ブッククラブニュース
平成27年6月号新聞一部閲覧 追加分

発達対応絵本とは ②

 よくお母さんがたに「読み聞かせは、どのようにするのか?」とたずねられます。もちろん、親も家庭も千差万別。その家庭なりに読み聞かせるスタイルをつくっていけばいいわけですが、やはりある程度の基本はあると思います。また、年齢によってもいくぶん読み聞かせ方法を変える必要もありますので、その辺のことをちょっと連載で述べさせていただきます。
  読み間かせはじめの1歳代では、とくに時間を決めて読むことはできません。気が向いたときに本を抱えて持ってくるので、これには必ず応える必要があります。「忙しいから後で!」などというのは好ましいことではないと思います。
 子どもは、働きかけても応えてくれないと、働きかけそのものを止めてしまうからです。これはテレビが良い例です。小さい子どもはテレビに見入り、それが自分に働きかけてくれると思って画面を触りますが一向に反応してくれないので、働きかけをやめて、受け身になります。映像をただ眺めるだけになります。
 これは小さい子どもだけでなく猫もそうです。画面の中で動くものに反応してテレビに触りますが、手ごたえがないことがわかると眺めることもしないで無視するようになります。だから、子どもの働きかけにはできるかぎり対応してあげることが読み聞かせではまず最初にやらなければならないことなります。

どういう読み聞かせ方にするか・・・

 最初のうちは、できれば抱っこをして膝の中に入れ、目の前で本のページをめくりながら読み聞かせる体勢を取るのがいいでしょう。1歳児は快い状態が一番好きですので、この体勢で読み聞かせるのがふつうだと思います。1歳前後のかなり好奇心を発揮する多動状態の子でもページに目が行くと反応がきちんと出てきます。これはおどろくほどです。
 2歳になると外遊びも活発になりますから、自然に読む時間が夜(寝るとき)にかたよってきます。この場合もいっしょに横になって、体が接触している状態、いわゆる息づかいが聞こえるような近さで読んであげることです。
 この時期には、会話語だけの絵本(例えば「ちいさなたまねぎさん」とか「ゆびくん」)も入りますが、これは声色を使ってもいいし、抑揚をつけて読み聞かせてもいいと思います。しかし、だんだん文章語の絵本(例えば「おおきなかぶ」とか「もりのなか」など)が入ってきます。こういう本は、そんなテクニックはなるべく使わないで、きるかぎりアドリブなしの正確な読みが重要です。とくに新しい本の読み聞かせには、そのストーリーが完全に把握されるまで正確な読みが要求されます。ふつうに淡々と読んでかまいません。読みの回数も一冊につき最低十~二十回が標準的なところでしょう。もちろん三十回読んでも五十回読んでもかまいません。

個々の家庭のスタイルは決める

 3歳になれば、『寝るときには読むもの』という習慣がつきます。「読んでいるうちに寝てしまう!」という相談もありますが、寝物語は、意識がもうろうとしていることで空想と現実の区別がつかなくなるので、子どもは幻想の世界に入り込みやすいのです。寝てしまってもしかたありません。寝る前の読み聞かせはたとえ寝ても適切な読み聞かせといえるでしょう。子どもは、物語の中の世界に入っていますから寝てもいいのです。
 ただ、あまりに外遊びの活発な子(男の子に多い)は、夕食中に寝てしまったり、布団に入る前に寝入ってしまったします。こういう習慣があるとなかなか寝る時に読み聞かせはシフトできませんから、夕食前とか朝とか、工夫するよりありません。
 いずれにせよ、「読まなくては言葉を覚えない」とか「頭の良い子に!」というつまらない期待はかけずに、いっしょに読む楽しさを親が持つことです。ブッククラブ配本では、3歳になると性差もはっきりしてきますので、完全に配本が個別化します。毎月の配本は季節ごとに対応していますから(もちろん発達にも)順に読み、それまでに好きになったものを持ってきますから、それも合わせて読んであげるという日常が定着すればいいと思います。(6月号ニュース 一部閲覧)

学校図書館・ウチドクは続けられているの?

 三年くらい前に「ウチドク」という言葉があった。「アサドク=朝読」は学校で朝十分間の読書だが、ウチドクは「家庭での読書推進」ということだった。具体的にはどういうことなのか・・・そこで、知り合いの司書の先生に詳細を聞いてみた。
 まず、「家読(うちどく)」とは「家庭読書」なのだが、「家族ふれあい読書」のことでもあり、親も子も読書をしようということだったらしい。これも十分間なのか三十分なのか、よくわからないが、そのときは「家庭でこんな本を読んだらどうか」というリストも配布したという。
 提唱された主な理由は、「家族で本を読んでコミュニケーションし、家族の絆づくりすることが目的だ」という。アサドクが学級崩壊を抑える手段として提案されたことは知る人ぞ知る話だが、このウチドクは何なのだろう。当然、最近の事件を見ていればわかるが、切れておかしなことをする子ども(大人も)が増えてきた。中には親を殺す、子を殺すまで殺伐としたものもある。だから「ウチドク」なのか。しかし、そういう切れる子や異常な親子関係の家庭が、言われたからといって「家庭内読書」をし始めるとは思えない。
 その事件の背景や家庭の崩れには、電子メディアの弊害をはじめとした今の時代を象徴するサブカルチャー問題があるということ。昔の世の中では考えられない家族の問題が起きているので、「家読(うちどく)」は崩れてきた家族のあり方を支える方法として効果はほとんどないのではないか。実際、ウチドクをしている家庭を見たことがない。

ウチドクをする家庭は何%?

 「家読(うちどく)」のやり方は、家族で本を読んで内容を話し合うのだが、そんなことが小学生、中学生のいる家庭でできるものだろうか。「同じ時間、同じ空間を家族で共有し、読んだ本について話せば、楽しい時間ができるはずだから」というのは絵に描いた餅のような気がする。
 私が見ていて、いま家族は猛烈に忙しい。夜7時にならないと子どもを保育園に迎えにいけない親、山ほどおけいこ事をさせられている子ども。家庭では食事して(夕食も外食?)入浴して、宿題をして・・・これで2時間は取られるから、寝るのも遅くなる。
 ゆっくり読書などしている余裕はない。読書をして親子が話し合う? いったいそんな家が全体の何%あるのだろう。親の読む本を子どもは「論評」できないし、子どもが読んだ本を大人が「ああでもない、こうでもない」と言うのは余計なお世話である。読んで「おもしろかった」「つまらなかった」と子ども自身が感じるだけでいいと思うが、どうしても対話が必要なのか・・・そういうのは、ふつうの話の中で「運転手の松井さんがね。タクシーの中に置いて夏みかんがいい匂いがしたんだって。」「この夏みかんいい匂いだよね。こういう匂いが車の中にも広がったわけか。」「小さい女の子が車を降りたあとにね・・・」「そういうことってあるのかなあ。」というくらいの話でいいのではないだろうか。だいたいにおいて、読書とは個人的な体験であって、家庭内の対話の素材にはなりにくいものである。

現実が理想を追い越していく時代

 文科省や教育委員会はウチドクをすることで「崩れてきた家族のあり方」が修復され、「子どもを電子メディアの弊害やサブカルチャーの悪影響から守れる」と本当に思っているのだろうか。お役人の考えることはこのていどで、とにかくやればいいわけで効果などどうでもいいわけである。やった! やった! とにかくやった・・・実践しない家庭が悪い、ということになるのだろうか。ウチドクの実行役の学校の方が大変である。
 しかし、現実は、こうではない。子どもが帰宅しても家には誰もいない。しかたがないから留守家庭学級で時間をつぶし、お稽古ごとの時間、塾の時間が目白押し、それが終わって帰宅しても、まだお父さんはお仕事から戻らない・・・食事は一人でして・・・そういうのが一般的な家庭ではないだろうか。だって、政府は一方では働け、働け!と煽っていながら、その影響で起こる事件のモグラタタキをしているようなものだ。
 小学生を持つ親の中には先端の機器を使いたがる親も多い。タブレットで本を読むほうがトレンドだと思っているのだから、こういう家庭では子どももタブレット、DS、スマホ・・・となる。
朝読は、小学校も中学校もまともな本を読む生徒の数は少なく、多くはマンガから始まりライトノベル、どちらかといえば電子メディアの弊害やサブカルチャーの悪影響を受けたキワモノ本を読む子の方が多いのである。家で読めば「家毒(ウチドク)」になるような本だ。読書の成果という理想をまったく別のサブカルチャーという現実が追い抜く。
 文科省は「今の時代を象徴する問題」と言うが、電子メディアを推し進めてきたのは政府の方であって、いまだに何一つ規制されない。いま子どもたちの事件で「LINE」が問題になっているが、すべてのアプリには暗部があり、大人も子どももハマっていくものはハマっていく。要は、家庭が防御するしかない。政府は市場原理主義だから儲かるものは害があっても否定しないで推進する。家庭は、それに、ひっかからないように注意しなければならないのだが・・・。あらゆる問題がそうだが、世の中の流れに逆らうことがむずかしくなっている。ゲームひとつ、スマホひとつ取っても「持たない」という選択はかなりむずかしい。「子どもに持たせない」という選択もむずかしい。日本という国は「みんなと同じ」でないと周囲が許さないからである。イジメが起きないわけがない風土がすでにできあがっていて、それは大人の世界でも同じことだ。異質が囲い込まれるのである。
 そうなると流行をつくって儲けたい側は、それを利用してさらに物事を進ませていく。そのうち読書などする子は囲い込まれ、イジメを受け、・・・いやいや、その前に本自体が変質して、良い本が駆逐されて行くことだろう。すでにその兆候は出てきていて、手に入りにくくなっているものも多くなった。(6月号新聞 一部閲覧)

意見には個人差があります。
②子どもを取り巻く世界

 わたしは、この三十数年、絵本の専門店などという、はなはだマイナーな商売をやっている。他人は「夢のある商売でいいですね」などというが、どっこい見た目にくらべて内容は、商売などとは恥ずかしくて言えないようなものである。
 始めたきっかけは、単純だった。時代の変化の中で子どもの心が危ういと感じたからだが、現在では感じどころか現実なので、やめられなくなってしまった。もっと早くやめていたらよかったな、と思うことしばしばである。
 子どもにかかわる仕事というのはどれも「未来を心配する要素」を持っている。
 危ない要素、危ない傾向を持つ現象にはかなり心配が働く。

大人のコピーになっている子ども

 同じ子ども相手の漫画やアニメ、おもちゃ販売の世界では「売らんかな」で、ひたすら儲かればいいので未来などまったく心配もしないうえ、子どもが悪くなろうと何でもかんでも利益になればよい、ということになっている。
 さて、「未来を心配する」側としては、子どもが、まともに子どもであり、子どもなりの世界で自由に跳ね回っているうちは心配もない。しかし、大人のコピーと化し、大人程度のことしか考えられなくなると不安になる。そこで子どもをなんとか子どもに戻そうと悪戦苦闘するのだが、子どもの考えがわかるとガッカリすることが多い。
 幼稚園生や小学生の「なりたいもの」や「自分の夢」のアンケートを読むと「社長になりたい」とか「プロスポーツ選手になりたい」とか述べている。理由はみな「お金持ちになりたい」「いい生活がしたい」である。親の人生観がバッチリ浸透しているのである。どうして子どもまでこれほど実利的、現実的になってしまったのだろうか。
 われわれの業界にこんな笑い話があった。
 「君は大きくなったら何になりたいの?」
 「有名小学校へ入って、それから有名な中学や高校を出て、東大生になりたいの」
 「ふうん。じゃあ、東大を出たら何になるの?」
 「地下鉄の運転手さん」
 昔、これは笑えた。ところが最近はこの最後のオチがない。答が「お金持ち」では笑えない。現実に即したものの考え方は、悪いことではないが、子どもがこれでは悲しすぎる。

アメリカの市長の言葉

 こういう状況で、良いと思われる本を与えようとするのは並たいていのことではない。「そんなことあるわけないじゃん」で一蹴されてしまう。加えてアニメやマンガなど、刺激的で粗悪な媒体の横行する時代である。
 親は親で早期教育やお稽古ごとに血道をあげる。子どもは遊ぶ暇さえない。親にとって絵本などは字を早く覚え、知識をふやす道具に過ぎないのではないか。学校は学校で相変わらず答えが一つの受験教育の訓練である。
 「この段落の要旨は?」「この指示語の示しているものは?」を連発するから、本を読むこと自体に嫌気が出てしまう。本が楽しめなければ想像力は確実に落ちる。これでは夢はおろか、自分の考えも形成されず、無意識な人間が出来てしまうことだろう。さらに「~してはいけない」という宗教的規範を持たない日本人にとって、この無意識化は恐ろしい結末をもたらすような気もするのだが、残念ながら、ほとんど気が付かないで見過ごされている。
 わたしは三十数年前から少年犯罪の頻発・低年齢化に苦悩していたシカゴの教育長ルース・ラブ氏が言った言葉を思い出す。
 「もしも世の親たちが、学齢前のわが子に一日十五分、本の読み聞かせをするようになれば、社会に革命を起こすことができるでしょう」・・・実用主義のアメリカが抱える社会問題の突破口が、絵本の読み聞かせとはシャレにもならないが、幼児期の豊かな精神生活が求められているところに、アメリカの中流家庭の荒廃が見え隠れしている。かって、アメリカの現在は十年後の目本の姿といわれたが、最近の日本は二、三年で追いつきそうである。いや、追い越しているのかもしれない。ひどい世の中になりつつある中で、もう一度、子どもたちに豊かな発想の世界に引き戻すというのは、無理なことだろうか。
 隠された悪から子どもを守り、子どもを子どもらしくさせるのは大人の仕事である。人を人間らしくするのが教育である。空想が、あらゆる現実のパワーを越えて物事を生み出してきたことを知らしめるためにも、わたしは、やはり、がんばりたいが、市場原理で動く、このアメリカ追従の政権が、そんな理想を許すだろうか。書店は、もはや斜陽産業になっている。本は、これから確実にすたれていく存在である。つまり、この国では「大人と家庭が試されている時代」と言えばいえるだろう。(新聞増ページ 一部閲覧)



(2015年6月号ニュース・新聞本文一部閲覧) 追加分



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