ブッククラブニュース
平成29年7月号新聞一部閲覧 追加分

子どもの発達と絵本
1歳児と絵本(2)

 前回述べたように生後10ケ月あたりが絵本の与え始めですが、まだまだ直立猿人より前の程度ですから、注意力は散漫ですし、絵本もまだ物にすぎないところがあります。おもしろいのは、本だけでなく、いろいろな物を投げ散らかしてみるのが好きという子が多いことです。何か持たせたり、そこに置いてあるものをポイと投げたり・・・投げ捨てでおもしろがる時期が、本の与え時というのもすごいのですが、これも触覚で物を認識する時期の最終のプロセスで、1歳の前半で終わります。
 よく観察していると、投げ散らかしから、周囲に置いたり、積み重ねたりすることに移る時期が必ず見られます。しかも発達が速いので3ケ月くらいで、その行動も終わってしまいます。
 よく、この時期のお子さんを持つお母さんから「ページをまくる前にペラペラして遊んだり、読んでいるのに閉じてしまったりして困ってしまうのですが」という相談を受けます。まだ1歳前後では聞いて理解とか落ち着いてみるという段階ではないということを覚えておいてください。相手は直立猿人なんです。理解の方法が違いますし、すぐに読み聞かせが快いことがわかってきます。遅い子でも1歳前半にはわかります。

ものすごい発達の速さ

 このことはよく観察するまでもなく、例えば、ほとんど現物に近い絵の動物や食べ物の絵を配本で一番最初に与えるように組んでありますが、これはまだ1歳前後ではディフォルメされた図形や絵画的な画像がよくわからないからです。写実的な動物の絵に触ったりなでたりしますし、食べ物などはつまんで食べようとするシグサまで見られます。かわいいものですが、ある意味、認識力が未発達の段階でもあるのです。でも、すぐに子どもは成長します。とにかく一歳児の発達はすごいのです。3日も見ていれば次の成長へ、という状態がわかります。でも育児に夢中ですから、親はなかなかその急な成長に気が付かないのです。
 まずは、理解させることを目的にしないで、いかに聞くこと(言葉を耳から入れること)が楽しいかを知らせることです。快い空間で(夏なら涼しいところで、冬なら暖かいところで)、お母さんの膝の中で、あるいは回された腕の中で、そのページに目が向き、言葉を受け入れるようになるのは、ほんの1ケ月は2ケ月の読み聞かせで可能なのです。この時期に、このような静かで快い体験ができなかった子がいま増えています。当然、外部委託保育が原因でしょう。(つづく)

私の好きな一冊
③ みんなうんち

 2歳の前半で配本に入れるが、この年令から4歳後半くらいまでの間、子どもは排泄物や自分の体の一部にひじょうに興味を持つ。とくに「うんち」には関心が高い。これを利用して、いまうんちを使った漢字ドリルが流行しているくらいだが、小学生ではこういう排泄物で釣るのは邪道というものだろう。やはり、いくら関心があっても物が物・・・卒業する時期には卒業させないと、いつまでもそれでいいと思い込んで頭が発達していかなくなる恐れがある。
 さて、いろいろなうんちの本があるが、私はこの五味太郎のうんちの本がひじょうにおもしろい流れとウイットに富んだものだと思っていて、この右に出る排泄物関連の本はないと考える。大きな動物のウンチから小さなどうぶつのウンチ、その特徴的な形態・・・おちょくりまで入っている本はそう多く見かけない。2歳前半の子が「ひとこぶラクダはひとこぶウンチ、ふたこぶラクダはふたこぶウンチ」の意味は分からないだろうが、言葉の調子をまねることも言葉の取入れも急な時期なので、わからないがらもわかるという不思議な力も発揮する。まあ好きな絵本ベスト3の中の1冊でもある。 今回は紙面の関係から「生活って?」は休載します。来月には再開します。

ヒトの子育てはどうあるべき!?

若者を見ていてもやはりおかしい

 大学生くらいの若者と話す機会はけっこうあるほうだが、視線を合わせないで話す学生がけっこう多くなった。高校生とは話すことがほとんどないのでよくわからないが、同じような現象は起きていると思う。さらに二十代の若者と話して一番イライラするのは、決して自分の意見として話さないことである。「〜のような」「・・・と、いうこともありか、と・・」と婉曲どころか対話になりえない言葉ばかりが口から出る。主語+述語で「私は・・・思う」がないのである。「ああ、偏差値教育の影響は大きい!」「ああ、良い子でいたい風潮は得体の知れぬ人間を作ってしまう。」と嘆きたくなる。

スマホなど・・・

 この問題の背後に直接あるのはスマホだ。若い人は電車の中、駅、公園、デパート・・・どこでもスマホ画面を見つめて指を動かしている。あるいはイヤホンで音楽かなにかを聞きながら、ゲームをしたり、写真を見たり、そりゃあまあすざまじい「沈黙」である。生身の人間と会話することができずに画面の向こうの何者かとコミュニケートすることが日常の行為の大部分でもあるのだろう。もちろんスマホばかりではない。コンビニでも一言も口をきかなくても物が買える。最近では、自動支払い装置のあるレジまで登場した。これでは自動販売機やネット通販と同じ。やがてはAIに人間は仕事を奪われる。どう考えてもAIのほうが上だからだ。買い物となり、一言も話さなくても対話も働きかけも何もいらない。そういうライフスタイルが若者たちの「会話ができない」、「視線を合わせない」生き方を作っているわけで、これは近未来において自分の存在を不必要にしていく便利さでもある。

電話や挨拶の作法も変るか?

 この影響は短時間の間に一般社会にもかなり出てきた。例えば、みなさんの中にもゆめやに電話してくるときに名前を名乗らないでいきなり本題に入る方がいませんか?こちらにナンバーディスプレイはないし、あったところでケータイのように名前の登録はできないから大人数相手では大慌て。
 それでもスマホで慣れた人はいきなり「・・・・来月の配本と同じ本を知人からもらったのですが、入れ替えてもらえませんか?」と、いきなり来る。こちらは「どちら様でしょうか?」と言うよりない。どこの誰かが分からなければ対応のしようがないからだ。
 名前とか子どもの生年月日とかそういうデータを言ってもらわねば、配本表を検索できないし、ファイルも探せない。最近、けっこう多いケースだ。電話には掛け方というものがあるはずなのだが、日ごろのケータイやスマホでの習慣はおそろしいものだと思う。「もしもし、こちらは○○ですが、△△さんですか?」という基本的なルールや礼儀までケータイやスマホは奪ってしまったようである。これからの子ども、若者が、こういう意味で「言葉足らず」になっていき、やがては対話ができない状態になるのではないか。もうなっているけれども。
 スマホのなかった昔、電車に乗ると、ほとんどの人が新聞や週刊誌などを読み、もちろん本も読む人が多かった。さらには隣席に誰かが座ると自然に「どちらまで・・・」という言葉から会話が始まったのである。

原因は・・・

 若者が対話ができない原因の多くは(もう平成も29年だから)幼児期からの必要な経験が蓄積されていないからではないか・・・と思う。生まれてすぐから受身一方のテレビ・ビデオ漬け、少し大きくなると電子ゲームやプリント型学習に漬けられ、相手との交流ができなくなる人間が増えている。これは、若者だけではない。モンスターペアレントを始めとして、かなり一般の大人でも常識の崩壊が起きている。馬鹿バラエティ番組のせいなのか、人気取りのためなら自分の病気や犯罪歴まで使う芸能人たちの非常識に影響されているのか・・・それとも、社会全体が精神病になりつつあるのか分からないが。要するに、社会的な動物であるはずのヒトとしての行動や思考方法が取れない時代になってしまったと思うのだ。そこで、今年度は、そういう人間を作らないヒントとして「ヒトの子育てはどういうものか」を動物の子育てをお手本(?)にして考えていくシリーズにしたいと思う。けっきょく人間よりほかの動物の方が賢かったりしてね。それじゃ困るので、せめて何とか対策でも考えていきたいと思う。

心と言葉 ③
言葉換えでだまされる

 昨年、保阪正康さんを講演会の講師にお願いして、そこでお話を聞き、送迎の車の中でも個人的ないくつかの質問に答えてくださったことを29年7月号のこの新聞紙上でご紹介しました。
 そのときに保阪さんと話したことは、深く考えられない人々によってどんどん破局に進んでしまったことや責任は上から下までみんなあるというものでした。
 先のことを考えないで平気で物を言う状態、精神主義だけで計画も何もなく場あたりでものごとを進めた結果、戦争に入っていき、誰も止められなかった・・・その背後には国民がまったく無関心で浮かれていたからだ、というものです。  そして同じような動きがまた最近出てきたというものでした。名前を変えて言葉の語感で安心させるまやかし・・・例えば「治安維持法」という言葉の感じはを「ああ、治安が維持されて平穏になるんだな」と思わされてしまう。これは現代でも行われていることで「テロ等準備〜ナンタラカンタラ法」となるとなんのことやらわかりません。で、今回本を読む前に保阪さんの寄稿原稿を読んだのですが、その心のなさというか言葉の悪用が、じつはろくに本を読んでいない人々によってつくられ、進められて、結果とんでもないことを招いたことが保阪さんの取材文章からわかりました。

破局に向かうときの心と言葉

 そこでは、東條英機という軍人があれよあれよというまに力を得て行った様子が、心と言葉の問題から描かれます。2・26事件以後東条はしだいに郡部での力を大きくしていきましたが、政界は混乱が大きくなり、ああでもない、こうでもない、いやこうしろ、ああしろ、という意見の絡み合いが起きていました。このためまかなか決められない政治となっていたのです。物事を決めていくことができなくなったとき、東條のように強引で、自らの権限しか考えない軍人こそが軍を動かすのにふさわしいと周囲が思っていた状態があったというのです。東條が表舞台に出ると、陸軍の政治的態度はあまりにも狭く偏ってにいきます。東条は、とにかく強引で、自分に都合のいい論理しか口にしない。相手を批判するときは大声で、しかも感情的になるという東條の性格は、はからずも陸軍そのものの体質になっていったというわけです。
 こういう状況では、心は言葉と一致しなくなります。言葉で言っても実行しないで平気で反故にしてしまう風潮が出てきます。できもしないことを言ったり、やればできると言ったりするわけですが、根本で言葉に責任を持たない状態になります。

軍人は文学書を読まない

 このあと保阪さんは東條が陸軍大臣から首相になっていく過程で、彼にかかわったお付きの武官を何人も取材しています。その武官のうちの一人がこう答えます。
 保阪さん 「東條英機という人は、文学書を読んだことがありますか。」
 赤松(武官)「小説のことか? ないと思う。われわれ軍人は小説を読むなんて軟派なことに関心を持ったら、軍人なんか務まらないよ。(ある著名な歌舞伎タイトルを挙げ)東條さんはその題名が読めなかった。私は知っていただけにびっくりした。軍人は文学書を読まないだけでなく、一般の政治書、良識的な啓蒙 (けいもう)書も読まない。すべて実学の中で学ぶのと、「軍人勅諭」が示している精神的空間の充足感を身につけるだけ。」
 そして、保阪さんは、こういうタイプの人間は、いわば人間形成が偏頗(へんぱ=偏っていて不均一)なのだと論評します。そして、次のような類型の分析をします。「このタイプの政治家、軍人は三つの共通点を持っている」、それは①「精神論が好き」、②「妥協は敗北」、③「事実誤認は当たり前」の三つ。やがて、すぐに東條は陸軍内部の指導者に育っていくのですが、この「三つの性格をそのまま実行していった」と保阪さんはまとめていました。

選んではいけない首相のタイプ

 そして、昭和十年代の日本は戦時一色」になるが、「もしこれが東條以外の人物が最高指導者になっていたら、このような形になったであろうか」とも考えます。そして、赤松武官の言を考えると、日本には決して選んではならない首相像があると実感したそうです。 
 それは前述の三点に加えてさらに幾つかの条件があるのですが、つまるところは「自省がない」という点に尽きるという点です。これは われわれも同じ。自省がないと何をしでかすかわかりません。心が無いと言葉は希薄になります。こういう子育てをしたらアウトです。
 しかし、昭和十年代の日本は、「自省なき国家」としてひたすら直進していったわけですが、それは多くの史実が示すように行き着く先は国の危機でした。「教訓を確認するためには、「東條英機」のつくった昭和十年代の現実を私たちは確かめておくべきであろう」と保阪さんは結論しています。時代は同じことを繰り返すので。

なぜ本を読まなければならないか④

維新の立役者は英雄?偉人?

 それに、すでに気が付いていた明治人も多くいました。漱石はその文明論集の中で蒸気機関車のイメージから直観的に明治の近代化に疑問を呈しています。
 また芥川龍之介は「或る阿呆の一生」で本屋の二階から本を買い求める役人や書生がじつは何も考えずに立身出世のために本を読んでいる、買っている状況を描き、龍之介本人が絶望的になっている感覚をうまく表現しています。
 また中江兆民などは、国家構造の問題にまで触れて明治維新への疑問を投げかけています。
 明治政府の教科書による江戸幕府の否定と明治維新の美化はかなり徹底したものとなっています。これは今でもそうです。「明治維新は近代化の出発点」という評価が現代まで一般的で、活躍した人物はみな偉人、英雄ということになっていますが、それは教科書をはじめとして様々な方法で、明治政府が塗り固めたものが多いのです。倒した幕府側は悪く言わねばならないので、悪い評価にしますが、維新の立役者は持ち上げる、評価も高くすることに徹しました。このため、270年間、平和的に続いた幕府が一方的に悪者とされてしまったわけです。文字通り「勝てば官軍」ということですね。

別の視点、教科書以外の本

 しかし、別の視点から書かれた本を読めば、教科書がいうことに「?」が出てくると思うのですが、受験勉強で教科書を全部暗記しても前述のごとく何も出てこないのです。ただ冷静に見れば、なんかおかしいなと思う部分は山ほどあります。
 例えば、吉田松陰ですが、これは維新の思想的背景をつくったと言われていますが、学者なのにじつは著作が1冊もありません。その代わり手紙は山ほど書いています。時代が過渡期なのですから過激思想が悪い、良いということは判定できませんが、少なくともなんでもいいから暴動を起こそうという動きの背景として松陰の思想が使われたフシがあります。
 これは坂本龍馬も同じですが、これでは争乱扇動(争いを煽る)主義者と言われてもしかたがない面があります。坂本龍馬は、言われているように維新の英雄でも何でもなく、薩摩・長州を戦わせて儲ける、さらには両者の手をつながせて幕府と戦わせて儲けるという手法を取った「武器商人」であったという事実も容易に見てとることができます。この背後には欧米の影(英国あるいは米国)があったと思います。つまり武器売買という甘い罠にはまった部分があるように思うのです。

混乱に乗ずる

 こういうことは良く知られた話ですが、司馬遼太郎の「竜馬が行く」などでは出てきません。英雄史観で小説が書かれているからです。しかし、実際は幕府と薩長が緊張してくると武器納入が利益を産むことになり「武器商人」が絡んでくる。龍馬は彼らと手を組んで暗躍しました。中国から銀を奪う代わりにアヘンを売ったことでイギリスと中国はアヘン戦争になりましたが、その戦争を起こしたのは香港にあった英国商社ジャーデイン・マンセン商会でした。この会社が支店長として日本に送り込んだのが長崎のグラバー邸で有名なグラバーです。1865年に米国の南北戦争が予定より1年早く4年で終わったため、アメリカ政府が5年分発注した武器が1年分不良在庫として残っていたのです。旧式なミニエー銃でしたが、日本では新式の銃です。グラバーは、日本でグラバー商会をつくり、薩摩と長州に南北戦争で売れ残った武器を買わせて儲けるために、その交渉役にしたのが坂本龍馬でした。龍馬が薩長連合に腐心した本当の理由は幕府との争乱を起こすことで金儲けをするためだったということです。
 実際に龍馬はグラバーを通じて膨大な利益を得ています。弟子の中江兆民によれば、かなり龍馬の事実が見えてきます。当時日本一の遊郭「丸山」で豪遊し果ては病気にもなったという話です。だから、司馬遼太郎が描く維新の英雄・龍馬というよりは、日本人が大量に死ぬことになる内戦にこの国を導いた張本人だったということでしょう。「海援隊規約」にはこう書かれています。「目的は運輸、射利、開拓、投機及び藩の支援」。儲けるという利益優先の表現はなくギリギリ、それらしきことが書かれていますが、当時は、日本の商業もまだ儒教道徳の社会をつくっていたわけですから「利益追求」とはハッキリ言いにくい時代だったことはまちがいありません。

江戸時代のイメージは良かった

 江戸時代に対する我々のイメージは、「身分制度があるために自由がなく、年がら年中斬り合いがあって、礼を失すると斬り捨て御免で、百姓は年貢にコメを取られて粟(あわ)や稗(ひえ)を食べていた」というものでしょう。
 しかし、これは明治政府が教科書や本、芝居や劇を通して「悪いイメージ」を植えこんだものにすぎません。それは、ずうと現在まで続いています。それをひっくり返す単純な一例をお話ししますが、そのほかにも、例えば米国の日本領事だったタウンゼント・ハリスが書いた「日本滞在記」では、江戸の子育ての様子が書かれています。なんとも穏やかな日常でゆったりしたほほえましい風景が描かれ、ハリス自身が、このような穏やかな国を列強の中に引きずり込んでいいものかどうかという感想まであります。また明治初年に英国の女性旅行家が一人で東北地方を旅した記録があり「日本奥地紀行」という本を出していますが、女性一人で旅をしても何も危険がないどころか、人々がみなやさしく純朴なことを絶賛しています。
 江戸時代が、前述の教科書にあるように、あるいは一般で常識になっているように「自由がなく、年がら年中斬り合いがあって、礼を失すると斬り捨て御免で、百姓は年貢にコメを取られて粟や稗を食べていた」ような圧政の下にあったら、そんな政府が260年も続くわけがありません。世界史的にも江戸時代は長期に平和を保った「ローマの平和=Pax Romana」と同じく「Pax Tokugawa」と呼ばれているのです。
 そんな平和を築いた幕府がなんでたやすく瓦解したかは、ある意味、謎なのです。いくら時代の変わり目とはいえ、弱体化した幕府と近代的な勃興勢力という図式では理解しがたいものがあるのではないでしょうか。
 でも私たちは、そういうふうに教わってきました。すくなくとも受験教育の歴史では、あるいは社会科その他では「疑問を持つこと」は許されない風潮があります。おかしい!と思った生徒が手を上げても先生は、その疑問に答えることはほとんどありません。明治以降の学校は、不都合な事実を隠すにはひじょうに良い教育システムであることがこれでわかります。

疑問例を解くと・・・

 では、なぜ江戸時代の百姓は飲まず食わずではなかったか・・・その答えを出してみましょう。かんたんな算数でわかるのです。文化・文政期(1804年—1830年)の日本のコメの取れ高はだいたい三千五百万石、人口も約三千五百万人くらいでした。つまり一人当たり一石のコメが食べられるのです。ところが明治政府の教科書では全部年貢に取られたということになっています。さらにおもしろいのは明治時代の教科書は新しい度量衡が教えられたので一石がどのくらいの量なのか誰もわかりませんでした。もちろん、江戸時代から生きていた人は知っていたかもしれませんが、一石がどのくらいの量かは忘れられていったのです。
 一石は1000合ですから、365日で割ればだいたい一日3合は食べられます。でもみんな幕府に取られた。ならば、人口の5%しかいない幕府の武士たちは一年間でものすごい量のコメを食べなければなりません。残りを酒にしたらとんでもない酔っ払い天国です。外国に売る?それは鎖国ですからできません。つまり、米商人に売っていくらかの利ザヤを取り、百姓は兼業で藩内の産業(漆器つくりからワラジ編みまで)を支えて藩も豊かにして自分たちも利益を得る。それで米を買っていたわけです。飲まず食わずの農民がいる国が260年も続くわけがありません。明治時代の方が子どもを売らねばならないほど農民は貧しかったのです。

日新館教育は

 さて、日新館教育に代表される江戸時代の藩校教育は、儒学を基にしたもので、後日言われるほど身分制に基づいたものではなく、人の道(儒学ですからあたりまえですが)を極めること、実践をすることの基礎として教育がなされました。それもかなり学問程度の高い教育が行われていました。これは江戸幕府の多くの藩で実践された教育で、その教育の目的は「人としてどうあるべきか」、「どのように行動するか」、「責任はどう取るか」などが具体的な例で掲げられ、根本には儒学(朱子学)があって教育が展開されました。水戸の弘道館教育なども、その代表的な例です。
 ところが福沢諭吉の考えを根本においた明治政府の教育の目標は立身出世でした。かなり強引な形で利己的な栄達主義を社会の中、教育の中に浸透させました。こういう中で、儒教的な倫理観はどんどん否定されて行きます。かんたんにいえば、何をしても勝ち抜けば責任は取らなくて良いという考え方です。これが、打ち首獄門、斬首などの廃止と軌を一にしているのは興味深いものがあります。
 やがて、この功利主義教育は、帝国大学を頂点とした教育ピラミッドを造り、現在まで続いています。帝国大学は官僚を生み出し、陸軍・海軍大学は参謀本部、大本営といった覇権主義を取る力につながっていきます。またもや司馬遼太郎は陸海軍の創設に係わった秋山好古兄弟を独特の英雄史観で「坂の上の雲」として描いていますが、この動きがやがて太平洋戦争につながっていったことは書かれていません。
 またその背後にあった長州政権は天皇制を変改して二重構造の国をつくり歴史の修正をおどろくべき形(教科書やメディア=劇、芝居など)でやっています。それは人の道から外れたことをやっても成功すればよい、上に立てればよい、日本一、世界一というわけのわからないものを目指す出世主義が教育のなかにあったからです。これは、いま病のように、あるいは常識のように親たちの意識のなかにあります。子どもを教育して人より上にする・・・みなさんも意識しているでしょう。
 藩校教育は、いろいろありますが、日新館や弘道館では250年も前から少年たちが事の是非について議論をする民主的なシステムが組まれていました。結論が出なかったり、誤った決定になると年長者や有識者に相談を持ち掛けるという技術まで訓練されていたのです。藩を守り、人を守り、そのために勉強する、行為を正すという基本が幼児期から行われて、16歳以上になると大人扱いされたのです。これによって60歳以上の老人は大切にされ、女子は守られ、子どもも一定以上の役目は実行する必要がなく、遊びながらの教育がなされていたのです。それが明治政府の教育ではなくなり、一方的に上からの国家主義的な教育となりました。薩長の風土や長州の国学が大きく影響を与えたのは明らかです。これが、国家の方針を隠蔽したり、事実を教えなかったり(足尾鉱毒事件など)などの現象を生み出します。
 考えても見てください。明治時代は殖産興業、富国強兵で忙しくなったわりには貧富の差が拡大しています。貧しい人間は食べられる軍隊に入らねばならず、わずか45年の間に2度の対外戦争が引き起こされて十万人が戦死したのです。

藩校教育はどういう教育?

 それでも昭和30年ごろまでは、うっすらとですが江戸時代の価値観は残っていました。しかし、明治以降の教育価値観はすべてのものに浸透し、とにかく農民でも商工業者でも子どもを良い学校に入れ、良い企業に就職させ、地位を得ることが基本となっています。刷り込まれたのですが、それは農民の子育てが自分たちの後継者を育てるのではなく、できれば公務員になってもらいたい、そしてそのために子育てするといったものになっていきました。なりふり構わない立身出世が子育ての評価基準となったわけです。これは明治以降です。
 しかし、現代行われている些末な教育論は後回しにして、近世でも家庭教育の多くの部分はよくも悪くも親の都合で行われていることが多かったと思います。「そんなことをしたらみっともない」「お行儀をよくしなさい」「相手の話には耳を傾けるものです。」「人が話をしているのに無視して飛び跳ねているのは恥ずかしいことです。」これらの基本はみな、江戸時代の朱子学的な倫理観でつくられたもので、家庭教育の細部まで影響したものでした。詳細はすべて書けませんが、それは関連の本を読んでもらうことにして、ひじょうに明快な結論になっている十訓と童子訓についてだけ述べます。
掟(幼児・少年)  一、年長者の言うことに背いてはいけない
 一、年長者にはお辞儀をしなければならない
 一、嘘を言ってはならない
 一、卑怯なふるまいをしてはならない
 一、弱い者をいじめてはいけない
 一、戸外で物を食べてはいけない
 一、戸外で婦人と言葉を交わしてはいけない  ならぬことはならぬものです
 これが、まず幼少の子どもたちの間で学ばれ、なぜそうなのかを実際にあったエピソード集 実在の人物が行った例を学びながら、なぜ、そういうことをすると人間関係や社会関係に支障が起きて来るのかを考える訓練がなされます。

人の道が教育の基本

 ご承知かと思いますが、会津藩の初代当主である保科正之の考え方を藩の教育理念の基礎として五代藩主・松平容頌が日新館教育として集大成したものです。同レベル、同様の教育システムは主だった幕府の藩では行われていました。  で、まず幼少の部ですが・・・・
 「お話」を聞かせて「ならぬことはならぬものです」と結んだ後に、反省会へと移るのです。
「 什の掟」に背いた子がいなかったかどうか、子どもたちを束ねる少年が問いただします。「何か言うことはありませんか」と問われます。小さな子には、恐ろしい場だったでしょう。「審問」が始まると破ったものを部屋の中央に座らせ、違反の有無を調べました。
 「審問」の結果、違反した事実があれば、年長者たちとペナルティを話し合い、違反した子に相応の「制裁」を加えることになります。「制裁」には、以下のものがありました。「無念(むねん)」(頭を下げて詫びる)「竹篦(しっぺい)」(罰の軽重で打たれる場所も回数もちがう)「派切り(はぎり)」(かなり重い罰で、仲間外れになるので親か兄が謝ることになる)というものでした。そして、「童子訓」という実際に存在した歴史的な例を引いて解説していき、かなり論理的なことを教えていきます。この社会性養成の教育は、実例を念頭に「してはいけないこと」「しなければいけないこと」を幼少期から教えるもので、そういう人の道を達成するために四書五経から天文学・数学に至る学習がなされていたのです。
 漢学の素養がなければ四書五経は読めませんから、唱えることから始めて素読、講読と言葉の理解は現代の学生など及びもつかないレベルに達していたと言います。しかも、それは倫理観や行動論理付きでです。
 しかし、それを壊すできごとが起こりました。戊辰戦争です。
 倫理感もなければ責任も取らない無軌道な勢いが勝利をおさめたのが戊辰戦争でしたが、それで明治維新となりました。
 つまり薩長の勝ちなのですが、やがて薩摩は倒されて長州が主力の政府となっていきます。

戊辰戦争が象徴するもの

 明治政府は、江戸幕府を倒したわけですから、自分たちの悪さや幕府の良さを全部隠す必要がありました。戊辰戦争は、その良い例です。ここでは、いくつかそのひどいエピソードを挙げますが、戊辰戦争は教科書では鳥羽伏見の戦いと函館五稜郭の戦いくらいしか述べられていません。中には北越戦争、会津戦争に触れてあるものもありますが、まったく詳しくはなく、奥羽越列藩同盟(白石同盟)などにはほとんど触れていません。
 さて、この中でも北越、会津戦争はひどいものでした。ある意味、現代に続く明治政府の国民を無視した政治手法と社会規範をなんとか守ろうとした手法の幕府の最後の戦いで、とりもなおさず、それは国学をもとにした天皇制神格化によって国家運営を行おうとする新勢力と人倫を基本の既成勢力の戦いだったのです。
 国学を据えて天皇制神格化によって国家運営に持って行ったのは長州ですが、薩摩は戦争でもっと野蛮な出方をしました。薩摩は藩校をつくるのが遅れ、教育が藩民に浸透しなかったので荒々しい気質が突出していたのです。これは長州も土佐も同じで身分制が下士たちの不満をつくっていました。会津戦争で人道にも劣ることをやったのは薩長軍がほとんどですが、とくに薩摩はひどいことをやりました。これについてはあとで述べますが、とくに薩摩軍は会津の嬢子軍という女性部隊と交戦した折に、殺しただけではなく女性の胸や陰部を抉り取り、見せびらかしたりして会津兵の怒りを買いました。また戦争終結後も官軍は会津兵の死体の片づけを許さず、弔うことも禁じる布令を出していました。このため何か月も会津兵の屍体が道端や野原に打ち捨てられていたと言うことです。

天皇の神格化

 明治政府の教科書は、当然、富国強兵、殖産興業、脱亜入欧を基本にして近代化をしたわけですが、まともな人間をつくるという側面は国家からの押し付け道徳・・・言うことを聞く国民をつくることにどんどん絞られていきます。そのために天皇の神格化がすすめられました。これは現代までずっと続いていることです。
 江戸時代までは、天皇は公家の最高位ていどの認識しかなかったのです。儒学は自由に論議をする体質があり、林羅山などは神武天皇が中国の王族の末裔であるという説さえ出していました。
 明治初年、外国で高度な知識を学んだ人々が神武天皇や天皇制にはほとんど関心を持ってはいなかったのですが、政府の政策でじょじょに天皇制崇拝に入って行ったことは歴史が示すとおりです。
 明治三年に福井藩の招きで日本へ来て自然科学の教授をしたグリフィスという人が、明治九年に書いた「皇国(ミカドの帝国)」で、この急激な天皇神格化をはっきり述べています。
 「日本人は皇紀二千五百年について語るが、それは朝鮮人が四千年の歴史について語るのと同様にバカげており、根拠がない。日本の歴史の年代は1872年(明治4年)に、お上がつくりだしたものであり、それを受け入れるくらいなら雷神やシンデレラ姫が活躍した時代を決めることだってじゅうぶんできる。万世一系などというものも、このとき構成され、命令によって定められたのである。」さらに「これ以後、教育があると自称する日本人でさえも平気で皇紀二千五百年の歴史について語り、『役所の息がかかるほどに真実の気は失せていく』ということわざに彩どりを添えている」
 実際、尋常小学校の教科書に出た画家・川崎千虎筆の「神武天皇像」は、まったく明治天皇です。このようにじょじょに神格化がすすめられ太平洋戦争までつづいていきます。
 つまり、明治維新のあらゆることが長州政権でなされましたが、最初の大きな歴史修正は「天皇の神格化」だったわけです。これによって、力の二重構造が生まれます。何かあっても責任は取らない。命令した人は神ですから、命令を受けた人は責任を取らなくてよい。当然、神は責任を取りません。

長州一強

 戊辰戦争で最後まで抵抗した会津藩は、その後、長州政権によって、かなりひどい仕打ちをされます。大河ドラマ「八重の桜」では、青森の斗南に移され、バラバラにされるところまでですが、その後、反乱を防ぐために福島県に強圧的な知事を置き、国策として磐城の炭田をエネルギー政策の軸に据えたのは伊藤博文が総理大臣のときでした。これが日清・日露戦争、一次大戦、太平洋戦争に寄与していきます。日清・日露の戦争は二流内閣・桂太郎が誘導したもので初めての大規模な対外戦争でした。裏には元老・山縣有朋がいました。
 石炭が石油に転換されたのは岸信介が総理大臣のときで、炭鉱は見捨てられてしまいました。しかし、民間の努力で常磐ハワイアンセンターとして何とか生き残るよりありませんでした。福島原発一号機が建設されたのは、そのすぐ後の佐藤栄作が総理大臣のときです。きたないものは皆、福島へ押し付けられたような気がします。そして2011年、菅直人首相の時に原発の過酷事故まで起こります。ここに共通性はないのでしょうか。ありますよね。これらの総理大臣はみな山口県(長州藩)出身です。
 対外進出、敗戦、炭鉱閉鎖、原発事故・・・まさに日本近代が背負ってきた負のスパイラルですが、日新館教育の結果なら、これは誰かが責任をとるべき問題ですが、長州人政権では誰も何事も責任をとらないという仕組みが進められたわけです。戊辰戦争は、とくに北越・会津戦争は、この意味でもひじょうに象徴的な戦争結果だったと思います。
 日本一、世界一を目指す長州政権は、その後、さらなる進み方をして、敗戦後もほとんど構造が変わらずに現代まで来ています。開戦・終戦の詔を出した昭和天皇は退位もしませんでした。その間に民間合わせて300万人が戦火で命を落としたのですが、責任は誰が取ったのでしょう。

 ここには、ひじょうにうまいカラクリがあります。それは古代の天皇家と藤原氏の関係を真似た天皇制の復活でした。

責任回避の国へ

 天皇の神格化は明治四年から始められ、だいたい明治二十年ごろまでに定着します。まず廃仏毀釈で寺院を押しのけて神社が崇敬されるように仕組みました。当然、神道や国学の影響です。その意味では吉田松陰の思想の影響は大きかったかもしれません。
 王政復古で、政府の組織は変りましたが、何と平安時代のように「太政官」「右大臣」「左大臣」「参議」などが天皇の下にいて、その下に外務省や陸軍省などの省庁があるのです。
 ここで重要なのは、神格化された天皇が政権に命を下す形を取られます。当然、政策は政権が立案したものが行われますが、形は天皇の命です。こうなるとおもしろいことに政権が失政をしても責任は取らなくていいのです。武士の社会では責任者が切腹しますが、このシステムでは命を下したのが天皇ですから、臣下である政権は責任を取りません。では天皇が責任を取るかと言うと、なにせ「神」ですから神が責任を取ることはありません。古今東西、神が責任を取った歴史はありません。
 これが現代でも同じ形で進行しています。大臣が不祥事を起こすと総理大臣は任命責任を追及されます。ところがですね。これらの大臣を認可するのは天皇なのです。天皇が総理大臣を任命します。この総理大臣が不祥事をしでかしても天皇は任命責任を追及されることはないのです。「神」や「象徴」が下の者の責任を取ることは、古今東西、歴史にありません。
 そして、これがうまく利用されました。戦前はもとより、戦後もです・・・・天皇が任命した政権が失政をしても天皇は責任を取らない。当然、政権も責任を取らない。この影響は、現在、一般社会でも広がっています。

まだまだ一般常識は

 「そうは言っても太平洋戦争の終結は天皇陛下のご聖断によるもので、あれ以上死者が増えるのを終戦の詔で天皇が止めた」という一般常識がまかり通っています。はたしてそうでしょうか。太平洋戦争は、明治政府の方針だった「富国強兵」「脱亜入欧」「殖産興業」の結果です。それが、だんだん負け戦さになっていっても、中止の聖断は出ませんでした。1945年2月、近衛文麿は「戦争終結」を天皇に上奏しますが、昭和天皇は「再度、成果が上がったら・・・」と言って拒否しました。天皇が戦争終結に傾くのは5月のドイツの全面降伏、沖縄戦の悲惨な状態を知ったときからです。それでもソビエト連邦を仲介役にして天皇制の護持を画策したのです。6月8日に内大臣・木戸幸一が「時局収集対策試案」で「このままでは国体の維持ができない」と報告したように「国民のためを思い、天皇が戦争をやめさせた」とすることで天皇制の存続を図ろうとしたのです。そして、戦後も全国行幸などで「あのひどい戦争を終らせた」というイメージがつくられていきます。これでは戦争を起こした責任は誰にあるのかがどんどん不明確になります。少なくとも開戦の詔から終戦の詔までの間に300万人の日本人が死に、何百万ものアジア人が死んだのにもかかわらずです。どんなことをしても誰も責任を取らないということは大変な問題ということです。

責任を取らずに逃げる

 戦後、さまざまな事件が起こりましたが、じつは企業犯罪も責任がうやむやになることが多く、記者会見か何かで頭を下げれば罪が問われなくなることも多くなってきました。敗戦を終戦と言って「自然に戦いが終わったように感じさせる」言語操作は、放射能の移動を「除染」と言って、いかにも取り除いてなくなったように思わせる造語、粉飾決算を「不適切会計」という語で犯罪と見ない言い換えなどが氾濫しているのが現在です。
 かつて企業は倒産すると下請けなどの被害者に謝り、その補償を長期間しました。いまや会社更生法で、社長は自己資産を別に隠し、倒産してもノウノウと暮らしていることが多いです。福島原発の事故を起こした東電の会長、社長は高額な退職金をもらって退き、責任は取りません。国策である電力事業は政府の政策でもあり、政権の失敗では責任は誰も取らないようになっているのです。これも長州政権が産みだしたものすごいカラクリといえるでしょう。
 さて、戊辰戦争のときに戻りますが、薩長の横暴は会津にとどまらず、明治十一年に大日本帝国に組み込まれた(これも教科書ではほとんど触れませんが)琉球王国も悲惨な支配を受け続けます。戦前も沖縄は悲惨でしたが、戦後はもっとひどいものとなりました。昭和天皇は「GHQに永久的に沖縄の支配権を認める」旨の約束をします。当然、この責任は誰も取らず、現在に至っています。長州政権が握り続けた教育権で、このような歴史の真実は歪められ、意図的に修正されてきたのです。
 教育は単純に子育ての方法の良しあしのように言われますが、やはり国家の洗脳、真実を隠すということが背景にあれば、教師も同じような頭になり、やがては「いつか来た道」を子どもに強いることになります。子どもを育てるということは、おかしな価値観で洗脳されず、子ども自身が真っ当な大人になっていくようにする仕組みをつくるべきだと思います。私たちは、自分の子どもを真っ当に育てたいと思いますが、果たしてまた長州政権が国の仕組みを変えようとするときに真っ当さが維持できるのでしょうか。本はなるべく読まないで学校の言う通りの勉強をして、損になるので責任は取らず、卑怯でも勝てばそれでよく、平気で嘘を言う人間にしたほうがいいのでしょうか。

山口県というと目立たぬ県だが・・・

 これはまったくジョークのような話ですが、嘉門達夫というシンガーが歌う「47都道府県の歌」というものがあります。それにに山口県を歌ったところがあります。「♪・・・山口県は都会に出た子に日本で一番仕送りをする」のだというのです。つまり、立身出世が県民性になっているともいえます。県外に出して成功させる・・・日本一、世界一を目指させる・・・・「♪・・・山梨の子どもは日本で一番、習い事をする」らしいのですが、山口ではそんな生やさしいものではなく、故郷に錦を飾るために県外に押し出す教育がなされているようです。
 そのためには何をしてもいいのか・・・勝てば官軍なのか・・・総理大臣が山ほど出ている山口県はあぜ道もアスファルト舗装されています。歴史を修正してでも栄光をつかみたい長州政権・・・明治産業遺産のためのロビー活動にいくらお金を使ったのでしょうか。朝鮮から徴用で強制労働まであった事実を捻じ曲げ、認定させる。これは完全に歴史修正主義です。こういう考えや教育の結果が現代社会のさまざまな事件や事故を生み出すもとになっている可能性は高いのです。(2015年夏、ゆめやの連続講座おはなし会一部抜粋)



(2017年7月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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