ブッククラブニュース
平成28年3月号(発達年齢ブッククラブ)

何なんだよ、日本

 今年は一月から家の中では病気の連続で、二月は、インフルエンザに孫たちもその親もかかり、機能停止状態でした。でも、ゆめやのおじさんもおばさんも予防接種もしなかったのにもかかわらず、かかりませんでした。高齢者は倒れず、若い人が倒れる・・・これでは一家総活躍はできません。なんだか日本と同じですね。で、私たち老人が若い人や子どもの介護をしながら遅い晩御飯を食べていました。テレビではニュースが国会中継・・・みなさんもご承知の待機児童のグチを書いたブログを野党が読み上げていました。
 子どもを預けられなくて一億総活躍に参加できない母親たちの叫びです。一億総活躍と言うほうも言うほうで、どうせなら一億総動員と言えばいいのですが、言葉でごまかす政権では、一億総活躍となります。人口減少の時代におかしな話なのですが・・・国民が自分たちの生活を壊してまで、それに応える必要があるのかどうか。
 たしかに、学校では長いこと女性の社会進出を促す教育をしてきました。人口が減ることがわかっていたので、女性労働力も必要と思ったのでしょうが、女性が子どもを産む存在であることが、いまいちわかっていなかったようで、外働きばかり奨励する結果になりました。このため、子どもを見失った形で女性が働き始めました。手のかかる乳幼児を自分の手で育てるよりは外部に依存したほうが楽、というのはわかります。しかし、女性(父親もね)の権利である子育てをきちんとできる環境や条件の整備などはおかまいなしで、「働け!、働け!」、「働く、働く」では子どもはおかしくなっていくことでしょう。いま、そんな事件が山のようにあり、しかも毎日毎日起きています。
 家や車・・・を買うために働き続ける・・・見かけだけの豊かさ・・・その裏では子どもと接触する時間もなくなっています。それで、幸福は手に入るのか。

母親のブログは反語なのかな

 さて、国会で読み上げられた母親の叫び。ブログの文なのでインパクトを考えてか、ものすごい汚ない日本語で、私は文には不快さを感じてしまったのですが、内容は面白かった! 以下原文のママで、御紹介します。
 何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日、見事に保育園落ちたわ。どうすんだよ、私活躍出来ねーじゃねーか。子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるのに何が不満なんだ?
 何が少子化だよクソ。子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。どうすんだよ、会社やめなくちゃならねーだろ。ふざけんな日本。
 保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーって、そんなムシのいい話あるかよボケ。国が子供産ませないでどうすんだよ。
 子供にかかる費用全てを無償にしろよ。不倫したり、賄賂受け取ったり、ウチワ作ってるやつ、見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
 まじ、いい加減にしろ、日本。

 ほんとうに「そうだなぁ!」と思いました。品のない言葉だけれど、このくらい強く言わなければ厚顔無恥のお偉いさんには響かないでしょう。いや、これでも響かないほど面の皮が厚く、聞く耳を持たないのが政治家ですから、これからは大変です。こういう言い方しか政治をゆさぶる力がないとすると、もはやかなり危ない状態になっていると思います。

貧窮問答歌

 国民の鼻先にニンジンをぶらさげて、「ほら走れ、走れ、活躍しろ!」・・・欲で釣るのですからすざまじいです。経済が破綻すれば戦争でもして軍需でひともうけということなのでしょう。その準備は着々・・・まあ、国民は口でダマせますから「平和のために戦争するのです。」と言えばいい。言葉でかんたんにダマせます、日本人は。前述の一億総動員もそうでした。そのあとは一億火の玉、さらに一億玉砕ということが叫ばれた時代がありました。歴史を知っている人には悪夢だけれど、若者には戦争はゲームの中の世界。金、かね、カネでダマして、次の選挙もナチスのように大勝利ですかね。ヒトラーは子どもがいなかったので、子どもの未来を考えることもなかったのですが、日本は子どもを宝として見る国です。
 「白銀(しろがね)も黄金(くがね)も珠(たま)もなにせむに、しかれる宝、子にしかもめや(山上憶良・貧窮問答歌)」ですからね。「お金にまさる宝は子どもだ!」というのが日本。たしかに、江戸時代末期に訪れた外国人たちが書いた日本見聞記には、子どもを大切にしている日本人の姿が描写されています(「日本滞在記」タウンゼント・ハリス、「日本奥地紀行)イザベラ・バード)。
 「日本では、朝、家の外で父親が子どもと遊びながら、ほかの父親と雑談する風景が当たり前のように行われ、母親は朝食を作っている・・・父親たちは子どもをからかったり、遊んでやったり、いろいろ教えたり・・・朝夕のたっぷりある時間を子育てに使っていたのです。」と。もちろん、母親も働いていないわけではありませんが、子どもはいつも視野の中にいました。それが、どうも明治あたりからおかしくなったようです。国のために働く・・・男も女も馬車馬のように働き、子どもも小さいうちから働くようにさせられました。人身売買まで起きました。これが現代でも起こっているように思います。
 子どもは親が育てるものだと思います。個人的な意見ですが、どうも雇用機会均等を叫ぶ人たちは政策に乗せられているように感じがしてしかたありません。「小さいうちから保育園へ行けば自立が早まる」とか「子どもは社会が育てる」などと言いますが、それは追いつめられた自立かもしれず、誰もが子どもに対して責任を持たない社会にするということになる可能性が高いのです。
 なぜ、有給の産前産後休暇を求めるほうに行かないのか・・・それはけっきょく楽をしたいということでしょう。
自分は楽をして、子どもには手をかけない・・・そのツケが回ってこなければいいのですが・・・・。

桜散る・・・どうする日本

 いま、ひじょうに特徴的な現象が出ています。老齢化では片づけられない話です。例えば近くに田んぼをつぶして造成した町があります。ほとんどが大きな企業退職者とか元学校教員、元公務員が若いときに買い求めた家で、40年くらい前の宅地ですから敷地はそう大きくない、建物も老朽化が進んでいます。子どもにはみな高等教育を受けさせたので、出て行ってしまい、老人しか住んでいません。伴侶が亡くなれば独居です。買い物にも不自由な状態です。いまのところ年金がたくさんもらえるので何とかなっていますが、立身出世だけ求めた教育家族の成れの果てとも言えます。当然、やがては空き家だらけの町になるでしょう。こういう町は日本の地方には山ほどありますよね。
 彼らが子どもを大切にしたのか、そうでなかったのか・・・親が老人になっても子どもは寄り付いてきません。やはり幼児期の潜在意識の中に、育ててもらったかもらわなかったかがキチンとインプットされたのかされないのか・・・幼児期の追いつめられた自立は、そういう結果をもたらしているおではないか。そんなことを思うのです。
 でも、もともとは子どもを大切にする風土と歴史を持つ国ですから、子どものいないヒトラーのような「未来よりは現在の繁栄」というような指導者が出てくるわけもありません(?・・・あれ!)。子どもがいない? 「先々の借金返済より、いまの経済成長」(あれ・・・?)
いまは、みんな欲に目がくらんでいる時期なのでしょう。たかがウサギ小屋とコロコロとモデルチェンジする新車が欲しくて・・・・やがてそのツケは株の大暴落ということで決着がつくかもしれません。どうも、今月から五月にかけて株の変動幅が大きくなるような気がしますが、どうなんでしょう。そんなことで国民生活が破綻したら不幸な話ですよね。働いて、働いて・・・貧乏になる、さらには人間が劣化していく、壊れていく・・・それは、もう毎日の事件で証明されています。
 で、私も、そのお母さんに見習って、少し汚ない言葉を使って、インパクトのある言葉で言ってみたいと思います。
 何なんだよ!日本、子どもが守れなくて国なんか守れるわけがねぇじゃあねえか。朝から晩まで親が子どもを預けて働いて、読み聞かせなんかできるわけがねぇじゃあねえか。子ども産んだら、向こう3年間、有給の育児休暇くらい出せよ。どうすんだよ。親が育てなくて何が子育てだよ。子どもが犯罪者になってもいいのかよ。いい加減にしろ、日本。(ニュース3月号一部閲覧)

36年目の雑感

 早いもので、今月3月3日に開店36年目に入りました。35年という月日は、この国を大きく変えていますが、忙しさに追われていると、なかなかその変化が見えないものですね。節目は記念日とか誕生日ですが、私は記念日というのはあまり意識しないので・・・でも、3月3日にイギリス在住の会員ヒトミ・フォンテーンさんから、お祝いのメールをいただきました。考えれば、毎年開業記念日にはお祝いのメールをもらっていました。お子さんのベンジャミンくんは12歳になりますから、このお付き合いもまた長い時間となります。
 いまや最初のころの会員のお子さんたちがまたお子さんを産んで、ブッククラブに入ってくる状態になっています。向こう側は世代交代を次々として行きますが、ゆめやは個人営業。店にも寿命があります。当然、私にもね。ゆめやのおにいさんは、ゆめやのおじさんになり、いまやゆめやのおじいさんです。戦う絵本屋もいつかは消えなければなりません。だから、ベンジャミンくんのお子さんが生まれるころは、ゆめやは存在していないことになります。月日は大きな変化をもたらします。変化は悪い側面ばかりでは持つのではありません。良い面もたくさんあります。その両方を見ながらやってきた36年は、ある意味楽しい時間でもありました。
 誰にもまねできない方法で、ブッククラブの方式を起ち上げたのが30年ちょっと前、すべて個別に発達に応じた絵本を配本する方法にして、遠くと交わり、近くを攻める・・・戦法は秦の始皇帝のやり方を取りました。で、一人のお客さんと長く付き合うことになり、これがネットワークを広げました。それから35年経ちました。

ぐりとぐら=480円で・・・

 35年前・・・どんな時期だったのか。ブッククラブ配本で1歳前の子に必ず入る「いないいないばあ」は400円。これが現在は756円です。つまり、およそ2倍。400円の「いないいないばあ」が載っている童心社のカタログ(1980年版)が上のカットですが、それから35年。すべてが大きく変わりました。
 ニンテンドーのファミコンが出たのは1983年ですから、まだテレビゲームはありませんでした。開店した時に「ドラえもん」が映画化され、人気が沸騰していたのを覚えています。その後も、人気が高まったので「ドラえもんは、子どもの成長にどんな影響を与えるか」という批判的な記事をこの新聞に書きました。そうしたら、なんとびっくりぽん! 会員の中に藤子・F・不二雄さんの娘さんがいらっしゃってお便りをいただき、赤面したこともあります。いまとなれば懐かしい思い出ですが・・・。そのころは、まだ子どもたちも、のび太のように外で自由に遊びまわっていました。誘拐とか自動車事故などの不安はなかったのです。虐待事件は皆無。現在、道ばた、あるいは広場で遊んでいる子を見かけることは少ないですね。

この三十年で大きく変わった!

 当時、私は笛吹市、南アルプス市、中央市までバイク配達をしていました。なぜなら山梨県は公共交通機関が少なく、車を2台持っているご家庭もなく、母親たちはお子さんが小さいころは外出もしなかったのです。もちろん専業主婦が多かったので、配達に行けば会って話をすることができました。往復30kmくらいある郊外の会員の家もくまなく回ったものです。これはお子さんの多様な成長ぐあいを見るのにとても勉強になりました。しかし、現在、配達に行ってもほとんどのご家庭は留守です。配達の意味も薄れてしまいました。
 現在ではお母さん方はみな自分の車を持っています。自家用車が2台、3台はあたりまえ、それにプラスして家族用の大型ワゴン車まで持っています。でも、忙しい。以前は、毎月のご来店だったのが、受け取りを忘れたり、まとめて2〜3冊ご持参になったり・・・話をする暇もないようです。豊かさは忙しさを伴うようになってきました。この35年の日本の変化がもたらした結果です。
 35年間・・・おそらく、いま親である皆さんの人生の大部分が含まれています。親になったときは誰でも慌ただしく「現在」を生きています。子育てでの悪戦苦闘もあると思います。他の子と見比べての焦りは誰でもが経験することです。「おむつが取れた、取れない」「字を覚えた、覚えない」で一喜一憂する、読み聞かせをしているときの至福の時間も後で思い起こせば、のこと。そのときは早く寝かそう、そうしないと明日の準備ができない・・・と忙しいものです。
 しかし、子どもと密着して過ごせる時間は18年くらいのものです。一日の3分の1は寝ていますから実質相手ができるのは12年・・・園や学校に時間を取られるので差っ引けば6年くらしか、子どもと顔を見合わせていないのです。それなのにさらにその6年を外部委託の保育にゆだねる・・・園から引き取ってきて、夕食を食べさせ風呂に入れたら寝かす・・・これでは実質、子どもと接触する時間は子育て時間のうちに2年〜3年にもならないかもしれません。こんな子育てに変わってしまったのはいつなのでしょう。
 1990年前後のバブル。あそこで日本人の価値観が大きく変わったことも鮮明に覚えています。だんだん、子育てを外に依存するようになり、今では授乳もおむつ外しも字の学習もみんな外部任せという親が多くなってきました。ほんとうは、焦りや悪戦苦闘を経験して「親になっていく」のですが、楽な方へ、楽な方へ・・・。
 さて、それが、将来、この国をどんなふうにするのでしょうね。次の35年、日本はもっと大きく変わります。(新聞3月号一部閲覧)

なぜ本を読まなければならないか

【対論】3回目「漱石の文明論」
慶応義塾大学川村晃生名誉教授VSゆめや

 まずいきなり、文明論から話すというのも、ここに来られている方々は、文明研究の 専門家ではございませんので、せっかくかつては国文学者だった先生(現在は環境人文学)をお迎えしたわけですから、当初のテーマである「なぜ本を読まなければならないか」についてお聞きしたいと思うわけです。以前、先生と話した時に「最近の学生が基本的な本を読んでいんでいない。自分の考えがない。」というような話題になりました。この読まない現象と社会の風潮、あるいは政治への影響などについて手短にちょっとお話をお聞きしたいと思います。
 特筆すべきことは、川村さんが国文科で長い間、古典文学研究、とくに和歌の研究にいそしんでこられたにも関わらず、いきなり環境人文学というひじょうに新しい分野の学問を提唱されて、そこに力を注ぎこんだ点です。なぜ、環境問題と人文科学の融合の必要性を先生は説くのか・・・その辺は、ひじょうに今日的で重要な問題を含んでいるので、このことを後半でじっくりお聞きしたいと思います。

福沢諭吉は・・・?

 今日のテーマは漱石の文明論という聞いただけでむずかしそうな話ですが、じつは、このおはなし会の3回目に明治維新の話をしました。あの時点ですべてがひじょうにおかしくなってきたということを申し上げました。よくわからなかったかもしれませんが、明治政府の基本理念は現在の日本の政府や国民の間にしっかりと根ざして変えることができません。つまり、ある突出した異常、また、ある大きな矛盾を持つ理念が明治維新で生まれてしまったように思います。もちろん、教科書や特定の作家の文学、また大河ドラマや映画演劇では江戸時代を蔑視しながら明治の人々を称賛する動きがいまだに続いてきています。
 で、その根本思想というか、明治政府の基本的あり方の根幹をつくったのは、福沢諭吉でありました。このこともこの「おはなし会」第三回で述べてあります。もちろん、川村先生は上記略歴のようにずっと慶応義塾大学で教鞭をとってこられたわけですが、慶応大学の始祖は福沢諭吉であります。彼が提唱した殖産興業、富国強兵、あるいは功利主義、脱亜入欧などの考え方は、やがて太平洋戦争になだれ込む発端だったようにも思います。これについてどうお考えなのかお聞きしたいところです。
 それから漱石の文明論に移りますが、これは福沢が基本理念を出し、明治政府が文明開化を進めていた時期を同時代人(明治40年前後)として見ていた、「開化」の漱石なりの見方があり、ひじょうに現代にも相通じるものがあると私は考えています。この辺も漱石の開化論がどう広がっていくのかまでお聞きしたいところです。
 また異常な文明をもってしまった現代日本人の精神性について、また今後の行く末も時間があればお聞きします。

現代若者への福沢諭吉の影響

 若者が本を読まない、あるいは日本人全体が本を読まないのは、物事を深く考えさせないという教育が敷かれているからだと思われます。この原因は当然SNSをはじめとしたサブカルチャーにあると思われますが、ひとつここで考えておきたいのは、「では昔の人はそれなりにしっかりした本を読んでいたかどうか」ということです。
 例えば、今年のセンター入試現代文はリカちゃん人形やキティちゃんについての論説文でしたが、こういうもので釣らないと文章を読む若者がいなくなるということでしょうね。
 大人の多くは自分の経験値でしか物事を認識しません。日本は出版王国のように見られますが、実は雑誌とか大衆小説とか紙を媒体としたものはたくさん出ていますが、すぐれた本はなかなか多くの人が読みません。これは、知識でより多く知っていれば本など読んで自分で考える必要はないということです。その意味では功利主義や立身出世を説いた福沢は、日本人のあり方を考え出した人です。これは人間にとって不自然な話で、その意味では福沢は読んで、そこから作者の言うことをくみ取り、自分で考えて、矛盾する物事を考えたりするよりは、書かれていることを覚え、ることができればいいと考えた・・・これが彼が言う「実学」でした。これは官僚とか教師という世界ではひじょうに効果があることですが、疑問や批判が出ないことになります。と、いうことは、やがてシステムが固くなってしまうというわけです。明治このかたの官僚システムは、そんな本質を持っていますから、福沢の考え方は当時としては目新しいものだったのでしょうが、人間を近代化するという上ではあまり効力を持たず、欲を刺激しただけなのでしょう。その意味では「悪人」(笑)といえるかもしれません。
 現代の社会が、敗戦を経て日本人の考え方が変わったように思われがちですが、基本的には、福沢の考えで動いているのは自明のものです。いまだに東大を頂点とする学歴偏重は続いていますし、官僚や教員は、そのシステムの中で構成されています。ここでは、テストをクリアすれば考える力や自分なりの行動は不要です。上の言うことを聞けばよいというかたちになります。そうすれば、生活が保障される・・・ということで。

学歴偏重=偏差値

 日本の社会では教科書さえ覚えていればあとは受験応用力の問題なので本など読まなくても良いということになり、教科書が嘘を書いていてもそれを正解として覚えればいいということとなりますよね。これでは自分の思考・・・・やがては自分なりの行動ですが、そういうものができないのではないか、その結果が現在の無責任な社会になっているのではないかと思うのですが・・・・いかがでしょう。また、ここでですね。はなはだ失礼なのですが、先生は慶応義塾で学び、慶応義塾で教鞭をとられたわけですが、ここは言わずと知れたいま述べた明治維新の立役者・福沢諭吉が開学した大学だということです。会場のみなさんのお手元に資料を用意してありますが、いわゆる明治国家の指針というか理念というかを示した福沢思想があります。

芥川の絶望

 殖産興業・富国強兵・脱亜入欧・立身出世・功利主義・・・・ま、いろいろありますが、これが国家が経済的に離陸する原動力になったことはわかります。しかし一方で、天皇神格化や太平洋戦争に結びついていったのではないかとも考えるわけです。そのへんについてはどうかということです。
 例えば、芥川龍之介は最後のほうの作品で、或る阿呆の一生だったと思いますが、そういう教科書=偏差値=立身出世=功利主義・・・・というものがうごめいていると思いますし、世の中はまだそれで動いている部分もあります。漱石や新渡戸稲造は紙幣の肖像から消されましたが、相変わらず福沢は最高額紙幣の肖像です。この社会が漱石や新渡戸を必要としないで福沢を必要としているという象徴でしょうね。
 書店の二階から芥川が下の階で書物を選んでいる書生や教師について、何もわかっていない連中、知識が知性になっていないことを嘆いているところがあります。つまり、立身出世のために知識を得ることは官僚主義というか、何も顧みず、責任をも取らない精神につながっていくと・・・・いう意味だと思われます。つまり、本を読むのが立身出世のためだということです。

福沢の亡霊

 ここで漱石の文明論に触れていくのですが、福沢と同時代の漱石とは、知性では明治の最先端を生きた男すが、その夏目金之助(本名)が44歳のとき、朝日新聞主催の講演旅行で語った、『現代日本の開化』という講演が、この『漱石文明論集』の冒頭に収録されています。
 明治44年、和歌山での講演で「すでに開化というものがいかに進歩しても、案外、その開化の賜物として我々の受ける安心の度は微弱なもので競争その他からイライラしなければならない心配を勘定に入れると、野蛮時代とそう変わりなさそうである。」と言いながら、かなり皮肉に、また洞察力鋭く、明治の文明開化について語っています。実際、現実問題として、その延長線上にわれわれはいるわけで、エネルギー問題、環境問題、多くの財政問題など持続不可能のように見える世の中で不安をもっていきているわけです。このことが100年も前に言われていた・・・・にも関わらず、50年前にも戦争を行い、現代でも人々を競争の中に陥れ、アベノミクスなどで追い立てられるような世の中をつくっているのは福沢の亡霊なのではないかとさえ思えます。
 私が国文学の世界と決別したのは、やはり、そのへんのことを考えると、和歌とか古典文学の研究で重箱の隅をほじくるようにして、学会で権威をもとめていくのはひじょうに「明治」的なので、現実問題であるエネルギー問題、環境問題を文学から考えるという「環境人文学」という分野を提唱しました。

蒸気機関車から・・・

 わかりました。なるほどです。そこでですね。例えば、漱石は汽車(蒸気機関車)を見て、ひじょうに鋭い考察をしています。これは文明開化の賜物でもあるのですが、先生はこの漱石の観点と現在の高速交通網の発達について漱石とは違うお考えを持っていますか、それとも・・・・例えば、個人的に不思議に思うことがあるのですが、江戸時代・・・・車というか車輪が異常に発達しなかったように思うのです。平安時代に牛車ができて、ごろごろ動いていたわけですが牛の車ですから速度がない、それが何百年経ってもまったく発展しないわけです。江戸時代でも車を使うのは人力の大八車くらいでした。
 ところが明治になって・・・・おどろくほど早く鉄道網ができ、全国を機関車が走りはじめ、ということですが、ここでも漱石の直感は当たっていたのかいなかったのかそして、漱石が危惧したように、何も考えることなく、とにかく日本人は忙しくなるわけですよね。

殖産興業がもたらしたもの

 御承知のように、その時点から日本人は、どんどん文明の波に飲み込まれていきます。欲が刺激され、効率的でないと正義ではない・・・という感じですね。そして、現在の原発のような、あるいはリニアのような「科学で手に負えないもの」にどんどんのめりこんでいく。これも実は福沢の亡霊のようなものに、動かされているのではないかということです。内発的、外発的にも・・・・これは、日本人が国民の側から国家に働きかける、たとえば革命とか抵抗しないことと大きな関係があると思うのですが、その辺は・・・・まったく現実化しなかったわけです。これは天皇の神格化とも密接にかかわりがありますが・・・それとともに、文明の発達のためなら何をしてもかまわない、戦争も悪いことでないというところまで進んでいきます。すべて文明が絶対という考えになるわけです。
 漱石はイギリスに留学しますが、そこで日記に次のようなことを書いています。「ロンドンを散歩してみろ。花の中が真っ黒になる。肺が真っ黒に染まる」と・・・。だいたい、英語のbusy は「忙しい」でbusynessは「多忙」ですが、そこから派生したbusinessは「仕事」です。つまり仕事をすれば忙しくなるということです。江戸時代は効率を求めない、あるいは利益を出すことをはばかる儒教的な感覚で商売が縛られていましたが、欧米型の仕事は忙しさをともなうものということです。それは金を求めます。いわゆる社会で必要な人間関係のもとである「徳義」とは相反する「金の追求」です。金が力を持ってくるということで、けっきょく権力に結びついてきます。その根幹に立身出世・学歴主義があるわけですね。それによって「生活の程度は上がった」が、「生存の苦痛」が生まれたわけです。そうすると人間は「生活」で、活力を節約し始めます。消耗を避けようとするわけで、それは逆に人を忙しくさせていくわけです。漱石は「野分(台風)」という言葉を使って、金が人間をダメにすると表現しています。幸福論で考えずに、欲ですべてを考えるということです。

ゆったりとしたものから

 つまり殖産興業や富国強兵など「脱亜入欧」路線が日本を忙しくさせたということですね。さて、先生はさきほど国文学から環境人文学という分野を開拓したとおっしゃいました。私は、決してお世辞ではなく古臭い国文学界では新しい学問方法を打ち立てるのは画期的なことだと思うのです。私は日本古典などかじった程度で物も言えませんが、僧正遍照が「乙女の姿しばしとどめむ」などと坊さんらしくない色恋願望の和歌を歌ったりして、それもそれでいいとは思うのですが、寺山修司が詠んだ「命捨てるほどの祖国ありやなきや」のほうがピンと来ます。また「逝きし世の面影」を書いた渡邊京二さんが、現代のオピニオンリーダーと対談した際に、本来の日本は江戸時代から続く精神性が軸にあったが昭和30年代で消えてしまった・・・・と言っています。こういう点から見ると次の世代を生きる子どもたちはかなり大変な状態になると思いますが、これからの子どもたちはどうあるべきだと思いますか。

草枕と神風

 漱石は「草枕」で、山を越えて温泉に行く場面で、茶屋に文久銭があるのを見て、その時点で消えていく「良さ」を表現しています。漱石の文明論に流れているペシミズムというかアイロニーは、けっきょく本を読まないで何も心配しない日本人を皮肉っているようにも感じられます。例えば、この「原子炉時限爆弾」を書いた広瀬隆さんは3・11の数か月前に福島で第一原発、第二原発が津波で危ない!と言いましたが、誰もブレーキを掛けませんでした。漱石が当時の日本の行き方に物申しても、殖産興業、富国強兵で儲けに目がくらんだお偉方には再稼働も時速500kmのリニアの営業も怖くないのでしょう。知性の予言は、立身出世の教育だけで生きる日本人には理解できない考え方かもしれません。加工して販売する現代型の資本主義は物資と人員の大量輸送を必要とします。明治時代では蒸気機関車に象徴される動きですが、そこから現代まで科学技術が猛烈な大量輸送装置、それを動かすエネルギーを作ってきました。石炭、石油、原子力・・・これがいかに人間をダメにしているか・・・名目は「発展」ですから、みな欺かれますが、どんどん忙しくなり、何かを見つめる暇もありません。
 漱石は、つぎのように、この文明論で言っています。「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」・・・また「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である事に帰着する」・・・せっかく、漱石や中江兆民が、芥川らが言ったことを真に受けない日本人が見えてくるわけです。立身出世主義・・・この幻想にいまだに世の親たちは煽られて、子どもをその中に追い込んでいるということです。立身出世が幸福をもたらす・・とね。この考えに子どもたちが抵抗できるかできないか・・・やはり本は読まねば多様に考えることができません。その読む力をつけたいということですが、学生たちを見た時にあまり期待はできない感じがあります。
 やはり成育環境が悪くなっているのでしょう。都市、田舎など日本全国の景観をふくめて、子どもたちの環境を真っ当なものにしないかぎり、きちんとしたものが考えられる子どもの出現は期待はできません。いずれ都市や自然の景観に敏感なドイツ人と鈍感な日本人の違いが国の在り方で明確に出て来るでしょう。
 この国の運命かどうかはわかりませんが、漱石の文明論のなかにマードック先生の「日本歴史」というところがあり、ここで漱石は急速に欧米列強と肩を並べた明治国家に驚くマードック先生の話を書いています。ペリーの来航でなすすべのなかった国がいきなり日本海海戦で近代的な勝利を得るところです。それに対してまったく国民は無意識に世の中を見ている・・・これと同じことが現在の日本でも起こっているわけですね。しかし、少子化、人口減の方向は明治のときと違います。2020年の東京オリンピックまでに経済的な変動が起こればどうにもならないのですが、突然生まれた明治政府と同じく突然生まれた安倍政権が何をしでかすか・・・いつまでも神風は吹かないでしょう。次の世代のためにもダメなものはダメと言っていかないと無意識に生きる国民になってしまいます。子どもたちのためにも大人ががんばらないと・・・(ゆめやの「おはなし会」・第八回 対論「漱石の文明論」一部抜粋)



(2016年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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