ブッククラブニュース
平成27年11月号新聞一部閲覧 追加分

発達対応絵本とは ③-3
3歳児の読み聞かせは・・・

 3歳児は、ストーリーの流れをつかむ力が飛躍的に増しますので、かなり複雑な筋立てのものや、かんたんなオチのあるものでも楽しめるようになります。
 しかし、数や時間に対する観念は、まだ希薄なので、聞く力が出たからといって早期教育的な教え込みをするのは、どうかと思われます。たしかに、記憶力は最高潮(おそらく一番高くなる)に達するので、言葉もいろいろな関係もどんどん覚えていくし、信じられないほど細かい部分への観察力も働くようになってきます。たいていの親が、自分の子どもが天才だと思ってしまう時期です。この盛り上がりを、もっと伸ばしたいという気持ちもわからないではないのですが、この段階で『約束事』の世界へ入れてしまうのは早過ぎるというものです。例えば2歳男児で、自動車や電車に強い関心を持つ傾向がありますが、こういう子が3歳くらいになると、車種や名称をじつによくおぼえます。そうすると親も祖父母も「天才だ!」とばかりに図鑑攻めをすることがあります。強い関心があるので子どもは覚えますが、この記憶は5歳にもなればまったく消し飛んでしまうのです。そのかわり、想像力ではなく1対1(これはこれ、あれはあれ)の覚えるパターンだけが刷り込まれ、想像力を使って物語を読んでいく基礎がなくなってしまいます。これではこまりますので、ゆめやでは図鑑的なものは入れません。物語の中に登場する自動車、電車の本くらいに抑えます。うまく切り抜けないと大変なこと(7,8歳のころの読書力が出ない)が起こる可能性があるからです。

想像力がつく時期を壊さないこと

 3歳児は、約束事から離れてイメージの世界に遊べる能力が発揮されます。見えないものと話したり、見えないものが見えたりする時期です。だから、それを文字や数の暗記のようなもので抑えてしまったら、その後に大きく影響することになるので、やはりこの時期にはこの時期の配本を組みます。
 さらに3歳児には、アニメや戦隊もの、粗悪なキャラのグッズが入ってくるので、それをどう遠ざけて、物語の読み聞かせで、どのように想像力を高めるするかも重要なこととなります。あまりにもアニメや教え込みの影響が出て来ると4歳ごろに読み聞かせが壁に突き当たることも起きます。
 自動車や怪獣・アニメキャラクターなどへののめり込みが始まれば、この結果がどうなるかはすでに見えています。これに反して物語絵本は、登場する動物たちや植物・たとえ自動車などであっても、みんな(これらはすべて人間の似姿ですので)、世界や心をイメージさせますから、なるべくこのような形で理解するもとになる力をつけたいと思うのです。図鑑のように知識を集めて「事物=名称」というパターンで言葉の数を増やすのは後々で発想力、創造力などに悪影響が出るからです。バランスよく好奇心が育てれば、子どもは十分に自分で、その分野の知識を獲得していくものです。だから、3歳児にはもっともっと空想を広げられる絵本を与えてあげたいと思います。

読み聞かせのポイント

 よくお母さんがたに「3歳児の読み聞かせは、どのようにするのか?」とたずねられることがあります。もちろん、今月の「意見には個人差があります」で述べたように人は千差万別。その家庭なりに、その子なりに読み聞かせるスタイルをつくっていけばいいわけですが、やはり基本はあるので、そのことは言っておきたいと思います。
 まず要求された時に「忙しいから後で!」などというのはよくありません。働きかけても応えないと、子どもは働きかけ自体を止めてしまうからです。
 1歳では持ってきた時や時間があるときに読み聞かせますが、2歳になると外遊びも活発になりますから、自然に読む時間は余裕があるとき、寝るときになります。3歳児はほとんど寝るときになり、これが毎日の就寝議式にもなります。
 この場合もいっしょに横になって、体が接触している状態、いわゆる息づかいが聞こえるような近さで読んであげることです。寝物語は、意識がもうろうとしていることで空想と現実の区別がっかなくなるので最も適切な読み聞かせです。
 3歳では、しっかりとした文章語の物語がかなり入ってきますが、できるかぎりアドリブなしの正確な読みが必要となります。いずれにせよ、義務ではなくいっしょに読む楽しさを親が持つことが基本です。とくに新しい本の読み聞かせには、そのストーリーが完全に把握されるまで正確な読みが要求されます。読みの回数も一冊につき最低10~20回がふつうのところでしょう。好きな本になれば30回、50回にもなるでしょう。ブッククラブ配本では3歳になれば季節に対応し、理解言語の段階に応じた選書がなされています。順に毎月、何度も丁寧に読めば、自然に物語の内容が染み込み、テーマもわかってきます。それが聞くという楽しさの中で進行するのは子どもにとっても快いことです。親にとっても、本の楽しさが感じられる時期なので、いろいろ忙しいことでしょうが、3歳児の読み聞かせは一日30分もあれば十分です。もちろん、毎日読むことが前提ですけどね。ぜひ生活の一部になるようにがんばってください。(ニュース11月号一部閲覧)

意見には個人差があります。
⑥マニュアルを頼りにすると・・・

 ある年代を境にして親が大きく変質していると思う。もちろん、あまり好ましくない変化である。
 まず目立つのはマニュアル化。育児雑誌やネットの情報、親たちの情報交換・・・これを頼りに周りと同じようにしておけば大丈夫・・・ということで、自分の考えなどひとつも入れずに、護送船団方式で子育てをする。そりゃあ、いまの親の世代は、「答えを覚える偏差値世代」である。良い子育てをすれば「偏差値が上がる」という刷り込みさえある。ところが、生活は学校のように行かない。それどころか、子どもは千差万別。あたりまえだがみんな違う。問題の少ない子もいれば、一筋縄ではいかない子もいる。これをすべて解決するマニュアルがあれば、問題行動を起こす子、サブカルチャー依存する子、不良行為に走る子などはいなくなる。しかし、そんなうまいマニュアルはないのだ。
 子育ては、子ども別の「格闘技」である。つまり試行錯誤で、ああでもないこうでもないを繰り返して、失敗を積み重ねなければ成し遂げることができない「事業」である。最初から優れた親がいるわけはない。自分の頭で考え、失敗してみて、あるいは成功してみて、その体験が親になっていく基礎になるわけだ。手軽に答えを求めれば、手軽な結果しか得られないのは昔からわかっている。

例えば

 自分で考えずに答えを求めてばかりいる例を挙げよう。
 赤ちゃん絵本に認識絵本という類のものがある。ほとんど絵ばかりで言葉がない。絵で赤ちゃんに語りかけていくことが目的である。これを配本すると、こう言ってくる親がいる。
 「何にも字が書いてないのですが、どう読み聞かせをしたらいいのでしょうか?」どうもこうもない。本を開いて、子どもに読んでやろうというとき、なにかしら自然に言葉は出ないものなのか。そういうおたずねや質問には、馬鹿ばかしさのほうが先に立つが、かといって、ここで下手なアドバイスはできないのだ。すればするで、アドバイス通りのことしかしないので、読み聞かせの多様性が失われてしまうからである。ようするに自分で考えない傾向が最近目立つ。おそらく正解を求めるあまり、正解を実施しないと不安になってしまうのだろう。受験教育の精神に及ぼす弊害である。

周りに合わせる?

 次は混乱。育児雑誌が、ゴマンと出ているし、どれもこれももっともらしいことを言っているので、自分の子育て方針を持てない親が出てきて、混乱の極みとなる。子育てもしつけも対話も保育園や外部教育組織に丸投げしているわけだから、子どもが思春期ともなれば「子どもがなすがまま」になるよりない。自分がかかわっていないのだから責任感も薄く、どうにもならなくなったときは何もしなくなる。注意も出来ない。しない。
 また、その途中での子育ての方法もひどいものだ・・・「二歳なのですが、周りでは、早期教育を始めています。文字や数や音楽は早いうぢに覚えさせたほうがいいのでしょうか?」………これが、みんな高等教育を受けた母親の言葉である。こういう相談の後ろには、比較して育てる不安もまた渦巻いている。自分の方針はなく、周囲の状況を見て狭い価値観で判断しているのがありありと見える。そして、意見を求めながら、自分の判断で起こる責任を解除しようという意識もまた垣間見える。
 三十年くらい前には、こんな質問も相談もまったくなかった。多くの母親はそれなりに取捨選択して悪戦苦闘しながら自分の責任で育てていた。その結果、親も子も自分の考えがきちんと構築されたわけだ。でも、相談を持ちかけてくる人はまだいい。流行だとか、トレンドだとか言って、考えなしに子育てをしてしまっている親も多いのである。

どうしてこんなふうになってしまったのだろうか。

 この大きな原因は、各世代の親の価値観の移り変わりにあるような気がしてならない。昔はダメなことはダメだった。してはいけないことはしてはいけなかった。ところが、その基準が、しだいに失われ、育児情報も得か、損か、合理的か、そうでないかになった。そして、いまや楽か、きついかになった。そうなれば子育ては外部に丸投げして自分は稼いで、豊かな生活をしたほうがいいに決まっている。言葉を換えれば手抜きだが、しかし、そのツケは回ってこないと思っているのだろうか。 もうさまざまな世の中の事件で、その結果は表れているではないか。親は、たとえ嫌でも、きつくてもやらなければならないことはあるし、またそれを子どもは要求してくるものなのである。
 多くの母親たちは、この要求と自分の持つ感覚的な価値観の間のギャップに悩み、不安になっている。悩まない母親は、時代に流されるばかり。ここで一度、自分や子どもを解放するために、つまらぬ欲や競争心を捨てる必要があるのではないだろうか。水面に映った肉を取ろうと欲ばると、せっかく得た自分の肉も失ってしまうこともある。そして、母親たちには、かっての母親が持っていたような泰然とした余裕を持ってほしい。接している人々が、母親なので、わたしの見方はどうしても母親に集中してしまうが、それにしても父親の影がなかなか見当たらないのは気になる。ほんとうは父親こそ、この責任の多くを負うものだと思うのだが…。(ニュース増ページ一部閲覧)

おはなし会・なぜ本を読まねばならないか
「サブカルチャーが子育てに影響する時代」補講

 サブカルチャーというものはブームをまずつくります。昔は自然発生で、局所的であったり、全国に広がることもありましたが、それはテレビなどが役目を果たしていました。しかし、学校がブームの場所になったり、園が流行の場所になったりして、ブームのパターンは多様になっています。ここで子どもたちの間でサブカルチャーを広げる最大のツールになったのは持ち運びできるゲーム機の登場でしょう。1980年登場の任天堂のファミコンは据え置き型で、ソフトをカートリッジで持ち運べましたが、基本的には持ち運べるものではありませんでした。しかし、これは子どもというより大人が流行らせ、それが子どもに波及していました。代表的なサブキャラは、「マリオブラザーズ」です。可動型ゲーム機は、それよりちょっと早く液晶の黒白画面でゲームをするものが流行りましたが、その後はGAMEBOY、DS,WIIとどんどん進化します。ここに登場するキャラがどんどん子どもや大人の頭を幼稚化し、単純化するのですが、それを良しとする社会が問題です。このからくりはあるのですが・・・・。
 他方では、情報機器の進化が始まります。まず局所的だった最初の例は、ポケベルと呼ばれる数字かカタカナしか送れない通話機でした。これが中高校生の間で流行り、ケータイがそのあとを襲い、さらにスマホとなっています。次世代は時計型スマホかもしれませんが、いずれにしても若者を中心に大人から子どもまで巻き込んで急速に変化する流行がSNSの裏や闇の部分を推し進めています。

エンクロージャー(囲い込み)現象

 日本の社会は異質なものを排除する性質を持っていますが、これがSNS機器(ゲーム機も含めた)を持たない者をどんどん囲い込んで同じ物を持たせようとする現象となります。これが囲い込みです。中高校生の間ではイジメにすら発展します。「あいつが持っていない!」「あいつだけがやらない!」・・・「協調性を思んじる」学校や園は、この囲い込みにひじょうに鈍感です。囲い込みは当然、日本では大人社会でも起きます。異質なものを排除するしくみがどこかにあるからでしょう。
 こういうことで経験はありませんか。同じものを持っていないと「変っている!」と言われて排除される・・・これは物だけではなく同じ意見や考え方をしないとのけ者にされることはよくあることです。異論、自主的な行動、他とは違いのある考え方を持つと無視から始まって、反論や批判などをするとさらに異質な囲い込みが始まることがあります。日本は、根本で「均質化」をしようとする動きを社会自体、われわれ自身が持っているように思われます。
 学校や園も、囲い込みに寛容な体質を持っていますから、子どもがいじめに遭ったり、浮いた状態になると親は大変です。ある意味、子どもは「人質」になっているようなものですから、なかなか父母会でも物が言いにくくなります。で、けっきょく、周囲に折れて同じようにする、同じことを言う、同じ考えを示すというのがひとつの対処法になります。日本人の均質化体質とSNS・・・ひじょうに危ない関係です。

次は依存

 年々増えているインターネット依存者については、具体的な数字発表も文科省見解もないので、じつはよくわかりません。
 成長期にインターネット依存(ゲーム、LINEなどのSNS)に陥ると、子どもたちは知らず知らずのうちに本来歩んでいくはずのコーースから外れ、自分の力では戻れなくなるのが日本の現状のようです。頭がゲームでいっぱいになる、偏執狂的にある特定の分野にしか関心を示さない、30歳になっても40歳になってもゲームやキャラクター、アニメに狂っている、テーマパークや集めたもののコレクションにしか関心が行かない、生活がきちんとできない、これが子どもだけでなく成長した大人さえサブカルチャーやインターネットに依存する深刻さを示しています。これは病的依存です。
 現在、はっきりしている依存はネット・ゲーム依存、ネットショッピング依存の二つですが、LINE、ブログ、ツイッターなども依存の可能性があります。本人たちにとっては外界とつながる手段という認識なのでしょうが、こういうものが病気であることは自覚はむずかしくてなかなかわかりません。それに日本では欧米や中国のように、この手のものを矯正する施設や治療する病院は少ないのです。ないといったほうがいいかもしれません。

深刻なネットゲーム依存

 2011年に、日本で最初の「インターネット依存外来」を創設した久里浜医療センターの樋口進院長は、インターネット依存の恐ろしさについて、自論を持って開設したらしいのですが、この関係の調査は何とそれより一年も後に厚生労働省が後追い調査の形で行っています。それだけ対応は遅れています。
 2013年8月に発表された調査結果では、インターネット依存の疑いがある中高生は、全国に約52万人いるという結果が出ました。これは新聞記事で見た方がいると思います。
 久里浜医療センターを訪れるインターネット依存外来の患者は、高校生がもっとも高く、最年少では小学生も訪れているということです。スマホの低年齢化が、ここ2、3年で進行していますので、実際には100万人という数字が出てもおかしくないでしょう。
 インターネット依存の中でも、特に依存度が高く、抜け出すのに時間を要するのがオンライングームだと言われています。見知らぬ遠くの仲間と遊ぶのですが、ソフト会社やゲーム会社が善意でやっているわけではなく課金するし、アイテム売り買いなど、その世界に入らないとわからないシステムがうごめいています。
 オンライングームは、これまでのソフトウェアのゲームのように、ゲームがパッケージとして完結しているわけで はありません。そのため、ゲーム使用者は、インターネットを通じて次々と新たなステージに進み続けたりすることができますが、ここには罠も待ち受けています。

飲み込まれていく子どもと青年

 オンラインゲームは主にDSやWiiなどのゲーム機やパソコン、スマートフォンなどで出来ますが、総務省の「青少年のインターネット利用と依存傾向に関する調査・2012年」によると、今や89%の小学生がゲーム機を所有しているらしいのです。インターネットに繋がる環境があれば誰でもゲームに参加できます。
 オンラインゲームで有名なのは2つあって、ひとつはMMORPGというもの・・・これは多人数同時参加型のロールプレイングゲームで、全世界の大勢の人たちがそれぞれの役割をしながらひとつのゲームに参加します。言っておきますが、これはオンラインとはいえバーチャルゲームで、何も生み出すものはありません。
 しかし、精神的には、やればやるほどランクが上がっていきますから達成感が得られます。そして世界と繋がるという錯覚を起こし、次第にオンラインの世界で自分が存在しているように思うようになるのです。

引きこもり化

 やったことがないので文献から知るだけですが、さらにFPSと呼ばれるシューティングゲームがあります。戦争ごっこみたいなことをするものです。こういうゲームでは、自分たちのチームが世界で今何位かということが絶えず出てきますから、チームの中で自分もそれなりの役割を果たしたりすると、あまり居場所が明確ではない現実の世界よりずっと心地よいわけです。こうして次第にゲームにのめりこみ、明け方まで続けることになる高校生や中学生が出てきます。そして、成績が下がったり、昼夜が逆転して引きこもり状態になったりするなど、さまざまな社会的影響が出始めています。
 いま、山梨日日新聞で長期間ひきこもりのことがクローズアップしていますが、これもかなりのパーセンテージで原因にネットゲーム依存があると思われますが、そこは追求せずに、対策ばかり講じようとしています。
 こういうばあい、親がゲームのオンライン利用料などについて注意をすると暴言をはいたり、自分のアバター(ゲーム上の分身)を強くするために親のお金に無断で手を出し、勝手に課金を受けたりすることもあるから怖いものがあります。依存がひどくなると、子どもが無銭でネットカフェに行って警察につかまるケースも頻繁に出てきます。オンラインゲーム依存は、ゲームをしている時の心地よさへの依存なのですから始末が悪いのです。ネットの中で感じた達成感や自分が活躍したという非現実体験が、さらにゲーマーである中高校生依存に追い込みます。

依存の心への影響

 では、どのような子どもたちがインターネット依存に陥りやすいのか、分析した本があります。
 ① 現実の場面でコミュニケーーションがあまり上手でない子
 ② 相手の顔を見る経験が少ない子、人間関係にも責任を感じるタイプ こだわりを持つタイプ
 ③ 自分の居場所やアイデンティティをうまく見つけられていないタイプの子ども…家庭環境の崩壊など。
 当然、こういう子がゲームにハマっていけば、オンラインの中に居場所や居心地のよさを見い出すだけでひきこもる。さらに社会生活に支障をきたした結果、現実世界ではうつ状態に落ち込む子どもたちも多いということです。ゲームだけではありません。LINEなどSNSもまた依存をつくり、子どもの頭をそれだけに集中させます。これは四六時中、画面を見ていないとおさまらないという状況をつくりだします。少年事件の主役にもなってきました。

 ここであげた例は柔らかい例です。連続で聞きに来られた方は第二回目でお渡ししたレジメの犯罪事件の表をごらんください。すべてが挙げられているわけではなく、ほんの一部なのですが・・・・。この極端な事件群はすべて何らかの形で幼少期、少年期にサブカルチャーの影響を受けたものです。
 サブカルチャーは意識が鈍感な下層階級から流行り始めます。もちろん、影響は個人差があり、のめり込まない子もいますし、のめり込む子もいます。また、極端な事件に走る子は氷山の一角ですが、いまや氷山は肥大化して百万人規模になっています。世の中全体になんとなく、不可解な状態が感じられるのは、この影響かもしれません。

利益の代償

 最初に述べたニンテンドー・ファミコンですが、任天堂を世界規模の企業にした岩田社長はDSやWIIの開発、販売展開をした人です。しかし、55歳の若さで亡くなりました。社長自身がゲーマーで機種開発には能力を発揮したのですが、あまりにも若い死去でした。しかし、問題は、この死去を「世界中で数百万の人々が惜しんだ」という現象です。それだけファンがいて、ものすごい数の依存があるのです。人の死を惜しむことはけっして悪いことではありませんが、脳に著しい影響や変化をもたらすものの開発は、ある意味、武器を開発するのと同じく人類の負の側面を押し広げるようなものだと個人的には考えています。
 同じく「世界中の数百万の人々が惜しんだ」アップルでスマホを売りだしたスチーヴ・ジョブズ氏がいます。なんと56歳の死去でした。死んだ直後に伝記まで出版されていますが、後世がどう評価するかわからない事業の遂行者を栄光でちりばめる伝記の中に押し込めていいのかどうか。スマホはたしかに便利な機械かもしれませんが、その利便性の裏で多くの依存症を産み、さらには人間の心や感性を破壊し続ける側面もあるのです。開発者本人はは利益を得ようとか、儲けようという気持ちはなくひたすら開発をしたかったのでしょう。しかし、結果的に富が自分に転がり込んでくるのです。巨万の富を得るには開発者本人も命を削らなければならないようです。

最終的結果

 結果として考えられることは、自分で考える能力の喪失・・・それは依存症の典型的な症状でもあるのですが、現実感を伴わない精神状態になるということでしょう。世界的、あるいは集団的には理性を失っていく傾向、知性に反する傾向が出てきます。こうなると言動でも行動でも自分自身をコントロールすることができないことになります。
 最近起こる理解不能な犯罪や事件はその実体を見せてくれています。それでも囲い込みを打ち破れないで、子どもを周囲と同じにしていくのか、それとも、ほんとうのことを見せて教えていくのか・・・これから教育組織もどんどん劣化していきます。自分の子どもをどういう大人にするのか・・・・それは親である大人の判断です。(おはなし会・サブカルチャーについての補講)



(2015年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



ページトップへ