ブッククラブニュース
平成27年11月号(発達年齢ブッククラブ)

漢字三文字

 「今年を漢字一字で表すと何という字になるか」という行事が毎年年末に行われる。どこかのお坊さんがその字を大きな筆で書く。2014年は「税」だった。2011年大震災の時は「絆」だった。今年は何になるのだろう。私は一字で表す能力はないので、三字くらいなら今年を表現できる。「不祥事」だ。
 強行採決、不適切会計、エアバックの不具合や排気ガスのごまかし。杭打ち不足の傾き、オリンピックの競技場やエンブレム問題…みんな嘘で固めた「不祥事」である。今年始まった原発再稼働もいずれ不祥事を起こすことだろう。
 これらはいずれも「儲けたい!」「儲けたい!」ということから始まったもので、すべてが儲けたいがために巨大化して、けっきょく、そのいい加減さや偽りで不祥事が起こるようになる。大量に売りたいから半導体関係もソフトを年中変えて買い替えなければならないようにしたり、製造中止を繰り返して新製品を買わせたりしている。
 電池の製造が終われば、その電池を使う器械が使えなくなる。ひどいものだ。デジカメの新機種など典型的な次から次へ売りたい・儲けたいで、耐久性も何もない。そのうちに品質が落ち、真面目な販売がなくなることだろう。こうした「儲け仕事」の究極は、資本をほとんどかけない「振り込め詐欺」で、これはもともと嘘とダマシで儲ける商売だ。詐欺ほど利益率の高い商売はないので、いずれ製造業も商業も「詐欺のような」方式の販売システムになっていくことだろう。ナニ!もうなっている・・・たしかにテレビショッピングやネット販売の中にはそうした詐欺的要素の高い商売をしているものがある。市場原理主義というのは、「儲けた人間が勝つという競争」なのだから、結果的には儲けをたくさんにするために上から下まで競って質を落とし、嘘をつき、ごまかすことが始まる。都合が悪くなると嘘を隠ぺいして、ごまかそうとするが、昔から嘘は必ずバレるものでもある。しかし、嘘、偽り、生き馬の目を抜くような荒っぽい商売も子どもの世界や文化の世界では遠慮されてなかなか儲け仕事にはならなかった。

図書館戦争

 と、いうのは少し前までのこと。もう現代では、この傾向に聖域はなくなっている。ふつう、子どもにかかわる世界、本にかかわる分野では嘘、偽装、ごまかしはあまりなかった。しかし、いま、この「儲けを求める現象」が図書館でも起こっている。行政が箱物をつくって、やがて集客ができなくなると指定管理者に経営を丸投げするのが流行りだ。それが、図書館という箱物でも同じことが起こっている。
 二年前の春、DVDやCDのレンタルTSUTAYAの親会社が佐賀県の武雄市図書館の指定管理者になった。内部にスターバックスや蔦屋書店を併設し、初年度は90万人以上が入館、市は「経済効果が20億円ある」という試算を発表した。これが全国的に注目を集めた。つまり「集客力がある図書館」ということで、来館者数にこだわる行政としては注目したのだ。しかも、造ってしまった箱物をどんどん指定管理者に丸く投げられる。
 だが嘘はバレるもので、リニューアル時にTSUTAYAが購入した図書1万冊に古い実用書などが多数含まれていることが発覚した。TSUTAYAはミスを認めたが、あきらかに安い仕入れ値で高く売って大きな利益を得た「偽り」である。武雄の市民グループが「図書館の業務委託は違法だ」として市を訴えているが、この委託は神奈川の菊名市でも行っているので、指定管理委託では図書の質が低くなっていると思われる。
 愛知県小牧市では十月四日に計画の賛否を問う住民投票が実施され、TSUTAYAへの委託が否決された。
 TSUTAYAを運営する母体は、カルチャー・コンビニエンス・クラブという名だ。文化のコンビニ化・・・なるほどお手軽で楽しくということだ。ならば、中にゲームセンターを入れ、カラオケボックスを設置し、ファミレスも併設したら「儲かる」かもしれない。実際、武雄市図書館の入館カードはTポイントがたまるもので、これにも批判が出ていたが、つられて利用する90万人の問題でもある。

住民意識で決まる図書館の質

 先月、福島県の会津若松市の會津図書館というところに調べものに行った。図書館らしくないつくりで一階は生涯学習センター、図書館は2階にある。私は「貴重資料の特別貸し出し」で長時間閲覧して、必要部分をコピーでお願いしたが、リファレンスはみごとなもので、県外からきた人にすごく丁寧な応対でいろいろ教えてくれた。もちろん、変な蔵書は目に入らなかったし、コーヒー屋も入っていなかったが、平日なのにかなりの利用者がいた。いい加減でない図書館もまだまだ多いのだ。
 人寄せばかり考えている質が落ちるのはどこの世界でも同じことだ。多くの人間が集まるということは、多くが好むからであって、それを好む多くの人は当然、質が低くなる。だからこそ、図書館とか書店とか文化の基盤を支えるところは質を落とさないでがんばらないといけないのだが、儲けることが優先になれば当然、カルチャー・コンビニエンスになるだろう。便利は質の低下につながるのである。
 さて、箱物の図書館では…子ども室も様変わりしている…ある図書館に行くと、コンピューターが並び、「ここはゲームセンターか?」という感じになるところがある。アニメがおいてあり、ライトノベルさえある。以前、町の本屋が本が売れなくなってアダルト系の雑誌を置き始め、やがてアダルトビデオやアニメ系のフィギュアなどを置き、消えていったことを思い出す。これから図書館どうしの戦争は激化していき、やがて利用者など無視したものに変わっていくかもしれない。その初めの都市が2015年なのだろうか。世間では嘘や偽りが大手を振って歩いている。今年の漢字が「嘘」にならないように祈りたいものだ。(11月ニュース一部閲覧)

ソロモンの偽証

 子どもの世界で、イジメ、自殺、自殺幇助(ほうじょ)、殺人など嫌な事件が後を絶たない時代になってしまった。先日も十歳の男の子が裸で手足をテープで縛って首を吊った状態の遺体が発見されたという報道があり、殺人事件かと思ったら「自殺」とあった。この事件が起きたすぐ近くに住んでいた会員から「よくわからない事件です…」とお便りがあったが、十歳の子が自殺? 裸になって? 自分で手足を縛る?・・・まったく不可解な話である。イジメは私の子ども時代からずっと続く日本社会の特色で、どこまで行っても多様性を認めない「和をもって貴しとなす」社会が生み出した結果だ。
 私も中学の三年間、数人の不良集団にイジめられた経験がある。メガネを何度も割られ、呼び出されては殴られ・・・まったく不快な日々だった。必殺仕掛人でも雇って相手を始末してもらいたくなるような嫌な思い出となった中学時代である。しかし、私は学校を一度も休んだことはなく、まして自殺しようとなどはこれっぽっちも思わなかった。メンツとか命が大事とかではなく、「自分は正しく、相手が間違っている」という信念があったからだ。イジめられるのは1対数人の力関係の強弱にすぎないので、逃げれば負けだからいくらやられても決して逃げなかった。ボコボコにされたが相手のいうことを聞かなかった。私の時代は子どもの自殺はなかったから自殺での逃げはできなかった。
 相手のことを深く考えない社会、正義が地に堕ちてしまった世の中では、子どもも大人も自分を支えるものがなくなるので心が弱くなり、逃げを打つようになる。その最たるものが自殺で、これはもう個人の問題でなく周囲や世の中の問題である。ところが、その周囲もけっきょくは「自分の子には起こらない」と他人事として冷たく見るから、危ない状況に立った子どもは「逃げ」となるのだろう。

映画のインパクト

 そういうことを考えていた時に宮部みゆきさんが「ソロモンの偽証」という本を出した。読み始めたが長い本で読むのには時間がかかった。読み終えることができたのは、第一部「事件」で挫折していた私に、その映画のチケットが舞い込んだからだった。この「ソロモンの偽証」は甲府市出身の映画監督・成島出さんが撮ったもので、ブッククラブの会員の中に成島監督の従妹の方がいて、いつも成島作品の映画のチケットをくれる。それで観に行ったのだが、小説と同じく映画もまた二部構成で長く、二回連続で観に行かねばならかったが、惹きこまれた。ロケ場所も妻が通った大月東中学校だったし、中学生役の俳優たちの熱演にも感動した。
 監督は、子どもたちの演技が初めはあまりにも下手で「オーディションをし直そうか!」というところまで行ったらしいが、私の眼には子どもたちのふるまい迫真の演技に映った。
 ネタばらしはしたくないが、校舎から飛び降りた同級生の死について中学生たちが学校で法廷を開き、模擬裁判を行い、真実を追求するというものである。中学生が大人も巻き込んで法廷をつくるというのは荒唐無稽な感じがするが、これは小説だからできるのだろう。実際にやろうとしたらまず学校側が抑え込みにかかる。「そんなことは大人に任せておけばいいのだ」と言って。・・・しかし、この映画のサブタイトルにはこうある。「嘘つきは大人のはじまり」とね。大人は平気で嘘を言う。言い逃れる。なかなか真実は言わない。芥川龍之介の名作「藪の中」では、殺されたものが亡霊になってまで真実を求めようとするが、何もわからない。大人は嘘を言うからである。当然、その大人を見ている子どもも嘘をつくようになる。
 しかし、「ソロモンの偽証」の法廷では、真実を述べる大人にきちんと礼を尽くしていく。心から感謝の言葉と態度を見せる。この子どもたちの姿に感動した。無責任と嘘で逃げようとする大人、真摯に事件と向かい合う大人が、この礼儀でハッキリと炙(あぶ)り出されてくるからである。
 観終わった後、深く考えねばならない何かを与えられた。子どもたちのイジメや自殺が、家庭の状態や学校のしくみに原因があるかもしれないと思った。しかし、それはいま始まったことではなく、かなり昔からある。社会の異常は変えなくてはならないが、大人が保身や責任逃れをして正義を行わないから、悩む子どもたちは失望してしまっているのではないだろうか。自分を支える「自分自身の正義」は、人間の世界を描いた本や大人の行動を見て善と悪を読み取るものだ。そして、隠された悪を注意深く見抜くしか方法はないのである。

ぼくたちに翼があったころ

 新刊の児童書「ぼくたちに翼があったころ」では、「ソロモン~」と同じく子どもが法廷が開き、正義とは何かを大人も子どもも考えることが描かれる。そこでは「憎しみや差別は時の権力に利用されるだけだ」とまで言う。世の中から正義がなくなれば人間は弱くなる。
 戦後、「正義」などというと進歩的文化人たちは、「そんなものは国家が国民を管理するために使うものだ」と懐疑的な態度で「正義」をバカにしていた。こういう風潮が何が正しく、何が間違えているのかを見ることができなくして行ったことは否定できない。
 大人は自分たちの都合で正義を語り、保身のために言い逃れていく。学校は偏差値を重視するばかりで、目的は立身出世だ。人間の行動の是非については何も教えない。学校教育の目的はいったい何なのだろう。知識は何のために身に着けるのだろう。小さいころから勉強勉強で追い立てられて、人間の不条理な世界に迷い込んだ子どもが何を考えるか・・・正義にしろ、ものの価値にしろ、人間関係の在り方にしろ深く静かに考えられないようになっているのではないだろうか。
 江戸時代の藩校教育は教育の目的が「人の道」を究めることにあり、正義が何かを教えた。いまの学校はどうか。子どもを忙しくさせて、まともな本一冊読めないようにしているような気がするのだが・・・。(11月号新聞一部閲覧)



(2015年11月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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