ブッククラブニュース
平成26年2月号(発達年齢ブッククラブ)

読み聞かせに見る貧しさ

 生後十か月・・・なかなか本に向かなかった子が2・3ケ月もすると本が好きなる・・・やがて何かというと持ってくる・・・・日ごとに言葉を理解する・・・こうなると親の欲目も高まるから「どんどん与える」・・・しかし、まだ、この段階では子どもは「絵本は親が相手をしてくれる道具」としか思っていない。もちろん1歳も後半になれば内容を覚えていくことを活発に行うから、また親の欲目は高まり、「さあ、次はこれ、その次はこれ・・・」とまるでフラッシュカード状態で絵本を与える親が出てきます。図書館を利用する親はとくにそれが顕著です。なにしろ十冊借りても十五冊借りてもタダ。こうなると毎回、最大限の本を借りて、次から次へ。「タダより高いものはない」ということがわからないので言われるがままに山ほど借りて「読み聞かせた!」と思っています。
 幼児(いや、かなり大きくなっても)は、本が返されて身近になければ「ないも同じ」で、内容など雲散霧消なのですが・・・。子どもは身近に本が存在していなければ、その本を読んだことすら忘れてしまいます。大脳新皮質の発達はまだまだですから永続的に残る記憶はまだ生まれません。

やはり、発達に合わせないと・・・

 だから、この時期は(いや、かなり大きくなるまで)、一冊一冊を丁寧に何度も読み聞かせることが大事なんです。ブッククラブに入った方にいつも出す「ご挨拶」に、私は「・・・いっぺんに大量に与えるより何回も読み続けるようお願いします。図書館などを利用して発達不適応の本を大量に与えるより、何度も何度も読んであげてください。配本はいずれ増えていきます。図書館を利用する暇があるなら、ぜひ外の世界で現物を触ったり見たり聞いたりする時間に当ててください。」と書いています。図書館は行政が運営しているところがほとんどですから、子育て支援が名目・・・そうなれば、「読み聞かせが親と子の絆を強める」ということで「ネグレクトをしない、させない」ためにも「本を読んであげてください!」となります。そこまではいいのですが、行政は数の思想が体質です。図書館が利用されているかどうかが問題となるので、何でもカウントします。質ではなく数。入館者数、貸し出し数で計測して、質など考えません。粗悪な本であろうと、その子の年齢に合っていない本であろうとお客さんが借りたいものはアドバイスもなく貸し出します。一回15冊、二週間借りられるということは、子どもは毎日1冊を読むわけで、三冊読んで5日間、それを三回繰り返しても返してしまえばもうないわけです。なんと貧しいことか! 毎日1冊を連日読み聞かされても幼児は、そうそう中身を楽しめません。
 15日間で1冊の本を買って読み聞かせ、それを何か月も読んだ方がはるかに子どものためにはいいのですが、「数を与えれば頭が良くなる」という親の幻想も手伝っているのかもしれません。そういう子が大きくなると、「ああ、この本知ってる!この本も知っている!」と声高に指さしますが、それはただ知っているに過ぎないだけ。きちんと読み聞かせを受けた子、自分でしっかり読んだ子は、そういうような「これ知ってる! あれも知っている」という言い方はしません。(2月号ニュース一部閲覧)

大雪

 甲府は今月の8日と15日に大雪に見舞われた。とくに15日の雪は明治26年以来の豪雪ということで、実際、朝、戸を開けたら雪の壁があった。長く生きているが、こういう雪国のような体験はなく、どこか北国にスペース・トリップしているような不思議な感覚になった。その前の日にイギリスのウスターに住む会員からイングランドとウェールズが大雨で洪水になっているというメールがあり、「こちらはかなり雪が積もっている」と伝えたばかりだった。
 甲府は夏暑く冬寒いだけで、そうそう自然災害はない所だ。台風は、周囲の3000m級の山でさえぎられて勢力がガクンと落ちるから被害がない。あの福島第一原発の放射能さえも高い山々にさえぎられて飛んでこず、線量は事故以前とまったく変わらなかった。山梨より遠い長野や静岡のほうが影響を受けていた。
 富士山の噴火が騒がれているが、これも東南海地震が騒がれるのと同じで公共事業をしたいから騒いでいるような気がする。3・11から自然災害防止が名目の公共事業には表だって反対ができなくなっているし・・・でも、今回の甲府の大雪では、市に除雪費用がないというテイタラクで困ったものだ。これもなんだかおかしい。百年間、豪雪がなかったのだから、特別警戒警報くらいあってもいいのだが、これもまったく出なかった。朝起きてびっくりしただけである。おかげで屋根に積もった1m強の落雪で雨樋がことごとく壊れてしまった。雪に慣れていない山梨は、ちょっと降っただけで、さまざまな雪害が起き、陸の孤島になる。ゆめやなどは里山地域にあるから、ちょっと降れば開店休業である。

絵本屋殺すにゃ・・・

 「絵本屋殺すにゃ刃物はいらぬ。雪が2cm降ればよい!」というわけで、2cmでいいところが、その60倍降った。開店休業が一週間近く続く。そりゃそうだ、道路に1mの雪があっては、車は走れない。ゆめやに歩いてくる人はあまりいない・・・5日目に、歩きのお客が3組・・・ようやく開店休業の貼り紙がはがせそうだ。
 福井市の会員から「今年、福井はさほど雪が降らないので除雪道具を宅急便で送ろうか」というメールをもらった。気持ちはありがたいがじつは意味がない。ちょっと雪や雨が降ると山梨は前述のようにすぐに陸の孤島になる。出口・入口が3ケ所しかなく、そこの道路も鉄道もすぐに動かなくなるから、宅急便も電車もやってこない。物が届くころには雪は解けていることだろう。
 その返信をしていると会津の方から二人もお見舞いのFAXが届いた。心のこもった達筆のお見舞い。「腰を痛めないように。太陽に勝る除雪機はない!」「1m以上の積雪は会津でもめったにない」など、暖かい言葉が並ぶ。まだまだ日本の庶民の間ではお互いを思いやる気持ちが残っていると心底思う。
 でも、甲府は昔からめったに雪が降らないからこんな年齢でも雪を見ると何となくワクワクする。豪雪地帯の人には申し訳ないが、雪ダルマやカマクラを作りたくなる。このワクワクがどうして起こるのかわからないが、日本に衝撃的なことを起こす事件は、けっこう大雪の日だったことを考えると、雪そのものに人の気持ちを高ぶらせる何かがあるのかもしれない。赤穂浪士の討ち入り、2・26事件・・・建国記念日が2月11日というのは神武天皇の即位の日が大雪だったのかもしれない。ま、それは考え過ぎだろうが、そんなことを思っていたら、埼玉の会員から電話があった。「最近の日本は3・11以後、竜巻や噴火、土石流など天変地異がたくさんあって不安だ。昔はこんなに自然災害への不安はなかったし、社会不安もなかった」と言う。たしかにそうだ。毎日、おかしな殺人が起き、誘拐があり、報道はあまりされないが、虐待や自殺も多い。
 自然の狂いは人間も狂わせるのかもしれない。政治もけっこう狂っている。この調子では、近いうち経済も狂うことだろう。弱い庶民は「クワバラクワバラ」と唱えるしかないか。いや「クワバラ」は雷除けのおまじないだったかな。それにしても、会員の方々のたくさんのお見舞いのお便りに感謝です。(2月号新聞一部閲覧)

ゆめやが読み解く昔話
(10)くにのはじまり

 一番えらい神様の命令で、イザナギ・イザナミの男女の神が海を矛でかき回して、最初の島をつくった。そこで二人は結婚したが、女神か求愛したので蛭のように骨なしの醜い子がうまれた。そこで、今度は男の神から求愛してそ淡路島をつくり、四国をつくり、隠岐をつくり、筑紫、壱岐、対馬などの島を生んで、またもとの場所に戻って行った。そのあとは吉備の児島や大島、女島などの小さな島をつくり、さらに石や門、屋根、風、穀物の神を生んで行った。そして最後に火の神を生んで女神は焼け死んでしまった。男神が涙を流すと、それが川の神になり、さらに男神が怒って火の神を斬ると血が飛び散り、それが雷神になった。こうして国土ができあがっていった。
 2月11日は建国記念日(紀元節)です。しかし、この日本神話で語られる「くにのはじまり」は、日本という国土の始まりで、国家の始まりではありません。建国記念日とは、日本最初の天皇である神武天皇が即位した日で、これが、いわゆる国家の始まりです。「くにのはじまり」は古事記と日本書紀の二つに記されていますが、おとぎばなしとは思えない実際に今ある地名などが出てくるので、まんざら虚構の話とばかりはいえないのです。よく読むと、この話が西日本の一部を中心とした話だということが分かってきます。最後の最後まで富士山も琵琶湖も出てきません。さらに国土が最初から「武器」によってつくられるという凄味のある話です。その前から存在していた出雲の国が縄と農耕具の木製のスキで国づくりがされたのと対照的です。日本は最初から平和的な国作りではなかったわけですよね。
 トロイ遺跡を発掘して有名になったハインリッヒ・シュリーマンは、誰もが架空のお話としていたギリシア神話を「実際にあったことの物語」として考え、発掘に成功しました(「古代への情熱」岩波書店)。古事記も架空のお話とされていますが、意外に地名や人名に現代と直結するものがあります。深く読んで見れば、イザナギ・イザナミがいた場所、二人の子どもであるアマテラスやスサノオがいた場所を特定できるかもしれません。そして、それが神の話のように語られていても、ふつうの人々の活躍の話だったということもわかってくるかもしれません。
 近代において神道がゆがんで利用され、戦争につながる悲惨な現実を生み出したため、日本の神話はきちんと読まれない悲劇的な物語にされてしまいました。しかし、よく読めば、この国がどういうふうにできたかがわかる書でもあります。天皇の側らにいる悪臣(2.26事件では「君側の奸」と呼ばれ、その人たちを討つクーデターとなりましたが、)が国をゆがませてきたこともたまにはあったのです。天皇が戦争をしたくないのに君側の奸が戦争を進めていったこともありました。不幸な歴史です。繰り返されないとは言い切れません。
 そして、さらに象徴的に行われる古代からの儀式(出雲大社や伊勢神宮の遷宮祭)にも、その虚実が読み取れる可能性があります。ほんとうの古代を知る・・・これは既成概念に侵された大人の歴史家や文献の研究者より、直観力のすぐれた子どもに期待のかかるところです。
 ブッククラブでは、「くにのはじまり」は、小学校低学年の選書があり、「日本の神話」は高学年で選書しています。これを出発点にして、読み解いてくれる少年・少女が生まれたらうれしいです。
 【教訓】象徴的に描かれたものも、きちんと読み取れば、ほんとうの姿が見えてくる (2月号ニュース一部閲覧)

学校図書館について(3)

社会に適した人間をつくる?

 話がかなりずれるが、やはり世の中の流れに沿って学校図書館の蔵書や貸し出し方法は変っていく。世の中が軽佻浮薄になれば蔵書も貸し出し方法も軽佻浮薄に・・・ということだ。たとえば出版は1980年を境にして、ひじょうに変った。とくに児童書の世界は大きく変わったといえる。ヴィジュアル化が進み、漫画やアニメが児童書の世界で露出してきた。これは、いわゆる出版文化が出版ビジネスに変ってきた時期と一致している。つまり「良い本をつくる」という姿勢から「売れる本をつくる」という体制へ変化したということである。それまでアナログ的な印刷物で表現されていたサブカルチャーがデジタル(テレビなどの電子媒体)で一般化し始めた時期でもある。このころから学校図書館に漫画が置かれ始めた。それは90年代になると加速度的に進んで歴史や伝記類が漫画で占められるという事態になっていく。出版社側も「良い本は売れない」ことに気づき始め、取り入れられやすいものを手軽に量産し始めた。この波の上にまだ児童書の世界はあり、軽佻浮薄本は恐ろしい勢いで増え始め、いわゆる「良い本」を探したり、選んだりすることが学校図書館でさえ難しくなっている。

固くてむずかしい本は避け、わかりやすいものへ

 世の中も学校も(親たちの考えも)「教養主義」を捨てて、とにかく試験に受かればいいから、その知識が入るように「学習」を位置付けるようになってきた。このため、試験が終わってしまえば忘れたっていいから、とにかく試験に受かるための知識が得られればいいという傾向が進んできている。
 親は「試験に受かる、良い学校に入る、良い会社に就職できればいい」という価値観だから、安直に覚えられるプリント学習から塾の試験突破テクニックを重視するばかりだ。こういうところでは、学校図書館がいくら良い本を薦めようと「こういう本を読んだら」とアドバイスしようと子どもはお稽古事やお勉強の忙しさの合間には息抜きとしてマンガ・アニメ・ゲームになるのはしかたがないことだ。そうなると子どもの読書力が落ちる悪循環に入るから、さらに固くてむずかしい本は避けられ、「まあ、本なら何でもいい」ということになる。

本を知っている人・自分の考えを話せる人が少なくなっている

 以前は、児童書の専門出版社でもいろいろな本のことを知っている人が営業で回っていた。ところが最近では自社の本さえ知らない人が営業に来る。こういう傾向は図書館でもあり、業務に追われて本そのものを読まない館員や司書が増えていると言う。何もすべてを読んでいなくてもいいが、基本的な本くらいは読んでいてもらいたいと思うのだが、なかなか。そういう人たちに限って本に対してもすべてに対しても「自分の考え」というものが見えてこない。
 ある最高に偏差値の高い大学の学生と話したとき、彼はじつによくいろいろなことを知っていた。しかし、話が進むうち本を読んでいないことがあらわに見えてきた。彼の知識は百科事典を丸暗記したようなもので、1812年といえば「ナポレオンのロシア遠征」、元素番号103番は?といえば「ローレンシム」などと答えるが、なんだかクイズ番組のようで話が広がらない。さらに、偏差値の低い学生と話すと、もうほとんど何も知らないという状態になる。もちろん、自分が好きな分野の知識は偏差値が最高の学生のように「新世紀エヴァンゲリンは2015年の大災害をきっかけに・・・」「ガンダムは地球連邦軍とジオン公国軍の・・・」と軽やかに話すが、常識的な知識や考え方となると「へぇ、そうなんですか」の連発となり、話が進まない。ふつうの仕事をしている人でも、これと同じで仕事の特定の知識はあるが、他の教養はまったくないということとなり、話していてじつにおもしろくない。
 こういう状態で、子どもが大人になっているのだが、それを図書館や学校はどう考え、どのような本を読ませて、自分たちの理想とする人間像にしたいのか、これが見えてこない。いったいどういう人間にしたいのか? (2月号新聞一部閲覧)



(2014年2月号ニュース・新聞本文一部閲覧)

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