ブッククラブニュース
平成29年6月号新聞一部閲覧 追加分

子どもの発達と絵本①

1歳児と絵本(1)

 ブッククラブ最初の配本は生後10ケ月です。すべてここから始まります。なんで1歳でもなく生後半年でもなく生後10ケ月という中途半端なところから始まるのか疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、この10ケ月が絶対!というわけではありません。すべてに個人差があるように発達にも個人差はあります。でも、「子どもが平面にプリントされた、あるいは描かれたものに関心を持ち、認識しはじめる」のが標準で生後10ケ月。個人差は±1ケ月程度でありますが、生後8ケ月で平面に描かれたものを認識する子はほとんどいません。その時期までは触覚で認識するので、いろいろ物に触れさせ、快いものかそうでないか、扱えるものかそうでないか、たくさんの触覚経験が必要となっているのです。この体験が不足して触ることが少なかった子は本を与えると噛んだり、破ったりします。またそこまでいかなくてもペラペラまくることだけがおもしろかったり、落としたり投げたりすることまでします。それでも1歳半ごろまでにはどんな子でも読み聞かせに入っていきますが、「するべきときするべきことをしておかないと後が大変」ということを知っておきましょう。これも発達に合わせる子育てのひとつなんです。

不思議な繰り返し

 ところで、妊娠中とても不思議なことが起こります。子どもはお母さんのおなかの中で十月十日成長して生まれますね。これは誰もが知っていることですが、じつはこの妊娠から出産までの一年にも満たない時間で赤ちゃんは、すごいことをやってのけます。初めは単細胞だった赤ちゃんは複雑な多細胞になり、ある時は魚のようなエラやヒレがあるかと思うと、それが消えて手や足が出る、またある時は全身に毛が生えて、すぐに抜け落ちる・・・(上の図の左上から右下まで)つまり、生物の進化50億年の歴史を全部おさらいして哺乳類として生まれてくるのです。これって、すごいことだと思いません? いきなり人間じゃないのです。一歳前後から直立歩行を始めるわけですが、そこまでは、四足歩行もできない下等な(笑)哺乳類なんですね。そして、歩き始めるころに平面に描かれたものがわかるようになるのです。直立猿人から文化が始まる・・・すごいですねぇ〜。生後8ケ月ころまでの赤ちゃんは聴力や視力ではなく触覚で物を区別しています。その判定基準は快いものか不快なものか・・・ためしに四角い積み木と球形の積み木を触らせてみてください。あるいはザラザラした固いものとなめらかでスベスベしたもの・・・ちゃんと区別しますよ。聴力でもやさしくゆるやかな声と怒鳴り声のような荒々しい声・・・きちんと区別して反応します。視力も丸い柔らかい感じのものは大好きで尖ったり四角かったりしたら嫌な顔をします。赤ちゃんはきっとスリムでコワモテのお父さんよりメタボでかわいいパパのほうが好き(笑)になると思います。もっとも最近のお母さんは痩せてトゲトゲしい四角顔なので以前ほど赤ちゃんがなつかないかな(笑)。

発達年齢対応

 ちょっと脱線しましたが、言いたいことは子どもは一定の方向に向かって成長(進化の方向)をしているということです。個別の配本表をお受け取りになって、一番上の「ゆめや発達年齢対応ブッククラブ」というタイトルを見て・・・「何と固い!」と思った方も多いと思います。
 でも、ゆめやの配本は常に発達(標準的な成長)対応なのです。そして、望ましい進化の方向へ配本を組み立てていこうと思っているわけです。どこかでは動物や果物の名などにちなんだ配本コースがありますが、「こりすコース? 大りすはいないのか?」、「大きいさくらんぼコース・・・意味わからん! 平山さんの『くだもの』からの発想?」というのがゆめやのスタンスです。ま、ゆめやは、かわいらしい言葉でフィッシングができない固い性格だということは、みなさんご承知のことでしょうが・・・。
 ゆめやの配本はほとんど月齢区分で構成されています。最初はスンナリ読み聞かせに入ってくれないかもしれません。触覚で認識する体験が不足だった子は本をかじったり、破いたりするかもしれません。積み重ねるのが好きだったり、投げ飛ばすのを喜んだりする子もいます。でも、きちんと抱っこしてゆっくりいろいろな言葉を語りながらページをめくっていってください。早い子ならその場から、いくら遅くても1歳前半までにはちゃんと読み聞かせができるようになりますし、抱っこされながらの語りが子どもを絵本に向けていく快さになります。

直立歩行と読み聞かせ

 生後10ケ月〜1歳・・・直立歩行が始まる時期です。これは進化では、類人猿から原人に移る時期ですよね。つまり人間になる時期なわけです。平面に描かれた絵を認識しながら語られる言葉を聞くことができる生物は、いまのところ人間だけです。生後1年の赤ちゃんは、この人間に時期に差し掛かったということでしょう。人間の進化の方向はおぼろげながらしかわかっていません。しかし、一定のきまりを守り、言葉を交わし、独自の世界を築いていくことが歴史を見ればわかります。戦争と同じく喧嘩もするでしょう。しかし、一方では美しい文かも作り上げます。さて、どういうふうに育つか・・・すべては親のかかわりと成育環境が決め手でしょうね。生後10ケ月・・・・・。
 もしページを意図的に破いたら叱りましょう。破いたら手の甲をピシャリくらいはいいでしょう。「広告チラシと本はちがうのだ」ということは教えなくてはいけません。やさしく接するばかりが子育てではありませんよ。さて、直立歩行しての1歳の1年間、どんな方向にどのくらい成長するか、次回に続きます。(増ページ一部閲覧)

生活って?
②子どもは親が育てる

 親ならほとんどの人が、「自分の子に幸せな人生を歩んでほしい」と考えている。虐待したり殺したりする親もいるから「ほとんど」という表現を使うが、そのほとんどの親が「幸せな人生を与えるもの」として信じてきたのが「学力を伸ばすこと」だった。幼児期から読み書き、計算などの早期教育をする人も少なくない。3歳で字が読めると鬼の首でも取ったように自慢する親もいて「まだまだ重要なものを読む力はないだろう」と思ってもそれを言うと有頂天に水を差すようなので「ああ、そうですか。それは良かったですね。」くらいしか言わない。
 考えても見よう。みなさんのほとんどは高等学校を出ている。多くが大学も出ている。では、どのくらいの本が読め、どのくらいの知識を持ち、どのくらいの高度な考えを持っているのだろうか。中学でやった因数分解はできるだろうか、高校でやった日本古典は今でも訳注なしで読めるだろうか、そして大学受験で勉強した歴史や化学はじゅうぶん生活で役に立っているだろうか。幼いころの読み書き計算は、その学力を支えるためのものらしい。多くの人は、ネットの情報に頼り、自ら分類したり、案出したりしないようである。システムが自分を支えてくれるからなのだが、これから変化の時代だ。スマホの中に、その答えがあればいいが・・・まず、ないだろうね。

早期教育より優先すべきこと

 ところで、近年の教育学の研究では、この時期(幼児期)には学力よりも別のことを伸ばしたほうが結果的に学歴や年収が高く、社会的に成功することが明らかになってきた。しかし、このことを知っている親は少ない。これについては次回で詳しく述べるが、親の多くは相変わらず、明治以来の立身出世主義で洗脳されて詰め込み過ぎでも勉強が大事、何から何までお稽古事で能力発揮幻想にとらわれている。これからは大きく世の中が変わる時期だ。そんな発想では子育ての効果などまったく望めないのだが・・・。
 しかし、早期教育においても学校および学校外教育でも現代ではひじょうにお金がかかるから必死になって金を稼ぐ。家や車のローンもあるから、そりゃあ忙しい。子どもと一緒に過ごす時間もないくらいだ。その結果、2歳児で家庭内滞在時間が13時間なんてことが起こっている。多い? とんでもない睡眠時間を入れて13時間ということは親子が一緒にいる時間は3時間にも満たないのではないだろうか。夕飯食べて、お風呂入って、寝かしつけて、朝ちょっとだけ一緒・・・これで親が育てていると言えないこともないが、寝ている時間を入れて13時間。何とも短い・・・。で、これはイカンと言ったら「じゃあ、家や車を持つな!ということですか!」と食い下がられたこともあった。私はバカだから、おはなし会という公式の場でも前回のべたように炎上するくらいの勢いでしゃべってしまった。「ですからね。みなさんのご家庭はそんなことありませんけれどね。最近親殺し、子殺しの事件が多いでしょ。あれね。幼いころの親と子の関係が反映しているらしいのですよ。」なんて言うから大変だ。統計表まで出して・・・。われわれは、労働力がほしい国の手に引っかかっているのにすぎないのだが、学校時代から刷り込まれているので、多くの人が物に釣られて生活の充実を失っている。(ニュース一部閲覧・来月につづく)

私の好きな一冊

② もりのなか マリーホールエッツ・作

 「好きな絵本を3冊挙げろ!」と言われれたら、まずその中に必ず入れる本である。
 ブッククラブでは男女関係なく配本に入れているが、同じことが繰り返される物語であり、大きな展開はないから当然2歳児が楽しむ本。配本してきて30数年だからおよそ一万人くらいの会員が何度も読み聞かされた本ではないだろうか。
 「ぼくは紙の帽子をかぶり、ラッパをもって森にさんぽに・・・」出かける物語、見知った動物と出会ってはいろいろな体験をして、お迎えに来たお父さんに連れられて帰るだけの話だが、かんたんに分類すれば「夢の中の話。お父さんのお迎えは目が覚めるところなのだろう。だから、寝るときに読むと効果的なんですね。子どもたちの多くは、この話が好きだ。2歳という、ものすごい想像力と言葉の学習力が高まる時期に、この本を読むと親が見ている「もりのなか」の世界とはまったく違った世界を子どもたちが見ていることになる。おそらく木の葉っぱはたくさんの舌に見えたり、石はカメに見えたりしているのだろう。
 さて我が家でもこの本を娘たちに読み聞かせた。次女が2歳の時に義母が亡くなったのだが、お墓参りで拝ませたとき何と次女が「おばあちゃん。まっててね、また来たときに、さようならをいうからね。」と言った。これには周りの大人がびっくりして涙目になったが、なんのことはない「もりのなか」の最後のセリフである。この時期の子どもは、じつに絵本のなかの言葉をうまく日常会話に取り込む。いま、我が家にはまた2歳の次女がいるが、これも「わたしも、かくれないでじっとしています。」などと絵本の中の言葉をしっかりと使う。モノクロの地味な絵本だが、最初はエッツも色を塗ることを試みたが、2歳児の想像力を想定してモノクロにしたということらしい。(囲み記事一部閲覧)

② 心と言葉 反知性の時代

 いまから三十数年前に、ある大学の先生がお子さんの名を教えてくれたのだが、上のお子さんは「心(こころ)」で下のお子さんは「言葉(ことは)」ということだった。「なんで、この名前をつけたんですか?」と失礼も顧みずに尋ねると、先生はこともなげに「人間に、いちばん大切なものなんです!」と言われた。心が無いと言葉が空疎になり、言葉がないと心が動かない・・なるほど、さすがに「考えている方は違うなぁ」と思った。
 それから三十数年、言葉にたずさわる児童書の仕事をやり続けて、その先生が言った「いちばん大切なもの」がどんどん失われていく時代となり、ますます「心と言葉は重要だなぁ!」と思うようになった。
 それでも、そのころは、身近に「心無いこと」や「うつろな言葉」はなかった。しかし、二十年くらい前から急速に増えてきた。ちょうどオウム真理教事件や酒鬼薔薇聖斗事件が起きたころからだろうか、「心無いこと」が急増したように思える。イジメなどその代表例だ。つまり、やってはならぬことや言ってはならぬことが平気で行われ、言葉になるようになった。そして、みんなが見て見ぬふり、聞いて聞かぬフリを始めてしまった。
 心が無い人間が増えたわけだが、心のない心臓であれば出る言葉も嘘偽りばかりとなる。ふつう人間は相手のことを考え、その気持ちに沿って行動するものだが、知性がなくなると、あるいは知的なものをバカにし始めると心がなくなってくる。心の無くなった人間はハートのないトランプのようなもので本来の機能が働かなくなる。
 ゆめやのおじさんがするトランプマジックはハートばかりの札のものがあるが、反知性の人々のトランプにはハートがないというわけだ。反知性とは、暴力団のようなもので「気合で何とかなる、面倒なことを言ったりやったりするより欲しいものをどんどん取れ」というもの。こんなところに心はない。小学校でいえばイジメ児童、中学では不良グループ、大人ではチンピラのような人間である。とにかく心がない。道義もわからない。

血なのか家庭環境なのか?

 こういうふうになるのは遺伝なのだろうか、それとも成育環境なのだろうか。そして、トランプ家や安倍家などではどんな本が並んでいて、何を読んでいたのだろう・・・と考える。心は本や遊びからは生まれないのだろうか。小学生の頃、頭のいい友だちの家に遊びに行くと、絵本や図鑑、伝記シリーズ、両親のものらしき本がズラッと並んでいた。そしてそういう環境で育った子は、大人になっても心を通わせることができる友人になった。
 質の高い本は私たちの想像力を高め、おもしろい世界に案内してくれる最高の手段だ。よく言われるような「家に本がある家庭の子どもは賢い」という通説もあながち嘘ではない。でも、東大法学部を出て復興大臣になったても「(震災が)東北でよかった」という心のないことを言う人の幼いころの成育環境に心を動かす本があったのだろうか。
 「オックスフォード・ジャーナル」によれば、世界42ヶ国の調査で、「幼児期から家庭内にある本の数が多ければ多いほど、子どもの学業成績は明確に向上することがわかった」とある。それは成績だけなのか?心の方はどうなのか? さらに、おもしろい分析がある。国の貧富は成績に関係ないのだが、どの国でも「貧しい家庭ほど1冊の本の効果が大きい」というのも興味深い。マンガ本1冊ではなく、まともな本1冊です。そして、本のない大卒の親の家より、たくさん本がある家のほうが頭がよくなるという結果が出ていた。その頭に心もまた伴うものなのかどうか知りたいが。関連性はあるというだけだったが・・・。「本で子どもの成績が上がったのか」「学力があるから家庭で本が増えるのか」それは、はっきり出ていない。残念、もう少し細かい調査がほしい。
 さらに読書が趣味の子ども6000人と知能の関係を調べた研究では、明らかに読書好きの子どものほうが学校の成績が優位で、とくに国語と算数においてその差がはっきりしていることがわかった。読書量が多く、新聞も読む子どもたちの学力は、大卒の親(血?)がいることによる学力向上より数倍も大きかったらしい。
 では、心の育ちはどうなのだろう。ろくに共謀罪の説明もできない法務大臣が一橋大学経済学部を出ている。成績はよかったのだろうが、心が無い。そして。当然のことだが、心から出る熱い言葉もない。(増ページ一部閲覧つづく)

依存症になるよ!

 先月の就学児に発行している新聞の本文は「影響や結果が出てきた?」というもので、「短文しか読まない、読めない人々はサブカルチャーに影響された結果だ」と書いた。最近、ブッククラブに入った方々の中には「なんでアニメやマンガがいけないの? 私たち、それで育ってきたんだけれど・・・」と首をかしげる人もいるかもしれない。
 しかし、じつはもう30年以上もゆめやはサブカルチャー批判で一貫してきた。でも、ここ二年、サブカル批判をやめていたのは、「もう言ってもしようがない」ほどの無力感があって、批判をする気にならなかったからだ。だって、学校だって行政だって平気でサブカルチャーで攻めてくる。しかも見ない者、使わない人は認めないというひじょうに日本的なイジメ型圧力で囲い込み、サブカルチャーを知っていなければ日本人ではない!ところまで来ていると思うからである。
 国のトップからしてオリンピックの開会式でサブカルを身にまとってドカンと出てきた。こうしたバカやヤンキーを認めなければ日本人ではないところまできてしまったのである。よく考えれば、世の中で起きている事件や社会現象はすべてサブカルチャーがもたらしたものと言っても過言ではないだろう。電子黒板とタブレットで合理的に学習すれば頭がよくなるなんてことは絶対にない。しかし、みんな無防備に受け入れ、「しかたがない、しかたがない」と言いながらイジメに遭うのを恐れて自分も子どもも受け入れていく・・・この動きにとても勝てないと思ったので書かなくなった。書いても分からんだろうと思ったからだ。

江戸時代からアニメがある

 そりゃあ良いアニメ、素晴らしいマンガがあることは百も承知である。アニメーションは世界に先駆けて江戸時代の人が初めて考案したものであることもわかっている。
 だが、日本にいまあるサブカルは、もはや劣化して過激になり、神経を刺激するか、反知性で物を考えなくさせるかのいずれかである。言っておくが本と言ってもザブカル傾向の強い粗悪なものも少なくない。私に言わせれば「怪傑ゾロリ」などはその代表だし、それにつながる粗悪本はいくらでもある。さらに高学年になってライトノベルという「読まない方が健全」というものも子どもたちの間で引っ張りダコだ。鈍感な司書は「とにかく本を広げて読んでくれればなんでもよい」と、しようもない本を図書室に置いて、貸出競争でこういう本を煽る。これではまともな本を選書して読ませようという児童書関係者などまったく無力な存在になってしまう。こんなサブカル本を山ほど読んでもまともな読書に「絶対に」結びつかないのはわかりきったことである。学校は容認しているし、その手の本が、それこそ山ほどある学校図書館も少なくない。しかし、学校も含めて学童と呼ばれる留守家庭学級などは与えてはいけないような漫画、ゲームがいくらでもおきてあるところがある。
 昨年は学校図書館について書いたが、あの貸出コンクール型の強制読書もこちら側としてはまったく打つ手がないのである。子どもは、そういう方式で煽られてその気になるし、借りてきて読まなくても読んでも親はどうすることもできない。こうなると私も無力感が出て、「負〜けた!」と思うようになっても許してもらえるだろう、と思った。
 つまり、いまやサブカルで育った子が親になっている時代なのだから、赤ん坊をスマホであやし、小学生の子と電子ゲームで遊ぶ親たちが出てきてもおかしくないのである。
 こちらが何か言えば、きっと「どこが悪いの?」としか思わないだろう。もう、これは誰も止められない。とかく自分が「それ」で育ってくると、どうしても悪いものとは思えないのが人間である。電子ゲーム(ファミコンなど)に幼児期から触れていた人間でも依存にならない人もいるが、それが脳に悪影響を及ぼすということは考えないだろう。自分の子にゲームを与えても依存にはならないと考える。また早期教育教材で育った人は、それを自分の子に赤ん坊のころから与えても問題ないと考えることだろう。しかし、考えても見よう。かなりおかしな事件、社会風潮、政治状況が起こっているのは明確な事実である。この原因はなんだか考えてみることだ。この流れに一絵本屋が逆らったところで勝てるわけがない。30年くらい、ダメだ!ダメ!だと言ってきたが・・・刀折れ、矢尽きた感じである。

最後の聖戦

 しかし、ある会員が「いくら無力感や敗北感があっても言い続ければ中にはわかる人もいるだろうし、自分の子はすくなくともそういうふうに持って行かないぞ!と思っている人もいるから、その応援にもなる・・・言った方がいいです!」とアドバイスをくれた。
 たしかに少数でも、きちんと物を考えている人はいつの時代にもいる。このブッククラブを巨大化してこなかったのは、きちんと物を考えている人の多いブッククラブにしたかったからだ。大きくなれば質が落ちるのは目に見えている。たしかにアドバイスしてくれた人には一理がある。
 そこで、来月号から、またサブカルチャーとそれが子どもにもたらす深刻な問題を書いていこうと思う。みなさんのご意見も聞きたいと思う。おそらくゲーム依存や読書離れで困っている人もいるはずだ。そういう方から原因がどこから来ているかも知りたい。これが最後の聖戦にならなければいいが、世の中はますます悪くなっているから、どうなるか。(新聞一部閲覧)

なぜ本を読まねばならないか③

「日新館教育と明治維新」その1

 一回目では、日本人の多くは教科書で常識をつくり、別の視点からの思考をしないので、目標は答えを覚えることだけで、論理的に考えたり、本質的なことを考えたりすることができない状態にあることを指摘しました。第二回目では、それがサブカルチャーという形で社会的な結果として現れ、非論理的でわけのわからない犯罪、事件、政治現象が起こる状態となってしまったことを述べました。
 戦前に比べて現在は教育の水準はひじょうに上がったと言われていますが、逆に、戦後70年の間でかなり思考力が落ちたとも言われています。この150年間でもかなり思考力(自分で考える力)が落ちているという分析もあります。現代では、大学卒の数はハンパではないのですが、じつは一つの言葉の具体的な意味もよく理解できていない大人が多いことは社会的な事実となっています。けっしてIT化の影響ばかりではないです。
 昭和三十年代は大学生が短大を合わせて全国で20万人。現在は大学生が50万人、短大・高専を入れれば百万人を越えています。小さい時から勉強をし、どれが正解かわからないようなむずかしい入試を突破して大学に入っていき、出ていきますが、ある言葉を理解して、それについて考えたり、論議したりすることはひじょうに苦手なようです。
 実際、最近・・・若者や大学生と話が通じない現象も起こっています。若者が社会的な問題や人間関係の問題について「話題にしない」という不思議な現象も起きているのですが、これも教育のありかた、家庭構造のあり方に起因していると思われます。
 なぜなのでしょうか。言葉の意味をよく勉強して来なかったからか・・・いや言葉など大学までにすべて学習できるほど少ないものではないから、おそらく言葉そのものの意味を考えることをしないで来たのだろうと思います。考える訓練や習慣というプロセスが幼児のうちから家庭で組まれていなかったり、学校ではもちろん与えられた課題だけを要領よくこなすことだけが訓練されてきた結果かもしれません。学歴主義の悪影響とでも言うのでしょうか。

答えをたくさん覚えると出世する

考えないで答えだけを覚えるシステムが造られ、テスト勉強だけで言葉を感覚的に知っているにすぎないので、深く考えることに苦痛を感じて「話題になるのを避ける」のかもしれません。つまり、きちんとした本を読んでいないから自分の考えを話せないということでもあります。長い本が読めなければ、考えもつくれないから、結果的には「考えなし」の短文ブログやツイッターが流行っていくこととなります。これまたサブカルチャー的な社会では当たり前のことかもしれません。あなたも深く考えずにメールを打っていませんか。思い付きで言葉を発し、感覚で読む・・・・これが結果として起こってしまったのは明治以来の教育の結果です。もちろん、国民がこうなることは為政者にとっては都合のよいことです。なぜなら、難しい言葉を使ってごまかしても国民はわからないので言いなりにすることができます。
 学校教育のテスト勉強では、言葉も曖昧にしかとらえられなくなります。例えば、日本語には漢語熟語があり、漢字から意味が分かるのですが、理解は「なんとなく」であり、具体的に説明しろ!と言われてもわからないことが多いのです。学校教育は量的に言葉を覚えさせるだけで、深い意味まで教えませんから、言葉は詰め込まれるだけで、考える力はかえって失われていきます。
 例えば「日本国憲法」です。ひじょうに単純な熟語の合成ですが、これまた具体的に説明するのはむずかしいのです。大学生でなくても「説明しろ!」と言われたらなかなかできるものではありません。第一、中身を読んでいないからわからないのです。つまり、長い熟語は、感覚的に分かったような感じがするのですが、じつはわかっているようで何もわからないのです。「原子力発電」などは、長い間、その内容が平和利用という嘘で隠蔽されてきていたので、なんとなく・・・しか、わかりません。大学を出ているのに具体的な意味内容がわからない・・・これはいったいどうしてなのでしょうか。
 もちろん、政府が意図的に内容をごまかすために名称で操作することはかなりまえから知られていましたが、けっこうその目論見にひっかかり、中身がわからないまま「理解する」こととなります。「国民総背番号制」では反発を招くので「マイナンバー」・・・さらにごまかすのに英語をつかうのは常套手段です。「戦争参加法」ではまずいので「安全保障法」、日本人は言葉を字面でしか考えないので、このような言葉の詐術でたやすく都合の良い理解を誘導することができます。
 学校教育が「真実の追求」とか「真理の探究」ではなく、また、人格とか倫理性などは目的にしない立身出世なので言葉の意味がわからなくても、言葉を知っていればそれでこと足りるわけです。
 ですから多くの人が学校を出ると学習した内容はほとんど忘れてしまいます。 

言葉の意味を分からなくする教育?

 「集団的自衛権」・・・これだって、わざと中身をぼかした言葉です。前述のように政治や行政では、わざと中身がわからないように難解な熟語や外来語を使うことは以前から知られてきたことですが、基本的な質問をするとバカじゃないかと思われるので、多くの人は質問をしないで、わかったフリをします。
 とくに行政用語ではそういうものが多いのです。PCというからパソコンかと思うと「バブリックコメント」だったり、CPというから何かと思うと「コンプライアンス」だったりする。意味を尋ねると「そんなことも知らないの?」と思われるので多くの人は聞き返しません。バブリックコメントと言われても何だかちっともわかりません。わからなくしているのかもしれず、ここが学校側、行政側の手でもあります。
 「集団自衛権というのは、侵略をみんなで防ごう、守ろう、ということかな」と思っていると中身はアメリカの戦争に日本が参戦できることだったりする。もし、そんなことが閣議決定だけで出来るなら、独裁政治と同じで「日本国憲法」など何の意味もなくなるのですが、多くの国民はどちらでもいいのです。なぜなら、意味が分からないのですから。
 若者は、さらに他人事として考えているようですが、さて戦争になれば戦いは自衛隊員だけではなく、自分たちも行かねばならないことを「意味」として知っておく必要がありますし、思考力を働かせれば「戦争とはゲームやスポーツとちがって、腕が千切れたり、足が吹き飛んだり、命がなくなったりする」意味があるいうことを知るべきなのです。ところが学校教育ではそういうことは教えません。戦争はゲームではないのでリセットもできませんが、そういう若者の想像力も追い付かないようにしているのが現代の教育なのです。さてさて、これは教育だけが悪いのでしょうか。
 小学校では読書推進運動とかなんとか「本を読め!本を読め!」と言いますが、中学・高校になるとその雰囲気がまったくなくなり「本なんか読まずに勉強しろ!」「勉強しろ!」となります。小学校では識字率を上げるため、中学、高校では余計な本を読んで真実を知られるより、なんとか受験と部活で頭が働かないようにする機能が教育の中で働くのかもしれません。
 いや、これは、ひょっとすると国民を欺く、騙す、真実を隠すという体質が、社会の構造の中で、あるいは学校教育の中で、ある昔の一時期から始まったのではないかと思われるのです。それが上述の漢語熟語や英語略語を暗記をすれば社会の上層部に進めるという教育のあり方に問題があるのかもしれません。さて、そのある昔の一時期とはいつか。

さかのぼって考えると

 これについていろいろ調べましたが、やはりおよそ150年前に行きつきました。教育が大きく変わったのは、ご承知の通り、明治からです。
 基本的に明治の教育主義は、福沢諭吉の功利主義で始まりました。学校教育のコンセプトは「立身出世主義」です。勉強して、上の学校に進み、学歴をよくすれば「末は博士か大臣か」という思想です。見かけでは身分制度がなくなったので、誰でも勉強さえすれば上に行かれるというのが受けました。これが現在まで脈々と続いています。
 例えば、地方の農民の間でも子どもに高等教育を受けさせて、国家公務員にする。だめなら地方公務員、さらに軍人・警察官、消防官などにする、それでもだめなら郵便局員、農協職員にするのが子育ての成功だという風潮がしだいに広がりましたが、これは福沢の立身出世主義の影響を受けた典型的な動きです。山梨県でも、この影響はかなり早くから農民の間にひろがっていて、いまでも農家では子どもを公務員にすることが「評価される子育て」となっています。
 明治10年から20年は近代化(文明開化)が急速に進んだという歴史の常識がありますが、この辺から教育の根本が変わり、個人の栄達が目的となったわけです。他を押しのけても出世する・・・この基本的思想は「追いつけ、追い越せ」で、日本の国家のあり方まで影響を及ぼしていきました。それまで世の中の主流の価値観であった「人間として間違った行いをしない、情や義理を重んじる、行ったことに対する責任を取る」などの儒学による基本思想でしたが、これらはどんどん消されていきました。天は人の上に人を作り、人の下にも人をつくるようになったわけです。つまり、官製の試験問題の答えをきちんとできればそれ以外のもの、人格を高めるとか社会性を持つとかはどうでもよくなったわけです。
 ただ、250年以上、朱子学を基にした社会構成が続き、人々の気持ちの中にも儒学的な基本思想が社会規範としても定着していました。これは明治維新で急になくなったわけではありません。じつは、この社会道徳や倫理観は昭和三十年くらいまで残っていたのです。例えば一般では子どもにたいしても公式には尊重する気風が残っていました。「花子とアン」で花子がラジオでアナウンスをする場面は有名ですが、ここでも「お小さい方々」という言葉が使われています。まだ、この時期までは江戸時代の親に育てられた人が多かったのです。高度成長とともに多様な価値観(合理性や利益追求、個人主義、豊かさの生み出した基準などで)が生まれ、やがては、その倫理観も失われました。それは、福沢諭吉の功利主義がおよそ百年で社会に根付き、どんどん競争社会を作り始めたからでしょう。その価値観が戦争で終わったわけではありません。いまでは人の上にいくことが親たちの当たり前の子育てとなっています。(この項来月につづく)



(2017年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ