ブッククラブニュース
平成29年3月号(発達年齢ブッククラブ)

37年目の桃の節句

 甲府も寒さが緩んで桃の節句。山梨県では月遅れの四月三日に雛祭りを行うところもありますが、我が家は雛祭りは三月三日。なぜなら三月三日は、ゆめやが開業した日だからです。いまから37年前の三月三日・・・そして、37年目の始まりです。「とてつもなく長くやってきてしまった」という思いが湧いています。
 この30年、日本はいろいろなことが大きく変わりました。大変化は良い方向に向かっているのか、それとも悪い方向に行くのか・・・私にはわかりません。でも、昔に比べて、いろいろなことが異常なほど華やかになっているように思います。
 雛飾りでも、最近は町おこしなどで、多くのお雛様を飾って人寄せを行うところも増えてきました。何段にも飾られた雛は、たしかに春にはふさわしい華麗な装飾です。ゆめやでは今年もパッチワークで作った吊るし雛を飾っています。今月のホームページのトップページの写真のものです(左)。
 ゆめやの基本は、「変わらない」ことですからいつも同じ状態です。20年前、30年前のお客様やブッククラブの会員の方が来ても何も変わっていないことに気が付くでしょう。もっとも「ゆめやのおじさんもおばさん」も今では「ゆめやのおじいさん、おばあさん」で大きく変わってはいますが、生き物が変化するのはしかたがない。何もしゃべれず、表情も乏しかった生後10ケ月の赤ちゃんが、半年で表情が豊かになり、一年で言葉をしゃべりだすのですから、これは大きな変化・・・でも、周りはあまり変わらない方が心の成長のためには良いような気がします。

二番目の「夢」は「桃の節句」

 ところで「桃の節句」といえば黒澤明の映画「夢」の中で描かれる桃畑の物語が有名です。ご覧になったことがあるでしょうか。1990年の映画ですから、若いお母さん方は知らないでしょうね。でも、これ、なかなかスゴい映画なんです。オムニバスで最初の夢が狐の嫁入りを描いた「日照り雨」、二番目の夢が「桃の節句」でした。この映画は一人の男の一生と男が見た夢を描いたエピソードで、この「桃の節句」は少年期の二番目の夢です。そして、その美しい映像は私の記憶に鮮明に残りました。
 ネタバレにすると、こうです。
 姉の雛祭りが行われ、弟が姉の友人たちにお団子を運ぶのですが、6人来たはずなのに女の子は5人しかいません。姉に「数え間違いよ!」と言われ、笑い声に追われながら台所に逃げ出すと、そこに桃の精の少女が立っています。逃げる少女を追って裏山の桃畑跡にたどりつくと、そこには大勢の男女がひな壇のように並んでいました(写真)。彼らは桃の木の精霊で、「おまえの親が桃の木を切ってしまった。ここにはもう居られない」と男の子を責めます。
 しかし、「桃の花をもう一度見たい!」と泣く男の子に態度を和らげ、最後の舞を披露してどこかへ消えてしまうのです。そのあとには桃の若木が一本だけ、という夢。
 この桃畑のシーンは、山梨県の桃の産地・笛吹市(甲府市のお隣)一宮町新倉でロケされました。一宮浅間神社の近くです。一宮町は桃の産地、3月下旬からこの地一帯は桃の花が咲き乱れ、町中がピンク色で彩どられます。7月にはたわわな桃がなり、その味は絶品です。

すべてに重いテーマがある

 私だけではないと思いますが、この映画は、観た人をなんとなく怖い気持ちさせるようです。人間の心理に訴えかけてくる何かがあるからでしょう。すべて、主人公が見た夢のお話ですが、環境問題や戦争と平和、原子力、自然の脅威などが次々に「夢」の中で結びついています。お子さんが見ても大丈夫と思うのでお勧めします。
 雛祭りは怖いものではないのですが、このほかに流し雛という風習もありますから、もともと厄災を人形に託して水に流すおごそかな行事でもあったのです。呪術や陰陽道の盛んだった平安時代に始まったようで、悪霊や厄を追い払う願いがこめられているのでしょう。でも、昔のお雛様が並んだ雛壇を見ていると何となく怖さを感じることもありますよね。人形というものは人間を模ったものですから、やはり私たちの心に人間を考えさせる何かが込められていて、たやすく捨てることができないところがあります。流し雛にしても人型の紙を川や海に流すそうですから、悪人や厄災を振りまく人を流して退散させるおまじないかもしれません。これも、ある種の怖さがありますね。でも、悪や厄は退治したい。そこで我が家でも千代紙でお雛様を折ってみました。飾り終わったら川に流して悪運を祓ってみたいと思います。いまでも世の中をどんどん悪い方に持っていく人もいますから、そんな人の名を人型に書いて流してみるのも面白いですね。気持ちを込めればほんとうにそういう人を一掃できるかもしれません。まだまだ科学では解明できない「人間の不思議な超能力」はあるような気がします。
 映画「夢」の二番目は桃の節句でしたが、ゆめやの二番目の夢はみんなを悲惨な目に合わせる「悪霊退散」です。
 一番目の夢? それは、子どもに良い物語を与えることでしょうか。良い物語は良い人間を作っていきますからね。

ランボーの詩

 フランスの詩人にアルチュール・ランボーという人がいます。アル中ではないですよ。「ランボー怒りのアフガン」の人とも違います。早逝した有名な詩人です。この人の詩に「母音」というのがあります
 「Aは黒、Eは白・・・」という始まりですが、研究者には難解な詩でした。フランス語では一般的に「黒」はNoirですからNですね。白はBlancが使われますからBでしょう。それが黒はA、白はE・・・何を言っているのか? 天才が使うレトリックか、それともデタラメを言っているのか・・・多くの学者がそれを解明しようとして、いろいろな説を展開しました。いかにもそれらしい説が出ましたが、なぜAが黒に対応するか、Eが白かは、けっきょくわからなかったのです。冒頭の一部分を上げてみましょう。こういう詩です。
 A は黒、E は白、 I は赤、U は緑、O はブルー 母音たちよ、何時の日か汝らの出生の秘密を語ろう・・・
 これでは何のことやらわかりません。

幼いころの絵本

 ところが、後になって、ランボーが幼少期に与えられていた絵本が出てきました。その絵本はアルファベットの絵本でAはAbeilles(ミツバチ)の絵がありました。そして描かれていたのは黒いミツバチだったのです。ほかの母音も同じように絵がついて、言葉がありました。けっきょく幼児期の無意識な記憶の影響で、この詩が生まれたという結論となりました。
 幼児期に印象付けられたものは容易に消えないということでしょうか。無意識の中に生き続けるのでしょうか。ふつうは4歳くらいまでの記憶は残らないと言われています。
 しかし、大脳の新皮質は未熟でも旧皮質は3歳ともなれば発達を終えています。記憶ではなく、もっと原初的な何かをこの部分が受け持っている可能性は大きいわけです。もっと言えば、自分が愛されているという感覚、自分は、この親、この家族の一員であるという属している感覚、自分は生きて行って大丈夫だという感覚・・・こういう「生存」に必要な基本的な何かを受け取っているのが旧皮質なのではないでしょうか。

生まれてから2歳半くらいまで

 最近、子どもが親を殺す事件が起こります。その逆の親が子どもを殺すこともあります。私は、この現象は、子どもの幼少期に親が子育てに関わらず、テキトーにたらいまわししていたとか、放っておいたとか、あるいは外部に委託していたことで旧皮質が成長過程で必要な感覚を受け取らなかったことが原因ではないと考えているのです。最初から「親子の絆のなさ」が刷り込みされて、それがある程度の年齢になって引き起こされる事件だと思っています。もちろん、全部が全部ではないのとは思いますが・・・人によっては、前述の家族や親子関係がわかり始める大脳旧皮質が発達する時期(2歳半ごろには旧皮質の成長は止まるらしい)に、自分の親や家族がうまく認識できなかったことから不安定な状態が起こるように思われます。
 逆に親が子どもを殺す事件も、自分(親)自身が幼いころに(そのまた親に)愛されなかった、自己肯定感を育てられなかった、などの原因があるのでしょう。幼少期の自分の子に手間をかけて育てなかったことで、子どもが「愛すべき存在」と思えない感情が刷り込まれたのではないか、ということです。

昔も起きたこと

 こういうことは初めて起きたかと言うとじつは昔もあったようです。例えば「中世」は、それまでの社会制度が崩れて、戦争があったり混乱が起きたりで、親が子どもをきちんと育てられなくなった時代です。グリムやペローが書いたおはなしでは、かなり悲惨な幼少期を過ごした子どもたちが登場しますが、「こんなことではダメだ!」という教訓がはなしの中に満ちています。そして中世が終わると、かなり倫理的なものが生まれて、それで近代まで親は子をきちんと育てるものという雰囲気が社会にいきわたりました。ところがまた欲を刺激された人間が出てくる時代になり、中世と同じような状態が出てきているわけです。
 もともと社会規範がしっかりしていた時代には起きなかった事件が、いまでは、いつでもどこでも起こるようになっています。おそらく、これも幼少期に自分が置かれた環境がうまく刷り込めず、周囲のことを考える苦労もしなかったから成長してから異常行動に走ることはよくあることです。豊かで便利な時代では、自ら働きかけをしなくてもとりあえず生きていけます。欲望もどんどん肥大して、何かを得るためなら何でもするという行動をとる人も出てきます。そうすると邪魔になるものは親であろうと何であろうと取り除いてもいい、壊してもかまわない」となってきます。まさに中世の状態ですね。これもまた、かなり恐ろしい結果です。

やはり安心と安全が

 大人になって周囲を見つめることができなければ、自分の関わりのある人のことも考えなくなります。生活の中でも対人関係を感情的に処理するよりほかに方法がないわけです。
 どうすればより良い生き方ができるのか。現代人は、その方法をお金の高とか持っている物の数で換算します。でも、それは不幸や孤独を招く可能性も高いのです。大切なのは身近な人だと思います。
 多くの本には、「成長過程で自分より思考程度の高い人、生き方がきちんとしている人と交流を深めて自分のレベルを上げていくよりない」と書いてあるものが多いのです。もちろん、「周りにいる愚かな人や悲惨な人を他山の石(生きていくうえで参考になる他人の失敗)としながらなんとか自分を高める」、この努力しかないでしょう。
 知力も体力も個人差があり、時の運はまさに運命任せです。でも、これらも幼いころに無意識に刷り込まれた要素が働くように思うのです。すべての人は知力・体力・時の運の3つで生きていますが、これが俗に運命と呼ばれるものひとつで決まると言われます。しかし知力が少なくても体力がなくても、運まで悪くても、周りの人が助けてくれます。それもみな幼少期の環境で親や周囲との関係と密接に関連しているように思うのです。いかに幼い時期が大切か・・・楽をして育ててはいけません。その結果は、それなりに出てきますのでね。
 「楽をして・・」と言いましたが、いえいえ、子どもを育てるのは楽しいのです。「楽をして」というのは「手間を省いて」ということです。そうすれば子どもの成長にも安心でき、家族や周囲にも安全がひろがると思います。(ニュース3月号一部閲覧)



(2017年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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