ブッククラブニュース
平成28年8月号(発達年齢ブッククラブ)

怪談

 夏といえば怪談・・・なんでか知らないけれど昔からそう決まっている。そこで、ゆめやのおじいさんは怖がる子どもに「怖い話」をする。「してやろうか。」・・・「して! して!」という子もいれば、「怖い! 聞きたくない!」と耳をふさぐ子もいる。で、「青い血」という吸血鬼の話とか「結婚式のお赤飯」なんていう小話をする。まあ、これはオチがある楽しい話だ。だから、一度聞くと子どもというのはしつこくなるから、次々にねだってくる。
 「もっとして!」「もっとして!」・・・こうなるとこちらも面倒になるから「じゃあ、すごいコワい話だぞ。これでおしまいだよ。すぐ終わるからよく聞いててね! 今度は『亀の呪い』というお話。カメはね。ノロい・・・!
 はい、おしまい。」
 こういう話は、ダジャレのようなもので、他愛ないものだから汗も引かないし、ゾッともしない。もちろん夏向きではない。
 以前、次女と「リング」という映画のDVDを借りてきて冬の夜中の1時から見始めたが、あまりにも背筋が寒くなる映像で、二人ともトイレに行かれなくなってしまった。こういうのがほんとうは夏向きなのだろう。

怪奇映画

 私の若いころは、横溝正史の怪奇映画が流行った。「犬神家の一族」とか「悪魔の手毬歌」・・・みなさんは若いから観たことがないだろうが、「八つ墓村」は何度もリメイクされたので知っているかもしれない。
 この作品は実際に起きた事件をモチーフに作られたものだ。昭和13年、岡山県の津山市で「津山30人殺し」という事件が起こった。結核に冒された男が頭に二本の懐中電灯を角のように差し、猟銃と日本刀などで武装して村人30人を殺していくというものだ。一説には結核菌で脳がやられたというが、とにかくすごい事件である。まあ、ふつう殺人は頭のどこかがおかしくて起こるといわれている。たとえば、偏桃体という部分に先天的な異常があったりすると、その後の生育環境でそこが刺激を及ぼして殺人衝動が起こるなんて説もある。しかし、ふつうは一人二人を殺すくらいで、そうそう多数の人に向かっていく殺人衝動はない。秋葉原事件、池田小事件などは多くの人に刃が向けられた事件だが、津山30人殺し。一気に30人はものすごい。おそらく単独犯行でこれだけ多くの人が犠牲になった事件は近代では、この事件が一番だろう。
 これを推理・怪奇の作家・横溝正史が、戦国時代に村人が尼子一族の落ち武者を皆殺しにした怨念で、落ち武者の怨霊が犯人の多治見要三に乗り移った復讐劇にしたてあげた。それを一連の怪奇シリーズの主人公・名探偵・金田一耕助(きんだいちこうすけ)が解明していく話にしている。私は、犯人役が山崎勉の映画を観たが、いまだにその恐ろしい形相が目に浮かぶ映画だ。

相模原事件

 先日、神奈川県で似たような事件が起こった。障害者施設で19人の入所者を次々に殺害していく狂気の事件・「相模原19人殺し」ともいえる事件である。こちらは覚せい剤や大麻で頭がおかしくなったという説が出てきているが、脳がやられたからといって殺し回られたのではたまらない。
 だいたい殺人というのは、頭がおかしくなった人間が起こすのであって、冷静に理性的な殺人があったら(ないことはないのだろうが)そのほうが怖い、たいていは、頭がおかしくなって人を殺すわけだ。冷静で理性的でも、それはみかけで、もとから頭がおかしいといえるだろう。たとえ正当防衛でも殺人となれば前後の見さかいがつかない状態といえる。落ち着いて殺すことができるのは、ゴルゴ13のようなプロの殺人者で、社会的な事件である殺人は、いずれも犯人がカッとなって殺すか、計画的に殺すかのいずれかである。いずれにしろどこかが狂っている。
 もちろん、これは戦争も同じである。しかし、戦争では、例えば「盧溝橋40人殺し」とは表現しない。「盧溝橋事件」「日華事変」「ウクライナ紛争」・・・どこかで殺人が正当化される言葉が使われる。内容は殺人だが、うまく歴史用語でごまかす。これは後ろに国家がいるからである。こういう言葉で語られると、悲惨さが薄められて、「しかたなかったのかな?」とか「国と国のぶつかりあいなんだから」という感覚で、殺し合いが見えにくくある。だから「〜殺し」というのは、あくまでも国家が個人を裁く殺人事件で使われる言葉である。国民が「殺人」で戦争を裁くことはない。
 私は、この相模原19人殺しの犯人について、どういう子ども時代を送ってきたのだろうか?と思っている。父親は小学校の図工の教師、母親は漫画家(一説にはホラー漫画)の一人息子ということだ。年齢が26歳なら、これはもうサブカルチャー全盛の時代に成長し、よくもわるくも大きな影響を受けていたことだろう。でもそれは創造に過ぎず、できれば、どんな幼児期を送り、どのようなもので遊び、どのようなものにのめりこんだ少年時代だったか知りたい。こういう事件が起きたときに犯人の過去がわからないのは、子どもを育てる上で「してはまずいこと」「しなければいけないこと」が見えなくなるからだ。

昭和史発掘

 さて、「津山30人殺し」の3年後、昭和16年に日本は太平洋戦争を起こす。歴史は繰り返す。まさか「相模原19人殺し」の3年後に戦争は起こらないだろうが、松本清張の「昭和史発掘」を読むと、戦争前に「奇怪な事件」がいくつか起こっていることが描かれている。犯人がわからない殺人事件や上記のような猟奇殺人。世相がそういう事件を生むのか、人間の心が壊れてきているのか・・・。
 現在も、憲法を変えて戦争をしたい人が出てきて、国民の中にもキナくさい人々が多くなってきた。選挙を見ていても悪意が飛び交い、中傷合戦が起きている。「国を守るために血を流せ!」という防衛大臣まで出てきた。世の中にも軽い考えが満ちてきて、悪意も増幅してきたようだ。何が起こるかわからない。奇怪な事件、アッと驚くようなことが、これから東京オリンピックまでに起こるだろう。「こんなことが起こるなんて!」というような・・・・。さらに隠されたことがいっぱい出てきて、嘘でごまかしていたものも白日の下にさらされるだろう。怪談の連続となるかもしれない。
 怪談は「話」だけで終わるからいいが、怪談のもとになる事件は命を危うくするものである。子どもたちや若者に血を流させたくなら、怪談の元も絶たねばならない。しかし、この国の人々・・・かなり劣化しているようなのでどうなるのかな。歴史・・・繰り返しちゃうのかな。(8月号ニュース一部閲覧)

ホタル来い・・・その後

 6月号のニュースでホタルの分布の話を書きました。西日本のホタルはせっかちで2秒に1回光り、東日本のホタルはゆっくりと4秒に1回、そして、ちょうど真ん中の糸魚川―静岡線近辺のホタルは3秒に1回。自然はすごいものを伝えている、というふうに書いたわけです。
 ところが、すぐ、そのあと選挙があって、その当選の分布を見ていたら、なんとホタルの分布そのままのような区分でした。西日本と東日本・・・多少の例外(沖縄や秋田)があるもののはっきり勢力分布がちがうのにおどろきました。
 もちろん、西日本のほうが強かったのですが、この散らばりを見て、ホタルの分布と同じだと思ったり、「まるで明治維新直前の戊辰戦争と同じだなぁ!」と思ったりしました。西軍優勢、東軍が劣勢です。ここでもまた歴史はくりかえすのでしょうか。これで、これからの時代は明治時代のように、戦争に向かってまっしぐら。そして、生活は西のホタルのようにあわただしく明滅する時代になるのでしょうか。
 甘い水を求めて点滅を激しくしていると、そのシッペ返しに遭いそうですが、それが次世代・・・子どもの時代に大きく影響してきたら大変です。

すべてが重なる?

 でも、よく考えると、じつに明治時代に似ているのです。経済成長を「殖産興業」に置き換え、武器輸出や9条改憲を「富国強兵」に置き換えるとまったく歴史は繰り返すことになります。ヘイトスピーチなんかを聞いていると「脱亜入欧(アジアから抜け出て、欧米の仲間に入る=アジア蔑視、欧米重視)」って感じがしますし、選挙が終わったとたん沖縄イジメが始まるというのも明治政府による沖縄強制併合(琉球処分)のように思えます。まるで、明治時代を繰り返そうという勢いです。鹿児島県では原発反対の知事が当選しましたが、これも西郷隆盛が負けた西南戦争のような気がします。おそらく沖縄と同じく政権が圧力をかけ、まるで明治時代。
 いやいや、一億総活躍なんていっても実態は、労働力が足りないので、とりあえず子どもなんかどうなってもいいから保育園に詰め込んで、女性労働力がほしい!の一点張りです。戦争で男手がなくなったときにも「一億総動員」というのがありました。警察が監視の目を光らせるようになり、マスコミが沈黙させられています。いっぺんに明治〜昭和初期まで繰り返そうというのでしょうかね。

3分の2の意味?

 でも、すごく残念なことは、7月の参議院選挙は悪い狙いが意図的に隠されて多くの人は気がつかなかったということです。
 「景気がよくなる」「待機児童がいなくなる」などという文句に踊らされて、何も考えずに・・・与党に3分の2を与えてしまいました。あとで聞いたら、多くの人が、その「3分の2」の意味もわからなかったそうです。ほとんどの人が高校卒、大学卒の時代なのですが、やはり明治時代と同じように目先のことにしか目が行かないのでしょうか。
 私は景気や経済成長のような甘い水は、「すぐに不況や戦乱のような苦い水に変わってしまう」と思うのです。2秒に1回光るというのはあわただしさだけが生活の中で進んで、落ち着いていろいろなことができなくなる感じがするのです。この後ろにいるのは、カルト的な神道を政治に持ち込みたい「日本会議」の人たち、軍需で一儲けしたい「梅下村塾」の企業集団、国法など無視してもやりたいことはする「日米合同委員会」の官僚グループ。国民は苦い水を飲んで、自分たちは甘い水・・・では困るのですが、今回も国民を目先の甘い水でうまくだませたわけですから、これからは大変です。

「悪」で育てるの?

 明治時代に福沢諭吉が唱えた「立身出世」という考え方ですが、まだまだ根強くこの国の人々の教育観や子育て観に影響を及ぼしています。これはいまでも学校の偏差値競争や学歴偏重にまでつながっていますから、当然、イジメや悪意、差別を生むもとになります。しかし、これまで多くの親に接してきましたが、その教育観のほとんどは子どもに出世してもらいたい、有名になってもらいたい・・・という感じのもので、「善人にしたい」とか「間違った道に行かないように」という明言は聞こえてきませんでした。
 明治以来、日本の庶民・・・とくに農民の子育ての基本は、子どもを博士か大臣にすることでした。それがダメなら国の役人、それもダメなら地方の役人、教師、警察官、消防士、公務員にすることが周囲から称えられる子育てだったのです。それでもだめなら郵便局でも農協でもよい。「出世をすればいい思いが出来るよ!」「出世しないと兵隊にとられるよ!」・・・・こういう強迫も福沢思想の後ろにはあるようです。さらなる福沢の教育観の問題は、競争主義だけで人の上に人をつくり、人の下に人をつくる結果を生み出します。そして、その競争は上述の悪意や差別や蔑視を生んでいくわけです。
 さて、その福沢諭吉と同じ時期、その反対側にいた人もいました。今年、没後百年の夏目漱石です。
 彼は『坊ちゃん』で、こんなことを言っています。
 「考えてみると世間の大部分の人は悪くなることを奨励しているように思う。悪くならなければ社会で成功しないものと信じているらしい。たまに正直で純粋な人を見ると『坊ちゃん』だの『小僧』だの難癖(なんくせ)をつけて軽蔑する」・・・この言葉を聞いて、あなたは「漱石のように言ってちゃ、生きていかれないよ。」と思うでしょうか。なんといっても子どもも立身、そして自分も出世なのでしょうか。少しくらい悪に染まっても職位が上がり、良い生活ができたほうがいいのでしょうか。
 ここでは書きませんが、漱石は『三四郎』の中で日露戦争後に出会った男とある会話をします。三四郎が「この国もどんどん発展しますね。」というと、その男は・・・・なんと言ったか。この発言は、現代の日本をそのまま表した言葉です。すごい一言です。これは読んでのお楽しみ、ですが。蛍火のように未来が透けて見える言葉です。
 生物も人も風土に影響されます。福沢諭吉は西のホタルでした。夏目漱石は東のホタルです。私は糸魚川静岡線のチョイ東のホタルです。さて、第二次戊辰戦争が始まり、長州人政権が強くなりました。今回もまた東の大負けになるのでしょうか。それとも・・・。(8月号新聞一部閲覧)

小川未明とその周辺(続き)

 「小川未明とその周辺」という、ひじょうにむずかしいタイトルで話をすることになったわけですが、多くの方々には、ある意味「時代遅れ」感がある話だったのではないかと思われます。
 小川未明が亡くなってから65年、浜田広介が亡くなってから53年、今日の話の中で取り上げた芥川龍之介に至っては、すでに100年・・・この年月から考えると、そしてまた戦後日本の読書文化の「軽佻浮薄」化状態から考えると、一般的には「読まれなくなって久しい」という感じがしてきます。
 「赤い蝋燭と人魚」や「野ばら」を知っている人が、現在の30歳代で十人のうち一人いるかどうか、20歳代に至ってはいないことでしょう。
 ですから、聞きに来てくださった方々には取り上げる本のあらすじを書いたものを用意しました。そこから出発しないと何を話しているのかさえわからなくなってしまうからです。

少年文学宣言以後

 で、それは置いておいて、話は「その周辺」です。小川未明や浜田広介は、鳥越信さん、古田足日さんらの「少年文学宣言」によって「暗い文学」と指摘され、ある意味「否定されてしまった」のですが、では、少年文学宣言以後、児童文学はどのような流れになって行ったか、というと、ひじょうに明るくなりました。初期には松谷みよ子さんや神沢利子さんのような戦争について書かれたものもありましたが、全体として重たいテーマのものは時代が下るにつけて減っていきました。
 まあ、幼児向けの絵本作品が明るくて他愛のないものというのはけっこうなことです。「ぐりとぐら」のテーマはみんなでカステラをつくる話で、子どもは食い物に飛びつきますから、こういうのはしかたがないでしょう。しかし、この本を小学生が好んで読むとすれば問題があるような気がするのです。テレビのバラエティ番組は食い物と流行、それにスキャンダルで持っていますが、やはり、子どもならともかく、大人をこの手の低レベルで釣るというのはどういうものかなと思います。テーマが人間の持つ問題とか哲学的なものではなく、人間が感覚的に喜ぶものにのみ終始していたら、これはもう思考のレベルはダウンしていきます。しかし、世の中の流れを見ていると、少年文学宣言以後、そのような傾向を持った児童文学がどんどん増えたことも事実です。

劣化の方向

 「スキャンダル」といえば、余談ですが、鳥越さんは晩年、その手のものとバトルしています。漫画「ハレンチ学園」の永井豪さんの批判ですが、もうそのころには子どもの中に平気でエロチックなものが入り込んでいました。これは健康的なお色気とはいえ子どもが喜ぶようにしかけたものであり、当時、鳥越さんが思いもよらなかった少年文学宣言の後遺症といえるかもしれません。「作者の書きたいものでなく、子どもが喜ぶものを」という鳥越さんや古田さんの考えが進んだ結果、「ハレンチ学園」(=子どもが喜ぶもの)とか「クレヨンしんちゃん」のような子どもに媚びたものが多くなりました。その社会的影響はかなり大きいものがあります。鳥越信さんが永井豪さんを批判せざるを得なくなったのは皮肉なことです。
 その後は、マンガやキャラクターアニメも含めて内容の劣化が進んでいます。萌え系の表紙絵でおなじみのライトノベル(ラノベ)などは、もはや「内容」が「無いよう!」という状態までなってしまっています。さらに子どもが青年、成人になっていく過程で悪影響を及ぼすかもしれない残酷もの、ホラーもの、性的なもの・・・自由の名の下に山ほど出版されるようになりました。
 さらに、流行するものには単純で底の浅い性質があることはご存知だと思います。わかりやすいものは流行しやすいのです。たとえば、「ポケモンGO」などは、子どもから大人までわかる、ただ出てきたらゲットする単純なゲームです。また、かつて一世を風靡した「アンパンマン」・・・アンパンマンは正義の人で、バイキンマンは悪い人・・・これも単純な構図です。アンパンマンも、イースト菌で出来ているという不条理は描かれません。バイキンが、物を腐らせることで自然循環の一部を担っていることも描かれません。ここでは「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」と同じで、正義/悪が最初から決まっている構図ですから、不条理も無常も入り込むスキがないのです。
 より多くの人に受ければ儲かります。だから、どんどんポピュリズム・・・つまり大衆による意識の劣化が加速してしまうのですが、ここに楔を打つ人や文学作品はなかなか現れません。

百年前の子どもの本

 およそ百年前に、芥川龍之介が子ども向きの作品を3点書いています。ご存知の「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」です。
 「蜘蛛の糸」は、せっかくお釈迦様が救おうとした悪人が心を改めない言葉を吐いたために救助のための蜘蛛の糸が切れてしまう話。「杜子春」は、お金では友情や幸福が買えないことを描いた話、「トロッコ」は、少年の未知の世界への期待と恐れをみずみずしい感性で描いた作品・・・で、読めば読むほど深いものを感じます。当然、その結果として、「悪いことをすると救われない」「お金を信仰していると孤独になる」「少年時代に持っていた純粋さを思い出す」など・・・さまざまな効果が出てくるものです。
 つまり、そこには人間が普遍的に持つ問題や不条理、無常や倫理的に生きる意味などが詰め込まれています。これが近代の子どもの本の出発点ですが、さすがは天才・芥川の作品ですから、とても子どもが読むにはむずかしいレベルの本です。いまでは大人さえ敬遠するほどのものとなっています。

読んでおけば心に残り、やがて、

 芥川の3作品は、ライトノベルと比べれば月とスッポンですが、じつは、この系譜を引いているのが小川未明や浜田広介で、(もちろん、その間には有島武郎や山本有三らがいますが)人間の心が持つ問題をいくつものモチーフから描き出している意味では、芥川の系譜を告ぐものでしょう。
 たとえば、小川未明の「野ばら」は国境を守る若い兵士と老兵の物語ですが、この最後の場面は戦争というものが作り出す悲哀を描き出しています。「赤い蝋燭と人魚」は欲に駆られた人間が、人魚の恨みの末に起こる自然の猛威によって滅びる話です。浜田広介の「椋鳥の夢」は、母鳥が死んでしまった子どものムクドリが風の音や雪の白さで、母鳥が帰ってきた夢を見るせつなくも悲しい物語です。有名な「泣いた赤鬼」は、言うまでもなく友情を支える「惻隠の情」です。もちろん、子どもが読んでも、その示唆するものはわからないかもしれません。しかし、やがて成長していくうちに、そのテーマを考える機会にぶつかり、深い意味がわかってくるのではないでしょうか。
 もし、安倍首相が「野ばら」を読んでいたらどうでしょうか。もし、お金のために際限なく海産物を取る漁師が「赤い蝋燭と人魚」を読んでいたら、あの大津波をどう考えたでしょう。もし、舛添前東京都知事が「杜子春」を読んでいたらどうだったでしょうか。もし、私たちが「泣いた赤鬼」を読んでいたら、してもらうばかりで何もしない村人をどう思うでしょう。
 このように、人間の世界を取り扱った優れた作品は、読んでおけば心に残り、やがて、大人になったときに、その意味がわかってくるものです。わかれば、他人の気持ちもわかり、ご悪人になることが避けられます。
 さて、これが「小川未明とその周辺」の「あいまいな」結論ですが、あなたは自分のお子さんをどういう大人にしたいと思いますか? (増ページ一部閲覧)



(2016年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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