ブッククラブニュース
平成26年10月号(発達年齢ブッククラブ)

どうせダマすのなら・・・

 ある本を読んでいたら、「これって、いまの日本全体の状態なんじゃないか!」という読後感想が出てしまいました。その本が、どういう内容かというと・・・こういうもの(ちょっと言葉を変えていますが、だいたいはわかるでしょう)。
・・・あのネズミの中に人が入って動いているなんてありえない。それはもう「きまり」のようなもので破ってはいけない暗黙の了解だ。絶対に崩してはいけない「ランド」の法律なのだ。着ぐるみの中に人なんていないのだ。あれは、陽気なネズミそのものだ。
 そして、スタッフは俳優であり、ビジターは観客。俳優は観客の前でいつも演技をしていなくてはならない。いつも明るく元気な顔で、けっして疲れた表情を見せてはいけない。個人的な感情(不快さとか期限の悪さ)を表情に出してはいけない。あくびをしたり、唾を吐いたり、グチをこぼしてはいけない。常に明るく、善意に満ちた人であるように自分を演じていく。演じられている舞台の裏で働く人は表に出てはいけないし、舞台の裏がどうなっているのかを観客に見せてもいけない。
 「ランド」の裏の仕掛けがどうなっているかを通勤電車の中で話してはいけない。バイト学生は学校で話してもいけない。もちろんネズミが着ぐるみであることも・・・。
「なるほどなあ!」と思いました。これは、観客をダマすための、ものすごい仕掛けです。

ダマされたいのか・・・?

 でも、さらに一歩外側から見れば、ネズミの中に人が入っていることなどあたりまえのことでしょう。ランドがおとぎの国ではないことなど子どもでもわかるのです。にもかかわらず、観客も演技をしている人も決して事実を口にしません。どうして? 魔法が解けてしまうから? そして、まぶしく輝くランド全体の舞台がもたらさす心地よい気持ちにずっと浸っていたいから? ずっと醒めない夢を見ていたいから?・・・これは、どうも「ランド」だけではなく世の中全体がそういう仮想現実の世界でいたいという状態になってきているのかもしれません。
 おとぎの国に入って、その快さを味わって、いつまでもその国にとどまっていたいという願望が現代人にはあるようです。おそらく、この体質は豊かさが作り出した感覚で、どんなにお金を払っても快感の中にいたいという思いが強くなっている時代だと思われます。ランドへのパスポート(回数券)を求めて何度でも気持ちを浸しにいく・・・これが二十歳代や三十歳代ではなく、四十歳代、五十歳代にいるというのですから・・・これじゃ「不惑」も「天命を知る」もあったものではありません。幼児は、そのまま夢の世界を生きていますが、大人は現実を生きる・・・そこから逃れて快さを求めるのは、ドラッグや麻薬に浸るのと同じなのではないでしょうか。現実逃避ばかりでは、いずれ精神性に支障が出ます。

仕掛ける側

 テレビは、美しい風景、にぎやかな風景、楽しそうな風景、笑いのある風景しか映しませんし、おいしそうなもの、魅力的なものしか映し出しません。しかし、その映像を信じてしまったら、現実が嘘になります。現実は嫌なことが多いので、多くの人は「怖いものは見たくない!」と言って目をそむけてしまいます。だから、かわいいもの、きらびやかなもので怖いものや嫌なものを見ない、見せないようにする。こういう仕掛けは最近では商業イベントでもスポーツや芸能の興行でも行われているようです。前述のディズニーランドなどは儲けのために、快楽だけを与える企業コンセプトですから、こりゃあ半分、精神病のような客が山ほどリピーターとしてやってきますし、年齢の低いビジターは、その予備軍となっていくでしょう。学校でも会社でも嫌なことが多い。ならば、そこにいるだけで快いところ。ノリノリの気分で現実をごまかす・・・政治でもそんな手が使われてきているように思います。実現してはいない夢ばかり語ってヤバいものは隠す。できもしないことを言って、一時的に安心させる。仮想現実を手法として使う政治がかなり発達してきました。

心理操作

 大衆心理学が進んで、人間心理をコントロールする技術が行われてきて、それが企業でも政治でも行われ始めました。こうすれば売れる、こうすれば批判が出ない・・・というような宣伝技術、政治技術が進んできたのです。例えば今年もノーベル文学賞にノミネートされた村上春樹ですが、彼の本を売る技術もこの大衆操作が使われています。一週間に百万部売る! それは不可能に近いものです。優秀なマスコミが取材すれば、印刷所が刷った数の伝票や配送された本の量などを緻密に調べて、とても一週間で売れる数とは思わないでしょう。しかしマスコミはただ記者会見で企業側が提示した数を報道するだけ。検証をしません。
 ふくしまテレビでは毎日、第一原発北側放水路、南側放水路のセシウムの量を報道していますが、原子力規制委員会の発表を鵜呑みにして報道するので毎日セシウムは検出されません。これもまた、大衆心理学を操作する側にマスコミがダマくらかされている例です。つまり嘘が(快さをともなって)つかれるわけですから、みんな乗ります。
 こうなると、一般大衆には批判力も疑問を持つ力もありませんから、宣伝されるまま、あるいは扇動されるまま、右と言えば右、左と言えば左です。まさにオルテガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」で述べたように、無意識な大衆は快い方向に向かいます。これを端的に表したのが、前述のディズニーランドです。
 どうせダマすならダマし続けてほしいのですが、人は、やがて目が醒めるときが来ます。いや現実が襲い掛かってくることもあります。いつまでもおとぎの世界にいることはできません。

ファンタジーは卒業しよう!

 ファンタジーを楽しむのは子どもの世界では11歳までという説があります。そこからは現実に目を開いていく・・・読書もいつまでもファンタジーではなく、しっかりと人生を考えるものに変っていくべきだと思いますが、日本全体がいつまでもファンタジーに包まれているように思います。
 9・11のとき「おさるのジョージ」が「傷ついている心を癒すため国民はみなランドに行こう!」と呼びかけたことがありました。3・11の後、多くの団体が事故の影響で外で遊べない被災県民の心を癒すためにランドに招待したことが何度も報道されました。役に立っているのか、ゴマかされているだけなのか・・・「快いのだからいいじゃん、いいじゃん!」という人もいるでしょうが、私はあんなところで子どもの気持ちをゴマかしたくはないと思っています。(十月号ニュース一部閲覧)

思考力を持つには・・・

 私たちの多くは知識を教科書から得ている。よくお母さん方と話すと、「『スイミー』は小学校2年の教科書にあった」とか「教科書にあった『がまくんとかえるくん』の話は、『ふたりはきょうも』のシリーズだったのか!」という話になる。しかし、ひし形の面積の求め方とか因数分解のしかたとか、また細胞の仕組みとか三権分立の話とかは、ほとんど出ない。数学や理科はなかなか日常生活に使われないからだろう。社会科も歴史の知識くらいが話に出るくらいで、倫理社会や政治経済の話題はあまり出ない。
 歴史の知識も、古代についてはけっこう勉強したのに最近の歴史、近代史などはまったく知らない。日清、日露戦争くらいから後は、「受験で先が詰まっているから」と授業がふっ飛ばされて覚えなかった記憶がある。私だけかと思ったら、聞いてみると、ほとんどの人がそうだった。それから隣国の歴史なども同じで、古代は魏・呉・蜀とか高句麗・新羅・百済などと細かく覚えさせられたのに、中世・近世や現代史はまったく知らない。朝鮮王朝の王の名まで知らなくていいから、すくなくともどういう王朝が日本のどの時代に対応していたかを知っている人がどのくらいいるか・・・・百人に一人もいないだろう。私ばかりでなく、ほとんどの人が教えてもらわなかったのではないだろうか。

隣国の文化を知らない

 韓国の歴史ドラマを観て、初めて朝鮮王朝のファッションがわかって驚いたことがある。ミッキーマウスのような絹の被りものは、五月人形の鐘馗(しょうき)さまが被っているものだし、高位の役職の人が被る山型の帽子は閻魔大王が被っているものだからだ。当然、この被りものが朝鮮の風俗であることなどまったく知らなかった。着物でもシマチョゴリは見たことがあるが、朝鮮王朝の衣服の風俗はまったく知らなかった。教科書が意図的に隣国の歴史を隠していたようにも思える。相手を知らなければ、嫌悪感を持ちやすいのは人間の習性であるから、意図的に隣国の歴史を教えなかったとすればやはり問題だと思う。
 これは、逆に江戸時代の人々の方がよくわかっていたのではないだろうか。江戸時代には朝鮮通信使が室町時代に行われたように復活し、下関から江戸まで行列してきたので、かなりの日本人が朝鮮人の服装を見ていたと思われる。ところが明治になると征韓論なども出て、福沢諭吉の脱亜入欧主義が浸透して朝鮮を蔑視するようになったので、朝鮮の文化など明治人は見なくなってしまったわけだ。
 それから明治になると、江戸時代のこともじつはよくわからなくなる。われわれは、年がら年じゅう斬り合いがあったように感じるが、それは明治時代から後の演劇や映画の影響で、実際にはずっとおだやかな時代だったらしい。倒した側は倒した相手を悪く言うことで自己の正当性を主張する。農民は食うや食わずの存在として教科書にもあるが、ご飯も食べられないお百姓ばかりの国が270年も続くことのほうが不思議である。人間、ご飯が食べられなければ、いくら日本人はおとなしいといっても餓死する前に反乱を起こすはずである。しかし、その気配はほとんどなかった。つまりこの過酷な年貢に追い回された水のみ百姓ばかりの国=徳川幕府の国という刷り込みは明治政府の意図を描いた教科書によってイメージがつくられ「常識」として出来上がったものなのではなかろうか。

自国の歴史も歪められている

 戊辰戦争、会津戦争も勝ち組が書いたものが明治の教科書となっていて、松平容保会津藩主が恭順をしたのに明治政府は完膚なきまで鶴ヶ城を含めて攻撃するという理不尽さがあったが、じつはこのことは教科書にはほとんど書かれていない。
 先月、会津若松の鶴ヶ城で「禁門の変展」というのをやっていて、かなり膨大な同時代史料、当時の使用品が展示されているのを見に行った。なんと孝明天皇が容保に当てた親書が展示されていた。にもかかわらず官軍は会津を討ったのである。矛盾だが、現実には会津征伐が行われたわけだ。つまり、官軍とは言っても会津に恨みを持つ薩長軍であり、彼らにとっては討伐こそ新政府を樹立するための条件だったのだろう。しかし、そういうことは教科書には書かれない。
 教科書的な知識ではなく、やはり別の角度から考えないと偏った思考が生まれてしまうのではないだろうか。
 そこで、いくつか関連の本を読んでみると、江戸時代で一番死亡者が出たのは天草の乱で3万人。殺人は年間平均百人足らず・・・これでは現代のほうがはるかに多い。長州閥の軍部が引き起こした日清戦争、日露戦争では3万人の十倍も死に、長州閥の参謀本部が引き起こした太平洋戦争では、そのまた百倍も死んだ。こうなると教科書では評価の高い明治維新も負けた側の資料を探して再考しないと明治政府の嘘が見破れなくなる。

真実は隠されている

 会津藩は江戸幕府から外国防衛の役目を負い、江戸にお台場を作ったり、新型の大砲を据えつけたりした。これでかなり金を使ってしまったが、意外に数が少なくとも新兵器は取り入れていたのである。これは山本八重が最新式連発銃であるスペンサー銃を持っていたことからもわかる。ところが長州は、アメリカが南北戦争の終結で余った旧式のミニエー銃を大量に買い付けて軍備を固めていた。その武器商人をやったのが坂本龍馬たちで、妙に坂本龍馬は英雄のように評価されているが、これも考え直さなければならない教科書の嘘である。
 歪められた記述を別の角度から考えるためには、やはりさまざまな角度から書かれた本を読む必要があるのだが、まだまだ教科書で書かれたものを絶対とする考え方は根強い。国側について嘘を常識化する御用学者もゴマンといる。これは3・11のときに原子力学者が原子力発電の利権を守るために嘘を書いて来た原発関連の教科書内容と同じである。誰も責任を取らずに進んできた明治以降の歴史・・・殖産興業や富国強兵が列強との競争を引き起こし、それを指導した政治家や軍部(多くが長州閥)が太平洋戦争になだれ込み、負けても居座り続けて、ほとぼりがさめるとまた「成長戦略」や「集団自衛権」などで同じことを繰り返そうとしている。これが長州の体質なのかもしれないが、すくなくとも、そちら側の考え方で教科書は書かれるわけだ。そして、その教科書を丸暗記した量が多い者が重用されるシステムをこの国は持ってしまったわけだ。批判力のない人間がいくら丸暗記で物を知っていても改革などできるわけもないが、そういう国を誰かが意図的につくっているのかもしれない。
 教科書をより多く暗記すれば成績がよくなり、出世できる。全国統一テストの順位では秋田が一番らしいが、秋田の子が教科書の暗記学習だけでなく多角的な思考をしていれば、「成績優秀」だけでなく「頭脳優秀」にもなるだろう。ただ書かれたことを答えとして覚えるだけでは政府の言いなりになる可能性が出る。明治このかた政府によって虐げられてきた東北の子どもたちにはがんばってもらいたいものだ。
 東北の過程だけでなく、われわれも子どもと様々なことを家庭で話すときでも、教科書の記述を疑わずに押し付けてしまうのでは、質の低い「常識人」を作ってしまう可能性がある。「原子力発電は明るい未来のエネルギー」ではダメなのだ。思考力を高めるには多様に考えられる知識、真実に肉薄していく知識をつけていくのが早道である。真実を覆い隠す教科書を絶対として考えるのではなく、真実を探し出すために身に着ける思考力を高めたいと思う。つまりは、教科書以外のどのような本と出会えるかで思考力の高低はついてしまうのかもしれない。(十月号新聞一部閲覧)



(2014年10月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

ページトップへ