ブッククラブニュース
平成27年8月号新聞一部閲覧 追加分

発達対応絵本とは ③

 2歳児になると会話もじょじょに自由になり、親との会話でもじゅうぶん言っていることが分かるようになります。ちっともしゃべらない子もいますが、耳に問題がないかぎり、読み聞かせた言葉や日常の言葉がどんどん頭に入っているので、心配することはありません。2歳時には一日に150~200語の新しい言葉が入るといわれています。ものすごい発達です。しゃべり始めのときには信じられないくらい絵本の中の言葉を、それも場に応じて適切に使うようになるのもわかりますね。耳が言葉の入り口なのですから、ていねいに語って聞かせたいものです。
 想像力が空想をどんどん広げる、この時期の大きな特徴は、空想力が増すことです。それまで暗くても平気で寝ていた子が、明るくないと怖がって寝ない子がでてきたりするのもそれが原因です。大人は暗闇というものは物が見えなくて危険=不安という感覚になるのですが、子どもは逆に、暗闇に物が見えてしまうのです。だから怖い。
 例えばマリー・ホール・エッツの 『もりのなか』というモノトーンの絵本がありますが、子どもたちは、この本の絵から、それそのものではない形を感じ取ります。水の葉を見て『舌が出ている』と言ったり、石を見て『カメさんがいる』と言ったりします。大人には本の葉や石にしか見えませんが……子どもにはいろいろなものに見えるわけです。想像力はひじょうに高まっています。
 このため、前後で長いつながりがあって結末にいたる物語や一文が長いものはまだ受け入れられません。わかると思っているのは親ばかりで、よく聞いているのは読み聞かせ自体が快いからにほかなりません。
 ですから、2歳半くらいの「おはなし」では、単純な繰り返し(反復)の絵本、例えば『おおきなかぶ』、後半になって前述の『もりのなか』などが適切なものとなってきます。こういう本は書き言葉ですし、1歳から読み聞かせてきていますから、もう内容へひきつけるような無用な声の抑揚や声色、パフォーマンスなどはまったく不要です。
 また、単純なストーリーのものではあるのですが、しっかりした書き言葉(文章語)で構成されている物語絵本へ3歳までになるべく早く移る必要もあります。書き言葉の待つ論理的な緊張感には慣れも必要だからです。
 読み聞かせを受ける力・成長してからの読書の力の半分以上はこの時期に形づくられるものです。
 多くの子どもは、1歳、2歳で発達に即した適切な読み聞かせが受けられません。親もどう選んでいいかわからないし、図書館の司書に聞いたところで、貸出したい一心の司書はゴチャマンと本を提示します。これでは親は混乱するし、まあ貸し出しは無料だから、とりあえず山ほど借りて言葉のシャワーを浴びせておけばなんとかなると考えてしまいます。で、結果は面倒になってテレビやアニメDVDでお茶を濁していくこととなる。これが通り相場。

テレビばっかり見ていると

 テレビや漫画などの会話語だけで育った子どもが、文章語のものに拒否反応を多く示すことからみても、早いうちにしっかりした書き言葉の物語絵本に慣れさせることが重要になるというわけです。2歳半くらいまでの聴く力の基礎は、やがてかなり高度な言葉も違和感なく入る下地をつくりますし、8歳から9歳くらいの一人読みの大きな力のもとをつくります。
 字が読めただけでは本を読めたことにならないのはあたりまえのことですが、要は言葉からどのように想像力を使ってものが考えられるかということです。読書は、文(言葉)を読んで、それ以上の空想がどのくらいできるかにかかっています。「字が読める!」と言って、鬼の首でも取ったかのように言う人がいますが、3歳や4歳で「仮名」が読めたところで、8歳~9歳で読書挫折が起きたら意味がありません。字が読めるより言葉がわかる、物語がわかるほうがずっと重要というわけです。
 さらに、色彩や身近な生活環境への関心が高まる時期なのでこの分野の絵本、『ごちゃまぜカメレオン』『ぼくのくれよん』『おでかけのまえに』『おやすみクマタくん』などの色に関係する絵本や生活関連の本も必要になってきます。
 ブッククラブでは、性差や生まれ月を考慮して、できるかぎりタイムリーに読めるようにプログラムを作っています。(ニュース8月号一部閲覧)

意見には個人差があります。
③子どもを取り巻く時代

 いま、親が子どもにかける言葉でいちばん目立つものは「早くしなさい」だろう。我が家でも朝は、この言葉が連発されていた時期があった。うちの子どもたちは、小学校がバス通学だったので、定時に乗り遅れると遅刻になってしまう。妻は、「さあ早く起きて!」「早く服を着て!」「早く食べて!」と追い立てていた。送り出した後、わたしは妻に言った。
 「おれが小さいころは、こんなに急がされることはなかったよ」。
 これは、山村育ちの妻も同じだ。
 「高校まで時計なんて見ることをしなかったものね」
 子どもを急がすことの影響が、どんなふうに出てくるだろう、と思う。
 うちの娘たちは、朝のバス時間をクリアすれば、あとは追い立てられることもなかったが、塾やおけいこ事に忙しい子どもたちは大変だ。中学生ともなると、夜九時ごろになってもカバンを自転車につけて急いでいる。小学生は親の送り迎えで忙しい。いつごろから、こんなにみんなが忙しくなったのだろう。
 児童文学は予言する
 いつも例で挙げるエンデの『モモ』の中では、人々から時間を奪っていく時間泥棒の話がある。それよりずっと先にヴァージニア・リー・バートンは、都市化によって忙しくなる人々の姿を、絵本の『ちいさいおうち』で表現した。この意味では児童文学は、文明の批評をしながら未来を鋭く予測するものだと思う。「となりのトトロ」でさえゆるやかな時間を描く。

 子どものことを考える多くの人々は、現代の忙しい時間の経過に「なんとかしなくては」と思っているのだ。子どもを急がすことや時間の枠に押し込めることが、いかに危険なことであるか、わかっているからである。
 しかし、時代は時間による管理を推し進め、子どもたちを分刻みに時間の小箱に押し込んでいる。効率優先の社会では、時間の有効利用がすべてを決めるかに見えるからだ。だから、能率主義が学校や職場で管理を進めている。
 本来、子どもは、急がせるものではなく『待つ』ものだと思う。しかし、もはや多くの親は待てないで、子どもをやたらと急がせ、いじくりまわす。こんなことで、子どもが、まともに育つはずはないのだが、悲しいことに子どもの柔軟な適応能力は悪く利用されて、管理に柔順な子どもが育ってしまっている。与えられたものを受身でこなし、考えるひまもなく、外の世界にも目を向けない。こうした社会への無意識な抵抗が、管理から落ちこぼれた子どもたちによる非行や犯罪や自殺では、あまりにも悲しすぎる。

速いことはいいことか?

 もともと子どもは時間を気にせずに精神を遊ばせることができるはずなのだ。もともと速度や効率などには関心を示さない。娘たちを初めて新幹線に乗せたとき、「な、速いだろう」と強調していたのは私だけで彼女らの関心は、初めて見る海に注がれていた。3時間以上もかけて、同じ距離を移動した経験の私だけが速さを感じているだけであって、初めて乗る彼女らにとって、新幹線は速い乗り物でもなんでもないのである。子どもたちの感覚には『速さ』は、つまり効率・能率は何の意味も持たない。
 それなのに、われわれは、速さの価値を子どもたちに教えようとしている。
 「早く覚えなさい!」
 「早く考えなさい!」
 「早く解きなさい!」
 なぜなのだろう。早くすることがなにかの得になるのだろうか。
 このまま能率だけを追いかけていくと、子どもたちだけではなく、大人もまた追いつめられて、やがては社会全体の崩壊も引き起こすかもしれない。こども園などを見ているとそういう感じがしてくる。旅行をする家族を観察しているとゆっくり周辺を見ていない。とにかく慌ただしいのである。
 保育されている乳幼児を見ていると、ニワトリのブロイラーのような感じもするし、ベルトコンベアの上に乗って製品化される工場の風景をイメージしたりする。
 時間から解放されるのは・・・
 「早くする」ことは、人生の重要なものを、どんどん見落していくことではないか。つまり「早くしなさい!」は、「早く死になさい!」と同義語になってしまうのである。子どもたちを時間から解放するために、いま、われわれ自身の生活が、時間から解放される必要がある。生活の反省! もっと、ゆっくり、もっと、ゆったりと・・・だ。
(ニュース8月号一部閲覧)

読書感想文、書き終わりましたか?

 私の小学校時代で一番いやな思い出は読書感想文(当時は読後感想文といった)だった。一年生の時から必ず夏休みの宿題の中にあって、当然、八月三十一日の夜は泣きの涙だった。「自由に書いてよい!」「感じたことをそのまま書けばいい!」と言われても、長い作文など書いたこともない小学生が400字詰め原稿用紙を1枚でも書くのは大変なことだ。それに低学年では長い本は読めないし、気の利いた文章などなおさら書けない。
 我が家では親が手伝ってくれることはなかったから、毎年〃〃、ほんとうに読書感想文はいやな宿題だった。
 小学校六年間どころか高校まで一度も作文の書き方という授業はなかった。少しでも、「こう書けばいい・・・・」とか「まずこういう書き出しで・・・」という技術訓練があれば、なんとかなったような気がするが、いまでも小学校では作文の書き方は教えないのだろうか。最近では小論文を入試に出すところがあるので、塾の先生が作文の書き方を教えてくれるだろうが、私の時代には塾そのものがなかったので、泣き泣き本を読み、涙、涙で原稿用紙を埋めたものだ。当然、「・・・のところがおもしろかったです。」「・・・のところが悲しかったです。」「・・・・をこわいと思いました。」となる。好きな本で書ければいいが、「怪人二十面相」や「鉄人28号」で感想文は書けない。これは、いまでも同じだろう。「妖怪ウォッチ」や「ピカチュー」では感想文は認められない。

お手本は親が書いてやろう

 この嫌な思い出があったので、自分の子どもには「こういうふうに書けばいい」というお手本を作ってやった。ものごとすべて真似から始まるというものだ。オリジナルなどというものはほとんどないし、真似が上手になれば、そこからオリジナルな発想で書いて行かれるわけで、子どもが書けなければ、そのまま書き写してもいいし、自分で足したり引いたりしてもいいわけだ。あるていど大きくなれば自尊心も出て来るから、自分で書き始めるだろうという期待もあった。
 それに、ウチの子が小さいころ、公文式勉強をしていた竹下龍之介くんという「幼児」が何と小説を書いて本が出版されるというすごい話があった。さらに小学校二年の女の子が「モモ」の感想文で全国一になった。エンデの「モモ」を小二の女の子が読めること自体がすごい。「どちらも天才だ!」と思った。いずれ、二人とも立派な小説家になり、活躍するだろうと思って三十年間も見ていたが、いまでは消息もわからなくなっている。芥川賞や直木賞も取っていないような感じだ。まあ、十歳で神童、十五歳で天才、二十歳過ぎればただの人ということだろう。それなら、小説どころか感想文一つも書けない、われわれのウチの子ならお手本を参考に感想文を書いて宿題義務を果たすだけでよいというわけだ。どだい、自分の考えや価値観が生まれないうちは、何を書いても「おもしろかった」「楽しかった」で、たいしたものは書けない。小学生の、とくに低学年、中学年の読書感想文など「親の仕事」「親の宿題」と言っても過言ではない。
 泣きの涙が何かの成果につながればいいが、少なくとも私の場合はつながらなかった。そんなことより、より高度な本が楽しめれば、おのずから感想文くらいは書けるようになる。つまりは、価値観や考え方が固まらなければ、テクニックだけの作文になってしまうのである。作文は、すぐれた本を読んで実体験するしかない。

夏は自然の中で遊びまくったほうがいい

 まったく、いまの子どもはかわいそうに思える。子どもの本分は「遊び」だと思うし、いくら偏差値が高くなってもしっかりと遊んだ経験のない子どもは知識だけあっても独創性も思考力も、また最も重要な「何かをしていく力」も育たないような気がする。セッティングされた遊びやイベント、漫画やゲームで休みを過ごすのもつまらない。
 夏は何と言っても外遊びですよ。なにも特別「ためになる」遊び体験などしなくてもよろしい。そのへんの川、その辺の山、そのへんの野原で遊んでいればいいわけだ。夏休み・・・本なんか読んで時間をつぶすのはもったいない。外遊びをすれば、いろいろなものを観察できる、危険察知能力も身につく。友達がいれば、なおさら楽しいことができそうだ。読書感想文など親に書いてもらって、どんどん活発に遊ぼうじゃないか・・・!(新聞8月号一部閲覧)

「なぜ本を読まねばならないか?」

 サザンオ-ルスターズ ©Peace & Hi-lite 歌詞1・2番♪
 ♪・・・何気なく観たニュースでお隣の人が怒ってた 今までどんなに話してもそれぞれの主張は変わらない
教科書は現代史をやる前に時間切れ そこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの? 希望の苗を植えていこうよ 地上に愛を育てようよ 未来に平和の花咲くまでは…憂欝・絵空事かな?お伽噺かな?
 ♪・・・互いの幸せ願うことなど歴史を照らし合わせて 助け合えたらいいじゃない硬い拳を振り上げても心開かない都合のいい大義名分(かいしゃく)で争いを仕掛けて 裸の王様が牛耳る世は…狂気 20世紀で懲りたはずでしょう?くすぶる火種が燃え上がるだけ

 これが2014紅白歌合戦番外編で歌われましたが、物議をかもしました。ある女性週刊誌は「反日」的であるとし、桑田氏がポケットから紫綬褒章をだしたことで「不敬」だというそしりを受けました。皇室記事を書いている女性週刊誌が論駁したわけです。
 私が問題にしたいのは、歌詞内の教科書は現代史をやる前に時間切れ そこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの? という部分でした。この疑問には誰も答えていません。
 まず、その答えを先に出しますと、①ほんとうに時間がなかった ②近代史の解釈は多様にされるので学校が教えることはない ③意図的に時間切れにしている・・・などが答えとしての候補となります。
 私の見解は③。これについて、今後数回にわたってさまざまな本を読んだ結果出た答えをお話します。第一回は1)「なぜ本を読まなければならないか」で、その後は隔月で、2)「近代文化の結果がサブカルチャー」 3)「日新館教育と明治維新」 4)「普通の人間を育てるひとつの方法」。

小学校2年の「一日は何時間?」

 小学2年のときの担任の質問は「一日は何時間ですか」で、それに対する私の答えはこうでした。「一日は24時間ちょっとです。」そうしたら「なんです!そのちょっととは!」と叱られました。
 実業之日本社版 「なぜだろうなぜかしら 2年上」1953年版・・・これを私は読んでいました。
 「・・・4年に一度うるう年があるのは、一年の長さが365日ではなく少し長いからです。一年はせいかくには365.2422日です。この0.2422日を4ばいするとだいたい一日になります。これを4年に一回、二月のさいごの日にして、時間を合わせます。これをうるう年といいます。・・・・」
 このシリーズはほんとうに長い間出版されていて私が読んだのは1953年ですから
 すでに60年以上も前の本です。いまでは細々と低学年だけが出ています。他は絶版になっています。いわゆる豆知識の収蔵品のようなもので、知識の幅を広げるのにはとても参考になりました。
 しかし、私は頭ごなしに叱られ、小学校二年の頭では逆算して「ちょっと」を割り出すことができなかったのでシッポを巻いて引きさがりました。

小学校5年の野口英世

 小学校5年夏・読後感想文の問題で、「野口英世」を書きました。クラスで二人選ばれたのですが、その感想文の末尾に私は、次のような結論「・・・ぼくは、とてもこんなりっぱな人になれるとは思いません。」と書きました。先生から、書き直すように指導が入り、書き直されました。「ぼくも、こういうりっぱな人になりたいと思います」・・・先生が指示した言葉通りの末尾に変えたのです。
 たしかに伝記というものは主人公のすばらしい行動や実績が描かれます。伝記作者というのは、主人公の業績を美化して、人間性も立派なものにしていきます。ところが、人間ですから異常な部分もあれば、卑劣な人もいるわけで、すべてを美しく見ることができません。井出孫六の「アトラス伝説」所収・「非英雄伝」では「N博士」と書かれていますが、あきらかに野口英世の話です。野口英世の金使いの荒さ、約束を守らない人品、権力にすり寄って行く姿が描かれています。
 井出孫六。非英雄伝の(二)(三)に描かれた野口英世像は納得のいく分析がされています。意外に軽薄で不真面目な部分が多いのです。そのときに、この本を読んでいればよかったと今でも後悔します。先生に屈服しなくて済んだのに・・・・そして、真実を知ることができたのに・・・・と。
 つまり立志伝中の人物は、伝記作者で大きく描かれるので、誰もが英雄視してしまうのです。でもよく調べればそうではないことが多いのです。バラク・オバマの伝記は、ノーベル平和賞をもらうくらい平和を熱望した大統領で歴代大統領ができなかった軍縮を抑えたとありますが、アフガニスタン、イラク、シリア・・・次々に戦争を起こしています。別の側面から見れば普通の大統領です。騙されないで真実を見るためには多角的に本を読む必要があるわけです。
 しかし、感想文の末尾を書き直させられたことを大人になってから、この本を読んで私は後悔しました。書き直さなければよかった!と思ったのです。学校は真実の追求より、見た目を美しくすることも教えます。

中学一年の正負の数

 なぜマイナスにマイナスをかけるとプラスになるのかがわからなかったので、担当の先生に聞いたのですが、納得のいく答えが得られず、「そういうものだと覚えることだ」と言われました。後年、高校生になってから、小堀憲著・「大数学者」を読んで、幾何級数や素数の意味などを知ったときは正負の数が便宜上必要な計測数学であることや、もっと深く考えればブラックホールの問題にまでいくことがわかりました。
 つまり、この先生に対する質問は失敗だったというわけです。こちらが何もわからないで質問をすると、うまくごまかされれてしまう可能性が高い。もし、この「大数学者」を読んでいたら話は違ったものになったと思います。この中で、とくにガウスの解いた連続する和算を知っていたら小学校の時でも応用で来たと思われますから、残念でした。教科書は一つの解法を教えるということだけわかればいいというになっていますが、多くの子どもは教科書の答えや解法が絶対と思ってしまうものだということです。当然、大人になっても正解はひとつ。しかし、人生に答えがないように数学も答えは多様なのです。答えがひとつは一次方程式、連立方程式は解の組み合わせは多くなります。二次方程式は解はいくつもあります。高次になれば函数が解だったり、集合や群が解だったりします。こうして五次方程式になると解法すらなくなります。おそらく、それは世界の現象を数学的に解析する順序で、答えがひとつなんてありえないことでしょう。
 よく「理数系は頭がいい」という信仰がありますが、現状で答えがあるものを導き出せる力、暗記する力が頭の良さなら理数系の方が理屈に沿っていますから覚えやすいわけです。パズルを解く方法さえ覚えれば解けるわけです。無から何かを導き出す力は理数系も文科系も同じでしょう。この百年間、工業化で社会が進んできたので理数信仰が生じてしまっただけなのです。いずれ、理数系ではどうにもならない問題が、環境問題、社会問題、医学などの治療の問題で起きてきます。直線的に進歩した科学を人間がどう処理するかの問題が出て来るからです。

高1の「さかのぼれば矛盾」

 高校1年の時に日本史の次のような箇所で、質問をしたことがあります。
 文字の伝来が4世紀。応神天皇のときに百済から王仁博士が論語と千字文を持ってきたと言うところでした。しかし、その周辺には次のようなよく知られた記述があります。
 例えば
 ① 西暦57年 倭国王、後漢に遣使。光武帝、倭国王に「漢倭奴国王印」を印綬。
 ② 西暦239年 卑弥呼、魏に国書をもたらす。
 ③ 4世紀半ば、応神天皇二十年己酉に文字伝来
 又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。〔此和邇吉師者、文首等祖〕・・・・日本書紀
 天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が文首の博士である〕という記述があります。
 そこで私は先生に質問をしました。
 「4世紀に文字が伝来したのに3世紀に卑弥呼が送ったと言う国書は誰が書いたのか?」これに対して先生は、「中国人の通訳が書いたのだろう」と言いましたので、「1世紀に漢倭奴国王がもらった印はハンコなのだから、何か文を書いて、自分の名を書いて、その上にハンコを押すのではないか」というと、「そんなことは試験に出ないから、考える必要はない!」と言われておしまいでした。

教科書は時の政府がつくるから

 731部隊の戦争犯罪はなかった」として教科書では教えられなかった。
 現在では、森村誠一の著書によって広範囲に知られることとなったが、中国での化学戦実施部隊が、実際には生体実験によって生物化学戦を研究していたことがわかります。
 この生体実験の実験データは敗戦でアメリカ軍と取引され、米軍に渡す代わりに731部隊員は全員戦犯から解除されることになったわけです。ですから、731部隊で生体実験をした人々が、戦後大学の医学部の教授になったり、ひっそりと生き延びていた人もいるのです。これほど、アメリカにとっては生体実験データは価値のあるもので取引になりえる材料だったわけです。このために、731部隊関係者はGHQと交渉して、データを渡す代わりに、裁判などされないことを約束させたという事実が明るみに出ました。裏ではかなりひどいことが行われ、国民には真実が知らされないのが教科書です。森村誠一・「悪魔の飽食」光文社 新書は角川書店から発刊・・・第一部、第二部、第三部、悪魔の飽食ノート、ノーモア悪魔の飽食の五部連作となっていますが、教科書ではほとんど触れていません。
 このような、政府、政権に都合の悪い事実はいろいろ隠されます。それが長い間、戦争を挟んでも続いてきたというわけです。

どこから歴史が歪められたか

 戊辰戦争という名は知っていてもどういう戦争であったか知っていますか。
 1868年に行われた薩長軍と奥羽越同盟軍の戦争です。これは多くの教科書では、鳥羽伏見の戦い、函館五稜郭の戦いくらいが主で、他の戦闘が書かれません。
 北越戦争、会津戦争、白石同盟という言葉を教わったでしょうか。記憶はありますか。これは、官軍=明治政府にとってひじょうに都合の悪い内容の戦争だったので鳥羽伏見の戦い=戊辰戦争として、その戦争は函館戦争で終わったものとして教科書には記載されています。ところが反対側の本を読むとあまりにもひどい戦争の内容なのです。これは、第三回目の「日新館教育と明治維新」でお話しいたします。
 明治維新から太平洋戦争を経て、政権本質はほとんど変わっていないので明治から今日まで教科書では事実内容は秘匿されたままとなります。それはなぜか。
 参考文献
 早乙女貢 日新館と白虎隊 会津士魂1~13 新人物往来社  集英社
 綱淵謙錠 戊辰落日 上・下 文春文庫
 明治政府は最終的には長州が政権を握った政府ですが、当然、首相の多くが長州出身者で占められ、軍部は長州閥となっています。富国強兵、殖産興業、脱亜入欧が国是となり、その間に起きたさまざまな事件は教科書上では隠蔽されました。
 教科書では、明治維新は封建制と鎖国という反近代的な幕藩体制を打ち破った「時代の夜明け」として描かれ、そのイメージが国民に刷り込まれていきますが、実際はどうだったのか、勝てば官軍という発想で何もかも自分たちに都合よく表現していったのではないか・・・つまり事実を隠ぺいして捻じ曲げる「歴史修正主義」だったと言われても過言ではないようです。我々は消された歴史を知りませんし、なかなか触れることができません。だから、違う視点から書かれた本を読まなければ事実を知ることがむずかしいのです。ここの部分は重要ですから、次の次の回で説明いたしますが、歴史を捻じ曲げる体質を持った政権が150年くらい前から続いてきたのですから、教科書を覚えた頭では切り替えは無理でしょう。

隠されている事実は多い

 例えば、琉球王国について学習したでしょうか。参考文献 池上永一 「テンペスト」文芸春秋
 琉球王国は明治11年に滅んだのですが、これを記す教科書は少ないです。なぜどのように消えたのかが
 また、例えば、朝鮮について明治以降の教科書はどのくらい触れているでしょうか。隣国でありながら我々は、韓流の歴史ドラマを観るまで、その民俗や風俗も知らなかったのです。江戸時代の人々は知っていました。朝鮮通信使が下関から江戸まで行列を作ってやってくるのですから、多くの人が朝鮮の人々の服や持ち物を実際に見ていたのです。ところが明治維新以後は蔑視政策が取られて、隣国の文化は消されました。足尾鉱毒事件については長い間伏せられてきましたが、戦後は田中正造が教科書に掲載されました。しかし、時間が忘れさせた後で教科書に載るのですから、これでは抵抗っできません。水俣病も教科書では通り一遍の書き方で、存在した事実だけです。そこをほじくると都合の悪い人がたくさんいるからです。これは福島原発事故も同じです。政権にとって都合の悪い事実は隠されるのが常道です。

消された歴史・・・・

 これは、じつは古代から始まっています。例えば
 井沢元彦「逆説の日本史」小学館
 梅原猛「隠された十字架」新潮社
 など無数に多角的に語られる真実があります。
 一番隠されているのは「神話」と言われる「古事記」「日本書紀」でしょうが、これらは常に政権側に都合よく解釈され、使われてきてしまいました。だいたい、古事記も日本書紀も時の政権が勝ち組として編んだもので、よく日本書紀は「正史」などと言われていますが、マユツバの部分が山ほどあります。
 イザナミとイザナギがつくった国に天降りしたニニギが日本を最初につくった人物ということになっていますが、出雲をやっつけたわりには、何も事績が見えません。なぜ、ニニギの一族が日本を統治する権限を持っていたのかもさまざまな本を読んで見なければ分りません。聖徳太子は、ひじょうにすばらしい成人として教科書に登場しますが、梅原猛の「隠された十字架」を読むと、怨霊にさえなるような殺され方をした人ということになります。多角的に本を読めば、教科書でつくられた「常識」でなく、多様に本を読むと見えてくる事実や現実があるのです。

現代の特徴を予測した百年前の本

  《百年前に書かれた現在の時代の特徴の予想》があります。
 オスヴァルト・シュペングラーという歴史学者が書いた本ですが、アーノルド・トインビーなどの高名な歴史学者に大きな影響を与えた「西洋の没落」という本です。そこには、現代を表現してこのような記述があります。これについては二回目でわかりやすく解説します。
 世界都市な文明の出現。魂の形成力の消滅。生命自体が疑問となる。非宗教的な、また非形而上学的な世界都市の倫理的・実用的な傾向。唯物的世界観。すなわち科学、功利性、幸福の崇拝の支配。
 内的形式なき現存。慣習、奢侈、スポーツ、神経刺激としての世界都市芸術。
 象徴的な内容もなく、急速に変化する流行(復活、勝手気ままな発明や声明、剽竊)。
 「近代芸術」。芸術「問題」世界都市意識を形成し、これを刺激しようとする試み。音楽、建築、絵画の単なる工芸への変化。
 今や本質的に大都市的な特性を具えた民族体は解体して無形成の大衆となる。世界都市と田舎。
 第四階級(大衆)無機的、世界主義。
 貨幣の支配(民主主義の支配)。経済力は政治的形式及び権利に滲透する。
 言葉自体がひじょうにむずかしい歴史哲学の本ですが、百年後の現在を当時、上の記述のような言葉で表現していて、ほとんど当たっています。この内容については言葉がとにかくむずかしいので、後日説明しますが、剽窃というのはコピペのことで、「神経刺激としての世界都市芸術」というのはポップアートやテーマパーク的な芸術です。例えば、2020年のオリンピックのロゴを作成した人がいますが、これが他からの盗用だと言われています。こういうこと(剽窃)が頻繁に起こるのが現代です。内的形式がなく、慣習、奢侈、スポーツでおふれかえっているのも現代です。こういう角度から現代を見ることも出来るので、本を読むことは学校の勉強をするよりはるかに重要なことだと思われます。つまり、決まりきった答えではないものについていろいろ考えることができるからです。
 教科書の「常識」から事実を得るにはいろいろな方法がありますが、やはり本が最適であると考えます。例えば、冒頭のサザンの歌にあるように隠された戦後史を暴く本もまたいくつか探すことができます。

不都合な「真実」を描くもの

 孫崎亨「戦後史の正体」創元社  白井聡「永続敗戦論」太田出版  赤坂真理「東京プリズン」 奥泉光「東京自叙伝」 「日本はなぜ「基地」と「原発」をとめられないか」矢部宏治 集英社インターナショナルなどが最近では、歴史の隠された部分を描いています
 なぜ本を読まねばならないか以前の問題
 本は多様な表現や言葉のレベルで書かれているために、なかなか読みこなすのがむずかしいのです。おそらく上の「西洋の没落」の記述も意味がすぐに分かる人は少ないと思われます。それは、教科書のレベルでしか本が読めていない経験から、それ以上の本へ進めないという問題があるからです。
 このために子どものころから多様、多種の本がとりあえず読めるようにすることなのですが、学校が邪魔をして読ませない状態も出てきます。親も明治政府が定着させた立身出世主義や学歴主義にとらわれて、「まあ読書はさておいて、学校のお勉強が大事」と刷り込まれた考え方で子育てをしていきます。この辺のことを考えて行かないと、読書のほんとうの意味は希薄になっていくと思われます。
 そこで、お薦めしたいのは、読書がいかに世界を広げ、人間関係を広げるかをまず知るために読む本もガイドブックとしてあるということです。この本の中身はまたある程度の読書力を必要としますが、読書の世界の魅力はわかるのではないかと思います。(一部閲覧8月号)



(2015年8月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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