、多くの国民はどちらでもいいのです。なぜなら、意味が分からないのですから。
 若者は、さらに他人事として考えているようですが、さて戦争になれば戦いは自衛隊員だけではなく、自分たちも行かねばならないことを「意味」として知っておく必要がありますし、思考力を働かせれば「戦争とはゲームやスポーツとちがって、腕が千切れたり、足が吹き飛んだり、命がなくなったりする」意味があるいうことを知るべきなのです。ところが学校教育ではそういうことは教えません。戦争はゲームではないのでリセットもできませんが、そういう若者の想像力も追い付かないようにしているのが現代の教育なのです。さてさて、これは教育だけが悪いのでしょうか。
 小学校では読書推進運動とかなんとか「本を読め!本を読め!」と言いますが、中学・高校になるとその雰囲気がまったくなくなり「本なんか読まずに勉強しろ!」「勉強しろ!」となります。小学校では識字率を上げるため、中学、高校では余計な本を読んで真実を知るより、なんとか受験と部活で頭が働かないようにする機能が教育の中で働くのかもしれません。
 いや、これは、ひょっとすると国民を欺く、騙す、真実を隠すという体質が、社会の構造の中で、あるいは学校教育の中で、ある昔の一時期から始まったのではないかと思われるのです。それが上述の漢語熟語や英語略語を暗記をすれば社会の上層部に進めるという教育のあり方に問題があるのかもしれません。さて、そのある昔の一時期とはいつか。

なんでこんなことになったのか・・・

 これについていろいろ調べましたが、やはりおよそ150年前に行きつきました。教育が大きく変わったのは、ご承知の通り、明治からです。
 基本的に明治の教育主義は、福沢諭吉の功利主義で始まりました。学校教育のコンセプトは「立身出世主義」です。勉強して、上の学校に進み、学歴をよくすれば「末は博士か大臣か」という思想です。見かけでは身分制度がなくなったので、誰でも勉強さえすれば上に行かれるというのが受けました。これが現在まで脈々と続いています。
 例えば、地方の農民の間でも子どもに高等教育を受けさせて、国家公務員にする。だめなら地方公務員、さらに軍人・警察官、消防官などにする、それでもだめなら郵便局員、農協職員にするのが子育ての成功だという風潮がしだいに広がりましたが、これは福沢の立身出世主義の影響を受けた典型的な動きです。山梨県でも、この影響はかなり早くから農民の間にひろがっていて、いまでも農家では子どもを公務員にすることが「評価される子育て」となっています。じつは立身出世では学歴は必要ですが、本来の読書で物を考え、自分を磨くと言うよりは履歴や経歴だけが重要視されます。このため、人は良い学校、良い就職と刷り込まれ、そのためには人の道などなかなか考えないようにもなります。

さかのぼって考えると

 明治10年から20年は近代化(文明開化)が急速に進んだという歴史の常識がありますが、この辺から教育の根本が変わり、個人の栄達が目的となったわけです。他を押しのけても出世する・・・この基本的思想は「追いつけ、追い越せ」で、日本の国家のあり方まで影響を及ぼしていきました。それまで世の中の主流の価値観であった「人間として間違った行いをしない、情や義理を重んじる、行ったことに対する責任を取る」などの儒学による基本思想でしたが、消されました。
 ただ、250年以上、朱子学を基にした社会構成が続き、人々の気持ちの中にも儒学的な基本思想が倫理としても定着していました。明治維新で急になくなったわけではありません。じつは、この社会規範や倫理観は昭和三十年くらいまで残っていたのです。例えば一般では子どもにたいしても公式には尊重する気風が残っていました。「花子とアン」で花子がラジオでアナウンスをする場面は有名ですが、ここでも「お小さい方々」という言葉が使われています。まだ、この時期までは江戸時代の親に育てられた人が多かったのです。高度成長とともに多様な価値観(合理性や利益追求、個人主義、豊かさの生み出した基準などで)が生まれ、その倫理観も失われました。それは、福沢諭吉の功利主義がおよそ百年で社会に根付き、競争社会を作り始めたからでしょう。いまでは人の上にいくことが当たり前の子育てです。

気が付いていた人たち

 それに、すでに気が付いていた明治人も多くいました。漱石はその文明論集の中で蒸気機関車のイメージから直観的に明治の近代化に疑問を呈しています。
 また芥川龍之介は「或る阿呆の一生」で本屋の二階から本を買い求める役人や書生がじつは何も考えずに立身出世のために本を読んでいる、買っている状況を描き、龍之介本人が絶望的になっている感覚をうまく表現しています。
 また中江兆民などは、国家構造の問題にまで触れて明治維新への疑問を投げかけています。

維新の立役者は英雄でも偉人でもなかった

 明治政府の教科書による江戸幕府の否定と明治維新の美化はかなり徹底したものとなっています。現代まで「明治維新は近代化の出発点」という評価が一般的で、活躍した人物はみな偉人、英雄ということになっていますが、それは教科書をはじめとして様々な方法で、明治政府が塗り固めたものが多いのです。倒した幕府側は悪く言わねばならないので、悪い評価にしますが、維新の立役者は持ち上げる、評価も高くすることに徹しました。
 例えば、吉田松陰ですが、これは維新の思想的背景をつくったと言われていますが、学者なのにじつは著作が1冊もありません。その代わり手紙は山ほど書いています。これは坂本龍馬も同じですが、争乱扇動(争いを煽る)主義者と言われてもしかたがない面があります。坂本龍馬は、維新の英雄でも何でもなく、薩摩・長州を戦わせて儲ける、さらには両者の手をつながせて幕府と戦わせて儲けるという手法を取った「武器商人」であったという事実も容易に見てとることができます。
 これは良く知られた話ですが、司馬遼太郎の「竜馬が行く」などでは出てきません。英雄史観で小説が書かれているからです。しかし、実際は幕府と薩長が緊張してくると武器納入が利益を産むことになり「武器商人」が絡んでくる。龍馬は彼らと手を組んで暗躍しました。中国から銀を奪う代わりにアヘンを売ったことでイギリスと中国はアヘン戦争になりましたが、その戦争を起こしたのは香港にあった英国商社ジャーデイン・マンセン商会でした。この会社が支店長として日本に送り込んだのが長崎のグラバー邸で有名なグラバーです。1865年に米国の南北戦争が予定より1年早く4年で終わったため、アメリカ政府が5年分発注した武器が1年分不良在庫として残っていたのです。旧式なミニエー銃でしたが、日本では新式の銃です。グラバーは、日本でグラバー商会をつくり、薩摩と長州に南北戦争で売れ残った武器を買わせて儲けるために、その交渉役にしたのが坂本龍馬でした。龍馬が薩長連合に腐心した本当の理由は幕府との争乱を起こすことで金儲けをするためだったということです。
 実際に龍馬はグラバーを通じて膨大な利益を得ています。弟子の中江兆民によれば、かなり龍馬の事実が見えてきます。当時日本一の遊郭「丸山」で豪遊し果ては病気にもなったという話です。だから、司馬遼太郎が描く維新の英雄・龍馬というよりは、日本人が大量に死ぬことになる内戦にこの国を導いた張本人だったということでしょう。「海援隊規約」にはこう書かれています。「目的は運輸、射利、開拓、投機及び藩の支援」。儲けるという利益優先の表現はなくギリギリ、それらしきことが書かれていますが、当時は、日本の商業もまだ儒教道徳の社会をつくっていたわけですから「利益追求」とはハッキリ言いにくい時代だったことはまちがいありません。

江戸時代のイメージは悪くさせられた

 江戸時代に対する我々のイメージは、「身分制度があるために自由がなく、年がら年中斬り合いがあって、礼を失すると斬り捨て御免で、百姓は年貢にコメを取られて粟(あわ)や稗(ひえ)を食べていた」というものでしょう。
 しかし、これは明治政府が教科書や本、芝居や劇を通して「悪いイメージ」を植えこんだものにすぎません。それは、ずうと現在まで続いています。それをひっくり返す単純な一例をお話ししますが、そのほかにも、例えば米国の日本領事だったタウンゼント・ハリスが書いた「日本滞在記」では、江戸の子育ての様子が書かれています。なんとも穏やかな日常でゆったりしたほほえましい風景が描かれ、ハリス自身が、このような穏やかな国を列強の中に引きずり込んでいいものかどうかという感想まであります。また明治初年に英国の女性旅行家が一人で東北地方を旅した記録があり「日本奥地紀行」という本を出していますが、女性一人で旅をしても何も危険がないどころか、人々がみなやさしく純朴なことを絶賛しています。
 江戸時代が、前述のように「自由がなく、年がら年中斬り合いがあって、礼を失すると斬り捨て御免で、百姓は年貢にコメを取られて粟や稗を食べていた」ような圧政の下にあったら、そんな政府が260年も続くわけがありません。世界史的にも江戸時代は長期に平和を保った「ローマの平和=Pax Romana」と同じく「Pax Tokugawa」と呼ばれているのです。  では、なぜ江戸時代の百姓は飲まず食わずではなかったか・・・その答えを出してみましょう。文政期の日本のコメの取れ高はだいたい三千五百万石、人口も三千五百万人くらいでした。つまり一人当たり一石のコメが食べられるのです。ところが明治政府の教科書では全部年貢に取られたということになっています。一石は1000合ですから、365日で割ればだいたい一日3合は食べられます。でもみんな幕府に取られた。ならば、人口の5%しかいない幕府の武士たちは一年間でものすごい量のコメを食べなければなりません。残りを酒にしたらとんでもない酔っ払い天国です。外国に売る?それは鎖国ですからできません。つまり、米商人に売っていくらかの利ザヤを取り、百姓は兼業で藩内の産業(漆器つくりからワラジ編みまで)を支えて藩も豊かにして自分たちも利益を得る。それで米を買っていたわけです。飲まず食わずの農民がいる国が260年も続くわけがありません。明治時代の方が子どもを売らねばならないほど農民は貧しかったのです。
 こういう中で書籍は江戸時代の何百万倍も出版されてきましたが、その中に真実を伝えるものはわずかなのです。

日新館などの藩校教育では

 たとえば、江戸時代を悪く言う、悪く書くのが明治以降の歴史のきほん姿勢でした。身分制度があり差別的で、ろくな教育もなかった。
 しかし、日新館教育に代表される江戸時代の藩校教育は、儒学を基にしたもので、後日言われるほど身分制に基づいたものではなく、人の道(儒学ですからあたりまえですが)を極めること、実践をすることの基礎として教育がなされました。それもかなり学問程度の高い教育が行われていました。これは江戸幕府の多くの藩で実践された教育で、その教育の目的は「人としてどうあるべきか」、「どのように行動するか」、「責任はどう取るか」などが具体的な例で掲げられ、根本には儒学(朱子学)があって教育が展開されました。水戸の弘道館教育なども、その代表的な例です。
 ところが福沢諭吉の考えを根本においた明治政府の教育の目標は立身出世のためでした。かなり強引な形で利己的な栄達主義を社会の中、教育の中に浸透させました。こういう中で、儒教的な倫理観はどんどん否定されて行きます。やがて、この功利主義教育は、帝国大学を頂点とした教育ピラミッドを造り、現在まで続いています。帝国大学は官僚を生み出し、陸軍・海軍大学は参謀本部、大本営といった覇権主義を取る力につながっていきます。またもや司馬遼太郎は陸海軍の創設に係わった秋山好古兄弟を独特の英雄史観で「坂の上の雲」として描いていますが、この動きがやがて太平洋戦争につながっていったことは書かれていません。
 またその背後にあった長州政権は天皇制を変改して二重構造の国をつくり・歴史の修正をおどろくべき形(教科書やメディア=劇、芝居など)でやっています。それは人の道から外れたことをやっても成功すればよい、上に立てればよい、日本一、世界一というわけのわからないものを目指す出世主義が教育のなかにあったからです。これは、いま病のように、あるいは常識のように親たちの意識のなかにあります。子どもを教育して人より上にする・・・みなさんも意識しているでしょう。
 藩校教育については、いろいろありますが、日新館や弘道館では250年も前から少年たちが事の是非について議論をする民主的なシステムが組まれていました。結論が出なかったり、誤った決定になると年長者や有識者に相談を持ち掛けるという技術まで訓練されていたのです。藩を守り、人を守り、そのために勉強する、行為を正すという基本が幼児期から行われて、16歳以上になると大人扱いされたのです。これによって60歳以上の老人は大切にされ、女子は守られ、子どもも一定以上の役目は実行する必要がなく、遊びながらの教育がなされていたのです。それが明治政府の教育ではなくなり、一方的に上からの国家主義的な教育となりました。薩長の風土や長州の国学が大きく影響を与えたのは明らかです。これが、国家の方針を隠蔽したり、事実を教えなかったり(足尾鉱毒事件など)などの現象を生み出します。
 考えても見てください。明治時代は殖産興業、富国強兵で忙しくなったわりには貧富の差が拡大しているのです。貧しい人間は食べられる軍隊に入らねばならず、わずか45年の間に2度の対外戦争が引き起こされて十万人が戦死したのです。

藩校教育は具体的には、どういう教育だったのか

 現代における些末な教育論は後回しにして、当時の家庭教育の多くの部分はよくも悪くも親の都合で行われていることが多かったと思います。「そんなことをしたらみっともない」「お行儀をよくしなさい」「相手の話には耳を傾けるものです。」「人が話をしているのに無視して飛び跳ねているのは恥ずかしいことです。」これらの基本はみな、江戸時代の朱子学的な倫理観でつくられたもので、家庭教育の細部まで影響していったものでした。詳細はすべて書けませんが、それについては関連の本を読んでもらうことにして、ここでは、日新館のひじょうに明快な結論になっている十訓と童子訓についてだけ述べます。これが、当時の幼児、あるいは青年までの教育の基本になっていたもので、社会規範の根本を形作っている考え方でした。

 一、掟(幼児・少年)
 一、年長者の言うことに背いてはいけない
 一、年長者にはお辞儀をしなければならない
 一、嘘を言ってはならない
 一、卑怯なふるまいをしてはならない
 一、弱い者をいじめてはいけない
 一、戸外で物を食べてはいけない
 一、戸外で婦人と言葉を交わしてはいけない  ならぬことはならぬものです

 現代で考えれば、年長者への態度、女性への態度は当然疑問が起きます。老人が必ずしも立派な人ばかりではありませんし、女性と戸外で話をすることが禁止されるのは納得のいかないことでもあります。しかし、その根底には長く生きた人を敬う、性的な衝動を抑えるという規範も息づいています。そして、藩校では、これらの規則が、まず幼少の子どもたちの間で学ばれ、なぜそうなのかを実際にあったエピソード集 実在の人物が行った例を学びながら、なぜ、そういうことをすると人間関係や社会関係に支障が起きて来るのかを考える訓練がなされます。

争いをなくす生き方

 ご承知かと思いますが、会津藩の初代当主である保科正之の考え方を藩の教育理念の基礎として五代藩主・松平容頌が日新館教育として集大成したものですが、同レベル、同様の教育システムは主だった幕府の藩では行われていました。
 で、まず幼少の部ですが・・・・
 「お話」を聞かせて「ならぬことはならぬものです」と結んだ後に、反省会へと移るのです。
 「什の掟」に背いた子がいなかったかどうか、子どもたちを束ねる少年が問いただします。「何か言うことはありませんか」。
 小さな子には、恐ろしい場だったでしょう。「審問」が始まると破ったものを部屋の中央に座らせ、違反の有無を取り調べました。
 「審問」の結果、違反した事実があれば、年長者たちとペナルティを話し合い、違反した子に相応の「制裁」を加えることになります。「制裁」には、以下のものがありました。「無念(むねん)」(頭を下げて詫びる)「竹篦(しっぺい)」(罰の軽重で打たれる場所も回数もちがう)「派切り(はぎり)」(かなり重い罰で、仲間外れになるので親か兄が謝ることになる)というものでした。そして、「童子訓」という実際に存在した歴史的な例を引いて解説していき、かなり論理的なものとなっています。この社会性養成の教育は、実例を念頭に「してはいけないこと」「しなければいけないこと」を幼少期から教えるもので、そういう人の道を達成するために四書五経から天文学・数学に至る学習がなされていたのです。
 漢学の素養がなければ四書五経は読めませんから、唱えることから始めて素読、講読と言葉の理解は現代の学生など及びもつかないレベルに達していたと言います。しかも、これは机上の空論ではなく倫理観や行動論理つきでです。
 しかし、それを壊すできごとが起こってしまいました。戊辰戦争です。
 倫理感もなければ責任も取らない無軌道な勢いが勝利をおさめたのが戊辰戦争でしたが、明治維新はそうした動きで出発し、薩長が勝利します。やがて薩摩も倒されて長州が一人勝ちの政府となっていきました。今に続く社会構造です。

戊辰戦争が象徴するもの

 明治政府は、江戸幕府を倒したわけですから、自分たちの悪さや幕府の良さを全部隠す必要性がありました。戊辰戦争は、その良い例です。「お話し会」では、いくつかそのひどいエピソードをお話ししますが、戊辰戦争は教科書では鳥羽伏見の戦いと函館五稜郭の戦いくらいしか述べられていません。中には北越戦争、会津戦争に触れてあるものもありますが、詳しくはなく、奥羽越列藩同盟(白石同盟)などにはほとんど触れていません。
 この中でも会津戦争はひどいものでした。ある意味、現代に続く明治政府の国民を無視した政治手法と国民をなんとか守ろうとした手法の幕府の最後の戦いで、国学をもとにした天皇制神格化によって国家運営を行おうとする新勢力と人倫を基本の既成勢力の戦いだったのです。
 国学を据えて天皇制神格化によって国家運営に持って行ったのは長州ですが、薩摩は戦争でもっと野蛮な出方をしました。薩摩は藩校をつくるのが遅れ、教育が藩民に浸透しなかったので荒々しい気質が突出していたのです。これは長州も土佐も同じで身分制が下士たちの不満をつくっていました。会津戦争で人道にも劣ることをやったのは薩長軍がほとんどですが、とくに薩摩はひどいことをやりました。これについてはお話で述べますが、とくに薩摩軍は会津の嬢子軍という女性部隊と交戦した折に、殺しただけではなく女性の胸や陰部を抉り取り、見せびらかしたりして会津兵の怒りを買いました。また戦争終結後も官軍は会津兵の死体の片づけを許さず、弔うことも禁じる布令を出していました。このため何か月も会津兵の屍体が道端や野原に打ち捨てられていたと言うことです。

天皇の神格化

 明治政府の教科書は、当然、富国強兵、殖産興業、脱亜入欧を基本にして近代化をしたわけですが、まともな人間をつくるという側面は国家からの押し付け道徳・・・言うことを聞く国民をつくることに絞られています。そのために天皇の神格化がすすめられました。これは現代までずっと続いていることです。
 江戸時代までは、天皇は公家の最高位ていどの認識しかなかったのです。儒学は自由に論議をする体質があり、林羅山などは神武天皇が中国の王族の末裔であるという説さえ出していました。
 明治初年、外国で高度な知識を学んだ人々(日本人)が神武天皇や天皇制にはほとんど関心を持ってはいなかったのですが、政府の政策でじょじょに天皇制崇拝に入って行ったことは歴史が示すとおりです。
 明治三年に福井藩の招きで日本へ来て自然科学の教授をしたグリフィスという人が、明治九年に書いた「皇国(ミカドの帝国)」で、この急激な天皇神格化をはっきり述べています。
 「日本人は皇紀二千五百年について語るが、それは朝鮮人が四千年の歴史について語るのと同様にバカげており、根拠がない。日本の歴史の年代は1872年(明治4年)に、お上がつくりだしたものであり、それを受け入れるくらいなら雷神やシンデレラ姫が活躍した時代を決めることだってじゅうぶんできる。万世一系などというものも、このとき構成され、命令によって定められたのである。」さらに「これ以後、教育があると自称する日本人でさえも平気で皇紀二千五百年の歴史について語り、『役所の息がかかるほどに真実の気は失せていく』ということわざに彩どりを添えている」
 実際、尋常小学校の教科書に出た画家・川崎千虎筆の「神武天皇像」(写真右)は、まったく明治天皇そのものです。このようにじょじょに神格化がすすめられ太平洋戦争までつづいていきます。
 つまり、明治維新のあらゆることが長州政権でなされましたが、最初の大きな歴史修正は「天皇の神格化」だったわけです。これによって、力の二重構造が生まれます。何かあっても責任は取らない。命令した人は神ですから、命令を受けた人は責任を取らなくてよい。当然、神が責任を取った話は洋の東西で聞いたこともありません。

負ければ賊軍

 戊辰戦争で最後まで抵抗した会津藩や東北諸藩は、その後、長州政権によって、かなりひどい仕打ちをされます。とくに会津藩はひどいものでした。大河ドラマ「八重の桜」では、青森の斗南に移され、バラバラにされるところまでですが、その後、反乱を防ぐために福島県に強圧的な知事を置き、国策として磐城の炭田をエネルギー政策の軸に据えたのは伊藤博文が総理大臣のときでした。これが日清・日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争に寄与していきます。
 石油政策に転換されたのは岸信介が総理大臣のときで、民間の努力で常磐ハワイアンセンターとして生き残るよりありませんでした。福島原発一号機が建設されたのは佐藤栄作(岸の弟)が総理大臣のときです。汚いものは皆、押し付けられたような気がしますが、ここには共通性はないのでしょうか。ありますよね。これらの総理大臣はみな山口県出身です。
 日新館教育の結果なら、戦争も誰かが責任をとるべき問題ですが、長州政権では何の責任もとらないという仕組みが進められたわけです。戊辰戦争は、とくに会津戦争や北越戦争は、この意味でもひじょうに象徴的な戦争結果だったと思います。日本一(世界一も)を目指す長州政権は、その後さらなる進み方をして、敗戦後もほとんど構造が変わらずに現代まで来ています。開戦・終戦の詔を出した昭和天皇は退位もしませんでした。民間人まで含めて(軍人だって徴兵ですからほとんどは民間人)合わせて300万人もの人が戦火で命を落としたのですが、責任は誰が取ったのでしょう。
 ここには、ひじょうにうまいカラクリがあります。それは古代の天皇家と藤原氏の関係を真似た天皇制の復活でした。

責任回避体制

 天皇の神格化は明治四年から始められ、だいたい明治二十年ごろまでに定着します。まず廃仏毀釈で寺院を押しのけて神社が崇敬されるように仕組みました。当然、神道や国学の影響です。その意味では吉田松陰の思想の影響は大きかったかもしれません。
 王政復古で、政府の組織は変りましたが、何と平安時代のように「太政官」「右大臣」「左大臣」「参議」などが天皇の下にいて、その下に外務省や陸軍省などの省庁があるのです。
 ここで重要なのは、神格化された天皇が政権に命を下す形を取られます。当然、政策は政権が立案したものが行われますが、形は天皇の命です。こうなるとおもしろいことに政権が失政をしても責任は取らなくていいのです。武士の社会では責任者が切腹しますが、このシステムでは命を下したのが天皇ですから、臣下である政権は責任を取りません。では天皇が責任を取るかと言うと、なにせ「神」ですから神が責任を取ることはありません。古今東西、神が責任を取った歴史はありません。
 これが現代でも同じ形で進行しています。大臣が不祥事を起こすと総理大臣は任命責任を追及されます。ところがですね。これらの大臣を認可するのは天皇なのです。天皇が総理大臣を任命します。この総理大臣が不祥事をしでかしても天皇は任命責任を追及されることはないのです。「神」や「象徴」が下の者の責任を取ることは、古今東西、歴史にありません。
 そして、これがうまく利用されました。戦前はもとより、戦後もです・・・・天皇が任命した政権が失政をしても天皇は責任を取らない。当然、政権も責任を取らない。この影響は、現在、一般社会でも広がっています。

まだまだ一般常識では

 「そうは言っても太平洋戦争の終結は天皇陛下のご聖断によるもので、あれ以上死者が増えるのを終戦の詔で天皇が止めた」という一般常識もあります。はたしてそうでしょうか。太平洋戦争は、明治政府の方針だった「富国強兵」、「脱亜入欧」、「殖産興業」の結果なのです。それが、だんだん負け戦さになっていっても、中止の聖断は出ませんでした。1945年2月、近衛文麿は「戦争終結」を天皇に上奏しますが、昭和天皇は「再度、成果が上がったら・・・」と言って拒否しました。天皇が戦争終結に傾くのは5月のドイツの全面降伏、沖縄戦の悲惨な状態を知ったときからです。それでもソビエト連邦を仲介役にして天皇制の護持を画策したのです。6月8日に内大臣・木戸幸一が「時局収集対策試案」で「このままでは国体の維持ができない」と報告したように「国民のためを思い、天皇が戦争をやめさせた」とすることで天皇制の存続を図ろうとしたのです。そして、戦後も天皇の全国行幸などで、「あのひどい戦争を終らせた方」というイメージがつくられていきます。これでは戦争を起こした責任は誰にあるのかがどんどん不明確になります。少なくとも開戦の詔から終戦の詔までの間に300万人の日本人が死に、何百万ものアジア人が死んだのにもかかわらずです。どんなことをしても誰も責任を取らないということは大変な問題です。
 戦後、さまざまな事件が起こりましたが、じつは企業犯罪も責任がうやむやになることが多く、記者会見か何かで頭を下げれば罪が問われなくなることも多くなってきました。「敗戦」を「終戦」と言って「自然に戦いが終わったように感じさせる」言語操作は、放射能の移動を「除染」と言って、いかにも取り除いてなくなったように思わせる造語、粉飾決算を「不適切会計」という語で犯罪と見ない言い換えなどが氾濫しているのが現在です。
 かつて企業は倒産すると下請けなどの被害者に謝り、その補償を長期間しました。いまや会社更生法で、社長は自己資産を別に隠し、倒産してもノウノウと暮らしていることが多いです。福島原発の事故を起こした東電の会長、社長は高額な退職金をもらって退き、責任は取りません。国策である電力事業は政府の政策でもあり、政権の失敗では責任は誰も取らないようになっているのです。これも長州政権が産みだしたものすごいカラクリといえるでしょう。

「ならぬものはならぬ」ものなのですが

 さて、戊辰戦争のときに戻りますが、薩長の横暴は会津にとどまらず、明治十一年に大日本帝国に組み込まれた(これも教科書ではほとんど触れませんが)琉球王国も悲惨な支配を受け続けます。戦前も沖縄は悲惨でしたが、戦後はもっとひどいものとなりました。昭和天皇はGHQに「永久的に沖縄の支配権を認める」旨の約束をします。当然、この責任は誰も取らず、現在に至っています。長州政権が握り続けた教育権で、このような歴史の真実は歪められ、意図的に修正されてきたからです。多くの国民は実態がよく見えないのです。
 教育は単純に子育ての方法の良しあしのように言われますが、やはり国家による洗脳、真実を隠すということが背景にあれば、教師も同じような頭になり、やがては「いつか来た道」を子どもに強いることになります。子どもを育てるということは、おかしな価値観で洗脳されず、子ども自身が真っ当な大人になっていくようにする仕組みをつくるべきだと思います。私たちは、自分の子どもを真っ当に育てたいと思いますが、果たしてまた長州政権が国の仕組みを変えようとするときに真っ当さが維持できるのでしょうか。本はなるべく読まないで学校の言う通りの勉強をして、損になるので責任は取らず、卑怯でも勝てばそれでよく、平気で嘘を言う人間にしたほうがいいのでしょうか。

山口県というと目立たぬ県だが・・・

 これはまったくジョークのような話ですが、嘉門達夫というシンガーが47都道府県の歌に山口県を歌ったところがあります。
 「♪・・・山口県は都会に出た子に日本で一番仕送りをする」のだというのです。つまり、立身出世が県民性になっているともいえます。県外に出して成功させる・・・日本一、世界一を目指させる・・・・
 「♪・・・山梨の子どもは日本で一番、習い事をする」らしいのですが、山口ではそんな生やさしいものではなく、故郷に錦を飾るために県外に押し出す教育がなされているようです。
  そのためには何をしてもいいのか・・・勝てば官軍なのか・・・総理大臣が山ほど出ている山口県はあぜ道もアスファルト舗装されています。歴史を修正してでも栄光をつかみたい政権・・・日本一、世界一になりたい思想。明治産業遺産のためのロビー活動にいくらお金を使ったのでしょうか。朝鮮から徴用で強制労働まであった事実を捻じ曲げ、認定させる。これは完全に歴史修正主義です。こういう修正を平気でする、言ったことをしなくても平気という考えが現代社会の事件や事故を生み出すもとになっている可能性は高いのです。(おはなし会レジメ一部閲覧)



(2017年9月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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