ブッククラブニュース
平成29年4月号(発達年齢ブッククラブ)

入園おめでとうございます

 甲府では今年は寒い三月で、桜が咲くのが遅く、四月に入ってから満開となりました。でも花冷えも続き、満開のままで、なかなか散りませんでした。温暖化というのは嘘で逆に寒冷化のほうが進んでいると思うのは寒がり屋の私だけでしょうか。
 でも自然とは健気なもので、律儀に冬の次に春をもたらします。三月の風が四月の雨を誘い、五月に花をもたらす・・・少し狂っても、元のリズムに戻す・・・基本、変わらないのです。
 今年の甲府周辺の保育園、幼稚園の入園式は桜が咲き誇る中で行われ、それを見ていると「桜は入園の風物詩としてピッタリのものだな」とつくづく思いました。
 そこで近くの武田神社参道で撮った写真を3歳で入園の福島の会員に送りましたら、「これほどではないが蕾が膨らんできた」と言っていました。同じ上の写真を北海道の友人に送ると「蕾も固くて花が咲くどころの話ではない」ということで日本列島の長さにおどろきながら、「ああ、自分の見たもの、知ったものが世界のすべてではないな」と思わされました。所変わればいろいろ変わるわけですが、時代が変われば状況もどんどん変わっていくわけで、変化に応じるのは大変なことでもあります。。

四半世紀(25年)前には

 これは場所の違いだけではなく時間の経過にもあてはまります。たとえば、二十五年前のゆめやのニュース・四月号の「入園おめでとう」を読み返してみると、「入園すると子どもは不安や緊張が出るので最初はなるべく、ゆったりとした家庭時間を過ごそう」などと書いてありました。
 ところが、現在は子どもの多くは子育て支援などで乳児のころから外部の保育を体験しています。一時預かりを経験している子も多いでしょうし、乳児から長時間保育で育って持ち上がりでいく子どもたちもたくさんいますから、不安や緊張を感じるどころか逆に「物怖じ」しない子も増えてきています。そのころは、三歳(あるいは四歳)で初めて園に入る子が多かったために書いた二十五年前のニュースはいまでは古臭くなっていたわけです。
 以前、このニュースで書いていたように「社会が子どもを育てるなんてシツケも何もできないのだから、自分の子の面倒は親がちゃんと見ろよ!」とでも言ったら総スカンを食うことでしょうね。いまや、こんなことをツイッターで書けば炎上してしまうかもしれません。
 だから世の中の風潮に媚びを売って「そうですね。子どもは赤ん坊のうちから自立させるために外にゆだねるのは大切なことですよね。」と八方美人になって、言いたいことを抑えるのが、大人として、この時代への適切な対応として誰もがやることなのかもしれません。「時代が変われば状況もどんどん変わっていくわけで、変化に応じるのは必要なことなのです。(と、一般的には言われています。)」と有識者も言います。

いつも時代に逆らいますが・・・

 ところがですね。私は時代が変わっても変えてはいけないものがあると信じている頑固な人間で、状況に応じてコロコロ変わっていく人たちにいつも批判の言葉をぶつけますから、そういう人たちからは当然嫌われます。図書館子ども室の無節操な貸し出しを批判すると司書の方々からは嫌われます。
 読み聞かせおばさんたちの活動を「自分が光りたいだけのことで、子どもに適切な本を与えることなど考えていない」「だいたい一回の読み聞かせで子どもの頭には残るわけがない」「借りてきて読み聞かせた本など返してしまえば頭の中からも消えてしまっている!」などと公言しますから、あたりまえのように敵視されてしまいます。自分でも、「どうしてこうも敵を作ってしまうのだろう?」と反省することもありますが、性分なのでしょう。でもね。敵が出ようとなんであろうと頑固にやり続けると、味方になってくれる人もたくさん出てくることもまた事実なのです。いやほんと、決して負け惜しみではなく・・・・。
 八方美人の生き方は一見うまく世間が渡れるように見えます。最近は若者ですら、上には逆らわず、世の中には物申さず、周囲には同調するという傾向が強く、しなやかに生きています。偏差値教育の成果と言えばいえますが、これでは「羊たちの沈黙」になりかねません。時代はどんどん欲が深い人や嘘をついてダマす人を生み出していますから、八方美人の羊などたやすく料理されてしまうことでしょう。一見、利口な生き方は生きやすいように見えますが、どうなんでしょうね。
 人間というものはどこか心の底で、「そういう生き方がよくない」と思っているところがあり、そういう人たちは逆に私のような頑固者を応援してくれたりします。そんな応援があるのがわかると、自信も出てきます。
 時代が変われば状況もどんどん変わっていくのはわかるのですが、変化に応じないでかたくなにやっていくのもまたおもしろいものであることを、最近は再認識し始めています。

十年前のこと

 もうかれこれ十年も前になりますが、作家でおはなしエンターテナーでもある杉山亮さんから新聞紙上で目が点になるような評価をいただきました。
 当時は、巨大な怪物のようなブッククラブだった長崎の童話館、日本のブッククラブの草分けである一番古いメルヘンハウス、落合恵子さんの魅力で多数の会員を集めているクレヨンハウス・・・そういうブッククラブがものすごい存在感で活動していました。もちろんAmazonが出現した現代でも健在です。そういう組織的なブッククラブを差しおいて、「ゆめやのブッククラブが、ぼくが知る限り日本で一番しっかりしたブッククラブ」という賛辞をいただいたのです。
これは私の頑固さへの応援、あるいは人数を拡大しないというやり方に対しての評価ということで、「ありがたく、お言葉をいただいておこう」と思いました。
 もちろん、特殊な例を除いて、「紹介がなければ入れない」「2歳未満でないとだめ」という姿勢は貫いてきました。だから十年、二十五年を経てもブッククラブは大きくなりません。最近ではさらに規制をかけて小さくしようとしています。そんなことをしなくても子どもが本を読まなくなっているのは現実ですし、親自身がもはやサブカルチャー世代で本など読まないのですから小さくする必要はないのですが、より丁寧にやるためには人数が多くなると顔が見えなくなります。赤ちゃんから小学校6年までの選書のガイドラインもブッククラブの命ですので時流に流されないように堅持しています。
 ここで杉山さんがおっしゃっているように、皆さんは「子どもに本を与える習慣を持つ親」です。これがなければ子どもは読書まで進めないでしょう。今年は11年の読み聞かせ〜読書へのプロセスをこなした会員は最初入会した方々の半数でした。おそらく近年、長い文が読めなくなっている傾向が強くなっているので、ますます中学年、高学年になれば読書挫折をする子が多くなるでしょう。
 本を買っていただいた方に応えるやり方の展開・・・・つまり読み聞かせをして子どもを育てたい、すぐれた本を自分の子には読んでもらいたいという親の皆さんに対応する・・・これ、ゆめやの方針です。もう37年・・・このガイドラインで多くの子どもたちと接してきました。どこかの嘘ばかりつく政権政党の言い分とはちがい、これまでと今のブレはありません。
 なぜなら、私は子どもたちに「古典文学」や「高度な文学」を読んでもらいたいと思っていますし、やがては漱石や龍之介、トルストイ、ドストエフスキーなどにも手に届く力を持ってもらいたいと思っているからです。
 これまでも自分は孤立無援でやっていると思っていましたが、中には上のように応援してくれる人も理解してくれる人もいるわけで、やはり頑固にこのままやるよりないと思います。時代が変われば状況もどんどん変わっていきますが、変わらずにやります。今年度もよろしくお願い申し上げます。(4月号ニュース一部閲覧)

入学おめでとうございます

 今年の入学式は甲府でも四月第二週後半の学校が多かったようです。甲府の桜はちょうど満開でしたが、この近所も少子化で新入生の姿はチラホラ。ゆめやの周りには三つの小学校、二つの中学校があって、この時期は新入生が目につくものですが、近年は激減、なかなか見かけません。この近辺は「信玄公まつり 2017」で大賑わいだったため、新一年生の姿もたくさんの人に紛れて目立ちませんでした。
 でも、入学式は、子どもにとって世の中に出ていく出陣式。これから、いろんなことがあるだろうけれど、がんばってほしいと思います。個人的な体験で言いますと、中学、高校、大学と入学式には出ていますが、やはり小学校の入学式が緊張や不安があったぶん、鮮明に記憶に残っています。
 戦争に出かける「出陣」は嫌ですが、小学校の入学式は世の中に出ていく第一歩でもあります。昔はお赤飯を炊いて祝ったものですが、さて、みなさんは何で祝いますか。

「いちねんせい」

 今年、二月、三月の寒さは、甲府でもかなりきつく、マイナスになる日も続きましたが、春の来ない冬はありません。四月なったら急に暖かくなりました。例年なら三月末に咲く店先の桜も開花したのは四月になってから。
 近くの小学校へ通う子どもたちが登校していきますが、以前に比べてにぎやかな声は聞こえません。子どもが激減しているのがわかります。通りで見かけるのは老人ばかり・・・まあ、私も老人なので向こうも私を見て「老人ばかり」と思っているでしょうが・・・・それにしても急速な少子高齢化・・・時代は大きく変わっていますね。
 子どもたちの環境も大きく変化し始めるとでしょう。親は仕事に忙しく、家庭は寝る場所にすぎなくなれば、子どもたちの成育にも大きな変化が訪れます。みずみずしい感性を失ってもらいたくはないですね。これがないと賢くなれないから。
 新入学の多くの子に「いちねんせい」が配本されます。谷川俊太郎・作、和田誠・絵・・・これはもう何十年も不動の一番バッターです。
 「学校の庭 校庭って言うんだって。 端から端まで走ってみた。息がハァハァした。
 鉄棒に触ってみた。ひやっと冷たかった。学校にお母さんはいない。お父さんもいない。
 ノートの後ろに名前を書いた。『あらきとしお』 うん、ぼくは『あらきとしお』だ。
 もう『としぼう』じゃない。」
(原文はひらがなですが、読みやすく漢字まじりにしました。)
 こういう時代ですから、世の中の大人びた波に押し流されて、周囲に対して強く、したたかにみえる子も出るでしょうが、早く大人になれば早く頭も老いるものです。みずみずしい感性があれば、じょじょにやっていける。そして、何か独自なものを生み出すこともできるでしょう。この詩にあるように自分であることをきちんと自覚できることは大切です。

心配

 でも、子どもを新しく学校に送り出すときは、どの親も、不安がつきまとうでことしょう。成長していく嬉しさも感じますが、不安は親として当然のことです。「よくもこんなに大きくなったものだ!」という喜びから「「大丈夫かな?」「やっていけるかな?」という不安・・・。子育ては、これの連続です。この両方を感じない親は、育児放棄か無責任のどちらか・・・です。
 たしかに、以前とちがって小学校は多くの問題があるように思えます。授業が成り立たない学級もあるようですし、そういう状態が日常化していて、問題にさえならないこともあるかもしれません。背景には、親自身の常識崩壊もあります。
 しかし、そういう親も、その親に育てられた子どもも今初めて出現したわけではなく、十数年前からいたのです。テレビ漬けで価値観が狂ってしまった親によって、子どものころから無制限に流行り物を与えられてきた子がおかしくなっているのも今始まったことではありません。親自身がゲームやネット依存というケースも増えてきているでしょう。
 やはり、こういうときは価値観が同じ親を探して、その人たちと手をつなぐ必要も出てくると思われます。大人の中にも悪い人が増えてきているからです。自分も子どもも守るために、同じ考え、価値観の人を見つけ出して手を組む必要があるように思います。 

成績の良さと頭の良さ

 言うこととやることが違う。あきらかに事実を隠して騙す、言い逃れる・・・大人たちでひどい連中も多いのです。自分たちは我慢も抑制もしないで、言いたい放題、したい放題する。責任を取らないで卑怯な逃げをどんどんする。こういう大人にはなってもらいたくないです。人間としての誇りや礼節を持たない大人になったら、これはもう育ちの失敗です。
 弱い者には「自己責任」だと言い、自分が追及されると逃げの一手では信頼が消えていきます。学校の目的は子どもの成績を上げることになっているらしいのですが、東大法学部を出た人が言いたい放題・困れば逃げの一手の無責任では、成績は良かったが頭は悪かったということになります。
 こういうふうに自分たちがやったことの責任を取らない大人ばかりになって、子どもにどうのこうのと言えるわけもないですが、・・・この国のリーダーを始め、文科省も企業も含めてほとんどのトップが欲に狂って、おかしなことをしたり言ったりしているようです。当然、それは下にも波及して、警察官や学校の先生まで同じようになることもあります。もし、これが「教育が生み出した結果」なら、いくら成績が良くても目的から外れているとしか思えません。彼らは儲けるためなら戦争への動きさえ煽っています。
 現在の教育では、人が生きていくうえで大切な指針などまったく語られず、成績だけが重視されているかのようです。「それで子どもたちの頭が以前に比べてよくなったか」と言うと、そうとも思えません。高校も大学も誰でも入れるようになっている、というか、かなり成績が悪くても入れるようになっています。すべてがすべてとは言いませんが、実際、多くの大学生と話しても頭の良さを感じません。学力(成績)をあげることだけを目標にした結果がこんなもんなのです。まず、何が一番、賢い考えか・・・「その人がどこまで遠くを見据えて先へ先へと考える能力(智恵)を持てるか・・・」です。少なくとも子どもたちが、十数年後に、腐った大人がつくる状態から抜け出て、自分の考えをもって生きられるようにしたいですよね。
 ♪ 桜咲いたら一年生・・・ですが、この入学が第一歩、初めの一歩・・・足を踏み外さないように、大人に向けてきちんとした道を歩いて行ってもらいたいと思います。(新聞4月号一部閲覧)



(2017年4月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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