ブッククラブニュース
平成26年5月号(発達年齢ブッククラブ)

カマキリ

 毎年、会員の早川さんは、ゆめやの駐車場の壁に産み付けられたカマキリの卵の袋を三月の配本受け取りのときに採りに来る。彼女は司書をしているから、孵化の様子を子どもたちに見せているらしい。今年も一袋採集してきて「これ、もらいますよ!」と言って店に入ってきた。
 私としては、その卵の袋を見つけるといつもホウキで掻き落として始末する。たいてい十二月の終わりごろだ。カマキリは孵化するとそれこそたくさん生まれ出てきて、夏には窓枠に、秋口になると茶色に変わって家の中にも侵入してくるから困る。だから、卵のうちに始末するのだが、それでも掃除のスキをくぐり抜けていくつかの袋からカマキリが生まれる。わずかな袋の中からでも生まれる数はハンパではない。一袋どころか十袋でも百袋でも持って行ってくれればありがたいのだが・・・。
 で、早川さんが語った話だが、「今年はやっぱり、高い所に生んでありましたよ。いつもなら、駐車場の壁の下の線周辺なのに今年は100cm以上に産んでいました。産み付けるときに、あの豪雪がわかっていたんですね。」

大雪の日

 これを聞いた時に、私はガツンと衝撃を受けた。カマキリが積雪の深さを予測して、九月か十月に、その冬降る雪の高さ以上の場所に産卵することは知識として頭の中にあった。しかし、卵の掃除をしているときに、そんなことは何一つ考えもしなかった。
 もし、直感的にわかったら「こりゃあ、大雪になるな!」と、あの晩、雪下ろしをしていたことだろう。そうすれば、雨樋も壊れなかったのに・・・知識が生かされないことを知って愕然である。せっかくカマキリが教えてくれていたのに利用できなかったふがいなさ。ブドウやモモを栽培しているハウス農家の人は、カマキリの卵を観察していたのだろうか。山梨ではブドウやモモのビニールハウスが大雪のためにたくさん潰れた。もし予測できていたなら、補強や夜中の雪掻きで潰されることはなかっただろう。
 もちろん、カマキリの卵の産みつけられる高さが雪とは無関係だと言う説もある。しかし、少なくとも、ゆめやでは今年のカマキリの卵の袋のほとんどが高い所にあったのだ。
 知っているだけで現実に応用できない人間の知識。われわれは学校で教わった知識をどのくらい物事が起こる前に活用できるのだろうか。あるいは、伝承で口伝えされたことをどのくらい生活に生かせるのだろうか・・・と考えた。

言い伝えを忘れる時代

 大きな地震が起きたら海辺の人は「山の神社まで逃げる」という伝承を受け継いでいる。富士山に笠雲がかかれば必ず雨が降る(かなりの的中率で)という常識が山梨にはある。このような知識は全国いたるところであるだろう。こういうことが起こり始めると経済混乱が起こるとか、戦争になるとか、近代で集められた情報をもとにした予測知識もあるはずだ。しかし、現代でいったいどのくらい、こうした知識が生かされているだろうか。
 多くの人がスマホをいじって、自分の行く先のナビや地域情報、電車の時刻などを収集しているが、重要な時に判断材料になる知識を提供してもらえるかどうか。スマホを持っているだけでは役に立たないように、我々の頭の中の知識も使おうとしなければ何の役にも立たない。さらには膨大に入っているスマホ内の情報がどのくらい実際に役立っているかといえば、重要なことにはほとんど役立たない。もっと言えば、それほど多くの情報から見つけられないのだ。
 さらに言うと、学校や家庭で身に着けた知識をどのくらい役立てることができるか、というところまで行きつく。本を読んで、その本のテーマが語るものをどのくらい人間関係や生活の中に生かせるかどうか・・・テレビのおバカ番組のように、見て笑って、その場で忘れ、何も残らないようなことでは困る・・・・こんなことを考えながら、カマキリの卵をまた掃除しながら掻き払った。そして、「今年の秋はしっかり産卵場所の高さを見ていたい」と思った。(ニュース一部閲覧)

統一テストが始まったが・・・

 何を焦っているのか知らないが、「学力が落ちている」と騒ぎ始めて、また詰め込み授業が始まった。「詰め込みの弊害があるから」といって「ゆとり授業」になったのに、検証が終わらない前にもう詰め込み加速である。まあ、首相も文科大臣も偏差値の高い大学を首席で出たのかもしれないが、こうした成績の良い人たちが「生徒(学校)の序列をつけていこう」という試みるのは、いったいどんな発想からなのだろう。
 しかし、「勝ち負けを決める教育をやれ!」と初めに提唱したのは橋下徹・大阪府知事だった。「統一テストをやれ!」「自分がどの学校に行けるかを決めるのだ」「序列化NO! 点数での判定はNO!というやり方はダメだ」「学区を撤廃すれば親たちの情報戦が始まるから行く学校を選ぶようになる」・・・ま、橋本節独特の「負けたくなければ勝ち上がれ!」「格差に合わせろ!」という「平等主義(?)」。かんたんに言えば「人間を序列化して、上の者には従え!」ということだが、これは、けっこう親たちが納得させられる理屈でもある。親の多くは「自分の子は勝てる」と思っているから「なるほど」と思わされる。で、その風潮の中で議論も反対もなく統一テストとなったのである。

右にならえ!

 この傾向は、じつは現在さまざまなところで起きている。集団自衛権の問題もそうだし、エネルギー問題もそうで、ある特定の個人的な考えを強引に押し出して、「言うことを聞け!」「それが正義だ!」となり、周辺が流されていくことになるわけである。民主主義社会なのだから議論が必要なのに、「上の者の言うことを聞け!」という世の中にしようとするわけである。実際、憲法問題を論議しようとするのに自治体が場所を貸さないという「上の言うことを聞け!」とする流れも起きている。5月5日の東京都心の震度5の報道も抑えられた。アブナイ! この傾向は。
 本来、憲法の解釈を変えるなら国会で議論して、採決を取り、変更するならする、しないならしない・・・ということになるが、勝手に閣議決定で変えてしまうと言うのは、これは憲法違反であり、独裁政治ともいえる。児童会で、「この校則は状況が変わってきて都合が悪いので、頭の良い学級委員長の解釈で変更します。みんな従うように・・・」で、問題なく進行するだろうか。
 統一テストがどのような結果を生むか。当然、子どもは「周囲や世の中に目をくれずに、自分が勝てばいい」という考え方を身に着けることになる。これは子どもが「世界や社会を愛さずに自分さえ勝てばいい」というものの見方をするようになるということだ。

液晶画面で人間をどう捉えるか?

 私は、これは電子化やサブカルチャーの影響が出始めたことに重なると思う。子どもも大人もスマホやタブレットばかり見ていて、周囲に目を配らない。どんな花が咲いているか、どんな風が吹いているか・・・操作に追われて、すれ違う人も通りの風景も見ないことになる。学校ではタブレットばかり見ていて、友だちや先生の表情を見ないようになるのではないか・・・。相手がどう思っているかも見抜けない可能性も出てくる。そんな状態で、ある一面(成績という)の序列が正義のように上下関係(生徒や学校の序列も)をつくれば、これはもうギクシャクするだけだ。そして学校の先生は大変になるだけである。
大人になってよく考えればわかることだが、成績の良さが人格の良さにつながっているかどうか。また成績が上なら幸福が手に入っているかどうか・・・学歴はもう少子化社会ではあまり効力を持たないものになりつつある。ある意味、成績至上主義は時代遅れなのだ。だって望めば、誰でも高校でも大学でも大学院でも行ける時代ではないか。
 と、なれば、「どういう力を身につければいいか」は、おのずからわかることだと思う。
 でも、「偏差値で育った世代の親のことだ、大きな変動が起こってハッキリ破局が見えてくるまで、その力がどういうものかわかるかな?・・・偏差値世代には分かるまい。」と私は上から目線(笑)である。物事に想像力が働かなければ、いくら物を知っていてもその先が見えない。その想像力が液晶画面から生まれるだろうか。(新聞一部閲覧)



(2014年5月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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