ブッククラブニュース
平成26年3月号(発達年齢ブッククラブ)

子どもの本を34年間、見つめてきて・・・

 3月3日はひな祭り。ゆめやが34年前に開店した日でもあります。開店した当時は、一般の本屋さんのコーナーにはいわゆる絵本や児童書が充実していませんでした。甲府・西武デパートの中のリブロ西武が一番充実した児童書コーナーを持っていましたが、中心街の衰退で消えていきました。チェーン店の書店の児童書コーナーはアニメ・漫画全盛ですが、これもじつはよく売れていない状態です。
 当時は絵本専門店や児童書専門店が次々に出てきて、経営者たちの意気込みと子どもに対する思いがひしひしと伝わってくる時代でした。しかし同時に、サブカルチャーも広がり始めていました。ポケベルがケータイになり、スマホになったように、ゲーム機や電子媒体も変化し始め、子どもは流行るものの波に飲み込まれていきました。変化していくのは子どもばかりではなく大人もまたテレビやネットが流す情報に左右され、本物を見つける努力をしません。あたかも「新しいものだけが良いもの」と信じ始めたかのようでした。
 いま、テレビ番組を見てください。NHKでさえ、かなり下劣なお笑い番組を組み、まったく真実を伝えることをやめてしまったかのようです。民放など、これでもか!これでもか!とおバカ番組の羅列です。ときには「狂っている!」としか思えないタレントや芸人が出てきて、無意味に刺激的な行動や言動をしています。これが子どもたち(大人もですが)与える影響は大きいでしょう。

本物たちはまだ健在

 しかし、すぐれた一流の作家が生み出した絵本や児童書は、読み聞かされた子どもたちにはまだまだ健在です。
 「もこもこもこ」の怪物は今日もふくらんだり、しぼんだりしています。「おでかけのまえに」のあやこちゃんは、相変わらずハチャメチャですし、「もりのなか」の僕は毎日元気に動物たちと散歩をしています。「おやすみなさいおつきさま」は今日も子どもたちを眠りに誘い、「よるくま」はお母さんを待ちます。子どもたちに普遍の人気を持つ「さむがりやのサンタ」は、相変わらずグチをこぼしなら仕事をしています。「からすのぱんやさん」の子どもたちは必死に家業を支え、40年経った今は独立して自営業の誇りを教えてくれます。マックスは、毎晩子分を引き連れて「かいじゅうたちのいるところ」で遊んでいるし、一平くんは、「半日村」に陽が当たるように山崩しにがんばっています。がまくんとかえるくんは「ふたりはきょうも」楽しいエピソードを語り、「ないたあかおに」は、いなくなった友人のことを今も思い続けています。オオハクチョウの家族は哀しみをこらえて空を飛び続けます。
 そして、エンデは子どもたちに「あきらめてはいけない」ことを今日も教え、サトクリフは子どもたちに「生きるとはこういうもの」と語り、さらにジュールベルヌは「空想する楽しさ」を次々に展開する。馬琴は、「倫理こそ正義を貫く道」と、八つの玉を放り投げる。かと思うと、ゲドは凛とした気概を見せ、ドリトル先生は人間というもののおもしろさ、世界というものの不思議さを話してくれる。イワンは人間の馬鹿さ加減を無言の善意で皮肉り、「広島の原爆」は、その馬鹿さ加減を現実としてしっかりと見せてくれる。
 まだまだ、読み聞かせを受けた子、読書をした子にとって一流の作家の一流の作品は健在なのです。

世の中の流れは・・・

 しかし、その本を売る本屋が津波の前の引き潮のように消えています。図書館にはパソコンが並び、幼稚園・保育園には粗悪な絵本しかなく、アニメビデオばかりが流される状態もまたあります。学校には先生も司書も読んでいない本が並び、先生は子どもたちに本を読んでやる余裕もなくなりつつあります。親が買うのは雑誌ばかりで、子どもにまともな本を買ってやることもなくなっています。こんな大人が増えていけば、買い支える人がいない本屋は消えるばかりです。それが世界一の国、世界一の都市を目指す日本の現実・・・?
 幼い子には親の声ですぐれた話を語りたい、大きくなったら一流の作品を自分で読める子をふやしたい・・・しかし、この国の大人は、どういう方向を選ぶのか・・・私はしばらく、その様子を見つめたいと思います。(3月号ニュース一部閲覧)

それはウォークマンから始まった・・・

 最近、若い人、若い親の方々と話をしていて、「これは知っているだろうな」と出す話題がまったく通じないことがあって、おどろくことがある。これは、おそらく相手も私に同じ感じを持っているのではないか、と思う。例えば、「あの酒鬼薔薇事件というのは衝撃的でしたね。」と言っても、若い人は酒鬼薔薇聖斗が中2の子どもであったことすら知らない。
 同じことは私にも言える。「佐村河内守」なんて作曲家はまったく知らないし、交響曲ヒロシマなんて曲は聞いたこともない。佐村河内守・・字面だけで見れば、「さむらかわちのかみ?・・・戦国大名の名ですか?」とトンチンカンなことになる。こういうふうに知識が共有されないことについて、若い方々に実際はどうなのか聞くと、「同世代でも、ものすごく知っている人もいるし、まったく知らない人もいる。二つくらい年齢が違っても知識が共有されないこともある。」ということだった。
 かんたんに言えば世代間の断絶だが、私が子どものころから大人になるまでは、けっこう老人から子どもまで共通の知識があったように思う。流行歌もみんなが知っていたし、社会的なニュースも世代とは関係なく知っていた。これは、生活様式が同じだったからだ。一台のテレビを家族みんなで見ていた。新聞を読んで、わからないところは父親が説明してくれた。流行っている歌は家族みんなが歌詞を知っていたし、人気のテレビドラマも家族みんなで見ていたから、とにかく知識も情報も共有できていたのである。
 ところが、1979年にSONYがWALKMANを発売した。これは、みんなで聴くものではなく、個人が好きな音楽やラジオを聴くものだった。個人が個人的に楽しむ道具としては画期的なものだった。それまでは、ほとんどが複数が楽しむためにつくられたもだったからである。翌年1980年には任天堂がファミコンを発売した。これも一人でテレビ画面を独占して遊ぶもので、この頃から子ども部屋に個人用のテレビが入り始めた。今の親の世代はファミコン世代だと思うが、そこで使用されたソフトは人によってかなり違い、すぐに女子用ソフトまで膨大に発売されることとなった。その後、これらのツールは、どんどん進化して、みなさんが知っているような現在の状態になっている。
 この進化は、やがて共通の知識や情報を破壊していき、個人の社会性も壊して、オタクとか追っかけのような人種も生み出した。世の中が個人主義の方向に向いたのだから、これはどうしようもない。いまさら、共通の知識、常識の共有を言っても生活様式でみんなの頭が「個人化」してしまったのだから、親と子の話が合わない、数歳違っても話が合わない、先生と生徒が噛み合わない・・・ということが避けられないということだ。
 この「話が合わない」状態を見たとき、私は「バベルの塔」のエピソードを思い出す。人々が同じ言葉を使っていた時代、天まで届くほどの塔を建てようとした王がいて、それを怒った神が雷を落として塔を崩し、人々が二度とこのようなことを行わないように言葉をバラバラにしたという話。1970年代には数えるほどしかなかった高層ビルが、1980年代には激増し、ついには634mの塔まで出来た。言葉も通じなくなるのはあたりまえかもしれない。
 連帯感も共感もなくなってしまった時代・・・どうしたらいいか。それを長く考えてきたが、けっきょく価値観の合う人間が寄り集まって仲間となるよりないような気がしてきた。原発を嫌うか嫌わないか、韓国を嫌うか嫌わないか、SNSにハマるかハマらないか・・・そういうもので人のつながりをつくっていくよりないような気がする。
 先日、成人式のあとで来店した元BC会員のお子さん(いやもう大人)と話していたが、話はかなり通じた。彼女が言うことには、大学で仲良くなったのは同じような本を読んできた人だったという。「その人って恋人?」と私が言うと、「いえ、同性ですが、恋人になる人も同じような考えができる人ならいいなと思います。」と言った。ウォークマンから始まった個人化・・・さて、どうなっていくのだろうか・・・。(3月号新聞一部閲覧)

ゆめやが読み解く昔話
最終回(11)幸福の王子

 金銀と宝石でつくられた王子像は町の誇りだったが、その像は越冬のためにエジプトへ帰るツバメから悲惨な生活をしている人々の話を聞いて、その人たちに自分が身に着けている黄金や宝石をツバメを使って分け与える。すべてを与えた王子はみすぼらしくなり、ツバメも寒さで死んでしまう。それを見た町の人々は、王子像を溶鉱炉に放り込み、溶けなかった心臓とツバメの死体をゴミ捨て場に捨ててしまった。それを見ていた神さまが、天使に「貴いもの」探しを命じたのだった。神さまが天使に「最も貴いものを二つだけ持ってこい!」と命じると、天使はゴミ捨て場に放り投げられていた鉛の心臓と鳥の死体を持ってくる。神は、その天使の選択眼を褒めて、二つのものが永遠に幸福になれるよう天国に送った。鉛の心臓は町に建てられた王子像のもの、死体は王子の使いをしたツバメだった。

 オスカー・ワイルドは、私が個人的に好きな作家である。童話作家ではない。いわゆる大人の文学を書いた人で、童話も少しだけ書いた人だ。芥川龍之介が大人の文学を書いていたのに「杜子春」や「トロッコ」「蜘蛛の糸」などの児童向け作品を書いたのと同じパターンである。
 「幸福の王子」は、小学校4年のときに講談社の「世界少年少女文学全集」の中で読んだのだが、読み終わったときに涙が出たのを覚えている。なぜ、涙が出たのかは記憶がないが、後で考えると幸福の王子やツバメの自己犠牲に対してではなかったような気がする。
 町の人たちが。みすぼらしくなった王子像を壊し、それといっしょにツバメの死体をゴミ捨て場に捨ててしまうことが悲しかったからだと思う。小4の子どもには「自己犠牲」の美しさより、不要なものとして捨てられてしまう王子像やツバメが悲しかったのである。
 そして、大人になってから、この話は大きな比喩だと思った。つまり幸福の王子は、この世の中にいっぱいいるということである。人に感動を与えたり、良い影響を与えたり、コツコツと「小さな善」を行っている人たち・・・もちろん、そういう人たちが、この社会にはたくさんいる。しかし、一般大衆は、その人たちが期待通りの成果を挙げないと罵倒したり、無視したり、打ち捨てたりする。メディアが持ち上げてヒーロー・ヒロイン化した偶像を持ち上げて騒いでいたのに、期待通りの成果を挙げないで、みすぼらしくなると、かんたんに引きづり降ろしてしまう残酷さがあるのだ。

冷酷な心

 先月、冬季オリンピックが行われたが、前評判では金銀銅のメダルラッシュとなる予定だった。開幕前からメディアは、わずかな優勢や成果で「感動の押し売り」をしていた。しかし、結果は予想を裏切って惨憺たるものだった。予想に反して金銀の数はおどろくほど少なかった。メダルを取れなかった選手は、まさに「幸福の王子」で、泡沫選手は「ツバメ」に等しかった。結果はともかく、成功も失敗も含めてなんらかのものを与えてくれたはずなのに金銀がなければ、この国の人々は冷たい。なかにはスポーツ振興を担当する政治家が、こともあろうに失敗した選手を貶(おとし)める言葉まで吐いた。この国はオスカー・ワイルドの祖国アイルランドよりも冷たい国のような気がした。【教訓】弱者や失敗者に目が向けられない人間にはならないようにする

10年目と34年目の紹介記事

 今月発売の出版文化振興財団(JPIC)の「この本読んで!」にゆめやの紹介の記事を書いた。あまり自分の店の紹介記事は書かないのだが、昔、ブッククラブを始めて十年目にも書いたことがある。開店以来お付き合いをしている、ある方が、これを読んで「なんだか、あなたは書くこともやり方もまったく変わっていないねぇ。ブッククラブの内容も、傲慢なところも・・・」と笑った。
 今月書いた記事は(「この本読んで!」2014春号)」 以下が、その記事・・・。
 「ゆめやは町の中にはなく、武田信玄が館を構えた閑静な里山の近くにあります。開店は34年前。場所が場所なので、来店客は近郷近在のブッククラブ会員で、多く県外、海外にも会員がいます。ブッククラブといっても大手のものとは大違いで、紹介者(ブッククラブ会員)がいなければ入れない、二歳以上の子どもは入れないという変なやり方をずっと続けています。
 でも、かつて会員だった子が、結婚してまた配本を依頼してくるというところまで来ていますから、変なやり方も捨てたものではありません。児童書はネット通販で戦国時代に入りましたが、基本は子どもの成長・発達に合わせた配本がどのくらいできるか!というところ。ゆめやでは、性別・生まれ月・弟妹の有無など、すべて個別に細かな対応をしていますので、小さくても「戦国最強」と自負しています。信長や家康のように地の利もないので全国制覇など初めから求めないのです(笑)。変なやり方は気楽なやり方でもあります。」

24年前に書いた記事は・・・

 これは、いまから二十年前に書いた紹介。(Sesami 76号 平成2年7月16日発行)
 「ゆめやは、開店以来、丸十年、絵本を中心に扱ってきました。甲府は地域的に子どもの本に対する関心はもうひとつのところ。どこの子どもの本屋さんもそうでしょうが、開店するにはかなりの勇気がいりました。はじめの3年はただ辛抱。雨の日や風の日は開店休業です。いまでもそんな日がありますが・・・。
 ところが苦肉の策として始めたブッククラブが現在県内外を合わせて四百名を突破しました。このシステムは、生後十カ月から小学校卒業まで(中には中学生もいますが)発達に合わせて毎月配本するものです。それも配本プログラムはすべて個別に組まれ、お子さんそれぞれの状況を考慮して、弟や妹が生まれれば、またそれに合わせて組み直すこともするので、おそらく同じ配本プログラムで読み聞かされた子は一人もいないでしょう。
 考えてみれば、お母さん方に絵本についての知識が特別あるわけではないので、たいていは場当り的に選んだり、好みで選んでいるのがふつうです。発達研究や絵本の内容分析をしたこともない大人が子どもの成長の段階をきちんと踏んで絵本を与えていくことなど不可能なのかもしれません。
 でも、子どもはあっという間に大きくなってしまいます。せっかく感動するはずの本に出会っても、それが時機を外したものなら、おしまいです。だから、なるべく成長に合った本を手渡す・・・それを手伝う作業をしていたら、いつのまにかプログラムの処理に困るほどの数になってしまったわけです。考えてみれば、本屋が親たちの子どもの成長に対する関心を掘り起こすことをしなかっただけのことだったわけです。

 発達状況を知るための連絡やコミュニケーションは大変な作業ですが、それがなくては個別配本の意味がありません。子どもへの読み聞かせは、悪いたとえですが、麻薬-同じ。読み関かせをしない日は寝なくなる子どもが出てきます。一度この楽しさを知った子は、もうこの世界から抜け出せないでしょう。そういう子は大きくなっても読書に拒否反応を起こしません。テレビやファミコンにのめり込むようなことも少ないでしょう。その証拠として、読み聞かせを受けたほとんどが就学児を対象にした、かなり高度な児童書のプログラム配本に移っていきます。
 「『ゆめや』なんて夢があっていいですね」といわれる方がいます。そういわれると私は、「夢がない時代だからこそ、せめて、屋号を『ゆめや』にしたんですよ」と答えます。
 多くの子どもたちが既成のもの、もう完成されたものにドップリ漬かっていく中で、想像力を刺激されたり、育てたりするのは本の世界くらいしか残っていません。そして、想像力があらゆる現実のパワーを超えるのも事実なのです。ただ、幼児は本が読めないので読んでやるのは親の仕事です。それもなるべく良い本を、発達に応じて!
 想像力を持った子たちが増えれぱ、少しは夢のある国ができるかもしれません。これが武田信玄の国の子どもの本屋の「夢」というわけですが、果たしてブッククラブの『天下統一』は信玄と同じように夢のまた夢ですかね。」
 ・・・・ま、ほとんど変わりません。世の中と同じように変っていったら、ダメになるばかりのような気がしています。(増ページ一部閲覧)

震災から3年・・・

 先月、山梨は大雪で交通隔絶となったが、震災被災者に比べればたかが3日くらいの孤立は天国のようなもので、品薄になったコンビニやスーパーでも略奪はおろか争奪戦もなかったのです。日本人はおとなしい。おとなしいことはいいことだと思うのですが、為政者が悪いと唯々諾々になりがち。報道がきちんと伝えないと、何も真実が見えてこないこともあります。テレビは冬季オリンピック一色で、陸の孤島のことはほとんど報道されなかったから、ある意味、静かなものでした。しかし、よくいろいろなことを調べてみるとマスコミがかなり偏っていて、都合の悪いことは知らせない、問題を掘り起こさない・・・というような感じがします。後ろで糸を引いている人がいるのかもしれません。もっと言うと、多くの人が反対したり、そういうことはしてほしくないと思っていることが、一部の声の大きい人たちの決定で実行されてしまう恐ろしさも出てきました。

ほんとうのことを知らされているのだろうか?

 例えば、福島では多くの人が表面上はふつうに生活していますが、内心は放射線への不安を抱えています。ところが、首都圏では福島第1原発の事故が風化しつつあり、「思ったより大したことがないな」と考えている人がいます。私は東京こそ、あのとき計画停電をしていれば、意識がかなり変ったと思います。山梨は計画停電が行われ、その結果、節電意識が高まりました。60%以上が原発に頼りたくないと思っています。
 しかし、何に狂わされているのか、政権は原発再稼働に前向きで原発輸出にも熱心。福島の人々の思いとは大きな落差があることが行われようとしていて、それをマスコミがきちんと報道しません。つまり、ほんとうのことが伝わらない状態が起きているのです。冬季オリンピックの放映権で莫大なお金を使ったので、山梨の豪雪被害はNHKのニュースでほとんど取り上げられず、トップニュースがオリンピックでした。

弱い者を切り捨てる?

 弱い者を切り捨てて強い者を賞賛する動きはメディアでも出てきているようです。 福島の震災の被災者を置き去りにして原発推進国家に戻ろうとしているのを見ると、たくさんの犠牲を顧みない姿勢を感じます。先の見えない廃炉作業などどちらでもいいような冷酷さも感じます。「だって四十年後に俺の政権があるわけないもの!」という無責任さを感じるわけです。これも、マスコミはほとんど伝えません。沖縄では、普天間飛行場の移設計画で、振興予算を見せてお金で知事を丸め込み、民意を無視して進めようとしているのに、マスコミはほとんど反応しないのです。じつは原発の問題も基地の問題も数冊の本を読めばおおまかなことはわかりますが、多くの人は本を読まないので、マスコミだけが頼りなのです。しかし、戦前のマスコミのように政府寄りになると・・・情報は偏り、私たちにほんとうのことは見えてきません。
 赤ちゃんまで含めて国民一人当たりの借金が800万円を超えたことも、未来のことより今の欲望で儲かればいいという行き方や儲かれば武器の輸出でも何でもしようという姿勢にメディアが切り込んでいく必要があるのですが、しません。
 2011年、グローバル経済の波にのまれてこの国の仕組みがバラバラになり、格差が広がり、非正規労働が増えて世の中の不満が高まったときに東日本大震災が起きました。この状況をメディアが伝えなくても、本を読めば、これが九十年近く前の関東大震災をきっかけに満州事変に入って行った時代に似ていることがわかります。歴史の本を読めば、首相や副首相が大日本帝国をつくった長州閥の末裔で、生まれながらにして意識は支配者側ということもわかってきます。長州閥なら福島なんかどうでもいいと考えるのかもしれませんね。沖縄も。
 被災者の困難や基地で困っている人たちの訴えを聞かない政治とは何なのでしょうか。強者のための政治?強い者に利益が回って、弱い者が苦しむ政治? 犠牲や差別の構造を知りながら知らないふりをするマスコミが、今政権を守ることになれば大変です。多くの人は無関心を広げ、ナチスが国民の無関心を背景に弱い者いじめをしていったように、自分に害が及ぶまで「自分は対象にならない」と多くの人は思ってしまいます。これについても本にはいろいろ書いてありますが、報道はされません。
 私たちをいまのところ守っているのは憲法です。憲法が、なんとか国民の権利を守っていますが、この憲法を崩そうという動きさえ出ています。そして、メディアは、これにも反応せず、バカ番組ばかり組んで、無関心を煽っています。次世代(われわれの子ども)がどうなるかの瀬戸際を無関心で過ごしていいのかどうか、やはり深く考える義務が大人にはあります。  この国の憲法は国民が「幸福を追求する権利を保障」しています。誰かを犠牲にして強者になる幸福は、許されないのですから、我々はもう少し、危険を察知する勉強をしたほうがよさそうです。せっかく震災という考えるきっかけがあったのですから・・・・ね。(増頁一部閲覧)



(2014年3月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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