ブッククラブニュース
平成28年8月号新聞一部閲覧 追加分

たかが絵本、されど絵本
C 2歳後半の読み聞かせ

 2歳児になると会話もじょじょに自由になり、意志の疎通が言葉で可能になります。ちっともしゃべらない子もいますが、耳に問題がないかぎり、読み聞かせた言葉や日常の言葉が十分頭に入っているので、まったく心配することはありません。オムツ外しと同じ個人差です。しゃべり始めのときには信じられないくらい絵本の中の言葉を、それも場に応じて適切に使うようになります。これは前回も述べました。
 また、この時期の大きな特徴は、空想力が増すことです。それまで暗くても平気で寝ていた子が、明るくないとこわがって寝られなくなる子がでてきたりするのも、空想力が増すことが原因です。大人は暗やみが物が見えなくて危険=不安という感覚になるのですが、子どもは逆に、暗やみに物が見えてしまうので怖さが出るのです。

例えば

 マリー・ホール・エッツの『もりのなか』というモノトーンの絵本があります(ほとんどのお子さんに入ります)が、子どもたちは、この本の絵から、それそのものではない形を感じ取ります。木の葉を見て『舌が出ている』と言ったり、石を見て『カメさんがいる』と言ったりします。大人にとっては木の葉や石にしか見えませんが……。
 この年齢では、まだ前後で長いつながりがあって結末にいたる物語や一文が長いものは受け入れられません。本は好きになっていますから聞いているでしょうが、長いとすぐ飽きます。2歳半以後では、単純な繰り返し(反復)の物語絵本、例えば『おおきなかぶ』、前述の『もりのなか』 などが適切なものとなってきます。
 また、単純なストーリーのもので’はあるけれども、しっかりした書き言葉(文章語)で構成されている絵本へなるべく早く移る必要もあります。「〜でした。」「〜です。」という書き言葉の持つ論理的な緊張感には慣れも必要だからです。
 テレビや漫画、RPGゲームなどの会話語(おしゃべり言葉)だけで育った子どもが、文章語のものに拒否反応を多く示すことからも、早いうちにしっかりと物語文に慣れておくことが重要になるわけです。
 さらに、とても大人では考えられない想像力が高まる時期なのでこの分野の絵本、『ぼくのくれよん』『おでかけのまえに』『でんしゃにのって』『おたすけこびと』なども楽しめる本になってくるでしょう。(つづく)

本とともに過ごしてきて

愛知県 志村多恵子さん 亮汰郎くん(高3)

 息子は今年18歳になりました。ゆめやさんとこんなに長いお付き合いになるとは、配本を始めた当初は想像もしませんでした。とにかく絶えず動き回る子どもだったのですが、不思議と絵本を読んであげるとじっとして聞いていました。本の糸綴じがぼろぼろになるまで読んだ「ゆびくん」、入院中点滴しながら「わにパンが食べたい!」と言った「からすのぱんやさん」。
 「スーホの白い馬」、「おおはくちょうのそら」、「きつねのでんわぼっくす」は「悲しい話だから何回も読みたくない!」といったこと、どの本も一冊一冊当時の日常の思い出が詰まっていて、書ききれません。
 小学校中学年〜高学年にかけては、おどろくほどの読書量だったと思います。「怪人二十面相」、「ムジナ探偵局」、「南総里見八犬伝」、「白狐魔記」はシリーズ全巻買って読んでいます。
 「空想科学読本」は学校で流行らせてしまったので、当時の担任の先生が、息子の本を友だちに貸して、返ってこなくなってはいけないのでと、自腹で全巻買って学級文庫にしてくださいました。
 私は子育ては半分ゆめやさんにしていただいたものと感謝しています。息子が産まれた1990年代後半〜2000年前半は少年犯罪が多発して、子育てに不安がありましたが、ゆめやさんが「絵本を与えて育てようという親の子はそんなことにはならない!」とおっしゃったので今日まで信じてやってきています。
 最近では、口に出して言うか言わないかは、時と場合によりますが、何かにつけ自分の意見や考えはきちんとあるようなので、「やはり少し大人になったんだなぁ」と実感しております。情報がありすぎる現代、本質を見抜く目をもっていってくれたら、と思います。
 次回、息子がゆめやさんにお邪魔する時は、大人の男同士の話ができるようになっていたらいいなと思います。

学校図書館をどう利用するか

 ある会員からのお便りに「学校図書館で100冊読もう!というお触れ」があった」と書いてきた人がいる。100冊という数値目標はともかく、以前からいっているが、低・中・高学年(高学年は私立中学受験を考慮してあまりキャンペーンをしない傾向にあるが)に、競わせて読書をさせることをするのが学校図書館だ。数字で計測できるから「成果」を捉えやすいのだろうが、なんといっても読書は質である。4日で1冊読めば年間100冊以上読めるが、高学年の本を4日で1冊読むのは、この私でも困難なことである。まあ、気を入れて4日で読めたとしても、また次の4日で1冊読むのは大変である。冊数が目標になると中身などどうでもよくなって、スーっと読めるものばかりになっていく。ラノベならこの私でも一日に1冊くらいは読めるが、要は質の問題。なんで、学校、学校図書館司書、教育関係者は質をみないのでしょうね。

B 高学年のラノベ問題

 以前、サブカルチャー(ゲームやアニメ・マンガ)の影響について書いていたら、ある方から「とりあえず読書ができていれば問題ないということですね。」というお便りがあった。そうは言うが、じつはアニメもマンガも本の形をとっているものがある。つまり本の体裁をしていてもサブカルチャーになっているものも多いということだ。
 たとえば、高学年になるとライトノベルというジャンルの本が出てくる。知らない人にはどういうものかさえわからないが、まったく多種多様で、じつは私もうまく定義できないでいる。ただ、最近は一般の本が売れないので、前面にライトノベルを平積みしている書店もあるから一度どんなものか手にとってほしいと思う。「百聞は一見にしかず」なので、どこかで見てほしい。まあ、左の写真のようなもので見かけはマンガ本のようなものである。拡大すると次の段落の左の写真のようなものだ。

ラノベがどんな本かというと・・・

 かんたんに言うと、萌え系女子のアニメ(右の写真のような)が表紙になっていて、ラブ・コメディーであったり学園ファンタジーであったり、ホラーっぽいものであったり多種多様である。
 アニメマンガで育ち、重いテーマのストーリーなど大嫌いな子は、当然、飛びつく内容である。私もどんなものか知るためにやむなく2、3冊開いたが、本を読んでこなかった子が飛びつく「内容」とは言っても、その内容そのものが「無いよう!」と思うようなもので、誰がどうした、これがこうなった・・・と5歳の子どもでも筋がわかるようなものだ。
 始末が悪いのは、思春期の少年少女の感情を刺激するような低レベルの表現が多く、誰が彼を好きで、その彼を誰かが取って、とか・・・高学年の子を刺激する内容はふんだんにある。これは5歳の子どもにはわからないものだが、どちらかといえば「わからないほうがいい」ものでもある。
 しかし、ラノベは本の体裁をしている。パッと見にはアニメ本のようだが、開けば字が書いてある。活字が並ぶ。知らない大人は「本だと思う」ことだろう。

要注意ではある・・・

 多くの学校(小学校)図書館には、ラノベは置いてないとは思うが、風の噂では「リクエストがあれば入れているところもある」ということらしく、中学校では置いてあるところがあることは承知している。この延長線上には、山田悠介や西尾維新、乙一などの残酷描写、性的描写の多いホラー的なジャンルへ進むものがある。こんな本ばかり読んでいたら、すくなくとも高度な読書に向かう力はどんどん落ちていき、高校生、大学生になっても、まっとうな文学書、一般書に拒否反応がでてしまうことだろう。つまり何百冊読んでも読んだことにはならないのである。
 まあ、こういう考え方もある。「それでも文字を追って読んでいるのだからいいではないか。」・・・たしかに、「ポケモンGO」にのめりこんで、深夜でもスマホに目を落として徘徊するゾンビ型若者より、ラノベを読んでいるほうがいいかもしれない。しかし、その見方は「目クソのほうが鼻クソよりいい」という比較レベルの話で、上から見れば、目クソも鼻クソも同じなのである。何でもそうだが、低きに流れることを肯定しないで、やはり子どもの成長をどこかで持ち上げていかないと、過激思想に走ったり、人の言うことに耳を傾けなかったり、挙句の果ては悪事に走ることさえあるだろう。人は、影響されやすい生物なのである。悪いものが環境にあれば悪いものに流される。良いものをおけばよいものに影響を受けてよくなる。(新聞8月号一部閲覧)

むかしばなし裁判 Bヘンゼルとグレーテル

時代背景

 法律が守られなくなった中世では、国が国民を守ることをしないで、戦争に明け暮れていたので、地方は疲弊していた。人々は生き抜くことにせいいっぱいになり、子どもを捨てたり、働かせたり、虐待したり、その結果、子殺し、親殺しもひんぱんに起こるようになった。窃盗や殺人なども日常的で、貴族と庶民の貧富の差が大きくなり、とくに社会的な弱者である子どもや老人、女性が被害にあうことが多かった。これを「中世の暗黒」と歴史家は呼ぶ。

あらすじ

 貧しい木こりの父と意地悪な継母。兄のヘンゼルと妹のグレーテルの四人家族のお話。食べるものもないので、家族はいつもお腹を空かせていた。そこである日、継母は考えた。夫婦だけでも食べられないのに子どもたちにまで食べさせたら暮らしが楽にならない。子どもたちを捨ててしまおうと考えた。 
 父親は反対したが、継母の強い言葉に勝てず、子どもたちを捨てることに加担した。翌日、夫婦は、薪拾いに行くと言って子どもたちを森に連れ出し、置き去りにしようとした。そのことを知ったヘンゼルが途中で白く光る小石をたくさん拾って置いていき、それをたどって家に帰ってきてしまった。
 しかし、継母はあきらめず、再び子どもたちを森に置き去りにする。ヘンゼルはしかたがないので、パンくずを道に落としていったが、鳥に食べられてしまい、帰り道が分らなくなってしまう。
 そして迷って森をさまよっているうちにヘンゼルとグレーテルはお菓子の家にたどり着く。お腹を空かせた二人がお菓子の家を食べていると気のよさそうなおばあさんが出てくるのだが、これがじつは、子どもを捕まえて食べる悪い魔法使いだった。
 ヘンデルとグレーテルはこの魔女に捕まり、ヘンゼルは小屋に閉じ込められ、太らせてから食べられることになった。そしていよいよヘンゼルが食べられそうになったとき、カマドの火加減をするように言われたグレーテルがカマドに魔女を突き落とし、フタを閉めて焼き殺してしまった。
 そして、ヘンゼルを助け、魔女の部屋にあった宝物を持って兄妹で逃げ出し、さまよいながら無事に家に帰ると継母はすでに亡くなっていたので父と暮らすことになった。

起訴

 検察が起訴したのは継母だが、彼女は死んでいるために「被疑者死亡」での起訴となった。検察側による継母の虐待行為の陳述のあと、子捨てを容認した父親が参考人として出廷し、尋問を受けた。
 検事が「なぜ、継母が子捨てを計画したときに、何も言わず賛同したのか?」と問いただすと父親は「あまりの貧困で子どもを食べさせることができなかった。森へ捨てて死んでも貧困で死んでも同じだと思った。継母は性格が荒くとても逆らえなかった。」と繰り返すだけ。父親の弁護人も「あくまで死んだ継母の計画によるもので、情状酌量をお願いしたい。」と述べるにとどまった。被疑者死亡であるため、父親も無罪。裁判はそのまま結審した。

二度目の起訴

 しかし、事態が変わったのは検察側が妹のグレーテルを強盗殺人罪で起訴したことからである。
 「兄が魔女に食べられようとしているのを防ぐために行ったこととはいえ、カマドに放り込んで焼き殺すというのは過剰防衛といえるだろう。二人でいつでも逃げ出すことができたにもかかわらず、きれいな寝床、菓子などの食べ物に目がくらんで、魔女を殺したあげく魔女の持ち物の宝を持ち帰るなど強盗殺人に等しいものがある。」と検事は告発した。
 しかし、弁護人はこれを強く否定した。「グレーテルは貧困家庭で育ち、継母が来るなど十分な愛情を受けて育っていない。グリム童話を読み聞かされた幼児期もなかったことがわかっている。こういう環境で育つと生き残ることだけで頭がいっぱいになり、冷静に判断することはできなくなる。まして思春期の少女である。情緒も不安定だろう。これは、少女の犯罪というより、このような事件を引き起こす原因がある社会のほうに罪があるのではないか。セーフティネットも張れずに子どもの貧困をそのままにし、生活権・基本的人権さえ奪っているのは国家の犯罪ともいえるだろう。このような犯罪は、個人責任だけで追及するものではない。憲法には、最低限度の文化的生活が保証されているが、これができないのは国が憲法をないがしろにしているからである。このままでは同じような事件が次々に起こることだろう。」・・・・・このため審理は継続になり、最高裁へ上告されることになった。(増ページ一部閲覧8月)

ゆとり世代ですが・・・なにか?

 現代の子どもは夏やすみでも忙しい。旅行、スポーツクラブ、高学年は塾・・・その合間を縫って行楽となるとスケジュールは一日刻み、時間刻みになる・・・・さらに「ポケモンGO」などという得体の知れないゲームが流行っているから、そんなものに費やされる時間もある。すべて「過ぎたるは及ばざるがごとし」で行き過ぎは良くないが、現代人は平気で「行き過ぎる」・・・こまったものだ。
 私が小学生のときは、朝から晩まで川や野原で時間をつぶしていた。よくも長い夏休みを飽きずに過ごしたと思うが、あんまり暑い昼間は寝転がって本を読んでいたものだ。それ以外は外遊びだ。つまり究極の「ゆとり世代」だったわけである。その後、私の娘たちの世代になると、高校は全入状態、大学生も多くなったが、若者といろいろ話していても、どうも話が噛み合わない。年齢のせいかと思ったが、たまにはそうでない若者もいるので、世の中全体がきちんと考えなくなったのだろう。ネット情報には強いのだろうが、その情報が身についているかというとそんな感じがない。やはり手間ヒマかけて得たものでないと、考え方も知識もきちんと見につかないのだろう。

クマクスとスマホ

 よく、お客さんと話していて「どんな本が好きですか。」「どんな人物が好きですか?」と聞かれるが、たくさんで答えられない。しかし、日本人では南方熊楠(みなかたくまくす)と夏目漱石、外国人ではヘルマンヘッセとジュールベルヌ・・・が好きである。ゆとり世代だから、こういう人たちの本は中学から高校にかけてずいぶん読んだ。
 この中の南方熊楠さん、知っていますか? 幕末に生まれて、一九四一年に亡くなった方で、「歩く百科事典」と呼ばれるほどの博覧強記。とくに粘菌研究が有名だが、さまざまな分野に業績を残した博物学者である。記憶力が異常によかった。(写真は南方熊楠の青年時代)
 和歌山の雑貨商の息子に生まれたが、子どものころから習うというより学ぶ人で、とんでもなく本を読んだり調べたりした。それもハンパでない行動で知識を集めた。
 隣村に多くの書籍を持つ蔵書家がいると聞いて、交渉して、読ませてもらうことになった。毎日遠くのその家に歩いて通い、本を書き写し、時にはしっかり読んで記憶して家で思い出しながら書いたという。そうやって当時一流の学問をどんどん吸収してしまった。旧制の中学へ上がる前の話だ。当然博学になる。
 私は、この人の存在を知ってから、こうありたいものだと思って努力したが、とうてい遺伝子が違う。その百万分の一も記憶できなかったが、おかげで本を読んで物事を覚えるという「行動」は身についた。

インターネット

 一方、現代のインターネットはものすごい量の知識情報を持っている。いまではパソコンではなくスマホでも探せる。段階を踏まずにいくらでも調べることができる。それはまさにそれぞれのレベルの無数の階段に知識情報の灯りが点っているようなもので、検索用の語を入れれば山ほど探したいものが出てくる。
 今では売れなくなった歌手の生年月日から結婚相手、あるいは離婚相手まで出てくる。「琉球処分」と入れれば、年号から始まって時の内閣のことまでわかる。
 いま話題の女性政治家がじつはカルト的な宗教団体に入っているという情報もたやすく手に入る。さらに、ものによっては画像や動画でも見ることができる。スゴイ!
 これでは、クマクスのように隣村まで歩いて行かなくても、パソコンが一台、スマホがひとつあれば、かなりの知識欲を満たしてくれるのだ。そしてスマホをー台持つのは、大蔵書家になるより、ずっと簡単だし、書き写しも記憶も不要である。
 先日、スマホ大好きの56歳の知人と話をしていたら、地震速報が入ったという。場所は茨城県日立市・・・震源から震度まで教えてくれた。そこで私はそこに住んでいて、いまはもうブッククラブを卒業した会員に暑中見舞いをかねて地震見舞いのハガキを書いた。インターネットはすごいとおもった。で、後日、その56歳の知人がまた来たので、地震見舞いのハガキのことを話すと、彼は地震があったことそのものを忘れていた。ネット情報などその場でしか残らないものなのかもしれない。
 とはいえ、もしクマクスが現代で小学生くらいだったら、パソコンやスマホでもっと早くたくさん学んで、ずっと多くの業績を残せたかもしれないとも思う。あの世から彼は、現代のネット社会をうらやましく思い、悔しがっているかもしれない。何の苦労もせずにチョコっと検索用語を入れれば膨大な情報が手に入るからだ。
 しかし、クマクスと隣村の蔵書の間には何キロメートルもの道があった。彼はあまり苦にもせず通いつづけたわけだが。その家の蔵書は、よけいな情報がほとんどなく貴重な知識ばかりだった。ところが、インターネットには、間違いやエログロの画像や偏し情報がワンサとある。得体の知れない株取引からゲームまで、これでもかとある。
 青年・熊楠は、それらにひっかかって、ゲーマーやら株屋になっちゃうのではないか? もしかするとヒキコモリ、ネトウヨになり、部屋に入って2チャンネルばかり見ているのではないか。あるいは変なサイトにアクセスして覚せい剤の売人になる可能性もある。
 しかし、クマクスは不便な時代に生まれていた。不便は何かするための意志と努力を生み出す。私は、小学生の夏にジュール・ベルヌを読んで魅了され、潜水艦ノーチラス号の絵を何枚も描いた。その背景の水平線には神秘の島が浮かんでいた。江戸川乱歩を読んで、少年探偵になりきっていたときもある。何になりたいかは考えてもいなかった。
 結局、子どもに必要なのは、自分が本当はなにをしたいか知る力と、そのために、いまある環境をどういうふうに上手に使うか、その知恵を働かせることなのかもしれない。クマクスのような生き方はできなかったが、それでも、そこそこ満足のいく人生を歩んだような気もしている。(イラストは堤春生さん)



(2016年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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